「アルトロ・ウイの興隆」 京都ロームシアターでの公演が終わった。
初演では地方の舞台はなかった。この後は東京の舞台、11月の神奈川芸術劇場から始まって
1月まであのエネルギッシュな舞台をやり遂げるってすごいなあ。
神奈川芸術劇場(KAAT)での「アルトロ・ウイの興隆」再演最終日を観ての帰り道。
この奇妙な感情をどう表現すればいいのかとぐるぐる考えていた。
初演では、突き付けられた怖さがゾクゾクと迫ってきて興奮冷めやらなかったのに、
再演では妙に冷静な自分を持て余しなんとも不思議でならなかった。
もちろんKAAT最終日に観劇できたことの喜びはあったがそれはそれで。
神奈川芸術劇場
うーん、どうしてウイや部下たちに扇動されていく狂気が初演の時ほどなかったのか。
再演ということでこれはお芝居だと分かっているから衝撃が少なかったのか、
コロナ禍で客席がマスクを着けているからか。
客席に降りてくる役者はマスクをつけて、銃口を向けて賛成かと問われる回数も少なかった、そんなに煽らなかった。
それがあるのか。と私なりにいろいろ考えてしまったの。
そんなとき、KAATの前芸術監督白井晃さんと現長塚圭史さんのインスタグラム対談を見た。
そしてパンフレットも読み直した。
パンフレット 左初演 右再演
白井さんは言う。
初演では観客は草彅さんを応援しているのか、アルトロ・ウイを応援しているのか、
ウィの芝居を観ようとしているのかがないまぜになっていて。
自分が何を応援しているのか。何を見つけようとしているのかが混然としている。
オーサカ=モノレールの音楽に引っ張られ、草彅さんのカリスマ性に引っ張られ
熱狂の中で煽られてしまう。熱狂すればするほど危ない方向に行っている。
そして終わった瞬間に、ヒトラーの言葉「熱狂する人間だけが・・」で、ふっと冷めていく。
白井さんの本当の目的は自分を引いて観てもらうことにあった。と。
再演では、客が世の中の変化で、のりながらも冷静に見ている。
表現の仕方を変わらせて客自身も変わらせてもらった。抑制の中で
芝居の中に同化するのではなく、これはお芝居ですと観てもらった。とその意図を話す。
さらに初演は思った以上にお客さんを熱狂させ巻き込み同化してしまった。
失敗かもって。少し煽りすぎたって。
今回は芝居を観ながら煽られる自分がちょっと危ないな、音楽と一緒に引っ張られる自分が怖いな、
と感じてくれるお客さんが多くなるようにしたい。
高揚しながらも、その高揚感に同化する自分を冷静に感じてもらえるような
仕掛けができたらと思っています、と。
自作のカレンダー
ああ、まさに白井さんの術中にすっかりはまっていたのね。白井さんが意図したとおりに
私の気持ちは動いていたのだと、手のひらで踊っていたと。うーんと唸る。演出家は凄い。
作品を分析し、何を伝えるのか伝えたいのか意図を明確にし、それを役者に託し演出する。
何度も何度も練り直す。そんな作業を毎日しているのね。
「バリーターク」観劇でお隣に座ってメモを取りながら舞台を観ていた白井さんを思い出す。
気が散って集中して舞台が観られない、なんて思った自分。もったいなかったわ。
「草彅さん、こんな舞台を1日2回も演じるんですか」なんてそんなことしか聞けなかった私。
ほんとおバカな頭を叩いてやりたい。
アルトロ・ウイはそんなもんじゃない、もっともっとエネルギー使っているのにね。
次は東京公演、白井さんは違う劇場でどのような演出をして見せるのだろう。
長い間放置しておいたけれどやっと書き終わることができたわ。宿題が終わった気分。
備忘録として残しておかねばと思ってたのよ、自己満足で。
アルトゥロ・ウイの興隆