あいやぁ、おらの頭このごろ、なんぼがおかしくなってきたんでねべが
どうすっぺぇ、この先ひとりで、何如(なんじょ)にすべがぁ
いきなりの東北弁独り言。
だいじょぶだ、おめには、おらがついでっから。
おめとおらは最後までいっしょだがら
おらだば、おめだ。おめだば、おらだ。
何とも衝撃的で。どんな状況でこんな言葉が出てくるのか分からない。
説明も何もないんだから。
が、分からないなりになんとなくずいぶん分かった気にさせてくれて。
そうねと一気に引き込まれる。
おらだば、おめだ。おめだば、おらだ。
74歳、ひとり暮らしの桃子さん。夫に死なれ、子どもとは疎遠。
新たな「老いの境地」を描いた感動作!圧倒的自由!賑やかな孤独!
これで全部なのだけれど、もう少し桃子さんのことを。
結婚を3日後に控えた24歳の秋、東京オリンピックのファンファーレに
押し出されるように、故郷を飛び出した桃子さん。
身ひとつで上野駅に降り立ってから50年――住み込みのアルバイト、
周造との出会いと結婚、二児の誕生と成長、そして夫の死。
「この先一人でどやって暮らす。こまったぁどうすんべぇ」
40年来住み慣れた都市近郊の新興住宅で、ひとり茶をすすり、
ねずみの音に耳をすませるうちに、桃子さんの内から外から、
声がジャズのセッションのように湧きあがる。
捨てた故郷、疎遠になった息子と娘、そして亡き夫への愛。
震えるような悲しみの果てに、桃子さんが辿り着いたものとは――
作者の若竹さんいわく
「出来事としては、なんもないの、なんにも起こらないんです。ぜーんぶ頭の中だけのこと」
そのぜーんぶ頭の中だけのことが、
そそそそそ、そうなのよ、そういうことなのよ。
なんだかうまく言えなくてもやもやしていたけど、そういうことなのよ、と。
桃子さんが目の前にいたら、よくぞ私の心の中をぴったりの言葉にしてくれました。
と抱きついて感謝したいわ、おかげですっきりしましたってね。
頭の中に、小腸にあるような柔毛突起がふんわりふわふわあちこちに揺らいで
桃子さんに語り掛けて。
全編これ桃子さんの心象風景をただただ綴っているだけなのに、読んでいて退屈しない。
退屈しそうになるとまたまた、そうそう私にも覚えがあるわ、なんてことがでてくる。
どの部分に共感するかと言われても、全部だから困る。
私の年代なら、桃子さんの柔毛突起が語り掛けることに頷くところはたくさんあると思う。
それでもといくつか書き出してみると。
、わたしで、ひとりで 逝きます。
普段の桃子さんはせいぜい隣近所とあいさつを交わす程度、
たまに郵便配達や新聞の集金の人と二言三言話すくらいである。
それでも取り立てて寂しいとは感じない。まぁこんなものだろうと思っている。
孤独などなんということもないと自分に言い聞かせもし、もう充分飼いならし、
自在に操れると自負してもいるのだ。さびしさぁ、なにさ、そたなもの、などと
高をくくっていたのである。
ところが、いけない。飼いならし自在に操れるはずの孤独が暴れる。
読んでいるうちに、このところ引っ込んでいた「寂しい」という感情がふっと
湧き出して暴れ出してなだめるのに困った。
そうそう、私も同じような思いはもつ、そして「いかんいかん」と起き上がる。
頭はもう一滴だって眠れやしないのに、体はまだ布団を離れがたい。
どうせ早く起きても何もすることもないのだし、おんなじことの繰り返しだし。
目覚めた時からどうせどうせのオンパレード、そんなときもあるさ、仕方ながんべさ、
言い訳とも慰めともつかぬ合いの手入れ、輾転反側何度も寝がえり繰り返していた。
私には夫がいて桃子さんと全く同じ境遇ではないけれど。
この、桃子さんの夫の死に一点の喜びがあった、の件は
何人かの友人たちを見ているから容易に想像できるし、自分もそうだろうと思う。
周造は惚れだ男だった。惚れぬいだ男だった。それでも周造の死に一点の喜びがあった。
おらは独りで生きでみたがったのです。思い通りに我の力で生きでみたがった。
それがおらだ。おらという人間だった。なんと業の深いおらだったか。
それでもおらは自分を責めね。責めではなんね。周造とおらは繋がっている。
体が引きちぎられるような悲しみがあるのだということを知らなかった。
それでも悲しみと言い、悲しみを知っていると当たり前のように思っていたのだ。
分かっていると思っていたことは頭で考えた紙のように薄っぺらな理解だった。(略)
もう今までの自分では信用できない。おらの思っても見ながった世界がある。
そごさ、行ってみって。おら、いぐも。おらおらで、ひとりいぐも。
若竹さんいわく、の続き。
「人間って面白いもので、年齢と共に体は衰えていきますが、
心は成長していくんです。老いるということは心は成熟に向かうということなんだなと
最近思います。孤独は心に絶対的な自由をもたらしてくれる。
その自由を享受しながら生きることは楽しいことです」
うーん、深い。ここに来ると私は果たしてそんな境地になることができるか、と恐れる。
ところで、『おらおらでひとりいぐも』の「ひとりいぐも」って。
私は「行くも」と取っていたけれど、いかにも浅いわね。
「逝くも」かもしれない。
自分はひとりで「生きて行く」こちらかもしれない。きっとこちらね。
74歳、ひとり暮らしの桃子さん。
おらの今は、こわいものなし。
『小説の主人公は、子どもが独立し、夫に先立たれた74歳の“桃子さん”。「どうすっぺぇ、この先ひとりで何小説の主人公は、子どもが独立し、夫に先立たれた74歳の“桃子さん”。「どうすっぺぇ、この先ひとりで何如にすべかぁ」と、自らの内側に響いてくる生まれ故郷の言葉たちと向き合いながら、孤独をかみしめる日々を描く。如にすべかぁ」と、自らの内側に響いてくる生まれ故郷の言葉たちと向き合いながら、孤独をかみしめる日々を描く。自由だ!おらは自由だ!』って」(「おらおらでひとりいぐも」とは、「私は私でひとり生きていく」という意味。(Ora Orade Shitori egumo)
Ora Orade Shitori egumo)