音楽の喜び フルートとともに

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信仰のアンリエット

2024-04-22 21:00:00 | 近代
日曜日は、ハープのリラックスコンサートでした。
日本ハープ協会関西支部の先生方主催。

天満橋駅近くの カフェ「馬車の扉」

ハープソロ演奏や、弾き歌い、カルテットなどなど。

私は野田先生に旋律を弾いていただいて、ゴセックのガボットを演奏させていただきました。
素敵なカフェで演奏できて、ハラハラ、ドキドキしましたが楽しかったです。

コンサートのあと、いちごタルトケーキが出てきてほっこり。

アンリエット・ルニエ(1875-1956年)フランスのハープ奏者・作曲家。
5歳になる前にピアノの手ほどきを受けていたが、8歳でセバスチャン・エラールの音楽教室でアッセルマンに師事。1885年にパリ音楽院に入学し、10歳のときハープ演奏で次席となり、11歳で首席になりました。

モデルケースとして異例の措置が取られ、当時14歳以下に履修が許されていなかった和声法と作曲の講義への出席が許可されます。

自作の《アンダンテ・レリジオーソ》を教師たちに見せるまで、6週間もこれを隠し続けていました。ルニエは女性は家にとどまるものとの発想に慣れきっていて、人目を集めることは気乗りがしなかったそうです。

12歳で音楽院を修了すると、フランス中で演奏し、弟子をとりだすと、パリの至る所から、自分よりも倍以上の年齢の入門者が集まりました。

15歳で最初のリサイタルをパリで開きますが、両親がアッセルマンの名をオーケストラの指揮者としてプログラムに印刷することを失念したばかりに、この旧師と不和を起こしてしまいます。

結局ルニエは、アッセルマンを宥めるために、身銭を切ってプログラムを刷り直します。が、その後もアッセルマンとの一触即発の関係は続きました。

アッセルマンはルニエの演奏会に指揮者を紹介することさえ拒み、ルニエの未出版作品の一部を、断りなく自分の授業に流用しました。それでもルニエは、アッセルマンに誠意を示し続けました。


アッセルマン(1845-1912年)
1901年に、音楽院在籍中に着手した《ハープ協奏曲 ハ長調》を脱稿させます。

が、ルニエは胃を弱らせており、病身に鞭打って演奏活動を続けたにもかかわらず、とうとう1回、シュヴィヤールの指揮するコンセール・ラムルー管弦楽団とのコンサートを延期する破目になります。それでも、自作の協奏曲の上演によって、ルニエはヴィルトゥオーソとしても作曲家としても名を上げ、しかもハープを独奏楽器とするのに一役買い、他の作曲家によってハープ曲が作曲されるようになります。

1903年には、もう一つの出世作《伝説曲 Légende 》を作曲します。同年に11歳のマルセル・グランジャニーをパリ音楽院に送り込みますが、アッセルマンはグランジャニー少年の入学を一蹴しました。
翌年に少年は入学許可を得たものの、実技試験に参加することを許されませんでした。13歳で初めて実技試験に参加して、首席に輝いています。


マルセル グランジャニー(1891– 1975年)
1912年になって、アッセルマンと和解します。教授の地位を引き継いでもらいたいとアッセルマンに要望されました。
しかし当時、パリ音楽院の器楽科上級クラスに女性教授はいず、政府の指図で、パリ音楽院は教育省にその任命の承認を仰がなければなリませんでした。

結局ルニエは採用されず、マルセル・トゥルニエ

トゥルニエ(1879-1951年)
が後任教授に選ばれました。アッセルマンはルニエの落選を告げられた日の晩に亡くなっています。

その後ルニエは、エコール・ノルマル音楽院からの就任要請を断わって、1914年にルニエ・ハープコンクールを主催しました。

サルセードやグランジャニー、ピエルネやラヴェルといった錚々たる顔触れを審査員に迎え、覇者にはかなりの賞金が授与されました。



第一次世界大戦中は、市内に砲火が炸裂する中で、ほとんど夜毎のように慈善演奏会を行なって困窮する芸術家に匿名で至急送金しました。

戦後は、トスカニーニよりハープ奏者として契約するように要請されますが、母親の健康の衰えを理由に話を断わっています。

1922年にレジオンドヌール勲章の受章者に推薦されますが、宗教的信条を理由に受章を拒否しました。

ルニエは、ラジオ放送に出演し、1926年にはコロムビア・レーベルならびにオデオン・レーベルにて録音活動を行います。

ルニエのレコードは3ヶ月で売り切れとなり、なかでも《小さな妖精たちの踊り Danses des Lutins 》の音源はプリ・デュ・ディスク賞を獲得します。
しかし、スタジオ録音にルニエは憔悴し、二度と録音の契約を更新しようとはしませんでした。

第二次世界大戦中は、出版社の要望に応じて、『ハープ奏法』の執筆に取り掛かり、その完成に傾注しました。

フランスの休戦協定が結ばれると、入門者がルニエの許に殺到しました。

坐骨神経痛や神経炎に加えて、冬には気管支炎や肺炎の長患いや消化器の感染症により、危うく死に掛かったものの、大量の鎮痛剤を服用しながら指導を続けました。

トゥルニエがパリ音楽院での35年間の教師生活から身を退くと、ルニエは後任教授に就任するよう要請されましたが、トゥルニエよりも自分が年長だからという口実で、その申し出を断わっています。

しかしついにレジオンドヌール勲章は受章しました。

その翌年に《伝説曲》を含む演奏会を開き、「この曲を弾くのもこれきりになるでしょう」と言い、それから数ヵ月後の1956年3月に亡くなりました。

ルニエは、フランス第三共和政が政教分離を模索する中、金色の十字架を身に着け、自分の教会支持を露わにしました。このため、フランス政府より共和制の敵として睨まれました。

自分の信念をきっぱり貫く性分で、友人や弟子たちが恐れる中、ドイツのプロパガンダのポスターを破り捨てるという面もありました。

「シャルランの松」
ハープ二重奏です。