まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第13回九州西国霊場めぐり~糸島「伊都国」を行く

2022年11月09日 | 九州西国霊場

10月29日、九州西国霊場めぐりはいったん糸島半島に入り、実に鮮やかな青空の下、玄界灘を右手に進む。

その中で、沖合いに浮かぶ岩を望むところでレンタカーを停める。ちょうど福岡市から糸島市に入ったところにある桜井二見ヶ浦の夫婦岩である。

その岩の前の海中には白い鳥居が建てられおり、ここは思わず誰でもカメラを向けたくなるスポットに感じられる。

夫婦岩と呼ばれる岩は全国各地にあるようだが、やはり最も知られているのは伊勢の二見浦の夫婦岩であろう。あちらは二つの岩の間から昇る朝日が見事だが、こちらは二つの岩の間に沈む夕日が美しいという。また機会があればそうした時間に来てみたいものである。

伊勢の二見浦には二見興玉神社というのがあり、福岡の二見ヶ浦は桜井神社の社地だという。桜井神社じたいは由緒ある神社なのだが少し陸地に入ったところにある。

その代わり、夫婦岩の正面にはこのような看板が・・。別に悪気はなく、言いたいことはわからないでもないが、ちょっと怪しい雰囲気で、何だか興趣をそぐように見える。

ここで玄界灘と別れて南下する。しばらくは里山の景色だが、そこに急に地形が開け、真新しい建物が並ぶ。九州大学の伊都キャンパスである。従来のキャンパスの狭隘化、老朽化にともない新たに開発され、2005年から10年以上かけてこの地に移転して来た。伸び伸びとした環境で学べそうだが、最寄駅として新たに開業した筑肥線の九大学研都市駅からでもバスで15分ほどかかるそうで、通うのはちょっとしんどそうかな・・。まあ、実際にはクルマで通学する学生が多いのかもしれないが。

この辺りの平野部は、「魏志倭人伝」で「伊都国」として紹介されている一帯である。「魏志倭人伝」では当時の倭人が住んでいた各国について書かれたもので、邪馬台国については現在でも九州か畿内か(あるいはその他の地域かも含めて)すら特定できていないのに対して、伊都国についてはあらゆる発掘調査により、糸島半島の付け根の平野部一帯に存在していたことは確かなものとなっている。ちょうど、「魏志倭人伝」の中で場所が特定されている国とあいまいになっている国の境界である。

その中心に近い一角にある糸島市立の「伊都国歴史博物館」に入る。入口には「魏志倭人伝」の写しとともに、伊都国を中心とした地図も掲げられている。福岡に来ると、このような福岡を中心とした地図を見かけることがあるのだが、九州はもちろん、日本列島、朝鮮半島、はては中国大陸も等距離に置かれていて、東アジアの結節点である自負がうかがえる。似たような感覚は富山でも味わうことができ、こちらは「環日本海」としてロシアの沿海州、サハリンなども一衣帯水のように思わせる。いずれにしても、東京とは違った視点でアジアを俯瞰することができる。

伊都国をメインとした展示で、この日は企画展として「伊都国王誕生」というのをやっていた。2022年は、今から約2000年前の伊都国王の墓である「三雲南小路王墓」が初めて発見されて200年という。その王墓から出土した鏡、勾玉、ガラス玉、鉄製品などが紹介されている。

出土品の中には貨幣も含まれている。もちろん、現在のように通貨として使用されていたわけではなく、アクセサリー、祭祀用としての意味合いが強かったそうだ。

また出土品から、伊都国は朝鮮半島や本州(中国地方、畿内)ともつながりがあり、土器の製造方法を含めて技術の交流もあったのではないかと推測されている。

そして上のフロアでは、伊都国の平原遺跡に関する展示である。発見された墳丘墓の内部を再現し、副葬品として出土した数々の銅鏡やガラス玉などが展示されている。これら数十点が一括して国宝に指定されている。あっさりと「ケースの中はすべて国宝です」と紹介されているのが長い歴史へのプライドを感じさせる。

4階の展望スペースからは、現在の伊都国の景気を望むことができる。そのはるか遠方に見えるのが九州大学の伊都キャンパスで、さしずめ現在の伊都国のシンボルといっていいだろう。

さて、ここまで来たところでとっくに昼を回っており、この日も昼食抜きでの札所めぐりとなりそうだ。これから南の雷山にある千如寺に向かう。ようやく、九州西国霊場の札所である・・・。

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第13回九州西国霊場めぐり~元寇防塁から糸島半島を目指す

2022年11月08日 | 九州西国霊場

九州北部を回る九州西国霊場は、第28番・常安寺を回って佐賀県を終了し、残りは筑前エリアにある5ヶ所となった。ようやく終わりが見えてきたところである。1泊2日をフルに使えば一気に回ることもできそうだが、そこは同じエリアの他の観光とも組み合わせたいところである。もう2回(ひょっとしたら3回)に分割して訪ねることになるだろう。

札所番号順で行けば、福岡市の西隣の糸島市から始まり、いったん福岡市の南部を経過して今度は東の宗像市に行く。そして博多駅近くの祇園を経由して、最後は太宰府天満宮近くの観世音寺で満願となる。今回はそのうち福岡西部の2ヶ所(千如寺、正覚寺)、そして宗像の鎮国寺を目的地とする。

今回出かけたのは10月29日~30日。この日はちょうど日本シリーズの第6戦、第7戦の予定日である。ある人から「九州に行く日程が取れるなら神宮球場に行けばよいではないか」とも言われたが、さすがに東京は遠い・・・。

それぞれの札所へのアクセスだが、千如寺へはコミュニティバスも出ているがダイヤ的に参詣には使えず、正覚寺もバス停からかなり歩くようだ。また、千如寺の北にある糸島半島じたいも訪ねたことがなく、せっかくの機会なので玄界灘の景色も見てみたい。

ということで初日(29日)はレンタカー利用として、福岡の西側を回り一泊。宿泊地をどこにするかいろいろ迷った末、博多から宗像よりに進んだ和白にあるホテルAZを予約した。そして2日目(30日)は鉄道と路線バスを使って鎮国寺と、すぐ近くの宗像大社に参詣。その後の時間次第でいくつかのスポットに立ち寄り、博多から新幹線で広島に戻ることにする。

この間に日本シリーズは27日に第5戦まで終わって2勝2敗1分のタイ。最短でも30日の第7戦まで行われることが決まったが、第7戦で決まるかもしれないし、第8戦以降にもつれるかもしれない。こちらも気になりながらの九州行きとなった・・。

さて10月29日、広島6時47分発の「こだま781号」で出発。「バリ得こだま」を使って小倉、博多まで行く際の定番列車である。この日も晴天に恵まれ、順調に九州入りする。

九州西国霊場めぐりは前回唐津から筑肥線~福岡地下鉄で博多まで移動しており、今回はその沿線の営業所でレンタカーを利用することにした。地下鉄のホームに下りる階段にあるのは麻生グループの看板。2022年は麻生グループ150周年とある。炭鉱の採掘から始まり、事業を多角的に広げて現在に至る(政治業というのもその一つかな・・・というのはさておき)。ともかく、福岡に来たと実感する。

そのまま地下鉄に乗り、市街中心部を抜け、筑肥線との境界駅で地上に出てきた姪浜で下車。駅前には波とウサギを描いたオブジェが建つ。「ウサギの恩返し」という、地元に伝わる話をデザインしたとある。

姪浜の地名は、神功皇后が三韓征伐の帰りにこの地に立ち寄り、装束である「あこめ」(下着のことらしい)を洗って干したことから「あこめの浜」と呼ばれ、それが後に転じて「めいの浜」となったという。大正時代には炭鉱も開かれたところで、現在の筑肥線も元々は石炭運搬のために敷かれたそうだ。戦後、炭鉱が閉山して以降は福岡のベッドタウンとして開発が進められており、現在も人口が増加している地区である。

向かったのは、駅の南側にあるニッポンレンタカー。1日利用でキャンペーン価格4400円、そしてエリア内乗り捨て無料である。この日はぐるりと回り、最後は西鉄の香椎宮前駅にある営業所まで向かうプランである。このところ、特に九州ではレンタカーの世話になることが増えているが、時間が限られる中、また公共交通機関での参詣が不便なところが続いているので致し方ない。タクシーに乗ることを思えば・・。この日乗るのは三菱のミラージュ。

まずは博多湾から玄界灘にかけての景色を見ようと思う。この一帯は元寇の時、日本の防衛の最前線となったところで、弘安の役を前にして主に九州の御家人を動員して石塁が築かれた。その長さは20キロあまりということで、元、高麗の船も容易には近づけなかったという。現在もその一部が「元寇防塁」として保存、復元されているというので行ってみることにした。

姪浜から西に3キロほどのところに、生の松原というところがある。その名の通り松原が広がり、海水浴場もあるのだが、ここにも元寇防塁がある。元寇の様子を描いたものとして「蒙古襲来絵詞」というのがあるが、それを描かせた竹崎季長が馬に乗って石塁の前を進む場面がある(画像は、福岡市博物館でのデジタル展示のもの)。その背後の石塁は生の松原とされ、現在復元されている。

・・ただ、県道から細い道を入って松原の前まで来たのはいいが、クルマを停めるところがない。しばらく周囲を回り、いったんルートを外れたりもしたが結局駐車場が見当たらず、断念してそのまま進む。出だしで時間を取られたようだ。

しばらく筑肥線と並走し、今宿駅から右手に分かれて今津湾沿いを行く。

次に向かったのは今津地区で、こちらにも元寇防塁が残されているという。ただ、標識は出ているものの、途中から道が細くなり、最後は海の手前の松原にはばまれてクルマを進めることができない。またバックして戻る。ちょっと怒られるかもしれないが、今津小学校の横にJAの広い駐車場がある。やむを得ずその一角に停めさせてもらい、200メートルほど歩いて松原の中に入る。

「史跡元寇防塁」の石碑が建つ。ちょうどこの今津あたりが元寇防塁の西の端だという。石碑の近くの道に沿って柵で囲われた一角があり、石が頭をのぞかせている。これが防塁の姿である。元寇の弘安の役があったのは今から750年ほど前のことで、その後の年月の中で砂に埋もれたものだという。

少し行くと、発掘後に復元整備された一角がある。ちょうど石塁を上から見下ろす感じだが、高さは3メートルほど。ちょうど建物1階分といったところだが、これがあるのとないのとでは上陸にも大きな影響があるだろう。防御を固めたうえで、弘安の役では逆に日本側が元の船を襲撃することもあり、

 

松原を抜けて浜辺に出る。750年の間にこれだけ陸地が広がったというべきか。

今津湾に吹き込む風を受ける。右手の毘沙門山の向こうには能古島、正面奥が志賀島である。ちょうど博多湾の入口に当たるところで、こうした海辺の景色が見られるとは思わなかった。

さらに先に進む。ちょうど海沿いには海釣り公園をはじめ、レストランやバーベキュー場もあり、いずれも賑わっている。糸島半島というところは福岡から手軽に訪ねることができるレジャー地として人気のようだ。

その中、歩道をジョギングする人がちらほら目立つ。そうした楽しみ方もあるのかなと追い越すうち、「11月13日 福岡マラソン開催のため車両通行止」の看板があちこちに出てきた。それに出場する人たちなのだろう。あれ、福岡国際マラソンって確か昨年限りで終わったのではなかったかなと思う。・・後でわかったが、今コース上を走っている「福岡マラソン」とは「福岡国際マラソン」とは全く別物で、福岡市と糸島市を結ぶ市民参加型のマラソンだという。海べりを走るのも気持ちよさそうで、レース当日が好天になるといいな(福岡国際マラソンについても、運営主体を変えるなどして2022年も引き続き開催とのこと)。

半島の東海岸を抜け、博多湾から玄界灘に出る。そろそろ糸島市に入るところで、途中気になっていたポイントに立ち寄ることにする・・・。

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第12回九州西国霊場めぐり~七ツ釜と唐津城 そして次回は・・

2022年10月11日 | 九州西国霊場

長かった第12回九州西国霊場めぐりの記事も今回が最終回である。

9月25日、九州西国霊場の札所をお参りし、昼食もいただいたことで、後は呼子から唐津市街に戻るだけである。最後に唐津城を訪ねることにして、その前にもう1ヶ所くらい立ち寄ることができそうだ。

そこで向かったのが七ツ釜という景勝地。ここは初めての場所で、国道から脇道に入って岬の先端を目指す。それなりの数のクルマも停まっていて、観光客の姿も多い。先ほどの呼子から遊覧船も出ており、海から眺めるのがおすすめとのことだが、レンタカーを停める場所が近くになさそうだったので、陸側から訪ねることにした。

一帯が遊歩道になっていて案内板も出ているが、経年で文字が読めなくなっているものもある。標識を頼りに回ってみる。

途中に鳥居があり、「土器崎神社」の額がかかる。この道で大丈夫かいなと岬方面に向けて下っていくと小さな社殿に出た。など「土器崎」とは「かわらけさき」と読むそうで、その昔、神功皇后が朝鮮出兵した際、海神に戦勝を祈願して、お供えとして酒を入れた土器を海に投げ入れたという伝説がある。

その神社の先は長年の浸食で独特の形状をした岩場に出る。神功皇后の伝説はともかくとして、豊臣秀吉も少し先の名護屋から出兵したし、古くから半島に向けての玄関口の役目があったのだろうと思う。そもそも「唐津」という地名も大陸とのつながりを連想させる。

その玄界灘に面して「鯨鯢(げいげい)合戦記念碑」というのがある。呼子は現在はイカ漁が盛んなところだが、江戸時代には捕鯨が行われていた。かつてこの辺りにクジラの見張り台があり、クジラを発見したら松明で合図を送り、対岸の小川島や加部島などから大勢の男たちが舟で出動したという。捕鯨の様子は絵巻物にも残されているそうだ。

次に見たのは象の鼻。見る方向、角度にもよるのだろうが、そう言われればそう見えなくもないなあ。

景勝の名前である七ツ釜だが、七つの海食洞があることからその名がついた。スマホで、展望所から見た七つの洞窟の画像を見たのだが、現地に来てその洞窟はどこかいなと案内板に沿って回ったものの、残念ながらわからなかった。後で気づいたところ、私はその洞窟の上の真上に立っていたようで、展望所は対岸から見る必要があった。先ほどから海べりと遊歩道を行ったり来たりしていたが、もう1本遊歩道を入って行けば見ることができたようだ・・。

まあ、玄界灘の眺めを楽しめたことでよしとしよう。

国道202号線に戻り、唐津市街を目指す。途中から海べりの倉庫や工場群を抜ける県道に入り、そのまま進んで唐津城の駐車場に到着する。唐津城には以前にも一度来たと思うのだが、来たとしてもかなり昔のことではっきり覚えてない。いや、こうした個性的な立地の城なので覚えていないことはないはずなのだが・・。

本来なら200段以上の石段を上って天守閣に向かうところ、エレベーターの案内がある。当然昔にはこのようなものはなかったはずで、バリアフリーの観点から造られたものである。敷地をぐるりと回って乗り場に向かう。片道100円で、一度に10人あまり乗ることができる。斜めに進むのが面白い。そして本丸、天守閣の下に到着する。

唐津城が築かれたのは江戸時代初期、名護屋城の建造にも関わった寺沢広高による。広高は関ヶ原の戦いで東軍につき、その功績によりそれまでの唐津に加えて新たに天草の領地をもらった。唐津城は松浦川の河口にある満島山に築かれたが、満島山と陸地とを切り離し、松浦川の流れがそこから唐津湾に注ぐよう改造した。築城といい、こうした土木技術に長けていた人物のようだ。

天守閣がそびえる様は天然の要塞のように思えるが、実は天守閣は元々存在しなかったそうである。ここに模擬天守閣ができたのは戦後になってからのことで、観光客を呼び込むのを目的として、江戸時代初期ならこういう様式で造られたのではないかという全くのイメージで築かれたそうだ。

その寺沢氏だが、広高の子の堅高の時に島原の乱が発生したことの責任を取らされ、天草の領地は没収、堅高も詰め腹を切らされた。また、堅高に子がなかったため、結局は寺沢氏もお家断絶という大変なことになった。その後はいくつかの大名が入れ替わり城主を務め、小笠原氏の時に明治維新を迎える。

天守内は唐津城の各大名家や唐津焼についての紹介が中心だが(撮影禁止のため画像なし)、なんといっても最上階からの眺望がすばらしい。なるほど、実際にはなかった天守閣だが展望台の役割を十分果たしている。目の前の唐津湾、虹ノ松原などの景色を楽しみ、心地よい風を受ける。

これで唐津見物も終了としてレンタカーを返却し、唐津15時33分発の筑肥線筑前前原行きに乗車する。まずは松浦川の河口から、海に面してそびえる唐津城を見る。こうして眺めると、模擬とはいえ天守閣があったほうが絵になるように思う。

途中、虹ノ松原の横を過ぎ、玄界灘を眺める区間に差し掛かる。後はこのまま筑前前原まで行き、福岡地下鉄乗り入れの福岡空港行きに乗り継ぐ。なお、九州西国霊場の次の札所は第29番・千如寺で、いよいよ福岡県の筑前の国に入る。なお現在の予定では、大相撲九州場所見物、糸島半島めぐりとの組み合わせを考えている。また、レンタカーのお世話になるだろうが・・。

さて、列車は地下鉄の区間に入り、唐人町からはマリーンズのユニフォーム姿の人が何人か乗って来た。そういえばこの日(9月25日)は福岡でホークス対マリーンズ戦があり、パ・リーグの優勝争いも大詰めを迎えようとしていた時。この試合はエース千賀の好投、打線の爆発もあり10対0でホークスが圧勝。優勝へのマジックを5とした。地下鉄で過ぎたのはちょうど試合終了直後のタイミングだったようで、大半のホークスファンは試合後のセレモニーで勝利の余韻に浸っていたところだった。この時も優勝争いがどうなるかわからず、まさかその1週間後、ああいう形でバファローズが連覇することになったとは・・・。

博多に到着し、新幹線に乗り換える。さすがシルバーウィーク最終日ということで大勢の人出が。その中で17時02分発の「こだま862号」に乗車する。ここで飲み鉄モードを発動し、少し早い夜のアテにはやはり鳥栖の焼麦である・・・。

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第12回九州西国霊場めぐり~名護屋城と呼子のイカ

2022年10月08日 | 九州西国霊場

九州西国霊場めぐりも目的地の2ヶ所を回り終え、ここからはオプションである。唐津まで来たということで、その先の名護屋城跡に行ってみることにした。久しぶりの訪問となる。

名護屋城は豊臣秀吉が朝鮮出兵の際拠点として築いた城で、当時としては大坂城に次ぐ規模を有していた。全国から諸大名が参戦のために陣屋が設けられ、一時日本の中心は名護屋にあったと言える。

その城跡の一角に名護屋城博物館がある。この日は桃山文化に関する企画展も行われていたが、時間的に省略して、無料の常設展示エリアのみ見学する。

地理的に朝鮮半島に近いエリアということで古くから交流、交易の歴史があり、博物館の展示テーマもそれに沿っている。仏教伝来もその一つである。

中世には松浦党の一人である名護屋氏がこの地に拠点を置いていたが、秀吉の天下統一、そして朝鮮出兵にあたり、半島への最短距離の地であるとして拠点に選ばれた。諸大名に普請を命じてわずか半年で築かれたという。展示されている当時の屏風絵や、それを元に造られた模型を見てもその規模がうかがえる。

模型と言えば、10分の1サイズで復元された安宅船、亀甲船という日本、朝鮮それぞれの軍船。朝鮮の亀甲船は、矢や日本兵の侵入を防ぐために上部を固い板で覆い、その隙間にびっしりと剣先を突き出した構造である。この亀甲船がどのくらい活躍したかはさておき、日本では文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮出兵は朝鮮側の強烈な反撃に遭い、結局秀吉の死をきっかけに兵を退くことになった。

この朝鮮出兵により朝鮮から多くの陶工たちが日本に連れて来られたが、そのおかげで日本で発展したのが唐津焼、有田焼といった磁器類である。また江戸時代には朝鮮通信使の来日があり、さらに明治時代から戦前には韓国併合と、彼の国とはさまざまな紆余曲折があるのだが・・。

名護屋城跡から出土された瓦などもある。名護屋城は朝鮮出兵の中止により役目を終えたとして廃城となり、建物は寺沢広高により唐津城に移築されたものもある。また、島原の乱で浪人たちが原城跡に立て籠もった事例も踏まえ、石垣も多くが破却されたという。確かに、ここは海上を見渡せる要塞として適した地のように見える。

さて、フロアには「黄金の茶室」が再現されたコーナーがある。秀吉が自らの権威や財力を誇示することで見る者を圧倒させる装置として、京や大坂城で使われていたが、朝鮮出兵時は茶室を名護屋城まで運び、茶会を催したり朝鮮や明の使節の応接に用いたという。間取りでいえば3畳に床の間がある広さ。うーん、確かにまばゆく、豪華に感じるのだが、晩年のこうした秀吉の手法というのはあまり好きになれないなあ。

博物館を後にして、城跡に向かう。まずは大手口から東出丸、三ノ丸と進む。

おして本丸に出る。東郷平八郎の揮毫による「名護屋城址」の石碑がシンボルのように建つ。

この本丸、そして天守台跡からは周囲を一望できる。その先の波戸岬の手前まで諸大名の陣屋があった。最大で20万人とも30万人とも言われる兵が集結したという。その向こうには玄界灘に浮かぶ島々で、遠くには壱岐の島影も見える。九州西国霊場もとうとう玄界灘までやって来た。

ここまで来ればもう少し城跡や陣屋跡を見るとか、先端の波戸岬に行くことも考えられるが、名護屋城跡で折り返しとして呼子に向かう。港周辺はクルマや観光客の姿も多く、何かイベントでもあるのかよさこいソーランの衣装姿のグループもある。呼子名物の、イカを高速回転で乾燥させる「いかぐるぐる」も目に付く。

港を抜け、少し高台に上がったところにある「漁火」に到着。呼子でイカを確実に食べるためにあらかじめ活け造りコースを予約していた。その時間が近くなったので名護屋城跡で折り返したわけだ。ちょうどランチタイムということで次々に客が訪れ、私が食べ終えた時には受付表に名前を書いて待つ客が何組もいた。

活け造りが来るまでの間、小鉢やネット予約サービスのサザエ壺焼きなどで待つ。イカ焼売もある。この時点で一献やりたくなるが、クルマ利用ということで・・。

そしてメインの活け造り。丸ごと1杯で登場する。ゲソをつつくと確かにまだ動いている。それにしても、アジやタイといった他の魚もそうだが、活け造りを前にするとつつきたくなるのはなぜだろう。まだ透明な身を美味しくいただく。

ゲソについては天ぷらにしてくれるということで店の人が下げるが、思ったより早くに天ぷらがやって来た。ひょっとして、ほとんどの客が活け造り~ゲソの天ぷらというコースなので、前の人のゲソが天ぷらになって出てくるということもあるのかな・・。いや、そんなことはしないと思うが、あまりにも手際がよかったので、つい。それでもこの天ぷらも美味く、ビールが欲しくなるところであった。

店の裏手にはこうした穏やかな景色が広がる。午後の時間はまだまだあるので、唐津市街に戻るとしてもう少し立ち寄りとしてみる・・・。

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第12回九州西国霊場めぐり~第28番「常安禅寺」(唐津を行く)

2022年10月07日 | 九州西国霊場

9月25日、伊万里から7時40分発のJR筑肥線に乗車する。筑肥線は福岡地下鉄と乗り入れしている姪浜~唐津間と、伊万里~山本間で分断され、後者は非電化のローカル線としての運転である。その中を「ロマンシング佐賀」とラッピングされた気動車が走る。

伊万里から唐津に向かう場合、国道202号線が通っており、両駅を結ぶ路線バスも出ているのでこちらを通るのが一般的だろう。この後訪ねる九州西国霊場第28番の常安禅寺も国道沿いにあるのでバスに乗って行けば早いのだが、ここはローカル線に乗りたかったのと、バスの往復のダイヤの兼ね合いでまずは筑肥縁で唐津に移動する。

途中乗降がないまま淡々と走り、肥前長野に到着。ふと外を見ると、窓のすぐ横で牛が5頭ほどつながれていて、畜産農家の方が世話をしているところだった。その牛がいるのはかつての側線ホーム跡だそうで、その奥には牛舎がある。列車の窓からこんな近くで牛を見ると思わなかったが、これも佐賀牛になるのかな。その牛とは反対側だったので見逃したが、肥前長野の駅舎は昭和初期の開業当時の木造のもので、地元の人たちの手で保存の取り組みが行われているという。

左側に線路が並ぶ。佐賀に向かう唐津線の線路だ。一見すると複線のようだがあくまで別の路線で、左側の線路に片面のホームがある駅を通過する。本牟田部駅で、あくまで唐津線の駅である。まあ、ここにもう1本ホームを作ったり分岐線を作って筑肥線の列車も停まるようにしたところで利用客が劇的に増えるとは思えないが・・。

両線の分岐となる山本に到着。ここからは唐津湾に注ぐ松浦川に沿って走る。

やがて高架となり、8時33分、唐津に到着。列車はこの先の西唐津まで向かうが、ここで下車する。

唐津といえばユネスコ世界無形文化遺産にも登録されている唐津くんちが有名。その駅前通りには「唐津レオブラックス」というロゴマークやポスターが並ぶ。唐津を拠点とする3人制プロバスケットチームだそうで初めて目にする名前だが、チーム名が唐津くんちの曳山「黒獅子」から取られているという。地域密着が出ている(ちなみに、5人制のBリーグには、現在B2だが佐賀市を拠点とした「佐賀バルーナーズ」というのがある。こちらは佐賀バルーンフェスタが由来だ)。

駅から5分ほど歩き、トヨタレンタリースに到着。ここからレンタカー利用で常安禅寺のほか、唐津市のポイントをいくつか回ることにする。いずれも路線バスで行けるところだが、効率重視の面もある。そういえば九州西国霊場めぐりはこれで12回目だが、そのうち8回でレンタカーまたは自分のクルマを投入している。

今回利用するのはヤリス。まずは国道204号線から国道202号線へと、先ほど乗って来た唐津線~筑肥線の線路とも並走して走る。そのまま20分ほど走り、常安禅寺に到着。常安禅寺というより「垂玉観音」と書かれた看板が目印である。

寺は国道に面しており、山門はなく鐘楼と六地蔵などが並ぶ入口からいきなり境内に入る。特に駐車場があるようではないが、境内の空いているところに適当にクルマを停める。目の前は本堂である。

常安禅寺は、一説には弘法大師が唐から帰国した際に開かれたともされるが、中世にこの地を領地としていた松浦氏の家臣・波多氏の時代に開かれたとされる。その後、波多氏の衰退とともに寺も衰退したが、江戸時代になり、唐津藩主・寺沢広高の時に再興された。

そして本堂だが・・扉が閉まっていて中に入ることはできない。そのまま外でのお勤めとする。

さて納経所は・・と見ると、境内の奥に道が続いていて、その奥はこども園の建物がある。敷地の国道側にも遊具が置かれていたから、平日は子どもたちも境内で遊んでいるのだろう。本堂と渡り廊下でつながる建物があり、そこの玄関のインターフォンを鳴らす。住職らしき方が出てきて、書き置き式の朱印をいただく。

本堂の中に入らず、また他にさまざまなお堂があるわけでもないので札所での拝観時間は短いものだった。バスのダイヤの都合で、ここで2時間待ちということになるとさすがにかなりのロスである。その点、クルマの機動力に頼ることになる。

これでともかく、今回で長崎、佐賀の両県を回り終えて、九州西国霊場めぐりは福岡県に戻る。旧国名でいえば、最後に残ったのは筑前である・・。

さてこれからどうするか。実は昼食は呼子でイカの活け造りをいただこうと、店を予約している。当初は常安禅寺を拝観後、唐津の街中を経由して呼子に向かうつもりだったが、時間に余裕ができた。そこで、昼食後に訪ねようと思っていた名護屋城跡に先に行くことにした・・・。

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第12回九州西国霊場めぐり~伊万里の建設会社ホテルで1泊

2022年10月06日 | 九州西国霊場

9月24日、この旅2泊目の伊万里に到着。今利益はかつて松浦鉄道とJR筑肥線が同じ構内で乗り換えとなっていたが、周辺の再開発で道路建設等もあり、それぞれが終着駅として分断され、現在の造りになっている。一応、道路をまたぐ連絡通路で結ばれているが・・。

駅周辺の歩道にはオブジェとして伊万里焼が並ぶ。先ほど有田にてさまざまな有田焼の作品を見てきたが、隣接する伊万里焼とはどこがどう違うのだろうかと思う。現在は作られた土地の名前が冠せられているが、江戸時代では、有田で焼かれた磁器も伊万里の港から運ばれたことから伊万里焼という名前で普及したという。「古伊万里」という呼び方もあるが、それは江戸時代に伊万里から運ばれた有田焼のことを指すそうだ(他にも見方はいろいろあるそうだが)。

この日の宿泊は、駅から7~8分歩いたところの「ビジネスホテル新天」。伊万里には他にもホテルは数軒あるようだが、プランニングの時点で空いていたのがこちらである。

駅から南に向いて歩くとホテルの建物と看板が見えてきたが、これはホテルというよりワンルームマンションのようだ。

そして敷地に行ってみると、「株式会社伸建設工業」とある。玄関前には創業者とおぼしき人の胸像と社訓が書かれた石碑が建つ。こちらから入ると完全に会社の建物である。「ビジネスホテル新天」のフロント入口は会社玄関の奥にある。ホテルじたい、この伸建設工業が経営しているそうだ。

チェックインの後、部屋に上がる。外玄関の造りで、扉を開けると中はやはりワンルームマンションだった。リビングも広く、クローゼットも1間の幅がある。

他にもバス、トイレ、洗面台がそれぞれ独立しているし、ミニキッチンもある。さすがに洗濯は共同のコインロッカーで行うようだが・・。ひょっとしたら、元々建設会社の寮だったのをホテルにリニューアルしたとか、あるいは一部の部屋には実際に社員が住み込んでいるとかいうことがあるのかな。

この日は伊万里の町で一献とはせず、駅から来る途中にあったマックスバリュにてさまざまな食材、酒を買い込んで部屋でゆっくりする。大相撲中継を見た後、バスルームが独立しているのでバスタブに湯を張ってドブンと浸かる。

大手のスーパーだと刺身がお買い得なことがあり、この時は2パックより取りで500円というのがあった。そこで選択したのが長崎沖のカツオ、そしてサバの刺身。しめサバではなく刺身というのが産地に近いところならではである。

焼き物はレンコ鯛の塩焼き。小ぶりだが身が詰まっていて食べ応えがあった。

佐賀の酒の冷酒、その名も「古伊萬里」も含めて、あれこれ飲み食いした。すぐに横になることができるのも部屋飲みならではだ。なお、先ほど有田駅で購入した「有田焼カレー」の出番はなく、マックスバリュで購入した寿司に軍配。

さて翌朝、1階のレストランは6時から開いており早めの朝食とする。レストランというよりは寮の賄いといった雰囲気である。

最終日(9月25日)は唐津の北波多地区にある第28番の常安禅寺を訪ねる。伊万里と唐津の間には路線バスが出ており、常安禅寺もバス停の近くにある。そのため、伊万里からバスで向かい、途中下車して次の便に乗れば唐津にもスムーズに移動できるが、同じ唐津に行くのなら久しぶりにJR筑肥線にも乗ってみたい。

ただ、筑肥線で唐津に行った後に常安禅寺までバスに乗るとすると、ダイヤが合わない。日中の時間帯、唐津から向かうのに手頃だなと思った便が土日祝運休だったり、行きは良くても折り返しの便が土日祝運休だったりで、現地で2時間ほど滞在を余儀なくされる。寺の周囲を見ても他にこれというスポットもない。ということで、唐津まで筑肥線で行った後はレンタカーを利用することに。常安禅寺だけだとすぐに終わってしまうが、せっかくなので唐津近辺のスポットを他に回ることにする。

松浦鉄道と道路を挟んで反対側のJR伊万里駅に着く。伊万里焼に交じってある銅像が立っている。森永製菓の創業者で伊万里出身の森永太一郎である。手にしているのはミルクキャラメルの箱。

松浦鉄道の伊万里駅は有田、佐世保の両方向に向かうターミナルの役割があるが、これから乗る筑肥線は行き止まり式のホーム1本だけである。乗車するのは7時40分発の唐津行きで、この便の次は11時05分までない。筑肥線の唐津~伊万里間じたい1日8往復しかない。

2両編成の黄色いキハ125が2両でやって来る。平日なら通学利用もそこそこあるのだろう。その車両には「ロマンシング佐賀」というロゴとキャラクターがデザインされている。これは、ロールプレイングゲームソフトの「ロマンシングサガ」のもので、佐賀県の観光名所もあしらったコラボ企画だという。

伊万里から乗ったのは私を含めて3人だけ。ボックスシートを独り占めして進む・・・。

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第12回九州西国霊場めぐり~有田焼の歴史と気鋭に触れる

2022年10月05日 | 九州西国霊場

九州西国霊場めぐりは九州北部を豊前~豊後~肥後~筑後~肥前~筑前というルートで回るのだが、その肥前編も終盤である。佐世保から佐世保線の特急に乗り、松浦鉄道の接続駅である有田で下車。

ホーム横にはJR貨物のオフレールステーションがある。JR貨物といっても有田には貨物列車は走っておらず、代替のトラック便が佐賀の鍋島との間を結んでいる。

有田といえば有田焼で有名だが、それに関する主な観光スポットは1駅先の上有田駅周辺や、クルマで行く距離のところに点在している。もっとも、私の旅で陶磁器が登場することはほとんどなく、今回も有田で途中下車して・・というのは想定していなかった。ここまで予定より早い時間帯で動いており、この日(9月24日)は宿泊地の伊万里に夕方に着けば十分なので、たまたま有田で時間が空いた形である。

そんな中、駅からほど近くに佐賀県立九州陶磁文化館というのがあるというので行ってみる。駅から徒歩10分くらいのところ。途中、橋の欄干に有田焼の作品が置かれているのも見る。

ちょうど企画展「未来へつなぐ陶芸 伝統工芸のチカラ」というのが行われており、順路的に先にそちらからの見学となる。日本の伝統陶芸を牽引して来た日本工芸会陶芸部会の活動が2022年に50周年を迎えるのを記念して、これまでの活動を振り返りつつ、これからの伝統陶芸の歩みを考える機会という。

展覧会では陶芸において人間国宝に認定された方の作品や、新進気鋭の作家の作品までが並ぶ。皿や鉢、花瓶や花器などさまざまである。

有田といえば、酒井田柿右衛門という江戸時代から続く陶芸の名家が連想される。現在の柿右衛門は15代だが、先代の作品もこの展覧会にて紹介されている(たぶん、この画像の作品もそうだと思うのだが・・)。

結局、誰が人間国宝で誰が新進帰依の作家かの区別はともかく、鑑賞して直感的にいいなと思った作品をいくつか掲載する(作品はいずれも撮影可だった)。ただ、こう並べてみると私の鑑賞眼というか、何をもって良しとしているのかが自分でもよくわからないのだが・・。

この後、常設展示にて有田焼の歴史について見学する。豊臣秀吉による朝鮮出兵にともない、朝鮮半島から多くの陶芸家が日本に渡って来た。そこでもたらされた技術と、有田近辺には磁器の制作に適した石が存在したことにより陶芸が広まった。佐賀藩も産業として保護したことでさらに技術が発展し、柿右衛門様式や鍋島様式といった名品が生まれるようになった。将軍家や大名家への献上、贈答だけでなく、オランダ商人の手によって海外にも輸出されるようになった。

そうして中国やヨーロッパに輸出され、その後日本に里帰りした作品の数々が並ぶ。蒲原庫レクションというもので、有田町出身の蒲原権という人が戦後に収集し、町に寄贈したものである。派手な色彩の作品も多く、まばゆいばかりである。

ただ、何も有田焼は輸出ばかりされたわけではなく、江戸をはじめとした国内にも広まり、当時の人々の生活を豊かに、鮮やかに彩る役目も果たしている。これは現在にも受け継がれている。

また地下のコーナーには、柴田夫妻コレクションというのがある。こちらは食品会社や貿易会社を経営していた柴田明彦・祐子夫妻により江戸時代を中心とした有田焼の収集が行われ、やはり当館に寄贈されたものである。有田の磁器を網羅的、体系的に収集しており、学術的にも貴重なものだという。見る人が見れば、有田焼のどの時代に分類されるもので、年代ごとに現れる特徴や違いというのがわかるものだろう。

私はあまりの数の多さに圧倒されてさらりと流す程度でしかなかったが、興味のある方なら1日いても足りないのではないかというくらいの両コレクションだった。本来なら、有田焼の窯元などをめぐるのが旅の楽しみなのだろうが、この文化館で歴史体系的に見学するのも理解が深まることだろう。

駅に戻る。構内にある土産物コーナーを見て、「そういえばここだったな」と気づいたものがある。それが「有田焼カレー」。有田テラスというところが製造している駅弁で、佐賀県米や28種類のスパイスを使用した焼カレーだが、有田焼の器を使っているのもポイントである。冷凍を通販で購入することもできるが、やはり現地に来ると常温というのか、カレーなのでレンジで温める必要はあるがこうして売られている。これはぜひ購入しよう。本来ならその日のうちに食べる必要があったが、機会を逃して翌日夜、帰宅後にいただいた。カレーは辛さ控えめだが普通に美味しくいただき、器はさまざまな用途に使えそうだ(裏底に「有田テラス」の銘も入っている)。

さて、ここからは松浦鉄道に乗る。券売機で伊万里までの乗車券を購入したが、車内ではICカード(nimocaに加盟している)で精算できる。車内でICカード利用可能というのは、運賃の取りっぱぐれを防ぐ意味でも有効だろう。

松浦鉄道は佐賀、長崎両県にまたがる第三セクター線だが、元は国鉄~JRの松浦線である。その松浦線も有田~伊万里、伊万里~佐世保は別の私鉄がルーツで、有田~伊万里間は有田焼を港のある伊万里まで輸送することを目的として建設された路線だという。

今は地元の人たちの足としてのんびりと走り、終点の伊万里に到着。松浦鉄道の佐世保方面とは運転継投が全く分かれており、またかつて接続していたJR筑肥線とは道路整備のために完全に分離された。伊万里といえば伊万里焼もあるように同じく陶磁器の町で、行程上とはいえまさかこの町に泊まることになるとは思わなかった・・・。

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第12回九州西国霊場めぐり~SASEBO軍港クルーズ

2022年10月04日 | 九州西国霊場

9月の九州西国霊場めぐりは佐世保まで進み、第27番・清岩寺(福石観音)に参詣した後、駅構内の観光案内所で「SASEBO軍港クルーズ」というのを見つけた。土日祝日に1日1便運航され、案内所の人によれば連日人気で予約が必須という。今回、たまたま1席だけキャンセルが出たところに私が案内所を訪ね、乗船することができた。1時間のコースで乗船料は2000円。これも観音様のご利益といえる。

チケットを買って乗船口に向かうと、11時30分の出航まではまだまだ時間があるが、すでに10人あまりが並んでいた。おすすめは客室内より階上席、早い者勝ちということでそれ狙いだろう。

黄色く塗られたクルーズ船が入港する。階上席は船尾側だけでなく、操船席の前方、船首側にもベンチが設けられ、そちらがおすすめのようだ。

船に入るとライフジャケットが配布され、上半身がビチビチになって私も前方に陣取る。先ほど船を待つ行列の中でも大きなカメラを手にした人の姿も目立っており、そうした筋の人たちには人気の遊覧ルートのようである。その後も次々に客が乗り込み、満員御礼となった。

出航前に船員姿のガイドが挨拶に来る。「吉田拓郎から3本線を取った吉川拓郎と覚えてください」という自己紹介から始まる(漢字の「田」から横3本取ると「川」になるという意味)。佐世保はアメリカ海軍の第7艦隊と日本の海上自衛隊が同居する基地で、このクルーズは両方の艦隊の船舶が見られることで人気だというが、このガイドも人気の要因の一つなのだという。なお、クルーズ船から眺める分にはアメリカ海軍、自衛隊いずれの艦船や関連施設も撮影は可能ということで、「『映える』『バズる』写真をじゃんじゃん撮ってください」という。

出航してしばらくすると世保海軍施設の建物が見える。旧日本海軍では佐世保鎮守府が置かれていたところで、太平洋戦争後にアメリカに接取された。敷地には星条旗、日の丸に加えて国連旗が掲げられている。国連軍という名のもとにアメリカ軍が各地に出動した歴史を物語っている。そして今も東アジアをめぐってはさまざまな動き、牽制があり・・。

その奥に停泊しているのは、アメリカ海軍の強襲揚陸艦「アメリカ」という。強襲揚陸艦とは耳慣れない名前だが(その筋の人でなくても一般常識なのだろうが)、空母とは異なり上陸作戦用の兵員や戦車、それらを輸送する小型船やヘリコプターなどを搭載するという。国の名前を冠した艦船が日本に配備されるのは、ガイドの吉川さんに言わせれば実に光栄なこと、日本を重視していることの表れだという。その奥にはドック型揚陸艦の「アシュランド」が停泊している。

その隣には、護衛艦「ひゅうが」をはじめとした海上自衛隊の艦船が並ぶ。こういう日米の競演が見られるのは横須賀とここ佐世保だけだそうで、それがこの軍港クルーズならではの光景として人気を集めている。先ほどから階上席からずっとカメラが向けられている。ガイドの吉川さんも一つ一つ「あれは何型で・・」と流暢に説明していくが、普段聞き慣れない身としてはいっぺんに覚えきれない。

佐世保重工業(略称・SSK)のドックが広がる。かつての佐世保海軍工廠だったところで、多くの造船や船舶の整備に携わってきたが、事業を取り巻く環境の変化により、新たな造船事業は休止されている。それは佐世保の産業として痛手ではないかと思う。

佐世保港の対岸に、一見貨物船、タンカーのような造りの船舶が停まっている。アメリカ海軍の海上遠征基地と称される「ミゲルキース」という。ヘリコプターの格納や、さまざまな物資の補給など、海上においてなくてはならない存在だそうで、東シナ海での軍事演習や、佐世保への入港というのはニュースにもなったそうだ。この船が見られるのも、その筋の人たちにとっては貴重な機会としてSNSでも紹介されているようだ。

少しクルーズ船の速度が上がり、佐世保湾の入口に向かう。その途中に米軍の石油備蓄基地を見る。クルーズ船からだと普通の陸地に見えるが、その奥深くには膨大な地下タンクが広がっているという。佐世保はアメリカ海軍にとって重要な補給基地、兵站の地とされており、多くの艦船が佐世保に立ち寄って十分に英気を養い、東シナ海、インド洋方面へと向かっている。

佐世保湾の入口を遠くに見る。佐世保と外海をつなぐのはこの入口だけで、この立地条件が佐世保を軍港にした要因といえる。佐世保は明治初期まで人口数千人の半農半漁の町でしかなかったが、その地形に着目して海軍鎮守府が設置されると人口が急増した。クルーズ船乗り場にもあったように、今から120年前の1902年には一足飛びで市制が導入され、九州でも有数の都市として発展した。

軍港として発展しただけに太平洋戦争では空襲の標的となり、町はほとんど焦土となって終戦を迎える。戦後は商業の港として、また九十九島を中心とした観光の港として復興しようとしていたが、そこで勃発したのが朝鮮戦争である。佐世保は朝鮮半島に向かう(アメリカ軍を中心とした)国連軍の前進基地となり、そのことで大いに復興した。そして現在もアメリカ軍、海上自衛隊が同居する軍港として機能している。

その後の佐世保は、原子力空母「エンタープライズ」の寄港をめぐって反対運動が起こったのをはじめとして、現在も原子力潜水艦などの寄港があるたびに反対運動が起こる。ガイドの吉川さんはそのことに理解を示しつつも、やはり平和は自らの手で「護らなければならない」というスタンスでのガイドを行う。かつて自衛隊にもいらっしゃったのかな。「平和を祈る長崎、平和を護る佐世保」というフレーズもあった。「さまざまなお考えはあるでしょうが・・」といつつも、国を護る、平和を護るために頑張っている人がいることについては語り口も熱くなる。

・・・そういえば、この記事を掲載した10月4日、北朝鮮からのミサイルが日本上空を通過しましたな・・・。

先ほどから、湾の中央にずっと停まっている艦船の存在が気になっていた。クルーズ船はそちらに近づく。

停泊していたのは護衛艦「すずつき」。アフリカのソマリア沖の海賊対処の任務のために派遣される護衛艦で、9月24日時点では佐世保出港後、一時停泊中という。

このクルーズ船が来るのを知ってか、隊員の人たちが甲板に出て手を振ってくれる。中には体がなまらないようトレーニング中の人もいて、お互いに手を振り合う。ガイドからも無事任務を果たすようエールが贈られる。そういえば、昨今は自衛隊の海外派遣が全国ニュースになることもほとんどなく、日庁的な光景になったのかなと思うが、偶然とはいえこうして出発を控えた隊員たちを目の当たりにすると、本当に無事に帰ってきてほしいと思う。何せ世界情勢は混沌としており・・。

再び港を目指して走る。アメリカ海軍、海上自衛隊の艦船が行き来することもあり、佐世保湾内の船舶の航行というのは制限があるのだという。そのためか、佐世保市民の人たちというのは案外海からの景色を日常的に見ることが少ないそうだ。

港に戻り、練習船が停まるエリアに向かう。「かしま」、「しまかぜ」という、どこぞの特急を思わせる名前である。現在近海練習航海中ということで、呉を出港し、佐世保、函館と1ヶ月あまりかけて回って呉に戻るそうである。これからの日本の海の平和を護る若者たちがここから巣立つわけだ。こうした艦船にも結構近づくことができる。

こうして1時間の軍港クルーズは結構見どころがあったものだった。艦船が好きな方ならより一層楽しめるのではないかと思う。

時刻はお昼どき。佐世保ということで思いつくのが佐世保バーガーとなるが、フェリー乗り場に面した店には長い列ができている。今から注文しても出来上がりには30分以上かかるという。後で駅近辺の複数の店にも行ったが同様だった。そこまで待って食べたいかと聞かれればそういうわけでもないので、別にいいかと思う。

とりあえず駅に戻り、昼食は構内のコンビニで買ったもので次の列車にて軽く済ませることにする。画像は、待合室で見かけた、先ほど通った大村線の海岸べりの景色のパネルである。この旧国鉄色がよく映えている。

さて、次の札所がある唐津は翌25日に向かうことにして、この日の宿泊は伊万里で予約していた。佐世保から伊万里に向かう鉄道ルートは2つあって。まずは佐世保線で有田へ出て、松浦鉄道で伊万里に向かうルート。もう一つは、そのまま松浦鉄道に乗って最西端のたびら平戸口などを経由して伊万里に向かうルート。どちらも捨てがたいが、松浦鉄道については現在並行して進めている九州八十八ヶ所百八霊場めぐりにて、いずれ沿線の札所をめぐることになるので、その時まで楽しみにしておく。

この日乗車したのは佐世保13時44分発の「みどり24号」。「白いかもめ」885系が、西九州新幹線の開業を受けて「白いみどり」として登場である。早岐で進行方向が変わるので、あえて逆向きにシートがセットされている。自由席は早岐までなら特急料金不要で利用できるためか、地元の人らしき利用も目立つ。

佐賀県に入り、14時10分、有田に到着。有田で下車するのは初めてである。有田といえば言わずと知れた有田焼の町。有田焼に対する鑑賞眼があるわけではないが、せっかく来たのだから有田焼に関する何かを見に行くことにしよう・・・。

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第12回九州西国霊場めぐり~第27番「清岩寺」(佐世保の福石観音と五百羅漢窟)

2022年10月03日 | 九州西国霊場

話は、9月の九州西国霊場めぐりの続き。

九州西国霊場めぐりは長崎県北部の佐世保へ。駅から港がすぐ近く風光明媚なところである。過去に一度宿泊したこともある。遠くには「SASEBO 120th」の文字も見える。2022年は佐世保の市制施行120周年である。1889年に佐世保に海軍鎮守府が開かれたのを機に人口が増え、1902年に市となった。

これから目指す清岩寺は佐世保駅から徒歩15分ほどということで、駅前の国道35号線を歩く。そこに見えたのは「福石観音」の文字。福石観音前というバス停もある。この記事では清岩寺という名前をタイトルにしているが、地元の人には福石観音の名前で通っているようだ。山門があり、ここを進んだ突き当りに境内が広がる。

さまざまな祠や石像が出迎える中。右手の階段を上がったところに本堂がある。

清岩寺、福石観音の由来は奈良時代にさかのぼる。行基が諸国を回る中で、福石山を訪ねて庵を結んだ。この時に仏木を発見して十一面観音を彫り、福石山に祀ったのが福石観音の始まりとされる。九州にある「行基七観音」の一つである。後に、弘法大師が行基の足跡をたどる中でこの地を訪ね、清岩寺を開き、山の裏手にある洞窟に五百羅漢を祀ったという。現在の形になったのは江戸時代、平戸藩の時という。

本堂の中に入れるということで外陣にてお勤めとする。

本堂の周囲は岩窟となっていて、そのところどころにも石像が祀られている。こうしたところは古くから信仰の場、修行の場としての歴史が長いように見える。

大師堂にお参りした後で、朱印をいただく。本堂の受付に書置きのケースがあったが中が空だったので、インターフォンを押して寺の方に来ていただく。かえって恐縮である。

さて、先ほど触れた五百羅漢を見に行くことにする。境内の案内に沿って進むと羅漢像らしきエリアがあるが、ここだけではないようだ。目指すのはさらにその先で、福石山の北側に回り込む。

そして現れたのは、どうすればこういう形の洞窟ができたのかなと思わせる景色である。現在の市街地からは想像できないが、その昔はこの辺りまで海岸線が来ていたとか?

この羅漢窟は「平戸八景」の一つという。江戸時代、平戸藩の領地内にある奇岩奇勝の8ヶ所を選んで、世間にPRしたのが始まりである。

時代が下り、太平洋戦争での空襲で焼け出された人たちがこの地に避難して、戦後もそのまま仮住まいを続ける中で、五百羅漢像の多くが廃棄されたり、あるいは破壊されたりした。そのため、首が落ちたままの像も結構あり、ちょっとびっくりする。昔と比べて羅漢像は減っているとはいうものの、一方で新たに寄贈された石像も見られる。佐世保の「とんねる横丁」というのは知っていたが、こうした洞窟があったとは初めてである。

佐世保駅に戻る。時刻はまだ10時30分だが、この日(9月24日)の札所めぐりはこれでおしまい。この後もゆったりしており、決まっているのは宿泊地が唐津の途中の伊万里ということだけである。佐世保での過ごし方も漠然としていて、駅からバスで移動して、九十九島の遊覧船でも乗ろうかというくらいのものである。

そこで、駅からのバス、遊覧船の時刻を調べようと構内の観光案内所に向かう。すると入口前のテーブルに「軍港クルーズ乗船の方は記入をお願いします」と、バインダーに挟まれた受付票がある。そういうクルーズがあるのか、面白そうだなと、受付票に記入して列に並ぶ。

そして私の番になったのだが、この「軍港クルーズ」、どうやら事前のネットや電話での予約が必須だったようだ。それでも係の人が念のために確認すると、キャンセルがあったようで1席だけ空きがあったようだ。すぐにチケットを発行してもらう。係の人の話では連日人気のコースだという。少し後に、私と同じように予約なしで受付票を提出した客が断られていた。こういうことがあると、先ほど訪ねたばかりの福石観音のご利益かなと感謝してしまう。

その「軍港クルーズ」の出航は11時30分。遊覧船は11時すぎには入港するが、おすすめの甲板席は早くに埋まるので今からでも並ぶよう勧められる。再び港に出て、出航する乗り場の列に加わる・・・。

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第12回九州西国霊場めぐり~西九州新幹線と大村線で佐世保へ

2022年10月01日 | 九州西国霊場

9月24日、九州西国霊場めぐりのメインである。今回の目的地は佐世保にある第27番・清岩寺、そして唐津にある第28番・常安禅寺である。札所めぐりのコマは前回長崎まで来ており、ここから北上するコースとなる。今回で長崎、佐賀の両県が一気に終わりとなり、舞台は最終版、福岡県の筑前国エリアに移ることになる。

まずは長崎から佐世保に向かう。長崎から佐世保への鉄道は大村線経由である。同じ長崎県内の移動だが、およそ2時間かかる。途中大村湾の海岸線に沿って走ることもあるが、長崎県も結構広いものである。当時とは車両ががらりと変わっているが、久しぶりの乗車が楽しみである。

その一方、せっかくなのでもう一度西九州新幹線にも乗ってみたいと思った。ただ武雄温泉まで行ってしまうと大村湾の景色は見えないので、西九州新幹線で新たに開業した新大村まで乗り、駅前を一瞥した後で大村線に乗り継ぐことにした。

24日は朝から好天である。宿泊した東横イン長崎駅前にて、まずは簡易朝食。ロビーには多くの宿泊客がいて料理を取る列も伸びている。荷物の中に大きなカメラがある客もちらほらいて、新幹線の撮影に来たのかなと想像する。

長崎駅に向かう。九州西国霊場めぐりで長崎市内は前回訪ねたことになっており、今回は一献と宿泊のみで後にする。

乗るのは7時45分発の「かもめ8号」博多行き。新幹線の車両が走るのは武雄温泉までで、博多へは「リレーかもめ8号」に乗り継ぐわけだが、何度も触れるようにあくまで「一つの列車」の扱いである。長崎駅のホームでも、「かもめ博多行き」というのが強調されている。前にも書いたが、在来線区間の沿線事故やトラブル等で「リレーかもめ」が運休となると、新幹線区間も運休してしまうという路線である。

当初は予定していなかった2回目の新幹線乗車だが、朝の時間帯だし、始発駅からということで自由席に乗ってみることにした。乗車口には列ができているが問題なく着席できるくらいの人数である。

自由席は2列-3列の通常のタイプ。シートが黄色というのが独特のセンスである。シートの快適さは指定席が断然上だが、武雄温泉まで30分の乗車と割り切れば、自由席でも十分快適に移動できるのではないか。

時刻となり発車する。ホームを出てすぐ、坂に広がる街並みを見たかと思うとトンネルに入る。このまま、長いトンネルが連続して一気に諫早に向かう。諫早まではわずか9分。

次の新大村へは諫早からわずか5分で到着。加速したかと思うとすぐに減速する感じである。何だか、新型車両の性能を持て余すかのようだ。私は長崎からの合計15分ほどの乗車で下車するが、驚いたことに、先ほど諫早から自由席車両に乗って来たばかりなのに、新大村で下車する人が複数いる。おそらく、その筋の人だろう。

ホームに降り立ち、出発する「かもめ8号」を見送る。

次の大村線は8時11分発の佐世保行き。「かもめ8号」との接続時間は10分ほどだが、この駅に関してはそれだけあれば十分だった。大村線の新大村駅じたいが西九州新幹線に合わせて開業した新駅で、スマホの地図にも23日になって突然表示されたところである。

それでも駅前広場では開業イベントの準備中で、地元の人たちも集まっていた。この新大村だが、開業にともないあることでその筋からは注目された。それは、稚内を起点とするJRの「最長片道きっぷ」の終点駅が肥前山口(現・江北)から新大村に変わったことである。かつて、1978年に宮脇俊三が「最長片道切符の旅」でたどった時と比べればローカル線を中心に大きくキロ数は減っているが、またこうした旅が注目される機会にもなったようだ。

さて、在来線である大村線の新大村だが、新幹線の高架下に寄り添うようにホーム1本だけ設けられた駅である。ホームへの上り口にはICカードの読み取り機はあるものの、利用可能区間は次の竹松までで、その先に行くにはあらかじめきっぷを買うか、整理券を取っての精算が必要である。せめて長崎からハウステンボス、佐世保くらいはICカードが使えたほうがよさそうに思うのだが。

やって来たのはYC1系というハイブリッド気動車である。これまでのキハ47やキハ66・67のような「いかにも気動車」という外観と比べるとスマートで、なるほど、こういう車両だとつい「電車」と呼んでしまうだろうなと思う。ディーゼル・エレクトリック方式と蓄電池の併用ということで、これからの非電化区間はこうした車両が中心となるのかなと思う。なお、「YC」とは何の略かというと「やさしくて 力持ち」のローマ字の頭文字である。なお、この列車の始発は長崎で6時35分発。「かもめ8号」の長崎発が7時45分だったから、新幹線と長与回りの鈍行の差というのは十分感じられた。

車内はロングシートで、長崎側の車両の中央部にはバリアフリー対応のトイレが備え付けられている。その反対側は座席がないスペースだ。

大村車両基地駅を過ぎる。こちらも西九州新幹線開業に合わせて開業した駅で、そのまんまの駅名である。西九州新幹線の大村車両基地は「かもめの巣」という愛称があるそうで、駅で降りて車両基地の外観を見に行こうという人らしき姿が見える。

新幹線の高架橋と別れ、松原を過ぎると大村湾沿いの区間である。

ロングシートの席に座っていたのでは景色が見にくいので、あえて席を立ってドアの窓から景色を楽しむ。実に穏やかな水面が広がる。

その途中の千綿に停車する。ドアのすぐ下が海である。日本全国に「海の見える駅」、「海に近い駅」があるが、千綿はその中でも上位に入るくらいの景色と言われている。今回下車しなかったが、駅舎も昔の面影を残して改築された木造のもので、わざわざ訪ねてくる人も多いそうだ。

棚田の景色が紹介される彼杵に到着。

そういえば、西九州新幹線の開業に合わせて誕生したもう一つの観光列車がある。「ふたつ星4047」という列車で、武雄温泉~長崎間の往復で長崎の海を楽しむことができる。午前の往路では有明海、そして午後の復路では大村湾。1日何本も走る新幹線よりも「ふたつ星4047」のほうが指定席の入手が困難なようで、もちろん今回の九州行きでは乗ることはなかった。

ハウステンボスに到着。観光客らしい客も多く乗って来る。先日、旅行会社のHISが、自ら保有するハウステンボスの全株式を香港の投資会社に売却することが発表された。コロナ禍で業績が悪化したHISが経営立て直しのためにとった策だが、売却先が中国系ということで波紋も広がっている。ハウステンボスのテーマパーク事業はそのまま継続されるそうだが・・・。

佐世保線と合流する早岐に到着。江北方面からの列車待ちのために数分停車する。先ほど到着する時に珍しい車両を見かけたのでのぞきに行く。同じく観光列車の「或る列車」である。本来なら久大線経由で博多~由布院間を走る列車だが、先日の台風14号の影響で久大線の豊後森~由布院間が運休となっており、ここに避難しているようである。

佐世保線の列車からの乗り継ぎ客も加え、そのまま佐世保市内に入る。9時20分、高架の佐世保に到着する。

コインロッカーに荷物を預け、いったん駅前に広がる佐世保の港の景色をのぞいた後、目指すのは九州西国第27番・清岩寺である・・・。

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第12回九州西国霊場めぐり~長崎の夜に「あっぱれや!」

2022年09月30日 | 九州西国霊場

9月23日、西九州新幹線開業当日の賑わいにあふれる長崎駅。観光案内所を見た後で外に出る。

駅前はまだ工事中で仮通路が通っているが、2ヶ月前までと比べて整備が進んだ様子もうかがえる。この連休中はこのスペースで開業記念のイベントも行われており、テントも出ている。

ネットニュースで目にしたのだが、新しくなったJR駅と路面電車の乗り場が遠くなったことに不満という声もあるようだ。ただ、これから路面電車の線路をJR駅側に寄せるとなると相当な費用がかかるし、それだけのメリットはないと判断されたのだろう。新幹線開業を機に駅の南北の市内電車の線路をつなげて直通運転させた富山駅や、駅建て替え工事にともない電停をJR駅の2階に持って来ようという構想がある広島駅をイメージしてのことだろうが。まあ、西九州新幹線については歓迎記事の一方でさまざまなツッコミ記事、批判的な記事が紹介されており、そうした見方もあるものだなと思うばかりである(新幹線の開業にともな特急が廃止されたことで快速・普通しか停まらなくなった隣の浦上駅利用者の声も、負の側面記事として紹介されていたなあ)。

この日の宿泊はその路面電車には乗らず、五島町にある東横イン長崎駅前である。23日の「かもめ」のきっぷを購入した時に長崎での宿泊先を探したが、その時は極端に値段が高いホテルか(県民割を適用して半額で利用できるのをエサにして値上げしたところもある)、安いけど相部屋のゲストハウスくらいしか空きがなかった。そのため、長崎を離れて諫早でビジネスホテルを予約していた。ただチェックを続けるうちに、東横インに空きが出たので変更した次第である。季節を問わず一定の価格で利用できるのは良心的である。

チェックインして、大相撲中継を見た後で外に出る。

向かったのは駅前にある「大衆酒場あっぱれや」という店。大衆酒場といいつつも地元の珍しい一品もいろいろ揃うようで、事前に席だけ予約しておいた。

ともかく生ビールにて、西九州新幹線の開業を祝して一人乾杯。メニューにもさまざまな魅力的な一品が並ぶ。

その中でまずは鯛の昆布締め。長崎県は真鯛の水揚げ量が日本一だという。普通に「鯛の刺身」ではなく昆布締めにすることで味が深まるように感じる。昆布締めときくと富山の料理のイメージがあるが、調理法としては全国的にありのようだ。私も一度チャレンジしてみようかな・・。

続いては馬の生レバ刺し。他にも馬刺しメニューはあるのだが、生レバというのはなかなかお目にかからない。今から10年前、O157による食中毒事故を受けて牛の生レバ刺しの提供が禁止されたが、今のところ馬は生食でも大丈夫のようである。牛のような反芻動物の消化管の中にはO157が存在するそうだが、馬は反芻動物ではないうえ、牛よりも体温が高くO157が生息できないため、とされている。

長崎は古くから捕鯨文化を有していた地域の一つで、それを反映してかクジラ料理もある。3種盛りというのにひかれるがさすがに値段がかさむので、ここは3種の中でもっともお目にかかる確率が低いさえずり(舌)をいただく。とろける触感で口の中ですぐになくなる感じだ。

今回は普段の居酒屋、大衆酒場ではめったに食べられないものを選択することになっているが、その中で異色だったのがカメノテ。岩礁に張り付いて生息しており、その外観からついた名前である。見た目からは貝類の仲間なのかと思っていたが、店の人によるとエビやカニといった甲殻類の仲間だそうだ。カメノテ、これまでみそ汁の具材で入っていたのを一度だけ食べたことがあるが、こうしてゆでられて盛られたのをいただくのは初めてである。店の人に教えてもらい、カメノテの指に見える部分をちぎると中から身が出てくるので、それをいただく。磯の香りが口の中に広がる。日本酒のアテにもよろしい。

最後にはカラスミ。これも長崎郷土料理の一つである。ボラの卵巣を塩漬けにして干したもので、これは少量をちびりちびりとやるのがよさそうだ。

大衆酒場といいつつ、珍しいものをあれこれ注文したのでお代はそれなりにかかった。ただ、長崎らしいものを楽しめたということで、まさに「あっぱれ!」「あっぱれ!」の連発である。満足して店を後にする。

この後は稲佐山から夜景を見ようということもなく、そのままホテルの部屋に戻りゆっくりと過ごす。翌24日は、本題の九州西国霊場めぐりの長崎~佐賀シリーズである・・・。

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第12回九州西国霊場めぐり~西九州新幹線「かもめ」はあっという間に長崎へ

2022年09月29日 | 九州西国霊場

9月23日、開業初日の午後に西九州新幹線に乗車する。武雄温泉で折り返しとなる「かもめ87号」の入線後、車内清掃、点検の待ち時間があって乗車する。

今回乗るのは指定席の1号車で、本来接続する「リレーかもめ87号」の到着よりも前に乗り込んだので、車内や座席の様子も観察できる。指定席は2列×2列とゆったりしており、テーブルはひじ掛けから出るタイプ。また座席ごとにコンセントもついている。シートが黒系、背面は木目ということもあるし、車内の照明も柔らかく感じる。この辺りは「みずほ」、「さくら」のN700系や「つばめ」の800系とも通じるものがある。「のぞみ」のN700系のクールな内装が冷たい感じで個人的にはあまり好きではないので、「かもめ」がJR九州らしい雰囲気でほっとする。

そして博多からの「リレーかもめ87号」がホームの向かい側に到着し、次々に客が乗って来る。私が予約した時は通路側を中心に指定席も結構空席があったが、さすが開業初日、発車時点では満員御礼である。私の隣も含めて座席が埋まり、車内の様子を撮ろうとあちこちからスマホやカメラを構えた手が伸びる。16時25分、ホームにいる人たちからも手を振って見送られ、いよいよ出発である。

この列車は途中、嬉野温泉、新大村、諫早と各駅に停車する。むしろ、嬉野温泉、新大村を通過する列車のほうが限られている。まず、在来線の佐世保線から南に分かれる。

ニュース等では新たに開業した区間の長さは66キロと報じられているが、改めて時刻表で武雄温泉~長崎間の営業キロを見ると、69.6キロとある。営業キロとの間に差があるのは、諫早〜長崎間は在来線が並行していることから、在来線の営業キロをそのまま適用したからという。

この69.6キロという長さは、広島を基点として山陽新幹線に当てはめると、東は三原の手前、西は徳山の手前。新大阪からなら東は京都の向こう、西は西明石の向こう。キロ数でいうなら京都~米原間が一番近いかな。その途中に3駅あるということで、京都~米原なら大津、栗東、八日市あたりに途中駅がある感覚かな。一時、栗東に新幹線の新駅を建設する、しないが話題になっていたなあ。

他の新幹線区間になじみのある方は、それぞれ近いところを当てはめていただければと思う。

そんな駅間ということもあり、武雄温泉を出発して、途中の停車駅や、携帯電話のマナー、新型コロナ対策について、不審物を見つけたら・・といった案内が外国語も交えて一通り流れ終わるか終わらないかというタイミングで、「まもなく嬉野温泉です」となる。この間、わずか5分ほどのこと。武雄温泉、嬉野温泉いずれも佐賀の有名な温泉地で、それぞれ駅が設けられるのもわかるが・・。

西九州新幹線のルートの約6割がトンネルだという。嬉野温泉から新大村に向かう途中も彼杵トンネルや、トンネル入口の法面に独特な工事が施された三ノ瀬トンネルなどがある。

それらを抜けて不意に右手遠方に広がるのが大村湾。その奥には西彼杵半島の山々が見える。大村湾内には長崎空港もある。

その長崎空港の最寄り駅ともなるのが新大村。並走する大村線にも新たな駅ができて、博多方面から大村市へのアクセス、また、長崎空港から長崎市内に向かう客の利用も期待されるという。

続いてまたトンネルが相次ぎ、長崎線、島原鉄道との接続駅の諫早に到着。長崎県中部の交通の要衝ということで、すべての「かもめ」が停車する。以前の九州西国霊場めぐりで、まだ工事中だった高架橋やホーム、改札口を見たが、いよいよ開業である。諫早の先で、道路から新幹線を見下ろすことができるスポットがあり、この日の夜や翌日朝のニュースでは、大勢の人がそこに集まって「かもめ」に手を振る光景が流れていた。

諫早の次は終点長崎。もう着くのかという感じだが、上に書いた新幹線の距離感を当てはめるとそんなもんかと思う。まあ、武雄温泉~長崎はあくまで先行開業、部分開業という扱いなので・・・。ただ、武雄温泉から新鳥栖、博多までどのように建設されるかはまだ何も決まっていない。

諫早からはしばらく外を走った後、長いトンネルへ。諫早から長崎への長崎線はもともと大村湾に近い長与経由を通っていたが、長崎トンネルを通る市布経由が1972年に開通。そのうえで西九州新幹線は、約5キロの久山トンネル、そして最後は約7.5キロの新長崎トンネルと続く。

そして新長崎トンネルを抜けた、そろそろ長崎駅だな・・と思う間もなく、右手の車窓には夜景のビュースポットである稲佐山が見え、あっという間に減速して長崎駅の構内に入る。トンネルを抜けてすぐに長崎の街並みに出るとは、一瞬何かのトリックかとすら思われた。武雄温泉からわずか30分。なるほど、確かにこれだけの時間で、しかも車窓の6割がトンネルとなれば、車内で駅弁でも・・・という感じにはならず、移動時間と割り切るところだと思う。

ホームに降り立つ。乗客は思い思いに車両や駅の撮影である。その中でホームの先端に行くと、「日本最西端の新幹線駅」のプレートがかけられている(ちなみにこの前の日本最西端の新幹線駅は鹿児島の川内駅だったそうだ)。さすがに、ここから先には新幹線はおろか線路を延ばすことは無理である。

ホームには地元テレビ局のアナウンサーやリポーター、ローカルタレントらしき人たちが取材ロケの最中で、乗客へのインタビューも行われていた。私のところにはそうしたマイクは回ってこなかったが、ひょっとしたら後ろ姿がローカルニュースで映っていたかもしれない。

コンコースに降り立つ。ここまで乗って来た「おためし!かもめネット早特7」のきっぷだが、改札口で申し出ると快く記念印を押していただき持ち帰ることができる。さすがに開業一番列車ではなく、乗客数でいえば何千番目かの乗客だが、ともかくよい記念になった。

改札横の「みどりの券売機」では、これから「かもめ」に乗るのかきっぷを買う列ができている。また、西九州新幹線の開業までのカウントダウンが「0日」となったサイネージや、開業祝の花も並ぶ。その中で開業記念きっぷの立ち売りがあり、普段はこうしたきっぷは購入しないのだが、せっかくなので1枚買い求める。実際に足を運んだからこその記念と言えるだろう。

さて時刻は17時を回り、長崎に来たのだから宿泊して西九州新幹線開業に一人祝杯を挙げようと思う・・・。

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第12回九州西国霊場めぐり~「リレーかもめ」で武雄温泉へ

2022年09月28日 | 九州西国霊場

九州西国霊場めぐりの記事を続けるところ、元西鉄ライオンズのエース・池永正明氏死去に関する一文を入れた。下関に生まれて福岡の球団で活躍した往年の名投手。紀行文も関門海峡を渡ったところだし、中国四十九薬師めぐり、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりがちょうど関門エリアに着くところで、ふと思い立って綴った次第である・・。

話は本題へ。広島から博多への高速バス「広福ライナー」で博多駅バスターミナルに到着。ちょうど昼時ということで、バスターミナルの8階飲食店街で昼食とする。ランチメニューが中心のところ、見つけたのは福岡のB級グルメである鉄板焼肉(辛味噌鉄板)の「竹ちゃん亭」。福岡をメインに展開する「竹乃屋」の系列店という。

福岡で「焼肉」といえば「鉄板焼肉」を指すらしい。豚肉とキャベツ、にんにくというシンプルな一品がやって来る。この「辛味噌鉄板」のおすすめの食べ方とは、鉄板をちょっと傾けて、浮かせたところに積み木の棒をあてがう。そうすると脂が低いほうに集まって来る。そこに辛味噌を混ぜ、豚肉、キャベツを絡めて豪快にいただく。ビールにもよく合うし(実は1杯注文)、白飯をかっ食らうのもよし。私は初めていただいたが、すでにテレビでも福岡のご当地料理として紹介され、知名度は高いそうだ。豚肉とキャベツを炒めるなら自宅でも再現できそうだが、辛味噌と積み木、どこかに売ってないかな・・。

JRの博多駅コンコースに出る。これから長崎まで乗る「おためし!かもめネット早特7」はJR九州のみどりの窓口、みどりの券売機での受け取り(JR西日本の券売機では受け取り不可)なので、窓口の行列に並ぶ。博多だから普段から乗客も多いのだが、西九州新幹線の開業ムードにもあふれていると言っていいだろう。

ホームに上がると、14時33分発の特急「みどり35号・ハウステンボス35号」が発車を待っていた。この佐世保、ハウステンボス行き特急は健在である。便によっては「みどり」単独で運行されるが、その場合は885系の「白いみどり」も使われるという。前日まで「白いかもめ」として運転されていたが、「白い『みどり』」とはねえ。もっとも、特急「みどり」はかつては赤一色に塗られた車両が「赤い『みどり』」として運転されていたこともあったそうで・・。

「みどり35号・ハウステンボス35号」はハイパーサルーン車両で出発し、その次には14時54分発の「リレーかもめ37号」、そして私が予約している15時08分発の「リレーかもめ87号」と続く。いずれも列車じたいは武雄温泉までだが、JRとしてはあくまで「長崎行き」なのである。

私が持っているきっぷは、武雄温泉にて「リレーかもめ87号」と「かもめ87号」を3分で乗り継ぐようになっている。少なくとも指定席はそのような売り方で、あくまで博多~長崎は1本の列車だという考え方である。その割には、「リレーかもめ」、「かもめ」の座席番号は連動していないのだが、それぞれ自分でネット画面で指定できるから、そこはよしとしよう。

このまま「リレーかもめ87号」に乗ると武雄温泉では3分の接続だが、せっかく初めて乗る新幹線なのだから、乗る前にも外から車両を眺めてみたい。そこで思いついたのが、先に出る「リレーかもめ37号」で武雄温泉に行くこと。武雄温泉では「かもめ37号」が待っていてすぐに発車するが、私が乗る「かもめ87号」はその後に入線するので、車両を見る時間は十分に取れそうだ。

「リレーかもめ37号」の自由席の乗車列に並び、前日まで「黒いかもめ」でも走っていた787系に乗る。かつてはこの形式が鹿児島線の看板列車である「つばめ」に充当されていた。それが九州新幹線の先行開業で「リレーつばめ」となり、全線開業にともなって「かもめ」や「にちりん」などに充当。そして本日からは「リレーかもめ」である。一方では「36ぷらす3」といった観光列車にも改造されている。なかなか波乱に飛んだ形式の車両といえる。

自由席に乗り込む。停車駅は鳥栖、新鳥栖、佐賀、江北・・・と続く。江北は前日まで肥前山口という駅名だった。西九州新幹線の開業にともない駅名が変更され、肥前山口の名前が消えるのを惜しむ声も結構あったという。ただ、肥前山口駅があるのは佐賀県の江北町で、「山口」という名前は合併前に駅があった「山口村」から取ったものだという。肥前山口という名前は長崎線、佐世保線の分岐点という歴史もあって由緒あるものだが、地元の人たちが新幹線開業を機に現実的に「江北」の町名を高めようとして改称したことは尊重すべきだろう。

さて、博多発車後しばらくして車内改札があった。私の「おためし」を見た車掌が「まずいなあ・・」という表情を見せる。決まりでは、「リレーかもめ」、「かもめ」両方とも指定された座席に乗ることが前提のきっぷで、自由席が空いているからといって前の列車に乗るのはNGだという。JRとしては、「おためし」でも乗ってほしいのは博多~長崎を最短、最速で移動する客であり(それでこそ新幹線効果を実感できる!)、武雄温泉で1本ずらして新幹線車両を見物しようという客は想定外なのだろう。

車掌は、このまま「リレーかもめ37号」に乗り続けた場合だと、博多~武雄温泉の自由席特急料金1200円を申し受けるという。ただ一方で、次に停車する鳥栖で下車して、本来の「リレーかもめ87号」に乗るなら追加料金なしでよいと言ってくれた(これは多分に融通を利かせてくれたものだろう)。

ただ、鳥栖で下車してしまうと、武雄温泉でのすぐの乗り継ぎと一緒である。2秒だけ考えて、1200円を支払った。別にロックでもワイルドでもなく、策を講じたつもりで策に溺れた形になったが(別に自分は策士でも何でもないが)、「おためし」価格が通常のネット割に戻っただけだし、それよりも武雄温泉のホームの様子をわずかの時間でも眺めるほうが体験だと割り切る。

まあ、車内改札がなくそのまま乗りおおせていれば不正乗車になったわけだが、一方で、「リレーかもめ」と「かもめ」の間にもう少し柔軟な乗り継ぎがあってもいいのではと思う。そこはあくまで「一つの列車」というスタンスは崩れないのだろうが・・。

列車は鳥栖から長崎線に入り、快走する。西九州新幹線と接続するのはいつになるのやらという新鳥栖も過ぎる。ここに来て外はどんよりした天候となり、時折雨粒も見える。そして佐賀に到着。下車する人もそれなりにいる。佐賀が目的地の人なら、やって来る列車がこれまでの「かもめ」が「リレーかもめ」になったところでこれまでと変わることはないだろう。

ただ、手元の「JTB小さな時刻表」2022年秋号を見ると、これまで長崎線・佐世保線で一つのページだったのが、長崎線・佐世保線・西九州新幹線で一つのページとなり、「かもめ」がなくなった江北~諫早間は別ページに切り取られ、見開き2ページだけとなっていた。特急「かささぎ」が肥前鹿島まで走るものの、完全にローカル線の扱いとなった。

その江北に到着。ホームの一角には青く塗られた気動車が停まっている。肥前浜~諫早間は今後非電化区間として運行されるが、その車両には改装を施されたキハ47も加わるという。有明海沿いの区間、これはこれでローカル線としての人気が出るのではないかと思う。次に長崎に行くことがあれば、この有明海非電化ローカル区間を経由したいものである。

西九州新幹線といえば・・開業からわずか4日目の26日に、早々と一時運休となった。江北町にある踏切でトラックが脱線して動けなくなったためだという。これはあくまで「在来線区間」での出来事だが、この影響で「新幹線区間」も一時運休となったのだが、これはいかがなものだろうか。確かに「リレーかもめ」の車両運行には支障が出たかもしれないが、長崎~武雄温泉の「かもめ」が事故を起こしたわけではない。せめて新幹線区間だけでも運行して、武雄温泉から先はまた別の手立てを考えるのも一手だったのでは?と思うが、JR九州としてはあくまで「一つの列車」の扱いという姿勢なのだろう・・・。

江北を出ると10分で武雄温泉に到着。在来線ホームとは別の、「リレーかもめ」と「かもめ」の乗り換え専用ホームに着く。島式ホーム1本で、同じホームでの乗り換えである。新幹線側にホームドアがあるのは昨今の標準的な安全対策である。

基本的には乗り換え時間は3分で、「リレーかもめ」から「かもめ」に乗り継ぐ客も多い。そのわずかな間に車両はホームの写真を慌ただしく撮る客もいれば、地元の人たちだろうか、ホームで新幹線の見物、お見送りという人も結構いる。その中で、まず発車する「かもめ37号」を見送る。

そしてホームをぶらつくうち、折り返しとなる「かもめ87号」が長崎側からやって来た。報道陣も含めて一斉に注目する。入線のシーンを見ることができたのも、「リレーかもめ」を1本ずらしたからと言える。「かもめ」が到着したのと同時に、一度閉めていた「リレーかもめ」の扉が開き、長崎方面からの乗り継ぎ客が向かっていた。

「かもめ」は6両編成。側面の「かもめ」の毛筆体がインパクトある。JR九州の青柳会長が社長時代に揮毫したものだそうで、開業に向けての熱意、期待がうかがえるが、このノリが通用するのは九州内だけだろう。

しばらく車内整備のために待った後で、いよいよ乗車する・・・。

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第12回九州西国霊場めぐり~西九州新幹線目指して「広福ライナー」で博多入り

2022年09月26日 | 九州西国霊場

九州西国霊場めぐりの第12回の行き先は長崎。もっとも、長崎市は前回7月に野母崎半島にある第26番・観音寺、長崎市内にある第25番・清水寺を訪ねており、目指すのはその先である。

前の記事で触れたが、9月23日の西九州新幹線開業当日に、武雄温泉~長崎間の初乗りを行うことにした。始発列車の指定席が1ヶ月前の発売開始からおよそ10秒で完売したということは伝えられたし、何やかんやで多くの人が乗りに行くのだろうと、当初は別に開業初日でなくてもよかったなと思っていた。ちょうど秋の拝観時期にもなったし、関西の神仏霊場めぐりを考えていた。

しかし、指定席の発売開始から数日が経過した後、ふと西九州新幹線の予約状況を見ると、23日も午後以降の列車なら空席が見られ、中には窓側の席も空いている列車もあった。そこで、臨時列車である武雄温泉16時25分発の「かもめ87号」の指定席を確保した。窓側の席が空いている列車の一つだった。

広島から長崎へ最速ルートで行くならば、「さくら」で新鳥栖まで向かい、「リレーかもめ」に乗り換え。そして武雄温泉で新幹線「かもめ」に乗り継ぐところである。もっとも、「のぞみ」で博多まで行き、そこから「リレーかもめ」で武雄温泉、または「つばめ」で新鳥栖まで行って「リレーかもめ」乗り継ぎが最速のケースもある。JR九州とすればその通り乗るのが一番ありがたい客となるのだろうが、こと九州内に関していえば、西九州新幹線開業で確かに博多~長崎間は約30分縮まるとはいうものの、新たに武雄温泉での乗り換えが発生するし、料金が高くなる。これは高速バスとの競合の面で弱点である。

JR九州は主要駅間のネット割引のきっぷも用意しているが、西九州新幹線開業に合わせて発売したのが「おためし!かもめネット早特7」。今年の12月31日乗車分までの発売で、7日前までの購入が必要だが、指定席利用で通常なら6050円のところ、3200円と半額に近い値段である。開業直後の「おためし価格」で西九州新幹線(プラスリレーかもめ)に一度乗ってもらい、その後の利用につなげようというところ。それだけ、乗客の確保に苦戦しているのかなと思うが・・。

博多から長崎まで「おためし」を予約したのはよいとして、博多までどう行くか。「かもめ87号」につながる「リレーかもめ87号」は博多15時08分発。これなら当日昼過ぎに自宅を出ても間に合うので、日本旅行の「バリ得こだま」の出番だろう。広島~博多は6200円。ただ、そこまで遅い時間なのなら、「こだま」でもなく違ったルートで行ってみようという気になった。

そこで出てきたのが、広島と博多を結ぶ高速バス「広福(こうふく)ライナー」である。ようやく、この記事の主題が登場である。

「広福ライナー」は現在1日8往復。中国JRバス、広交観光、JR九州バスの共同運行で、バス会社によって広島市内での経路が異なるが、4時間半ほどでの運行である。時季によっては夜行便が運転されることもある。前回の広島勤務時だから20年ほど前のことだが、広島から福岡行きの夜行便に乗ったことがある。その時の目的地も今回と同じ長崎で、当時所属していた旅行サークルのオフ会参加のためだった。ちなみに博多到着後はそのまま高速バスで長崎に向かった。

「広福ライナー」の通常料金は4250円で、座席によってはさらに早割料金も設定されている。4時間半とはJRの普通運賃よりは高いが鈍行乗り継ぎで行くより早い、そして乗り換えなし・・・ということで、安定した利用があるそうだ。今回は逆算して、広島バスセンター8時33分発の便を予約する。これだと博多駅バスターミナルには13時すぎの到着で、「リレーかもめ」までは約2時間待ちとなるが、その次の便だとぎりぎりで間に合わない。

夕方に長崎到着後はそのまま宿泊し、翌24日、25日は九州西国霊場めぐりということで、長崎~佐世保~伊万里~唐津と移動し、最後は筑肥線~福岡地下鉄で博多に戻り、新幹線で帰広ということにした。

さて迎えた9月23日、朝の情報番組で西九州新幹線の開業の様子を見る。指定席が完売なのでせめて自由席に乗車しようと、前日夜から100人以上の徹夜組ができていたともいう。路線の定義でいえば武雄温泉が始点、長崎が終点なのだが、この西九州新幹線については開業までの事情が事情だけに、圧倒的に長崎側が盛り上がっているように見える。

この日の夕方にはあの場にいるのだなと楽しみにしつつ自宅を出て、広島バスセンターに到着。8時33分発の博多行きを待つ客もそこそこいる。やって来たのは中国JRバスの車両。もう少し早くに思い立っていれば最前列の席を確保したところだが・・。

スマホで予約状況を見ると前のほうを中心に結構座席が埋まっていたが、運転手が気を利かせて、お連れさん同士ではなく2席が埋まっている列については、1人を他の空席に案内する光景も見られた。長時間の乗車、少しでも密を軽減しようという気づかいのようだが、ふと車両後部を見ると、最後尾にあるはずのトイレがない。発車後に「車両検査の都合で・・」との案内があった。一応、途中2ヶ所の休憩時間があるし、緊急を要する場合は運転手にお気軽に・・とあったので気持ちの面では大丈夫かと思うが。先ほど、席を移ってもよいとしていたのはトイレがない分座席に余裕が出たからかな。

座席の片側がほぼ埋まる程度の乗車率で発車。この先、アストラムラインの大塚駅、広域公園前駅で停車して、広域公園前で1人が乗車。その先にある五日市インターから山陽自動車道に入る。山口あたりまでは仕事でちょくちょく利用する区間だが、バスに乗ると目線が高くなり、景色もまた違ったものになる。

山口県に入り、山陽新幹線、国道2号線、岩徳線に近いルートを通り、下松サービスエリアで1回目の休憩のため約15分停車。3連休初日ということでマイカーも多く、バス優先エリアにもびっしりと停車していた。

この後もしばらくは順調に走っていたが、中国自動車道と合流する山口ジャンクション手前から渋滞につかまる。これは自然渋滞ではなく、工事のため山口ジャンクション~美祢東ジャンクション間で車線規制が行われているためだ。

NEXCOでは手前の山口南インターから国道2号線~山口宇部道路を経由して山陽自動車道(宇部下関線)へ迂回するよう案内しているが、そうしたクルマはなかなかないようである。いったん国道2号線に下りてふたたび山陽道(中国道)に乗っても、ETC利用ならその前後の高速料金は通しで乗ったものとして計算する措置が取られているそうだが、十分周知されているとは言い難い。

渋滞区間の中には30~40分もいただろうか。これは博多着も相当遅れそうで、2時間の待ち時間があってよかったなと思ううち、小郡ジャンクションの先でようやく順調に走り出した。運転手の案内では予定時刻より15分ほどの遅れということで、意外に少ないなと思った。どうやらそれまでの順調走行の間にいくらか「貯金」を作っていたようだ。

渋滞を抜けると順調に走り、関門橋を渡っていよいよ九州に入る。

新門司港近くの吉志パーキングエリアで2回目の休憩。15分ほどの遅れは変わらずである。

その後、九州自動車道を走行。途中の停留所である小倉南インターに到着。1人が下車した。このバスでいえば小倉への玄関口だが、最寄りの駅・バス停まではかなり離れており、この先徒歩利用だと結構厳しい様子である。

時折雨が落ちるところもあった。ちょうどこの日は台風15号が東海から関東にかけて接近しており、交通への影響も出始める時だった。この前週の18日~19日にかけては西日本でも交通機関に大きな影響が出ていた。西九州新幹線も、ひょっとすれば台風の影響で開業がずれ込んだかもしれない。

福岡インターから都市高速4号線に乗り継ぎ、粕屋町から箱崎ふ頭を走行する。福岡貨物ターミナルやふ頭の倉庫群を見渡すこともできる。

呉服町で下車すると博多駅も近い。結局そのままの遅れで博多駅バスターミナルに到着した。この後の行程には影響ない。ターミナル内には飲食店のほかに大型書店も入っており、しばし時間を過ごすにはぴったりである・・・。

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第12回九州西国霊場めぐり~西九州新幹線、開業初日に乗りました・・・!

2022年09月23日 | 九州西国霊場

前回の九州西国霊場めぐりは長崎編ということで、7月に特急「かもめ」のお別れ乗車と、NPBフレッシュオールスターゲームの観戦(この試合の後、各球団で育成から支配下登録を勝ち取った選手も数多い)、そして天候条件を満たさなかったため上陸はできなかったが、かつての炭鉱である軍艦島へのクルーズを楽しんだ。

それから2ヶ月が経った9月23日、武雄温泉~長崎間の西九州新幹線の先行部分開業となった。7月の札所めぐりの後には、次回は西九州新幹線に乗る展開だとしても、開業からある程度日数が経ってからかなと思っていた。この部分開業に対してはさまざまな意見も出ているそうだが、何やかんやで世間からは注目されている。果たして、23日の始発列車の指定席は、1ヶ月前の前売り開始からわずか10秒で完売したという。その筋の人たちの執念というのはまさに仁義なき戦いである。

・・・しかしながら、私がふと興味本位で9月23日の空席状況を見ると、前売り開始から結構な日数が経つ中で、さすがに午前中の列車は軒並み満席だが、午後以降の便にはまだまだ空席がある。窓側の席が空いている列車もある。

・・・ならば、別に一番列車でなくてもよいのだが、開業初日に武雄温泉から西九州新幹線に乗ってしまおうという気になった。そこに、7月の九州西国霊場めぐりの続きでもある。長崎の次は佐世保、唐津と続く。長崎行きの新幹線と組み合わせると、結構大がかりな行程となる。

入手したのは、武雄温泉16時25分発の「かもめ87号」の指定席窓側。列車番号が80番台なのは臨時列車であることを示す。なるほど、臨時列車なら指定席確保の確率も高まるところである。

一方、長崎到着後の宿泊についても、長崎市内なら高価格帯のホテルか、相部屋のゲストハウスくらいしか空いていない。9月後半の連休初日でもあり、そのまま長崎に宿泊する人が多いのだろうか。その影響もあり、いったんは23日の宿泊は長崎から1駅東の諫早でようやく確保していた。

ただ、数日前に長崎駅近くの東横インに空きが出たのでそちらを確保した。新幹線開業にともない旅行客の増加が見込まれる中、ぼったくりをせず年中ほぼ一定価格で提供してくれる東横インは良心的である。

そして迎えた23日。朝の情報番組で、一番列車が長崎を発車するところ、そして武雄温泉に到着したところの中継も流れる。多くの人たちがホームに詰めかけたようだ。それを見てからの出発である。

その後の道中はまた記事にするとして、ともかく夕方近くに武雄温泉から乗車し、30分足らずのあっという間の行程で長崎に到着した。この記事は長崎の東横インの客室にて入力中。翌日はこれから終盤に入る九州西国霊場めぐりの佐世保、唐津シリーズである・・・。

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