という言葉があるとすれば父のことではないかと思う。
(私の記録になるので長くなるかもしれません)
4日、8時過ぎに電話。こんな朝早くに電話が来るのは佐渡しかない。しかも悪い知らせの電話ね。予感はぴったり!母からの電話だった。
「父さんがしゃべれない。どうしたらいいだろう。」と電話の向こうでおたおたしている様子が手に取るように分る。母からの催促で父が電話に出たが呂律が回らなくて何を言っているのか分らない。脳に重大なことが起きていることだけははっきりしている。すぐ母に救急車を呼ぶように伝えたが、90歳の母にはそれは無理というもの。「私がすぐに佐渡に行くから。」とだけ伝え、叔母に電話した。しかし叔母は、仕事に行かなければならないと言う。しょうがない、忙しい日々を送っていることは承知のうえで、高校時代友人に事情を伝え、家にすぐ行ってもらうように頼んだ。(このことが大正解だったことは後で判明する)
夫が会社に付く時刻を見計らって会社に電話。(やっぱ携帯は必要だね)一発で運よく本人が出て、簡単に事情を話し、留守を頼む。そんなこんなで家を9時15分頃出た。歩きたくなかったけれど、こんなとき歩くという行為は案外頭や覚悟をクリアにしてくれる効用があるものね。もうどうなってもいいやと思ったら、ずいぶん気が楽になったわ。
結局、佐渡には最短で午後3時に着いた。
母からざっと事情を聞き、すぐに病院へ。友人がずっと付き添ってくれていた。開口一番、
「あんた、何も心配要らんわよ。お父さんしっかりしておるわよ。びっくりした。」
彼女の話では、私の実家に行ったときは父はすでに必要書類を準備して待っていたそうだ。そのおかげで救急車をすぐにスムーズに呼ぶことができ、(結局彼女が呼んでくれて救急車に乗り込んだ)自分の足で救急車に乗って行ったそうだ。
「まあ、私も見習わなくちゃならんわ、まとめておかんならんね。漢字も書いてるよ。おしっこも自分でできるし、クラシックパンツも自分できちんとはきなおしておったっちゃ。」と私を安心させてくれた。
父はこの時点では、点滴の治療を受けていた。言葉はなかなか出てこないが単語のような言葉は少しづつ出てきた。難しいことは筆談で・・
彼女に引き取ってもらい、私は主治医の先生に説明を受けた。診断名は脳梗塞。CT検査の結果、頭には血栓が見られないが、脳幹の言語機能が不自由になっている。問題は嚥下機能に麻痺が来ているかどうかということ。最悪の場合は、栄養補給が鼻からか直接胃に穴を開けて補給するかのそれともしないか選択を迫られる、医師は高齢ですし止める判断が・・・と言うので、私は日ごろの父の言動から、即「チューブはつけなくて結構です。」と言った。
私はお世話になった義理の叔父、救急車の音で飛び出てきてくれたお隣の人、先の友人にお礼を言いに行った。この友人とご主人に先の医者の話をしたら、怒られてしまった。
「いやあー、このもんたらあんなにぴんぴんしているお父さんを飢え死にさせるノンか。意識がないならともかく、あんなに頭もしっかりしておるのになあ。」ご主人も「そんなことをしたら後味が悪いよ、いよいよのときなら外せばいいんだ。」
そうか、私の浅知恵だったわ。でも、これから大事な一つ一つの判断を私が下していかなければならなくなるのね。ということは肝に銘じた。
実は私のしたことはここまでである。後は父の努力と運が全てを解決してくれた。
翌日の嚥下機能の検査で、異常ないことが分った。最大の心配事は消え、ほっとして涙が出そうになった。これで、言語のリハビリをすればいいだけのことになった。食事、お風呂、許可が出た。
父は、朝の自分の仕事分担(掃除機をかける、パンを焼き、牛乳を沸かす。等・・)を全部こなし、朝食を食べ始めたそうだ。パンを二口食べたところでなんか変な感じになったと言う。母の話では、パンを持ったままじっとしているので「どうした。」と声をかけても返事がない。「父さん、しゃべれ、しゃべれ!」と言っても返事がない。更に言い募ると、父がメモ用紙に「しゃべれない。」と書いてきたそうだ。そこから怒涛のような一日が始まったのである。
もし、父が夜中に発作を起こしていたら、母は気が付かなかっただろう。当然症状は重いものになる。父の運の強さを感じる。
言語だけですんだのもありがたい。私は、麻痺を予想していた。病院泊り込みを覚悟していた。一日2回の見舞いですんだのは、本当によかった。こうして一応帰ってこられたものね。
友人が行ってくれなかったらと思うとぞっとする。彼女のすばやい対応で、治療が早く始まったんだものね。感謝。