まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

大瀬崎灯台で平成最後の夕日を・・そして改元

2019年05月15日 | 旅行記H・九州

夕食を終えて、いよいよ大瀬崎灯台に向かう。「さあいよいよ、夕日ですよお客さん。果たして見ることはできるのでしょうか?」と、添乗員Kさんが盛り上げようとするが、雲が広がるのは相変わらずだ。Kさんもそれはわかっている。半ばやけくそというわけではないが、天候ばかりは仕方がない。客もわかっている。日中回ってきた弘法大師やキリストでも、さすがにこの天候をひっくり返すことはできないだろう。

灯台を見下ろすポイントというのがあり、坂道をずっと上って行く。遠くに見える海岸線もきれいである。

18時50分頃に到着。展望台が設けられていてそこから景色を望む。雲が広がるものの灯台とその周りの岩礁はくっきり見えるし、水平線も見渡せる。夕日が沈む時はこんな景色だというのは、昼間の移動中にガイドSさんが自分で撮影したという写真を見せてもらっていた。水平線の向こうは東シナ海である。

灯台や水平線だけでもはっきり見えるのはラッキーなのかもしれない。日によっては霧が出て視界が遮られ、灯台を見ることも叶わないそうだ。

大瀬崎灯台は遣唐使の頃から登場する。もちろん今のような灯台ではなく、岬の先端で狼煙やかがり火を上げたのを船の目印にしたのが始まりである。東シナ海から対馬海峡にかけて浮かぶ五島列島はこのエリアの要衝と言えるし、よくここにしっかりした陸地ができたなと感心する。灯台の建物ができたのは1879年のこと。またこの上にある山頂には無線所があり、日露戦争の日本海海戦を前にバルチック艦隊を発見した「敵艦見ゆ」の無線を受信した歴史もある。

以前の記事で、この旅を申し込むに当たり「本土最西端」という言葉が気になるということに触れた。太平洋戦争で奄美、沖縄がアメリカの統治下に入ったが、このエリアを除くと日本の最西端は五島列島になる。また、奄美、沖縄が元々琉球王国の土地だという見方からすれば、肥前の国だった五島列島はやはり日本の最西端となる。むしろ、そうした歴史のほうが長いのではないか。となると「本土最西端」の表現も間違いではない。

やはりそういうロケーションが絵になるようで、映画「喜びも悲しみも幾年月」や「悪人」の舞台の一つにもなっている。各地の灯台を描いた「喜びも~」は主題歌を聞いたことがあるくらいだが、「悪人」は最後のクライマックスで登場したのを覚えている。逃亡のピリオドが最果ての灯台というのが犯人の運命を表しているようで印象的だった。原作を読んだ後で映画を見たのだが、九州の西のほうにはさまざまに引き付けるものがあるのだとうなるばかりだった。

参加者の皆さんは灯台と風景の記念撮影に夢中である。確かに、平成最後の夕日を見ることができなかったのは残念である。わざわざ夜行フェリーに連泊・・というのにもいろいろあるだろうが、その分、遣唐使の疑似体験含めてはるばる最西端までたどり着いたという充実感が湧いてくる(それは私だけかもしれないが)。その上で福江島もいろいろ散策したし、名物を味わうこともできた。添乗員、ガイドも個性的でよかった。いろいろ重ねると、このツアーに参加してよかったと思う。

時刻は19時05分。日の入りの時刻を何となく迎えた形だが、私は雲の向こうにいる太陽に向かって手を合わせていた。他には「夕日は心の眼で見えましたよ」という名言?を残した人とか、一昨日のフェリー出航前に撮った夕日の写真と大瀬崎灯台の写真を合成しようかという人もいる。どこまでもいちびりな団体なのである。

日の入りの時刻を過ぎてバスに戻り、ホテルに戻る。あと数時間で令和元年。まずは鬼岳で令和最初の日の出を見るスケジュールだ。これは朝5時にホテルを出発だが、あくまで任意参加の扱いとなった。ゆっくり寝たい人、体調を整えたい人は出発の8時40分集合でも可となった。

20時過ぎにホテルに到着。部屋に戻る前に、先ほど下見したポプラで買い出しとする。

福江の中心部を歩くが、すでに閉店の店も多い中、赤ちょうちんもちらほら見かける。夕食はもう済んだし、食事のボリュームもあったので改めて店に入ることもないなと素通りした。ただ、個人で来たら店探しも楽しみの一つである。離島は店も少ない、値段も高い、一見さんは入りにくい、とさんざん言われているが、今振り返ると、20時はまだ宵の口、1杯だけ、アテ一品だけでもいいから、五島の居酒屋がどんなものなのか行けば良かったと思う。その点は旅から帰った後で心残りである。

その時はそんな想いもなく、ポプラで檸檬堂をはじめなにがしか買い求めてホテルの一室で楽しんでいた。この紀行文の下書きも進める。ただ、午前0時の改元の瞬間は・・しっかり寝ていた。寝落ちではない。

テレビをつけても何だか中途半端な盛り上がりだし、大晦日から元日に変わる前のような雰囲気でもない。まあ、「その瞬間」の様子の報道は翌朝から嫌でも目にするだろう。それよりも、日の出を見るために5時出発だからというのもあるし、フェリー連泊の後でこのツアーで唯一宿やで寝るというのもあるし、単純に檸檬堂が回ってきたというのもあり、ここは素直に寝るということに。

「ありがとう平成、ようこそ令和」は夢の中で・・・。

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井持浦教会のルルドと平成最後の夕食

2019年05月14日 | 旅行記H・九州

観光バスは福江の市街地に戻ってきた。この日は「コンネホテル」というホテルに宿泊する。「コンネ」は「来んね」から取っている。

15時のチェックインまで30分ほどあるということで、それまでの時間調整で商店街でいったん下車する。五島銘菓「治安孝行(ちゃんここ)」の「はたなか」という店である。「ちゃんここ」とは福江島に伝わる盆踊りで、お菓子は餅をあんこときな粉でくるんだもの。試食させてもらったがものすごく甘い。

少しぶらつく。石田城跡も近いし、コンビニも見つけた。福江島にはコンビニが5軒あるそうだが、ブランドはいずれもポプラ。私も広島勤務時代は結構お世話になったが、まさか福江島で目にするとは。品揃えは普通にあるし、五島うどんや焼酎などの簡単な土産物もある。フェリーでいただいた九州限定の「檸檬堂」もある。改元を祝う酒類は後ほどここで調達しよう。

バスが来る。ホテルは歩いてもすぐそこだが、先ほどの時間調整の間にチェックインができたようで、車内でカードキーが渡される。大きな荷物もすでにロビーに並べられていた。

客室はコンパクトだが落ち着いた色合いの内装だ。コーナーいっぱいにデスクが広がっていて、ビジネスにも対応している。

シングルルームはバスの備え付けがないものの、トイレ、洗面台が独立している。風呂は、1階の大浴場を使う。15時にチェックインして、次の集合が16時40分。この時間でも風呂は入れるということで早速出かけ、一番風呂を楽しむ。夜行フェリー2連泊で、船内の風呂と日帰り温泉は利用したが、やはり揺れないところで寝ることができる安堵感が湧いてきた。ただ、ベッドに横になるとそのまま寝過ごしそうになるのでそれは我慢する。

時間となりロビーに下りる。ここからバスに揺られ、夕日のスポットである大瀬崎に向かう。日の入り時刻は19時05分ということで、その前に近くのレストランで夕食となる。昼間楽しませてくれたガイドのSさんはお役御免で、ここからは添乗員Kさんが担当する。これから目指す大瀬崎は島の南西端に当たり、途中山がちな区間を横断する。遠くには風力発電の風車も見える。

玉之浦の入江に出る。この辺りも複雑な地形で、地図を見ると海水面がUの字を描いている。

夕食はこの先の「ニューパンドラ」という店だが、添乗員Kさんが、「コースには予定していませんでしたが、先ほど運転手さんと『緊急サミット』をしまして、手前にある井持浦教会に立ち寄ることにしました」と告げる。ちょうどレストランの手前にあるし、雨は止んだものの夕日を見られる可能性がほぼゼロとなったため、大瀬崎での滞在時間を短くし、夕食の時間も少しずらしたようだ。これには車内からも喜びの声が挙がる。このツアーでは教会めぐりも含まれていて、この日は水ノ浦教会を訪ねたが、井持浦教会は観光スポットとしても有名なのだそうだ。当初の予定では素通りだったが、やはり行きたいと思っていた客も多かった様子だ。

時刻は18時に近い。敷地の入口にはマリア像が立ち、「いらっしゃい」と書かれた札がある。「いらっしゃい」とは聖書の一節にある言葉なのだそうだが、この文字を見ると「いらっしゃ~い」と桂文枝ふうに読む人がいるのはやはり関西人の集団だからだろうか。

さすがに中は閉まっているだろうから建物だけでも・・と案内されたが、何と扉が開いていて、少しなら入ってもよいことになった。

井持浦教会が建てられたのは1897年のことで、フランス人のペルー神父の手による。途中台風による倒壊もあり、現在の建物は1987年に改装されたものだ。

この教会が知られているのは、日本で最初にルルド(聖水の湧く泉)が造られたこと。ペルー神父の指揮の下、五島各地から集められた石を積み上げてできたそうだ。ここに来られたのはラッキーということで皆さんカメラやスマホを構える。

ただ、泉の水はいつしか枯れてしまったそうだ。で、代わりに横に飲み場がある。普通に蛇口をひねってプラスチックのコップに受ける。まあ、これも聖水ということでありがたやといただく。

そして「ニューパンドラ」に到着。ここで平成最後の夕食である。

五島の味覚がさまざま詰まった特別メニューと言ってもいいだろう。ヒラマサの造り、サザエ、ウツボの湯引き(この店はウツボ料理が売りなのだとか。五島でもウツボが食べられるとは)、野菜の五島牛巻き、巨大な有頭エビフライなど。

絶対これ、酒が進む。いつもの一人旅ならそうするだろう(あ、でもレンタカーで来たら無理やけど)。ただそこは団体ツアーのためか、瓶ビール1本頼んでご夫婦で一杯という方が若干いた程度で、さすがの私も皆さんがいる手前、注文を遠慮した。他の男性一人参加のお父さん方に飲んべえがいるわけでもない。まあ、部屋に帰って、ポプラで調達しますか・・。

この後はいよいよツアーの一番のイベントであり、ツアーの名前にもなっている「平成最後の夕日観賞」へ・・・。

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雨天の高浜海水浴場

2019年05月13日 | 旅行記H・九州

4月30日、午前中から弘法大師、遣唐使、キリスト教と見て回り、三井楽町に入る。ここで昼食ということで、五島唯一の道の駅である「遣唐使ふるさと館」に到着する。ここで雨がパラパラと落ちてきた。いよいよ、「平成最後の夕日」というのは厳しくなってきたようだ。

食事の前に、隣接する五島列島酒造に立ち寄る。原材料は全て五島産を使用しているということで、麦焼酎と、かんころ芋と呼ばれる五島独特のさつま芋から造った芋焼酎の製造工程の説明がある。

酒造会社といっても大がかりな蔵を持つわけではないが、タンクなどを窓越しに見た後で、試飲と販売がある。麦や芋の焼酎は普段飲まないので試飲も嘗める程度だが、これは実家への土産にちょうどいいだろうと麦と芋のセットを購入する。過去に九州内での酒類の品評会で何度も金賞を受賞したという一品である。

ちょうど前日(4月29日)が酒蔵開きで、イベントが行われる予定だったが大雨のために中止されたという。

道の駅のレストランで食事となる。朝食の「五島灘」はバイキング形式だったため席は自由だったが、ここからは席割がされている。もちろん、男性一人客、女性一人客がそれぞれ1テーブルに固められる。昼のメインは五島豚のしゃぶしゃぶ。五島牛というのは有名で聞いたことがあるが、最近は養豚にも力を入れているそうだ。素材の味を楽しむならしゃぶしゃぶというところだろう。しばらく鍋が沸くのを待ち、湯にくぐらせる。出汁はアゴ(トビウオ)で取ったものだ。味はしつこくなく、柔らかい。また、うどんの締めには「日本三大うどん」の一つとされる五島うどんが入る。普段食べるよりも細くて柔らかい。食のメニューも結構押さえるところは押さえているようだ。前夜、博多で五島料理の店に入らなくてよかった。

先に「日本三大うどん」と書いたが、そのうちの二つは讃岐と稲庭というのは有力だが、「日本三大」によくある「残りの一つ」論争はここにもある。バスの車中でも話題になったが、富山の氷見、群馬の水沢という声もある。参加者からは京都や大阪も「日本三大」に入るかは別にしてもポピュラーな食べ物だし、伊勢もあるとの声も出たが、ここは地元の顔を立てて五島うどんが一番ということで収まる。

今回のツアーでは土産物の品揃えの豊富さと、今後のスケジュールの関係からここが土産物購入タイムとなった。五島うどんを買い求める客も多い。また私は、アゴ出汁醤油の元というのを買い求めた。瓶の中にアゴの干したのと昆布が入っていて、そこに醤油を注いで4~5日寝かせる。するとアゴの風味がする醤油ができる。帰宅後にやってみたが、普通の醤油にワンポイントついた感じがした。何回か繰り返し使えるし、水で伸ばすとめんつゆにも応用できる。

またその間、フロアに展示されている万葉集や遣唐使の紹介パネルを見る。五島とのつながりは先にも触れたので省略するが、今回コースに含まれていない「辞本涯」の碑の写真パネルを見つける。この先の岬に立つもので、弘法大師が唐に渡る際に残した言葉である。「日本の最果ての地を去る」という意味で、ひょっとしたら命を落とすかもしれない中での覚悟の言葉とされている。そのような覚悟の末、唐から密教を持ち帰り、後の仏教文化に大きな影響をもたらした功績に改めてうなるばかりである。

そろそろ時間となる。ほとんどの客が五島の牛乳で作ったソフトクリームやカップを手にバスに戻る。売り子さんも不慣れな行列ができて大変そうだった。「もう少し商売っ気があってもいいんだけど」とはガイドのSさん。

さらに西に進み、高浜海水浴場に向かう。「日本の渚百選」の一つで(残りの99ヶ所がどこかというのは置いておく)、絵に描いたような白浜と紺碧の海が広がるという。ただあいにくの天気で、バスが着くとちょうど雨が降り出した。もっとも前日(29日)はもっと雨が強く、別のツアーが高浜海水浴場を訪ねたが誰もバスを降りようとしなかったとか。

まずは浜を見下ろす高台に上がる。漁業や海を守る魚藍観音像が立つ高台から海水浴場を見ることができる。雨とはいえ、海の色が紺碧から藍色へとグラデーションをなしているのがよく分かる。普通にきれいな海だと思う。五島でこうした海岸に出会えるとは思わなかった。

また逆の方向には嵯峨島がある。「ひょっこりひょうたん島に似てませんか?」と案内があるコブ2つの島である。その昔、平家の落人が移り住んだことから京都の嵯峨の名前をつけたそうで、現在も人が住み、先ほど訪ねた道の駅近くの港から渡し船があるとのこと。民宿もあるそうだ。

浜辺の景色を楽しんだ後、海水浴場の駐車場まで下る。せっかくなので砂浜を間近で見よう、また砂浜に足を踏み入れようという。途中に小川の流れができていて、石づたいに渡る。ただ後から渡ろうとして足を踏み外し、小川にはまった人がいた・・・。

季節がもう少し暖かかったら、また晴天だったら、海水に足をつけたくなるような砂浜である。シーズンには島外から多くの海水浴客で賑わうそうで、地元の人たちは少し離れたところで泳ぐのだとか。純粋に景色を楽しむなら今の時季がちょうど良かったのかもしれない。貝殻を拾うのがお勧めということで砂を掘って素敵なものを見つけようとする人もいる。

砂浜からの帰りは慎重になる。若い人が中心となって声をかけあい、石のぐらつきを確認し、渡った先で手を取る。連携プレーのおかげで帰りは転倒ゼロで全員バスに戻った。

時刻はまだ14時になるかならないかだが、ここで折り返しとなり、福江の中心部に戻る。この後はいったんホテルにチェックインして、平成最後の夕日を見るために大瀬崎に向かう。戻りの車中も、ガイドSさんに添乗員Kさんが絡んで賑やかな時間に・・・。

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水ノ浦教会

2019年05月12日 | 旅行記H・九州

明星院、魚津ヶ崎公園と、遣唐使や弘法大師の足跡をたどった後は、いよいよキリスト教関連のスポットとなる。魚津ヶ崎公園にほど近い水ノ浦教会に到着する。

江戸時代、五島でも潜伏キリシタン、隠れキリシタンと呼ばれる人たちが表向きは仏教ととしてひそかにキリスト信仰を続けていた。江戸時代も末期になり、欧米諸国の来航による開国や幕府の大政奉還など、世情がざわついている最中に、長崎の大浦に天主堂ができた。またそれを機会にキリスト信仰を告白する者も出てきた。これを聞いた水ノ浦の信者たちは長崎に渡り、十字架やマリアのメダルなどを持ち帰って祈るようになった。

しかしながら、明治政府は幕府のキリスト教禁教を引き継いでおり、1868年、水ノ浦でも役人に踏み込まれて急ごしらえの牢屋に押し込められるという事件が起こった。水ノ浦だけではなく五島の各島で同様のことがあり、中には殉教した者もいるという。これを「五島崩れ」という。

キリスト教の信仰が認められたのはその数年後で、水ノ浦の人たちは湾を見下ろす高台に教会を建てた。その後老朽化し、1938年に鉄川与助という名工の手で建てられたのが現在の教会である。ひとまず外観を見た後、中に入る。撮影は不可のため画像はないが、こうもり天井と呼ばれるアーチ状の天井が広がるのを見る。大浦天主堂もこの構造だという。

ステンドグラスには五島名産の椿の花と実が描かれている。椿が五島の名産だからということもあるが、椿の花の赤は殉教者の血の色を表している、また椿は塩害に強いことから弾圧、迫害にも耐えるということにもつながっているのだという。

教会の裏にはシスターたちの修道院がある。現在も12人、最高齢103歳の方がお勤めをしているそうだ。

高台にかけて白い十字架が見える。墓地なのかと思うが、これはキリストの十字架の道行をオブジェにしたものだという。キリスト教については全く不勉強なのだが、教会の中には、キリストが死刑の宣告を受け、十字架を背負わされ、十字架の上で息を引き取り、そして葬られるまでを14の場面で表現した「留(りゅう)」というのがある。その一つ一つの前でキリストの受難を思い黙想する行なのだという。西国三十三所や四国八十八所のお砂踏みとはまた違うようで。

水ノ浦では屋外に14の留を設け、これを進むと高台に上がる。ちょうど教会と白石湾を見下ろす素晴らしい景色が広がる。

14の留とキリストの復活を遊歩道で通り終えたところに、ヨハネ五島という人物の像が立つ。豊臣秀吉が長崎の26人の宣教師や教徒を処刑するという事件があったが、その殉教者の一人で五島出身の人物だという。像の説明に、ちょうどここが、明治の初めに捕えられた牢屋の跡だとある。

そのヨハネ像の周りは墓地になっている。キリスト教らしく十字架が目立つのだが、中には仏教式の墓と変わらない形のものもある。十字架があったり、葬られている故人に「パウロ◯◯」などの洗礼名が見えるのがわかる。また、墓石の文字が金色である。もっともこれはキリスト教だからというよりは、九州では割と一般的なのだそうだ。

再びバスに戻り、昼食会場に移動する・・・。

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遣唐使寄泊の地・魚津ヶ崎

2019年05月10日 | 旅行記H・九州

明星院を後にしてご一行のバスは西に進む。その間、ガイドSさんにより五島、福江島のさまざまな案内がある。

「皆さん五島列島ってどういうイメージですか?」というところから始まる。こういうのは聞くともなしに聞くのがいいのだろうが、反応を示さなかったり返事をしなかったりするとバス旅というのは盛り上がらないようだ。こういう時、前列の客はそうした役目もしなければならないようで・・ただ、私の後ろに座ったのが先ほど「五島灘」でサザエ2キロを見事に落札したお父さんで、特にこうしたツアーは手慣れたご様子である。他にもバスガイドと話をするのが楽しいといった感じの方もいらっしゃるので、そうした合いの手はお父さん方に任せることにする(まあ、関西からの客なので)。

ただためになることは多いし、紀行文を書くのに忘れてはいけないので手帳にいろいろメモを取ることにする。そうする客のほうが珍しいのか翌日になると逆に感心される。この先、各スポットでの気づきや豆知識についてはガイドSさん、あるいは添乗員Kさんから聞いたことを元に書いていくのだが、そのやり取りはトークあり、笑いありがほとんどである。ただそれを一つ一つ再現するのは難しいので、淡々と地の文で書くことにする。

福江島は五島最大の島だが、面積は約328平方キロメートル。これは小豆島の倍、関西でわかりやすいものの例えとして琵琶湖の半分くらいというのが出た。町村合併で五島市となった現在の人口は約3万8千人。外から移住する人もいるがやはり人口減少はどうしようもないとのこと。島内に高校は3校あるが大学はなく、進学となるとどうしても外に出てしまい、その後で戻ってくるかどうか。漁業以外にも農業、畜産はあるが今は観光ということになるのかな。

島には水力発電所が5ヶ所、風力発電所が3ヶ所あり、最近では太陽光パネルの設置も進んでいる。また日本で初めての洋上風力発電所も沖合いにある。だから電力という点では問題ないが、やはりガソリンは高くつく。今回レンタカーに乗っていないので正確にはわからないが、本土よりもリッターで30円くらい高いのではとのことだ。ガイドSさんは福江島の西の端にある玉之浦から数十キロかけて中心部まで通っているそうで、ガソリン代もバカにならない。「今度来られる時はそれぞれドラム缶1本ずつガソリン持ってきてください」と。

他には、コンビニもあれば大規模なスーパーもあり、また立派な総合病院もある。本土と比べれば不便な面はあるものの、生活に必要な一通りのものは揃っているし、意外といいところでしょ?というのが、ガイドSさんがこのツアーの中で折に触れPRしていたのが印象的だった。

そうするうちに次の目的地である魚津ヶ崎(ぎょうがさき)公園に到着する。ここでしばし散策となった。キャンプ場も併設されており、風光明媚な景色が広がる。季節風が強いのか、木々が独特の形をしている。

ここには遣唐使寄泊の地の石碑がある。この内側が白石湾と呼ばれる水之浦の入江で、遣唐使の風待ちの港だった。当時の航海技術、造船技術、そして唐に渡る季節の面で遣唐使は困難を極めたのだが、それでもここで風待ちをして一気に押し渡ったのである。何とも心細い話である。

遣唐使というと大陸から様々なものがもたらされ、頻繁に行き交っていたイメージがある。奈良や大阪では天平のロマンとして遣唐使船を復元するプロジェクトも以前あったように思う。しかし実際は過酷なものであり、この石碑の解説文によると「白石湾を出はずれると、外は漂渺たる外洋である。颶風(ぐふう)は忽ち船を包み、多くの英才は再び故国の土を踏む事がなかった。かろうじて生き還った人達が次代の日本の文化をになったのであるが、生きて還らなかった人達は日本文化の貴重な人柱であったと言えよう。この貴重な人柱の上に、我等は、今立っているのである」とある。

解説文は少し大仰な表現かとは思うが、こうした先人たちの偉業というのを心に留めておくことは大切だと思う。

この後は、水之浦の入江の向かい側にある白い建物に向かう。こちらが水之浦の教会である・・・。

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明星院~五島八十八所めぐり・1

2019年05月09日 | 旅行記H・九州

バスは福江の中心を離れ、田畑の多いエリアに入る。その一角に屋敷のように建つ寺に到着する。こちらが明星院である。

本堂は一番奥とのことだが、拝観は手前にある護摩堂からとのことで上がらせてもらう。それぞれに「五島一番」「五島二番」という札が立つのが気になる。広間に座ると、中央には不動明王、左には阿弥陀三尊、右には弘法大師像が出迎えてくれる。ここからは現在の住職のお母様(前の住職の奥様)が解説をしてくれる。不動明王、阿弥陀三尊は平安期のものだが、それよりも古く秘仏扱いなのが金銅の薬師如来像である。655年の作とされており、止利仏師の一派が手掛けたとされている。

続いて、ミシミシいう渡り廊下を伝って本堂に向かう。明星院の本尊は虚空蔵菩薩で、左には阿弥陀如来、右には地蔵菩薩が祀られている。

ここでは弘法大師の渡唐について一連の語りがある。弘法大師空海、そして伝教大師最澄はともに同じ遣唐使団だったわけだが、途中嵐に遭い、二人それぞれが乗った船だけが唐に渡ることができたのが奇跡である。遣唐使といえば嵐に遭うイメージがあるが、唐での新年の祝う行事に間に合うように渡る必要があるためで、現在だとちょうど秋から冬にかけてのことである。となると北西からの季節風で海が荒れる確率が高いうえに、当時の日本の未熟な造船技術で大型船をこしらえたために難破しやすいということがあった。

弘法大師が唐から戻った折、福江島に虚空蔵菩薩が祀られていると聞き、求聞持法の修行を行った。虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えるものだが、それを終えた時に明けの明星から光が差すのを見て、自分が唐で学んだ密教が今後世の役に立つであろうことを喜んだという。そしてこの寺を「明星院」と名付けた。

ここで住職のお母様から問いかけがあった。まずは「ここに虚空蔵菩薩が祀られていることをどうして知ったのか」ということで、当時の遣唐使船が福江島を最後に唐に渡るコースを取っていたことから、寺のそもそものゆかりというのは遣唐使の宿泊地ではなかったのかとしている。そして、「弘法大師が修行したというのは本当か」ということで、それは弘法大師作とされる地蔵菩薩があるからとしている。真偽はさておき、当時の修行僧たちは修行で滞在させていただいたお礼、証として金品の代わりに何かしら仏像を奉納したという。よく、弘法大師がこの地で修行したとか、◯◯大師、◯◯上人ゆかりの寺というのがあるが、その見分け方の一つに、そうした高僧が仏像を残したかどうかというのがあるとのことだ。

で、今の明星院だが室町時代、五島家がこの地を治めるようになった歴史とともにあるそうだ。お堂そのものは建て替えられているが、ベースとなるヒノキの心柱がそこまで遡れるからとしている。そして有名なのは本堂の天井の格子絵。花鳥風月が描かれているが、見どころは四隅にある「迦陵頻伽(かりょうびんが)」。上半身が人間、下半身が鳥の姿をしており、極楽浄土を表現しているのだとか。長く五島家の菩提寺としての歴史があり、一般の人がお参りできるようになったのも明治以降のことである。

いろいろと説明いただき、本堂を後にする。個人拝観だとなかなかここまでの話を聞くこともなかっただろう。渡り廊下を戻るうち、壁に無数の絵馬や納札が飾られているのを見る。四国八十八所と同じ納札、そして先に見た「五島一番」「五島二番」の札・・・、果たして「五島八十八所」というのがあるそうだ。

福江島を最後に唐に渡ったこと、そして唐から戻って先に書いた明星院での修行や、今回訪ねなかったが大宝寺で日本最初の密教の講義を行ったことなどから弘法大師ゆかりの地として、明治時代に八十八所の写し霊場が設けられたという。地図を見ると福江島にまんべんなく広がっており、この後の行程で案内板を見たりその前を通過したこともあった。そのほとんどが無人の地蔵堂や祠ではあるが、いざ回るとなると小豆島の八十八所めぐりより距離が長いようだ。

五島といえば潜伏キリシタンの世界遺産もあり(もっとも福江島は含まれていないのだが)、キリスト教のイメージがあったのだが、まさか弘法大師、おまけに八十八所めぐりもあるとは個人的には新鮮で面白かった。将来五島の八十八所めぐりをやるかどうかはさておき、この島の歴史の豊かさを知ることができたのはよかった・・・。

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五島の魚がお出迎え

2019年05月08日 | 旅行記H・九州

4月30日、福江島での最初の食事となる朝食会場として着いたのは公民館のような建物。ここに漁協が運営する漁師食堂の「五島灘」というのがある。

「五島灘」は個人の観光客がいつでも食事をいただける店ではなく、予約の団体客向けの施設である。こうしたところに来ることができるのもご一行のおかげである。地域活性化、漁師たちの新たな収入源として2017年に開業し、行政の補助を受けつつも旅行会社への地道なPRの積み重ねで徐々に客を増やしているとのこと。NHKニュースの取材を受けたり、さかなクンも来店して「ギョギョっ」と感動したそうである。

その内容だが、朝から漁師バイキングである。主宰者の方から挨拶があり、それぞれが皿に盛りつける。メインはブリの刺身。最初にセッティングされたキビナゴの刺身とともに、好きなようにブリを盛り付ける。他にもキビナゴの南蛮漬けやフライ、五島産の野菜天ぷらなどがあり、地元米のご飯とブリのアラ汁もお代わり自由である。

食べている間に解説がある。五島のブリ漁は定置網式で、このところは6キロくらいのものが1日5000本揚がったそうだ。五島は魚の回遊ルートにもなっており、この辺りから北へ回遊したものが氷見のブリにもなり、大間のマグロにもなるという。他にも魚の天然ものと養殖ものの見分け方など、豆知識も教えてくれる。

他の客もいろいろとお代わりをする。私たちのほうがエサに釣られて入れ食い状態の魚かもしれない。団体利用のみだからわからないが単価はどのくらいするのかな。まあ1000円くらいはかかるだろう。

朝から五島の魚での歓迎を受けた後で、「五島灘」のもう一つの売りである「競り体験」である。ツアーのコースによっては早朝に実際の競りを見学した後で「五島灘」での朝食というのもやっているそうだが、今回のご一行は「体験」のみである。出てきたのは五島産のサザエ2キロ。これを競り落とした人はお買い上げ(発送可)ということで、「本日は平成最後につき、ある『特典』をつけます。まずは1000円から、100円単位で値段をつけてください」と、競りの開始である。

1000円から次々と値段が上がり、一気に2000円台となる。その中でご夫婦で参加の年配のお父さんと、子ども連れの若いお父さんのマッチレースとなる。最後は年配のお父さんに花を持たせる形で、3000円での落札となった。「特典」は何だろうか。おまけにもう一品魚がついてくるとか。

「おめでとうございます」となり、その特典とは・・・「0円で差し上げます」というもの。送料だけはご負担をということだが、サザエ2キロは市価だと相当なものだろう。平成最後の日ということでご夫婦にとっては思わぬプレゼントとなった。「どうぞ皆さんウチに食べに来ていただいて」と景気のいいコメントも出る。

店内ではちょっとした土産もあり、せっかくなので五島の魚の燻製を購入する。今夜の宿でいただくか、大阪まで持ち帰るか。

朝食を終えてこれから福江島内めぐりである。この日は主に島の北部を回ることになる。まずは島の中心部にある石田城跡や、ガイドSさんが「五島の銀座です」というメインストリートを走り抜ける。

五島といえばこのたび世界遺産にも登録されたようにキリスト教、特にカトリック信者が多いイメージがある。ガイドSさんの説明によれば現在の五島ではカトリック信者は人口の約1割だという。1割を多いと見るか案外少ないと見るか。宗教の信者数というのはカウントの仕方も難しく、そもそも何をもって信者とするかということについてさまざまな見方もあるが、日本全体のキリスト教系の信者というのが人口の約1%と言われているから、平均値とすればやはり五島では信者の割合が多いと言える。ただ裏を返せば残りは仏教系信者も多いようで、福江島には教会も多いが寺も多く、集落によってカトリック集約、仏教集落という分け方もあるそうだ。同じ宗教を持った人たち同士が自然に集まって島の中で住み分けをしたということかな。

ここで仏教の話が出たのは、これから訪ねるところが弘法大師ゆかりの地とされているから。弘法大師を含む遣唐使が五島から大陸に渡ったことは前にも触れたことで、今回の旅の一つの軸になっているのだが、これから訪ねる明星院という寺は存在自体初めて知ったところである。まずは福江島の仏教の歴史に触れることに・・・。

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福江島に上陸

2019年05月07日 | 旅行記H・九州

博多埠頭から乗船した五島列島行きの「太古」。途中揺れた区間もあったようだが海が荒れるというところもなく、順調に航行しているようだ(一応、部屋の中には衛生袋や洗面器が備え付けられている)。

その内船が止まるような気配がして、部屋の外では何やら放送している。時間からすると小値賀に到着したようだ。もう一眠りする。

次の到着は5時40分、青方。普段の生活ではすでに起床している時間で、どんな様子かデッキから見ることにする。今回五島列島とはいっても上陸するのは福江島だけのため、他の島はせめて船上から見ようというものである。

雲と霧が混ざったようでどんよりとしている。4月30日は雨は弱まるものの一日中雲が出る予報である。今回参加しているツアーの一番の見どころである「平成最後の夕日」に出会うのは現実には厳しいのかなと思う。まあ、全国的に同じような天候ということではどうしようもない。

そんな中、中通島の青方港に到着する。中通島では東側の奈良尾港が長崎からのジェットフォイルが発着して表玄関のようだが、こちら青方も九州本土の窓口である。港では早朝から出迎えの人がいる。地元の観光協会やレンタカー業者らしいのもいるが、こんな早朝だと営業開始までの時間を持て余すのではないかと思う。

停泊時間がある程度あるのは、貨物の積み降ろしの時間もあるようだ。展望デッキの後方ではコンテナの取り卸しをやっている。やはり離島である。物資の多くは九州本土から運ばれてくるが、この「太古」も貴重な便である。そういえば乗船開始から出航まで2時間という時間があったが、ひょっとすればこうしたコンテナの積み込みにある程度時間をかけていたのではないかと思う。各港で10~20分の停泊時間があったのもそのためだろう。

この辺りは地図で見ても複雑な海岸線が続き、入江が無数にあることがわかる。その一方で、洋上に石油の備蓄基地もある。日本で消費される量の約6日分を備蓄しているそうで、単に五島列島だけのエネルギーを支えている・・というわけでもなさそうだ。 石油(原油)については世界にどのくらい埋蔵されているのだろうか。私が小学生か中学生の頃には、世界の石油は30年後には枯渇するのではないかと言われていたように思う。ただそれから30年を経過しても石油がなくなったという話は聞かないし、当たり前のように消費している。あの「30年」というのは「可採埋蔵量」というそうで、「現在わかっている埋蔵量から採掘可能な量」というものだったそうだ。だから新しい油田が見つかったり、採掘技術が向上して可能な量が増えると年数も増えるそうで、現時点では50~60年まで伸びているという。ならば安心だと思うが、政治情勢にも影響されることだし、特に石油のほとんどを輸入に頼っている日本としてはそれこそ油断はできない。だから備蓄もしておく必要があるし、再生可能エネルギーの技術開発も進める必要がある。

青方港を出航してしばらくは、左手に中通島の緑、右手には外海という景色になる。まずはそれをじっくりと見る。濃い霧がかかっているが、次々に岩が現れては過ぎ去っていく光景が幻想的にも感じる。

やがて両側から陸地が迫る。右手にあるのは若松島と呼び、この一帯を若松瀬戸という。6時45分頃、その両島を結ぶ全長522メートルの若松大橋の下をくぐる。ここは見どころとして船内でも通過予定時刻が掲示されている。少し遅れているようだが問題なさそうだ。五島列島は約140の島々で形成されているが、ここまで狭く、両方の島に人がいるのなら橋を架けようというのもわかる。

若松瀬戸を抜けるとしばらく外海に出る。右手に浮かぶ三角の島はヘボ島という。また左手の遠方に浮かぶのは椛島。さまざまに島が浮かぶ景色は瀬戸内海のそれに似ているが、五島列島という、大陸と日本本土の間にこれだけの島々が形成されているというのも奇跡だと思う。

再び両側が陸地に挟まれた瀬戸の中を進み、奈留に到着する。ここまでの港で下船する人も結構いて、難民船の様相を呈していた船内も落ち着きを取り戻していた。奈留島で下船する人も多いが、一方でここから乗船の人も結構いる。子どもたちの団体もいる。今度はこの子どもたちが桟敷席に収まる。

すぐに下船できるように荷物整理だけしておき、この後もデッキで過ごす。そろそろ前方に福江島の姿が見えてきた。到着する福江港だが、さすが五島最大の町ということで結構建物が多く見える。またその港から五島の各島に出航する船ともすれ違う。

定刻の8時15分、福江港に到着する。まずターミナルへの連絡通路を歩き、ここでようやく、博多から乗ってきた「太古」の全体像を目にすることになる。ようやく着いたのだなと思う。

添乗員Kさんの案内でターミナルから出て、待機している五島バスの観光バスに乗車する。今回、4月30日の一日と、5月1日の昼過ぎまで、このバスで移動することになる。オプションで「バスの前列保証」(1000円)というのを申し込んでいた。別に乗り降りが面倒くさいわけではなく、単純に前方の景色を見たかったからである。そのおかげか最前列が割り当てられていた。 この後で、普通の路線バス、高速バスと違い、「団体バスツアーにおける前列ならでは」ということを一日半味わうことになるのだが、この時は知る由もなかった(まあ、普段とは違う旅の方法なので。ただ終わってみれば面白い体験だったと思う)。

ここからは添乗員のKさんに加えて、現地バスガイドのSさんが担当する。福江島のエース級とも言うべきバスガイドで大ベテランのようだ。福江の高校を出てから大阪でバスガイドとして就職したからしゃべりは関西仕込み。自称「福江島の上沼恵美子」だが、年齢は「18歳」という・・・。今後どのようなガイド、トークになるかは想像に難くないだろう。

また、添乗員Kさん手書きによる4月30日の行程表が渡される。最終目的地は平成最後の夕日を見る大瀬崎灯台なのだが、その前にあちこち立ち寄るてんこ盛りのプランだ。「皆様芸能人並みの、分刻みのスケジュールで動いていただきます」とのことだが、仮に夕日を見ることができなくても、この日と翌日の一日半で福江島の主な見どころは満喫できそうだ。

・・・さて、時刻は8時半を回っているが、ご一行は朝食がまだである。その朝食というのもコースの一つに入っているそうで、バスに乗ってすぐのところの朝食会場に向かう・・・。

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那の津(博多埠頭)から「太古」出航

2019年05月06日 | 旅行記H・九州

太宰府市から天神に戻ったのが17時前、雨がまだ降る中でどこに行こうかと思う。いずれにしても飲むわけだが、何をアテにするか。さすがは大都市、スマホで検索するといやというほど店が出てくる。屋台にはあまり食指が動かす、大衆酒場か郷土料理か。郷土料理には五島列島の魚介類を売りにした店がある。明日(4月30日)、明後日(5月1日)にはツアーのほうで食事がつくがどのようなものかわからないので、これから渡る先にいただいてしまうのもありかと思う。まあ、それはいくらなんでも失礼かな。

結局、博多名物ということでもつ鍋を選択。以前にも訪ねた「楽天地」の天神本店に向かう。中華料理店の2階、建物は実に年期が入っているが、それだけ長年流行っている証とも言える。

3階の座敷に通される。掘りごたつではない文字通りの畳敷きの座敷だが、靴を脱ぎ、脚を伸ばせるのがよい。まずは生ビールをいただき、雨に濡れた心身をリセットする。

もつ鍋一本で勝負するこの店、追加のもつが最初からつく「もつざんまいコース」を選択する。最初に付きだし代わりの酢もつをいただきながら鍋が来るのを待つ。

鍋が来た。まずは強火で野菜が柔らかくなるまで煮込む。1人前だからさほど感じないがこの店はニラをふんだんに使うため、2人、3人で注文するとニラがてんこ盛りになる。それで大丈夫なのかと心配になるが、煮立ってくると野菜がしんなりして鍋の中でうまく溶け込むのが不思議である。

こちらは追加用のもつ。大腸、小腸、センマイ、赤センマイ、ハチノス、ハツの6種類とのこと。「もつざんまいコース」では最初から1.5人前入っていて、追加がもう1人前である。

そろそろ煮立ってきたのでいただく。醤油味のあっさりしたスープがベースのため、もつもしつこさを感じず味わえる。結構入っていたニラやキャベツもスルスルと口に入る。頃合いを見計らって追加用のもつも入れてしまう。飲むほうもビールからサワーにスイッチ。こちらのほうが合う感じだ。

締めはちゃんぽん麺。「楽天地」の大将が開業直後、何か締めに入れるものはないかと1階の中華料理店に行き、見つけたちゃんぽん麺をこっそり入れてみたのが始まりという。確かに米よりも合っている。ちゃんぽん麺はお代わり自由だが、1人前でもボリュームがあり十分満腹になる。

入店した時は開店直後だったので待つこともなかったが、出る時には2階の階段から下まで行列ができていた。

これで夕食を終え、時間はまだ19時前だがバスで博多埠頭に向かう。博多埠頭のフェリーターミナルの向かい側、ポートタワーの隣にある「みなと温泉波葉の湯」に向かう。博多駅にて添乗員Kさんから「博多埠頭に日帰り温泉がある」と案内があったのはここだろう。入浴料は800円で、タオル、バスタオルの貸し出しが200円。入湯税が50円。今回、フェリーでの連泊プランで入浴等どうしようかと思っていたのでありがたい。昼間雨に濡れたからなおのことだ。ここなら、休憩室で寝過ごさない限り遅刻することはないだろう。

地下800メートルから湧き出る天然温泉のぬる湯からあつ湯まで楽しんだ後は、休憩室でゆったりする。この時間を利用して旅行記のブログ投稿記事の下書きを進める。

21時を回り、道路向かい側のフェリーターミナルに向かう。乗船口に長い列ができているのは、これから五島列島に向かう「太古」に乗る客の列だ。

出航は23時45分だが、乗船は2時間前の21時45分から始まる。それに合わせて添乗員Kさんから集合の号令がかかる。博多駅のひかり広場集合でタクシー利用ではなく直接博多埠頭に来た人もいるようだが、無事に全員が揃ったようである。皆さんどのように1日を過ごしたのかな。

船内の見取り図と乗船券が渡される。今回乗るのはグリーン寝台。当初は一般船室(雑魚寝)利用プランだったが、満席が予想されるからと追加料金でグリーン寝台利用の案内を受けていた。どうやら全員それに応じたようで、それぞれ部屋番号を確認して乗船するよう言われる。

船内は他にツインルームなどもあるが、グリーン寝台は全部で54席、もちろん満員御礼だが、そのうち32席をクラブツーリズムご一行で占めた形である。オンシーズン、個人ではなかなか予約困難なのではないかと、逆に申し訳ないなと思う。クラブツーリズムから請求された追加料金は2100円だったが、これは個人で購入した場合の自由席とグリーン寝台の差額と同じである。

乗船券を受け取った後は自由に乗船ということだが、さっそく行列に並んで乗船口に向かう。船体そのものは比較的新しい感じだが、さすがに前夜乗った名門大洋フェリーに比べれば小ぶりである。翌朝案内があったところでは、名門大洋フェリーの「フェリーきたきゅうしゅうⅡ」が約15000トンなのに対し、この「フェリー太古」は約1600トン。10分の1のスケールである。それが五島列島までとはいえ瀬戸内とは異なる外海を進むのだから大したものだ。

グリーン寝台はこちら。4人または8人部屋で、割り当てられた寝室はご一行の男一人参加4人で占める。荷物置き場があり、転倒防止用のネットがある。やはり揺れることがあるのだろう。

ベッドの中にはテレビも備えられている。感覚としてはカプセルホテルに近いのかなと思う。枕元でリモコン操作を行うが、福岡と長崎の放送局、そしてBSが登録されていて、現在の航路図も出るようになっている。今は出航前なので福岡の放送局が普通に映る。時期的にちょうど平成最後ということで、平成を振り返る番組もある。

出航まで時間があるので他の皆さんもリラックスモードで、着替えをしたり荷物整理をしている。そんな中船内を回ってみたが、ともかくこの日は満員で、必要以上の場所を占有しないよう呼び掛けられている。当然ながら桟敷席は足の踏み場もないくらいで、普段はラウンジとして使われるスペースも、ソファーを全部取り払って桟敷席にしていたし、外部デッキへの通路の片方も閉鎖して桟敷席になっていた(写真は翌朝撮影のもの)。また、横になるのをあきらめて、自動販売機前のカウンター席に陣取る客もいる。ここだとちょうどコンセントもあり、スマホをいじっていれば何とかなるから、最初からここを狙っていたのかな。言葉は悪いが難民船の一歩手前で何とか秩序を保っている感じだ。

あまりウロウロもしてられないし、外の景色を見るのは明日の朝になってからのことだ。23時45分に博多埠頭を出航した後は、福江島に直行するのではなく、宇久3時55分、小値賀4時40分、青方5時40分、奈留7時25分、終着福江に8時15分着と、五島列島の主だった港に順次寄港する。だから大勢の客の中で途中で下船する人もいるだろう。

部屋の外はガヤガヤしているが、グリーン寝台で同室となった男性同士で話が盛り上がるわけでもなく(若い人どうしなら意気投合するのだろうが、何せおっさん同士なので)、酒盛りをするわけでもなく、2、3言葉を交わすくらいで後は各々のペースで過ごすから静かなものだ。そのうちにベッドのブラインドを下ろしてカプセルホテル状態にしてお休みの姿勢となる。

23時45分の出向を前に、中国の弦楽器の旋律が流れてくる。フェリーの名前も「太古」だけに、かつての遣唐使をイメージしたものであろう。今回大陸へ渡るわけではないが、難波津(大阪南港)から航路を取り、大宰府政庁(跡)に赴き、那の津(博多埠頭)から五島に航路を取る。ようやくこの旅の本筋に入って来た・・・。

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大宰府「令和」ゆかりのスポットを巡る

2019年05月05日 | 旅行記H・九州

4月29日、この日は昭和の日である。何でもSNSでは、「平成最後の昭和の日に、JR大正駅で明治のRー1を飲む」というのが話題になったそうだ。Rが令和のイニシャルでもあり、「Rー1」と令和元年をかけているのだが、中にはさらに踏み込んで「そのR-1を飲んだ『慶応』大の学生」というのがいることだろう。もっとも、慶応の前の元治、文久、万延、安政となると投稿は無理だろう(万延なら、ノーベル文学賞も受けた大江健三郎の『万延元年のフットボール』があり、慶応大の学生がその本を片手にRー1を飲むこともありだが)。

・・で、何の話だったか。

福江島へのツアーの途中で博多駅から10時間の自由時間があり、それを利用して太宰府市まで来た。前の記事で、太宰府天満宮参詣と九州国立博物館見学について書いたが、その後で大宰府政庁跡まで歩くことにした。太宰府駅横を通る県道沿いの歩道を歩けばよい。

大宰府政庁跡の手前(東)にあるのが観世音寺。立ち寄りというのはここである。

観世音寺は九州を代表する古寺の一つ。大宰府という当時の副首都にくっつく形で存在するが、元々は、中大兄皇子が母の斉明天皇が百済救援の出兵途中で亡くなったのを弔うために建てられたとある。ただ建立が完了したのはそれから約80年後、奈良時代のことだという。往年は大掛かりな伽藍配置の構造で、唐から渡った鑑真により戒壇院が設けられた。鑑真は日本において、戒律を授けて正式な僧侶とするための仕組みをつくったが、平城京(東大寺)だけではなく、地方の僧侶に対して平城京まで来なくても戒律を授けることができるよう、西国では筑紫の観世音寺、東国では下野の薬師寺に戒壇院を造った。

しかしこうした「官営」の寺院は、平安時代以降に衰えるところが多かった。観世音寺も火災や台風の被害に遭っても復興させる者がなかなかいなかった。大宰府政庁そのものが律令政治の後に姿を消したのと通じるところがあるだろう。江戸時代に福岡の黒田氏や博多の商人たちの手で復興され、現在残っている本堂にあたる講堂や、その前に建つ金堂はその時の建物である。

観世音寺が大宰府で大きな伽藍を持っていた当時、唐から戻った弘法大師空海が滞在したことがある。遣唐使の留学生は規則により唐の国に20年はいなければならなかったところ、弘法大師は密教の正統を伝授されたとして2年ほどで帰国船に便乗して帰国した。これは規則違反ということで朝廷からの沙汰が出るまで都には戻るべからずとして、この観世音寺に2年ほど滞在したという。司馬遼太郎は『空海の風景』の中で、この観世音寺には都の情報が入りやすかったことを前提として、都に留め置かれて悶々としていたのではなく、自分の意志で滞在して経典や教義の整理をしつつ、密教の正統を持ち帰ったという自分の評判が高まるのを待っていたのではないかとしている。

かつて広大な敷地を持っていたその名残が残る講堂の前で雨の中手を合わせ、そのまま境内を後にする。ただ、知る人ぞ知る宝蔵は案内板があったものの入らなかった。今思えば残念なことをした。平安時代の作とされ、往時の観世音寺の繁栄を今に伝える仏像群が安置されているのだが、それを見ない結果になった。

いったん県道に戻り、しばらく西に進むと戒壇院がある。今は臨済宗の寺院として独立しているが、元々は観世音寺の伽藍の一角で、鑑真が開いたとされる西国の戒壇院というのはここである。

先ほどの天満宮の賑わいとは対照的に、大宰府政庁につながる歴史的スポットは他に訪ねる人の姿を見なかった。

そして、大宰府政庁跡である。奈良時代、平安時代において九州を治めるとともに大陸に対する外交・防衛の拠点として重要視されたところである。現在当時の様子を示すものは礎石の一部くらいだが、当時のスケールを少しでも今に伝えようと早くから史跡として整備されたところだ。ちょうど南から入る形でそのまま進むと「都府楼跡」の石碑が立つのが見える。都府楼は大宰府の別名で、現在もJRや西鉄の駅名にも使われている。

大雨で風もあるのでここは突き抜けるにとどめ、その先に進む。なおこの翌々日である5月1日には、政庁跡にて「令和」の人文字を作るイベントがテレビで中継されていた。

そこにあるのが坂本八幡宮。これまでは普通の氏神さんということで参詣するのもおそらく地元の人くらいのものだっただろうが、正にこの1ヶ月で全国的に有名になったところと言えるだろう。奈良時代には大伴旅人が大宰帥だった時の邸宅があったとされ、邸宅に役人たちを招いて「梅花の宴」を開いたとある。その歌会の序文の「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫背珮後之香」から「令和」がつけられたということで、大勢の人が訪ねるスポットとなった。雨にも関わらず拝殿には行列ができている。

地元の人たちがテントを設け、パンフレットを配っている。これも急遽作成したものだろう。これによると現在の坂本八幡宮は、平安時代に寺院があったが廃れたところに村の鎮守として戦国時代に勧請されたと推測されている。

「令和の歌碑ってあるんですか?」とテントの人に尋ねる観光客がいる。上記の序文ではないが大伴旅人の歌碑はある。「わが岡に さ男鹿来鳴く 初萩の 花嬬問ひに 来鳴くさ男鹿」という歌で、赴任後まもなく妻を亡くした旅人の妻を思う気持ちを歌にしたものという。ここ以外にも旅人の歌碑というのはあり、いずれ上記の序文も歌碑になるのではないかと思う。この令和ブームはしばらく続くのかな。

パンフレットをもらった時、「よかったら写真撮りませんか?」と声をかけられる。そこには額縁に入った「令和」の文字がある。つまり、新元号を発表した時の菅官房長官みたいに・・・というわけだ。そうするなら両手で額縁を掲げなければならない。大雨だが「パッと撮れば大丈夫でしょう」と言われ、スマホで何枚か撮ってもらう。後で画像を見て目線がうつむき加減なのは雨を我慢していたから。これはこのブログに載せるほどのこともないので、自分のお宝にしておく。

ここで折り返し、大宰府展示館に向かう。天皇陛下退位、新天皇陛下即位を祝う記帳所も設けられており、私も記帳させていただく。

こちらの展示館は以前からあり、大宰府の歴史を紹介するスポットなのだが、新元号「令和」に関する特別展示が展示室の中央を占めている。万葉集の一節もいろいろ展示されているし、その「梅花の宴」を再現した博多人形も飾られている。正面に座っているのが大伴旅人で、他の役人たちとともに梅花の下で官人が舞うのを楽しんでいる様子である。日本の元号で国書が出展元になるのは令和が初めてだが、こうしてビジュアル化されるというのもイメージが残り、親しみを感じられるように思う。

それにしても太宰府市では「令和」ブームである。かつての大陸との玄関口でもあり、文化的に先進性を有していたところの歴史を改めて見直すきっかけにもなっていると思う。この熱気がいつまで続くかだが・・・。

そろそろいい時間となり、太宰府駅に戻ることにする。歩いてもいいのだが雨が続いていたのでバスで戻る。

時刻はそろそろ16時。添乗員Kさんの指示とおりに携帯あてに電話する。通話中だったが折り返しの着信があり、五島列島行きのフェリーは予定通り出航するとの案内があった。ここで直接博多埠頭に向かう旨を告げると、21時45分の乗船開始に合わせて集合するよう指示される。

16時10分発の二日市行きに乗る。かつての特急車両を改装した「旅人」という観光車両が使われている。太宰府市の名所や四季の花を描いており、太宰府への旅を演出している。乗車が5分だけというのがもったいない(朝は天神まで乗り入れているようだ)。

二日市で急行に乗り換えて天神に戻る。博多埠頭の集合まで結構時間ができたので、福岡夜の部を楽しむことにする・・・。

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「令和」ムードの太宰府天満宮と、九州国立博物館で相対した大報恩寺のみほとけたち

2019年05月04日 | 旅行記H・九州

雨の太宰府駅に降り立つ。観光客を意識してか、駅名標も行書体で記されている。この駅に降りるのも久しぶりである。

このツアーに申し込んだ時、福江島に渡るフェリーの時間までどのように過ごすか、いくつか候補はあった。福岡市内を細かく回るとか、震災復興に向けた熊本まで弾丸往復するとか、筑豊の旧炭鉱遺産を見るとか(平成筑豊鉄道に乗るのもあり)。その中で、新元号「令和」が発表され、元号ゆかりの地として太宰府市が注目されていることや、今回大阪から福江島までフェリーを乗り継ぐことが「遣唐使の疑似体験」になるのなら、当時の政庁だった大宰府跡を訪ねるのが旅のストーリーになるのではないかと考えた。

太宰府天満宮や九州国立博物館があることから太宰府駅は元々賑わっている印象だが、ここに来て「令和」が拍車をかけているように感じる。「祝 令和」と書かれた幟が改札口から天満宮の参道にかけてずらりと並び、この幟を入れて撮影する光景も見られる。

予想していたが太宰府駅のコインロッカーも満杯で、仕方なく天満宮までバッグを転がしていく。沿道の梅ヶ枝餅など土産物店には大勢の観光客が並ぶ。また、参道のスターバックスがインスタ映えのスポットだったりする。

太宰府天満宮に着く。まずはお参りであるが、3つ続く太鼓橋から渋滞である。ピタリと動かない時間もある。皆傘を差しているので先もよく見えない。前方に何か特別なものでもあるのだろうか。

思い出すのは今から30年近く前のこと。だから平成の初めの頃で、当時高校生の私は乗り鉄趣味の対象を全国に広げようとしていた頃で、生まれて初めて九州を訪ねた。目的地は太宰府天満宮。まず大阪から年末の臨時夜行快速「ふるさとライナー九州」という列車に乗り、博多に到着。その後は鹿児島線や筑豊線(現在の原田線を含む)などに乗り、大晦日の夜は暗い中、佐世保まで行った。佐世保から太宰府天満宮の初詣列車があり、それを寝床代わりにして二日市まで移動。車内で年が改まり、臨時バスで天満宮へ。そしてお参りしたが長蛇の列で、最後は拝殿の手前から投げ銭でお賽銭を入れて大学合格を祈願(当時はまだ受験生ではなかったが)した。そのまま鹿児島線から山陽線を乗り継いで1日かけて大阪に戻ったのだが、初めての九州だっただけに今でも覚えているところがある。

要はその頃を思い出すくらい長蛇の列だったのだが、通路の左側が空いている。何の意味があるのかわからなかったが、どうやらお参り後、再び太鼓橋を渡って戻る人がたまにいるようで通路を空けているようだ。それでも構わずに追い越して行く人もいて、ならばとそちらに向かう。幸い対向する人もおらず、そのまま拝殿の前に出る。天満宮サイドも、参拝は石畳の幅いっぱいいっぱいに広がってお参りするよう呼び掛けているが、頑なにセンターからお参りしようとする人も多いものだ。そのために後方まで行列が伸びていたようだ。

さて、天満宮にお参りした後はせっかくなので境内に隣接する九州国立博物館に向かう。エスカレーター、動く歩道の先にある博物館。建物の脇には大伴旅人の万葉歌碑があるとの案内板がある。大伴旅人・・「令和産みの親」とは言い過ぎかと思うが、新元号発表後の1ヶ月で知名度が上がった歴史上の人物の1人には違いない。

その歌は「ここにありて 筑紫や何処 白雲の たなびく山の 方にあるらし」とある。大宰府政庁に任官された旅人の心境を表し、筑紫の名がズバリ入っているから博物館も歌碑にしたのかな。

九州国立博物館は一度来たことがある。ただその時は時間がなく、開催中の古代仏教の特別展だけ見て、通常展は見なかった。九州という土地の特徴として、アジアとのつながりを前面に出した展示というのを見ようと思う。さすがは国立博物館。大きい荷物は見学の邪魔ということでコインロッカーも充実しているし、ほとんどが空きである。もっとも転がして来たバッグは無理だが、クロークがあるのでそちらに託す。ようやく身軽になった。

通常展が気になるとはいえ、やはり特別展も気になる。で、この日の展示は「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」。大報恩寺といえば一度回った新西国三十三霊場の一つだが、本尊の釈迦如来と十大弟子、さらには六観音像が福岡に出開帳ということだ。何とも面白いものだ。まずはこちらから。

大報恩寺は千本釈迦堂という名前でも知られている。寺の本尊は釈迦如来で、鎌倉時代の歴史的仏師・快慶の弟子である行快の手によるとある。また、釈迦の十大弟子は快慶の最晩年の作品とされている。釈迦如来はともかく、十大弟子はそれぞれの高僧の特長や個性(「◯◯第一」と称される)を豊かに表現している。十体を見ていると、親戚知人に一人くらい似ているのがいるのではないか、この高僧たちがリアルに現世で普段着姿で電車に乗っていても不思議ではないよなと思わせる。

続いて六観音であるが、なんと、博物館での展示にも関わらず撮影OKという。確か大報恩寺をお参りした時は、宝物館に並んで展示されていたが、撮影不可だった。この撮影OKはこの特別展が初めてという。出開帳だからか大サービスである。

その展示方法。順路に沿って展示室に入るとそこは舞台で、六観音は少し離れて安置されている。撮影は舞台の上からのみOK(フラッシュ撮影、三脚・自撮り棒使用は不可)。ただ順路はその観音像が安置されたエリアに続いていて、六観音を間近に、360度から見ることができる。

画像がぶれている、ぼやけているように見えるのはカメラの能力と撮る人間の技量によるのだが、左から聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音、如意輪観音である。観音の中でも広く信仰を集める種類ばかりである。

一通り撮影した後、今度は間近での拝観である。手を出したら触れるくらいの距離で、大報恩寺、外では結構攻めているなと感じさせる。ただありがたいし、「見仏」好きな方にはなおのことたまらないだろう。太宰府の地でこうした拝観ができるとは思わぬご縁だった。

そして通常展示である。こちらでも「令和」の特別コーナーを設けているとのこと。「令和」の出典元である万葉集の「梅花の宴」の序文が載せられた写本を展示したり、同時代や大宰府政庁関連の展示も「令和」関連で紹介するとある。解説資料も置かれているが、それにしても新元号が発表された直後から準備が大忙しだったのではないかと思う。展示もなかなかの数があった。

展示室全体で扱うのは古代から江戸時代までだが、大陸の玄関口として九州が果たしてきた歴史的役割を強調した構成で、同じ国立博物館でも京都や奈良とは一味違う。遣唐使に代表される大陸との往来も出てくるし、元寇関連のものもある。今回時間の関係でさらっと見るに止まったが、また来たいと思うスポットである。

天満宮と国立博物館だけならもう少しここにいてもいいのだが、今回来たのはむしろ大宰府政庁跡のほうが目的である。再び雨の中、駅まで戻ってきた。どうせ満杯だろうとコインロッカーをのぞくと、なんと1台だけカギが刺さっていた。これは天神さん、いやむしろ六観音の思し召しかと勝手に解釈して、バッグを収める。

大宰府政庁跡までは1.5キロほどとある。バスがあるが博多駅や福岡空港まで直通するためか長蛇の列ができている。雨は降り続くが、バッグも預けたことだし、また途中立ち寄りところもあるので、そのまま歩いて行くことに・・・。

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新門司港上陸~博多に移動

2019年05月03日 | 旅行記H・九州

4月29日朝、新門司行き名門大洋フェリーの船内で目覚める。時刻では日の出まであと少しの頃合いだが、空はどんよりとしている。また展望デッキの甲板も濡れている。やはり予報通りの雨か(笑)遠くに見える陸地は山口県の上関の沖合いの島のようだ。

テレビでは天気予報が流れていたが、これから向かう九州全土、ものの見事に傘マークである。この日は夜の博多埠頭発五島列島行きフェリーまでフリータイムだが、どこに行っても雨は避けられないようだ。

昨夜は夕食後に乗船したのでレストランには入らなかったが、せっかくなので朝食は利用してみよう。なお、往復とも船内での食事はツアー料金に含まれていない。6時40分からという案内だったが早く準備ができたようで6時半にはレストランに入ることができた。

バイキング形式で750円。品数も結構あり、皿にはあれこれ乗っかる。海を眺めながらの食事というのも贅沢な気分になれる。他の客も次々来て、料理の周りはあっという間に行列ができる。

またしばらく外を眺めながらぼんやりする。展望デッキに上がると、前方に客船の姿が見える。よく見ると阪九フェリーである。時刻からすれば、昨夜20時に神戸を出航して8時30分に新門司に着く便のようだ。

そろそろ新門司が近づく。阪九フェリーのほうが先に到着したようだが、こちら名門大洋フェリーは同じ港でも少し離れたバースに着岸するようだ。横腹を岸壁に着けるように動いていく。位置を微調整する舵さばきに「上手いもんやなあ」と感心する声が挙がる。

8時30分、定刻に到着する。徒歩客はフェリー接続の無料バスで門司駅、小倉駅に向かう。この日はツアーご一行用に1台用意されていて、大阪から同行の添乗員が旗を持ってそのバスに誘導する。添乗員とバス運転手との会話でも、このツアーが参加者31名、添乗員1名の計32名で組まれていることがわかる。もっともこれだけではバスに空席があり、同じ小倉駅に向かうからと一般客も乗せる。最初添乗員は「クラブツーリズム専用です」と突っぱねていたが、運転手が「乗れるからええじゃろ」と他の客も受け入れる形になった。最後には折り畳み自転車の持ち込み客もあった。外が雨で急遽バス移動となったのかな。

バスは門司駅を経由して、40分ほどで小倉駅北口(新幹線側)に到着。添乗員の引率で駅に入り、そのまま在来線の改札口から乗り換え階段に着く。ここでいったん集合となった。昨夜は受付順にフェリーに乗り込み、船内では自由行動だったから、31名のご一行全体が顔を合わせるのは初めてである。ご夫婦、子ども連れ、カップル、3世代、親戚一同など複数人参加が中心だが、1人参加もちらほら見える。後に、1人参加は男性女性とも4人ずついることがわかったが、いずれもこの手のツアーには慣れた感じの方ばかりのようにうかがえた。

改めて添乗員のKさんから挨拶があるとともに、この先の移動は団体行動が基本となる旨が伝えられる。次に乗る小倉10時05分発の特急「ソニック14号」博多行きは団体乗車券利用で、ツアー参加者には割り当ての座席番号が書かれた紙が渡される。時間が来れば列車に乗るよう指示された後は、到着まで20分あまり改札内で待機となる。

その間、ホームに発着する列車の写真を撮ったり、ホームのスタンドで名物の「かしわうどん」をいただいたりする。やってることはいつもの鉄道旅行と変わらない。

やがて「ソニック14号」が中津方面から入線し、3号車に固まって乗車する。小倉で進行方向が変わるのだが、皆さんそれを知らずそのまま走り出す。誰かが声を挙げたのをきっかけに順次座席の向きをひっくり返す。

割り当てられたのが通路側ということで、車窓を遠くに見る。途中、黒崎と折尾に停車する。そう言えば折尾の駅舎も数年前に建て替えられたなあ。ホームも新しいものになっている。

10時50分、博多に到着。ふと、「これやったら今朝早くの新幹線で出るのと時間的に変わらないのでは」というのが頭によぎったが、それを口にしてはいけないだろう。今回、大阪から出航して福岡に上陸し、博多からまた船に乗って福江島を目指すのは、かつての遣唐使のルートをたどるかのような面白さもあるのだから。

ひとまず一斉に改札を出て、人でごった返すコンコースを移動する。博多駅ってこんなに客がいたっけか。まあ、10連休の影響も大きいか。博多どんたくの時はさらに混雑するのだろう。そのまま筑紫口側の「ひかり広場」まで進む。ここでいったん解散となるが、その前に添乗員Kさんから何点か注意事項の説明がある。

「今夜(29日夜)は博多埠頭から福江島行きのフェリーに乗りますが、博多駅からタクシー8台に分乗して移動するので、21時にひかり広場に集合してください。博多駅、ひかり広場、21時です。時間厳守です」(ここ、もっとも大事なこととして何回も何回も繰り返し、しまいには参加者も唱和することに)

「今夜は海が荒れることも予想されます。昨夜の大阪からのフェリーと違って揺れると思うので、心配な人は酔い止め薬を買っておいてください」(これも遣唐使の疑似体験か)

「最悪フェリーが欠航する恐れもあります。大丈夫とは思いますが、船会社の運航判断を16時に行うので、16時~16時半の間に、お渡しした案内に記載した私の携帯に確認電話をお願いします」(これはうっかり忘れてしまいそうだ)

「万が一欠航になったら・・陸路長崎まで移動して長崎で1泊します。そして翌朝のジェットフォイルで福江に向かいます。決して旅程を中止して五島に渡らないということにはしません。私が何とかしますので」(まあ、長年運航実績がある路線だから、台風やよほどの爆弾低気圧でも来ない限りは大丈夫だろう。それにしても、急遽長崎に移動と言ってもKさん含めて32人の宿なんて取れるのかな)

「もし直接博多埠頭に向かうという方はそれでも構わないので、16時の連絡の時に申し出てください。時間はその時に伝えます」(ある客から質問があった)

「フェリーにはシャワーブースしかなく数も少ないので、事前にどこかで入浴をおすすめします。博多駅近くや、博多埠頭近くにも日帰り浴場ありますよ」(中洲には特殊浴場がありますなあ・・って違うか)

・・・いろいろ説明があるのも団体旅行ならではで、しつこいくらい言わないと、いやしつこく言っても遅刻したり勝手な行動を取る人がいるのだろう。私も注意しなければ。

11時20分頃に解散となる。まず大バッグを預けようとコインロッカーを探すが、いずれもふさがっている。添乗員Kさんから先ほど案内があった駅ビル内の臨時の手荷物預り所にも向かうが、こちらには何百人と長い列ができている。預けるだけで何時間かかるやら。集合までの間、私は博多から南、太宰府市に向かうつもりである。太宰府へは地下鉄で天神まで移動して西鉄電車に乗るが、天神駅のコインロッカーも軒並みふさがっている。これでは太宰府までバッグを転がしていくしかない。ただそうすることで、帰りは博多駅に戻らず直後博多埠頭に向かうという選択肢ができる。

11時48分発の急行太宰府行きに乗る。西鉄電車に乗る機会もなかなかないので車窓を見ながら進むが、雨は一向に弱まる気配がない・・・。

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名門大洋フェリーに乗船

2019年05月02日 | 旅行記H・九州

平成最後の夕日、令和最初の日の出を福江島で観賞するツアー、いよいよ4月28日に出発である。また結構長い紀行文になることだろう。

28日の日中はCS放送にてバファローズ対ライオンズ戦の中継を観戦。今季初登板初先発のKー鈴木が7回まで粘りの無失点に抑えるも、救援陣が3つの押し出しと栗山のタイムリーで4失点と自滅。「ありがとう平成シリーズ」も負け越しとなった。

さてそんな試合の後で早めの夕食と入浴を済ませて自宅を出発。18時40分頃に大阪南港のフェリーターミナルに現れる。

今回はクラブツーリズム主催のツアー参加である。同社のツアー参加は初めてだが、改めてホームページを見ると、貸切バスだけでなく列車利用のコースもいろいろあり、また面白そうなのがあって日程が合えば参加してもいいかなと思う。

話がそれた。ターミナルビル2階待合室の一角にテーブルが出ていて、添乗員が受付中である。集合時刻が19時15分とあり、この時間に参加者が一斉に乗船するのかなと思っていたが、団体用の乗船券を渡され、指定の客室の案内がある。受付を済ませた人から順次乗船できると言われ、そのまま船内へ。これならもう少し早めに来てもよかったかな。

今回乗船するのはフェリーきたきゅうしゅうⅡのツーリスト(2等洋室)。一室にベッドがずらりと並ぶ相部屋だが、カーテンで仕切られているだけでなく、上段と下段が2台ずつ向き合う形で、昔の寝台列車のB個室寝台の「デュエット」を思い出させる。2名で乗船すればプライベート空間ができそうだ。一室の入口にツアー名の貼り紙が出ていて、要はここが御一行様である。1区画にベッドの数が32あり、ツアー参加者もそのくらいなのだろう。もっとも、船内では自由行動だし(一応ツアーのバッジはもらっているが、船内で着けるかと訊かれれば・・)、こうした半個室ではなかなか他の人の表情はうかがえない。どんなメンバーなのかは翌朝、新門司港で下船してからわかるだろう。

出航は19時50分だが、早くから乗船している人も多く船内は賑わっている。ちょうど夕食をどうしようかと時間帯だが、レストランには長蛇の列ができている。またパブリックスペースもあるが、ここも早々と埋まっている。レストランではなく弁当やカップ麺での夕食を取る場所を求めてさ迷う人の姿もある。 私はといえば、夕食は済ませていたが、早い時間からベッドに収まるつもりもなく、せっかくの船内なので広いところで一杯ということで、出航前にたまたま空いていた丸テーブルに陣取った。4人がけということもあり、弁当やカップ麺を手にした客と相席する。

出航の放送があり、少し外を見ようとデッキに出る。4月末だが夜の風は結構冷たく感じる。まずは南港の景色だ。6月にはG20首脳会議が行われる。

さすがに風が冷たいのでそこそこに船内に戻る。船内も少し落ち着いた様子で、テレビ前のソファーやベンチにも空きが出ている。やはり出航直後にいろいろ動きがあるのだろう。レストランの行列も落ち着いていた。

売店で「檸檬堂」なるものをいただく。九州限定のレモンサワーだそうで、初めて目にする。販売が日本コカ・コーラボトリングというのも意外だ。飲んでみると結構レモン果汁が濃く、ゴクゴク行ってしまいそうだ。なお製品のサイトには阿部寛さん出演のCM動画もある。この先、コンビニ等で入手することがあるだろうか。

そんな中、「お客様の中に医者の方がいらっしゃいましたら、インフォメーションカウンターまでお越しください」との放送が入る。急病人でも出たのだろうか。

21時前、「本船は明石海峡を通過いたします」との放送が入り、多くの客が一斉にデッキに向かう。ライトアップされた明石海峡大橋が前方に見え、カメラやスマホが向けられる。コンパクトデジカメのためどうしても夜景がブレて写るのだが、ライトアップの色も次々に変わっていく。この便の一番の見所だろう。この後、瀬戸大橋、来島海峡大橋を通過するが、時刻は完全に深夜であるため、橋見物は明石海峡大橋となる。 翌朝もゆったりしているが早めに寝るとしよう。

その前に入浴とする。この時間だと余裕があり、船旅ならではの大浴槽でゆったりする。ちなみに船内にはシャワーブースもあり、簡単に汗を流したり頭を洗うくらいならこちらも使いやすそうだ。

22時20分、寝室消灯の放送が流れる。私もそろそろベッドに戻り、おやすみなさい・・・。

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平成最後は福江島へ

2019年04月26日 | 旅行記H・九州
以前の記事で、「平成最後、令和最初」を記念するということで、平成最後の夕日と、令和最初の日の出を見るためにあるツアーに参加するということを書いた。

おそらく記事が長くなりそうなので、旅に出る前にその経緯を一記事として書いておくことにする。

行き先は、五島列島の福江島。旅行会社の広告で、4月30日、「九州本土最西端」とされる福江島の大瀬崎で平成最後の夕日を見て、翌朝5月1日、鬼岳に上って山上から新元号最初の日の出を見るツアーというのを目にした。この時はまだ令和という元号が発表される前だったが、面白そうな企画だと思った。「本土最西端」という表現には異論がいろいろ出そうだが、ともかく日本で最後に近い夕日を見るほうに重きが置かれているのだろう。

旅といっても鉄道に乗ることや札所めぐり、野球観戦が中心とあって、離島を訪ねることはこれまでほとんどなかった。九州では対馬を訪ねたことがあるが、もう20年ほど前の話である。もちろん、五島列島は初めてとなる。

今回訪ねる福江島へは福岡や長崎から航空機、船便の両方がある。また島内もローカルバスがあるが当然行き先も本数も限られていて、夕日や日の出を見るのならレンタカー移動が現実的だろう。ツアーでは他に島内のさまざまなところに立ち寄るそうで、費用面、時間面を考えても今回は個人で行くよりツアーのお世話になったほうがよさそうだ。

費用を抑えるためだろうか。アクセスも一風変わっている。それも今回行ってみることにしたポイントである。

(1日目 4月28日)夕方、大阪南港から名門大洋フェリーに乗船。

(2日目 4月29日)朝、新門司港に到着後、列車で博多に移動。夜まで自由時間。博多港から野母商船フェリーに乗船。

(3日目 4月30日)朝、福江港に到着後、バスで島内各地を見物。夕方、大瀬崎から夕日見物し、福江市街地のビジネスホテル泊。ここで改元を迎える。

(4日目 5月1日)早朝、鬼岳から日の出見物。島内見物後、福江港からジェットフォイルで長崎港へ。バスで新門司港に移動し、名門大洋フェリーに乗船。

(5日目 5月2日)朝、大阪南港到着後、解散。

大阪から九州本土への往復がいずれもフェリーというのがいい。雑魚寝の桟敷ではなく相部屋の寝台席である。

博多に着いて、わざわざ夜行フェリーまで時間をつぶさせるための自由行動もよい。福岡を訪ねるのも久しぶりで、夜は当然飲むとしてそれまでどうしようか・・といろいろ考えていた。ヤフオクドームで野球があれば観戦もありかと思ったがこの日は試合なし。博多からもっと先まで往復しようかと思ったこともある。

すると、新元号発表を受けて太宰府市が注目を集めているという。太宰府市も候補の一つではあったが、令和という元になったとされるのならこの機会に行こう。ベタではあるが、改元を記念する旅にもう一本筋が通ったようだ(実は、この旅を終えた後に、九州とは反対側の富山で令和を記念するイベントに行くことに。それも含めて楽しみだ)。

五島列島はさまざまな島をめぐるのがメインの楽しみ方のようで、このたび世界遺産に登録された潜伏キリシタン関連のスポットも各島に分散しているのだが、今回訪ねるは福江島のみ。これは仕方ないが、地図を見ると福江島の主な見所は実質1日半の滞在で概ねカバーするようで、結構お腹いっぱいになりそうだ。ツアーのため食事は皆さん一緒だが、どんなものがいただけるか。さすがに福江の居酒屋で一杯は難しそうだ。

出発を前に旅程の詳細案内が来た。これによると、4日目の長崎から新門司港へのバス移動が、渋滞の恐れがあるために特急利用に変更されていた。お、長崎本線にも乗れるのか。また、博多からのフェリーは雑魚寝の桟敷席利用だが、これも混雑が予想されるためプラス料金で寝台に変更できるとある。自分のスペースが確保できるならと、早速変更を申し込んだ。

これら全ての合計金額は7万円少し。個人で同じように行くことを考えるとどうだろうか。

後は出発を待つだけだが、気になるのは天気。週間予報で改元前後の天気も出たが・・この記事を書いている時点では30日は雨、1日は晴れ時々曇りとある。うーん・・微妙。あと数日で好天に好転するかな・・・。
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関門・元日の夜2

2015年01月27日 | 旅行記H・九州
下関の駅前で夕食とした後、再び門司港レトロに向かうことにする。乗り込んだのは小倉行きの列車。門司で乗り換え、終点の門司港に到着する。下車したのはわずかに数人。元日の夜の駅前もひっそりとしており、もし泊まるとなれば寂しい感じだっただろう。小倉ならホテルもピンキリで開いているようだし、夜もまだ賑やかだろうが、翌日の行程を考えて下関に連泊としたわけだ。

夜の門司港レトロは風もあり寒さを感じるが、朝に比べればまだましである。ライトアップされた各建物を見る。オンシーズンならここから関門海峡に出るナイトクルーズで夜景を楽しむことができるが、何もない。人通りもほとんどなく、その分静かに眺めることができる。

前日は下関の海峡ゆめタワーに上ったが、今日は門司港レトロ展望室に上がる。地上31階建てのマンションの最上階で、以前に一度昼間に上がったことはあるが夜景は初めてである。設計は故・黒川紀章。東京都知事選挙に出た時に1票を入れたのを今でも覚えている。

それはさておくとして展望室へ。関門海峡を挟んだそれぞれの街並みを対角線に観ることになる。遠くに海峡ゆめタワーや海響館の観覧車を見る。日本にさまざまな海峡があるが、海を挟んだ両方の夜景がこれだけ眺められるのは関門が随一だろう。明石海峡や鳴門海峡ではこうはいかない。

ただ、写真映りはどうだろうか。こちらの建物だが、展望室の中も結構明るく、中の照明がガラスに反射してしまうのである。自分の体を壁にしてみるのだが、結構難しい。夜景の展望スポットとしては、下関に軍配が上がるかな。

しばし夜景を楽しみ、下関に戻ることにする。最後は関門連絡船で海峡を近くに感じてみよう。時間通り出るようだが、今朝のような強風に雪が混じる天候では運航していたのだろうか。いやいや、関門海峡の冬ならあれくらいは日常的なレベルか?

私の他に親子二人連れが一組の3人で出航。これに対して乗組員が2人。出航を後部デッキに出て見届けるが、出るとスピードが結構激しく、水しぶきがかかる。船上から写真を撮ろうと思っていたが、とてもではないがそれどころではない。慌てて客室に戻る。

唐戸に到着。こちらも元日の夜は食事のできる店は皆閉まっており、開いているのはコンビニのみ。ちょうどやって来たバスに乗り、下関駅に戻る。

これで今回の旅での関門海峡巡りは終わりである。翌日2日は早朝から1日かけて大阪に戻る。ただ、その道中がまた長いことになるので、拙ブログをご覧の皆さんにはまだもう少しお付き合いいただくことに・・・・。
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