今回の佐渡行きのお供は池波正太郎さんの『池波正太郎の銀座日記(全)』
いつもは本なんぞ持参しないが、テレビも何もない暑い日々を過ごすのにふさわしい作品をと思って
選んだ次第で。池波さんのエッセイは少しは読んだつもりでいたが、一番好きな作品と言っていい。
今までも繰り返し読んでいたが、ここ何年は手に取ることもなかったの。
今年は池波さんの生誕百年ということもあってか(関係ないわね)、小説でもなく随筆でもなく日記と
いう形態がちょうどいいかなと思って。佐渡滞在中は時間がたっぷりあったので、心おきなく読んで
池波さんの日常に思いを馳せていた。
週に何度となく出かけた街・銀座。少年のころから通いなれたあの店、この店。
そこで出会った味と映画と人びとは、著者の旺盛な創作力の源であった。
「銀座日記」は、街での出来事を芯にした、ごく簡潔な記述のなかに、作家の日常と
そこから導かれる死生観を巧みに浮き彫りにして大好評であった。
急逝の2カ月前まで、8年にわたった連載の全てを1冊に収めた文庫オリジナル版。
昭和の終わりから平成にかけての銀座を歩いていた池波さんの日記。
大好きな映画の試写に出かけ、ご贔屓の蕎麦屋やレストランで飲みながら食事をし、主に銀座で
お気に入りの買い物をして、小説や随筆を書く苦労や喜びを綴っている、ほぼほぼそんな日々を
送っている池波さんの日常の、ほんの一部分を抜き書き。(日にちは順通りではなくて前後している)
すべての日は✕月✕日となっている。
晩春から初夏へかけての銀座の夕暮れ。これだけは何といっても大好きだ。ぶらぶらと歩いてから、
地下鉄で帰宅する。
心身快調。銀座へ飛び出す。
もうこの一文だけで池波さんの心の弾みようが分かる。
池波さん、夜食を食べる。夜食は何を食べるとその日のうちから決めている。
(夜食に)痛風を恐れつつ、テリーヌをたっぷりといただく。ってな具合に。
✕月✕日 ある晩、夜食を作ろうと台所に降りて行ったら、お母さんが雨戸をあけ始めたそうな。
おふくろも、ボケたもんだって。
で、人のことはいえない。六十になった私も、いろいろと近ごろは怪しくなってきたって。
夜食を終えて、仕事にかかるが、先月から七十枚ほど書きためていたS誌の小説、どうも気分がのらない。
おもいきって、全稿、初めから書き直すことにして十五枚すすめる。
こんなことは二十年ぶりなり。
なんだか、うまく行きそうになってきて、久しぶりでぐっすりと眠る。
最初の方の日記だが、その後も仕事のことでの苦労がにじみ出ている記述が多くあって。睡眠薬もよく
飲んでいたようだ。池波さんにしてもそのようなことがあるのかと。
後半の方になると、そういった日々がいっそう多くなる。
弱った。すっかり、怠け癖がついてしまった。毎日、ベッドでごろごろしている。こうなると、
自分でもじれったいほど、で何をする気も起らぬ。元来、私は怠け者なのだ。これは自分でよく
わきまえている。なればこそ、仕事を前もってすすめるようにしているわけだが、怠け者の自分にとって、
これは非常に苦痛なのだ。なるほど、いまは怠けていられるが、来月、再来月と新連載の小説が
重なって始まる。それを考えると怠けてはいられないのだ。
昨夜、気力をふるい起し、何日ぶりかで机の前に座り、ペンを取った。
二枚、書き出せた。それでやめる。
昨夜のうちに、きょうの仕事を決めておいたので、朝早くから飛び起き、食事をすませて取りかかる。
といっても、いま週刊誌へ連載中の短い随想と絵の一回分をやっただけで、すぐに終わってしまう。
(もう一回分・・・)
そうおもったが、ベッドへ転がったら、もうダメだ。そのままで、日が暮れてしまった。
夜は、週刊誌の小説を書く。もうすぐに完結となるので、すべて頭の中へできあがっているから、ペンは
どんどんうごいてくれる。
帰って〔鬼平犯科帳〕を書き終える。五十余枚の短編に十三日もかかってしまった。こんなことは久しぶりだ。
ともかくもほっとする。今夜はよく眠れるだろう。
来月から始まる週刊誌の小説、その題名に苦しんでいたけれども、ようやく二つほど思いついたので、
題名は決まっても、何を、どのように書くかは、第一回目を書いてみないことにはわからない。
いつものことなのである。しかし、主人公が女であることだけは決まっている。
新年から週刊文春で始まる連載小説の第一回だけでも、旧年のうちに書いておこうと
おもったが、〔秘密〕という題名は決まっても、やはり、書けなかった。私の小説は書き出して
みないことにはわからない。これはむかしからの癖で、いまさらどうにもならぬが、いつも
新しく始める小説を書くときの不安は消えない。
それに比べて、挿絵や表紙の絵を描く仕事は実に楽しそうで生き生きとした様子が読むほうにまで
伝わって来るから、よほどにお好きなんだなと。
池波さん、持病の痛風に悩まされる。この後も痛風の記述が書かれている。
足の痛みも薄らいだので、ステッキをついてCICの試写室へ行く。(略)
ゆっくりと銀座を歩く。
もっと歩きたいし、久しぶりでバーにも寄ってみたくもなったが、まだ歩行は充分とはいえないので、
大事をとって帰宅することにする。
大事をとる・・・・なんたることだ。そんなことは十年前の私には考えられなかった。これだけでも
年寄りになっちまったきがする。
猛暑、連日つづく。このくらい暑くなると、私の体調はむしろよくなる。食欲も出てくるし、容易に
屈服しないのは毎年の夏の例に洩れない。しかし、男も六十をこえると、体調が微妙に変わるし、
いかに好調だとて、それを持続することがむずかしくなってくる。
現代の激動とスピードは、物事の持続をゆるさぬ。
夕飯に、少し松茸を入れた湯豆腐をする。
そして秋の到来をおもい、一年の光陰を感じる。
何も彼も「あっ・・・・」という間だ。
今年は病気をしたりして、仕事のだんどりが狂い、暑い夏に、ひどい目にあった。もう二度と、
このようにならぬことだ。来年は、さらに生活を簡素にしたい。
この秋ほど、知人・友人が多く死去したことは、私の一生に、かってなかったことだ。
いよいよ、私の人生も大詰めに近くなってきた。この最後の難関を、どのように迎えるか、
まったくわからぬ。怖いが興味もおぼえないではない。
池波さん、日記の後半になると、頭痛を訴える記述が多くなる。
頭痛は寒さのせいか老母の体質を受け継いでいるのかと。
夕方、〔天國〕で天丼を食べてから帰宅。
風が鋭くて冷たく、頭が痛くなった。
贔屓のうなぎの「前川」
〔L〕へ行き、ロールキャベツとパンで赤ワインを少しのむ。これでもう近ごろの私の腹は
満ち足りてしまう。ほんとうに食べられなくなってきた。
神谷町のフォックス試写室で映画を見た後(略)、外へ出て、先ずコーヒーの豆を買い、タクシーで
神田へ出て散髪。それから、かねて行きたいとおもっていた〔B亭〕へ行き、水ギョウザと
チャーシューメンを食べる。濃い味だが両方とも本格的だった。
神保町へもどり、本などの買物をすませてから、コーヒーとホットケーキ。
タクシーで帰宅する。ようやく今月の仕事の目鼻がついたので気分に余裕ができたのかして、
知らず知らずにウォークマンを取り出し、テープを聴く。
春は、私にとって、いちばんいやな季節だ。毎日、鬼平犯科帳を少しずつ書きすすめている。
気が滅入るばかりだ。今月は歌舞伎座で吉右衛門が〔鬼平〕を演っているので、ぜひとも
行きたいとおもっている。だが、行けるかどうか・・・。それほど、私の外出嫌いは重症になって
きている。
「銀座日記」を読んでいた川口松太郎さんから、
「・・・銀座日記をよむと、少し食べすぎ、のみすぎ、見すぎ(映画)という気がする。
とにかく大切に・・・」というハガキをいただいたこともあったのに。すっかり気弱くなって。
「池波正太郎の新銀座日記」最後の✕月✕日の日記
午後になって、少し足を鍛えようとおもい、地下鉄の駅まで行く。往復四十分。息が切れて、
足が宙に浮いているようで、危くて仕方がない。
いろいろな人から入院をすすめられているが、いまは入院ができない。また、入院したところで
結果はわかっている。(略)
去年の日記を読み返してみると、まだまだ元気で、一日二食だが欠かさずに食べている。そのかわりに、
家人が重症の拒食症になってしまい(これでは、来年が保つまい)と、おもっていたが、今年になって、
私が同じ症状になってしまったのである。
拒食症というのも、辛いものだ。やせおとろえて体力がなくなり、立ちあがるのにも息が切れる。
ま、仕方がない。こんなところが順当なのだろう。ベッドに入り、いま、いちばん食べたいものを考える。
考えてもおもい浮かばない。
この後平成二年三月に入院、急性白血症と診断されて五月三日に亡くなっている。
長生きではなかったと記憶してはいたけれど、70は越していたと思っていたから67歳で急逝していたなんて
今の寿命で言えば若くして亡くなったんだ。どこか長谷川平蔵の人となりと重なってくる池波さんだった。
生誕100年 時代小説作家 池波正太郎の世界 ~読んで・見て・歩いて知る 作品の魅力~