まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

被災地復興を見る~田老

2019年09月17日 | 旅行記B・東北

三陸鉄道の線路と久しぶりに合流するのが田老。前日に三陸鉄道に乗った時も触れたが、田老は「万里の長城」と呼ばれる大規模な防潮堤がある町である。高さが10メートル、総延長が2433メートルで、海側と山側でX字形で二重に築かれている。

道の駅にクルマを停めて、その防潮堤に上がってみる。田老は「津波太郎(田老)」と呼ばれるほど過去から津波の多いところで、1896年の明治三陸大津波、1933年の昭和三陸津波では大きな被害を受けた。そのために巨大な防潮堤を築くことになり、1957年に陸側、1978年に海側が完成した。その後の津波では防潮堤を超えることもなく、地元の人には安心感を与えたが、東日本大震災に限ってはそれが死角になったといえる。高さ16メートルの津波は防潮堤を乗り越え、また一部を破壊して町に押し寄せたが、「まさか」「大丈夫だろう」と思っていた人たちは逃げ遅れ、犠牲となってしまった。

また建物も並ぶようになり、海べりではまたさらに新しい防潮堤の建設が進んでいる。従来X字形で造られていた防潮堤の海側を改修し、さらにかさ上げするというもののようだ。ハード面の整備ということでは一つの安心ではあるが、それが「油断」につながらなければとも思う。

道の駅のすぐ横、防潮堤の内側に野球場がある。宮古市田老野球場で「キット、サクラサク野球場」とう看板が掲げられている。球場じだいはどこの町にもあるような建物だが、復旧にあたっては野球を通した地域密着や三陸鉄道の活性化ということで、三陸鉄道と、東北復興キャンペーンにも取り組んでいるネスレ日本がスポンサーに名乗りをあげた。そして誕生したのが草野球チーム「三陸鉄道キットDreams」である。

それにしても、イラストのキャラクターにはどこか見覚えがある。あれは『キン肉マン』のバッファローマンではないか。最初はそれに似せたオリジナルのキャラクターかなと思ったが、正面のプレートを見ると本物である。これは作者のゆでたまごさんが地元支援にとキャラクターを提供したもので、キャラクターがバッファローマンなのは岩手特産の短角牛になぞらえてのことだそうである。

スタンドに入れるようなので上がってみる。シート一面に「キットカット」のロゴが入っている。このくらいの収容人数があると独立リーグの試合もできそうな感じである。

さて、防潮堤からも見えているところにあるのがたろう観光ホテル跡である。こちらも震災遺構ということで向かってみる。

たろう観光ホテルは6階建てだったが、16メートルの津波で4階まで浸水し、1階、2階は津波の衝撃で骨組みだけ残った。この建物はこの震災で初めて国費による震災遺構整備の支援を受けたところで、津波の脅威と防災について伝える役割を持つことになった。かつて、テレビの情報番組で「震災◯年」を特集して、このたろう観光ホテルの上の階の中継で放送していたのを見た覚えがある。

内部の見学は事前に宮古市への予約が必要とのことで外観のみぐるりと見るだけだったが、やはり現地に来てみると津波の高さや威力というものを写真で見るよりも実感が沸く。なお現在たろう観光ホテルは場所を海岸寄りに変えて「渚亭 たろう庵」として新たに営業している。多少値段は張るが三陸の海の幸が満喫できるそうだ。

朝に大船渡を出てからここまで結構北上したように思うが、道のりはまだまだ続く。その中であちらこちらの見学をしているために時間は結構かかっている。ようやく宮古市を抜けて、北リアスの田野畑村に入る・・・。

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被災地復興を見る~宮古

2019年09月16日 | 旅行記B・東北

国道45号線を北上して宮古市に入る。津軽石から宮古湾に沿うようになり、防潮堤が目立つ。

閉伊川にかかる橋を渡り、国道106号線との合流地点に着く。歩道橋があり、東日本大震災の津波の到達地点を示す看板がある。正面の奥は宮古市役所があった場所だが、津波被災や老朽化もあり昨年宮古駅前に移転した。町の中心部だけに、津波の映像では多くのクルマ、そして漁船も流される様子が残されている。

時刻は11時、早めの昼食ということで海べりにある道の駅に向かう。震災からの岩手県の復興の様子を紹介するコーナーもある。

2階のレストランはレストランというより食堂の雰囲気だが、ここで海鮮丼、さらに海藻ラーメンをいただく。海鮮丼よりはあっさり塩味の海藻ラーメンのほうに三陸らしさを感じた。

さて三陸の中心である宮古だが、10年以上前に一度宿泊したことがある。その時は浄土ヶ浜を訪ね、またちょうど9月のシーズンということで「さんま祭り」をやっていて旬のものを味わった。宮古のさんまは、「さんまは目黒に限る」の目黒のさんま祭りにも提供されるほどのものである。ただ、今さんまと聞くと「不漁」という言葉がついてくる。気候変動で日本近海のさんまの数じたいが減少したからとも、中国や台湾の漁船による乱獲のためだとも言われている。

宮古に来たからには名勝地の浄土ヶ浜を訪ねるところだろうが、やはり時間というのか、詰め込みすぎコースのためか、今回は素通りすることにした。その代わり、宮古市に残る震災遺構を見に行くことにする。こういうスポットがあることも今回現地に来て初めて知った。

国道45号線から離れて細い道を走らせて海べりに出る。小さな港があり、その脇にあるのが震災メモリアルパーク中の浜。かつては海岸をすぐ近くに臨むキャンプ場、海水浴場だったところで、地元の人たちにも親しまれていたそうだ。

震災ではここも15メートルを超える津波が押し寄せた。幸い、3月、雪も舞う頃でキャンプ場も無人だったので犠牲になった人はいなかったそうだが、もし夏休みなどで子どもたちも多く来る時季だったら果たしてどうだったか。

トイレ・シャワー室や炊事場がそのままの形で震災遺構として保存されている。また、流された漁具が木に引っかかっているのも、津波の高さを示すものとして保存されている。

中央には展望の丘というのが造られている。津波で出たガレキ由来の再生資材で造られたもので、この上に立つとちょうど津波と同じ高さで周囲を見ることができる。

ただ実際に津波が遡上した場所や高さとなるとさらに奥まで続いており、展望の丘に立ったままだと津波に呑まれてしまうという。本気で逃げるなら両側の斜面の上まで行かなければならないということだ。案内板が続く先の展望台で高さ30メートルである。

震災遺構としての知名度はそれほど高くないようだが、もしこうした自宅や勤務先以外の「非日常」の場所にいた時に津波の危機がやって来た際にどうすべきか考えさせられるスポットだと思う。

これで宮古の市街地を抜け、再び国道45号線に戻る・・・。

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被災地復興を見る~大槌町

2019年09月15日 | 旅行記B・東北

釜石市の隣の大槌町に入る。国道45号線をいったん離れて県道を走る。ここでも駅に立ち寄ってみる。

大槌の駅舎の屋根はひょうたん型をしている。沖合いにある蓬莱島が『ひょっこりひょうたん島』のモデルの一つとされているからで、そういえば原作者の井上ひさしは大槌町内の吉里吉里の名前を冠した小説『吉里吉里人』もあり、この辺りに何か感ずるものがあったのかなと思う。駅舎内や展望デッキにはひょうたん島のキャラクター人形もお出迎えする。

また、宮沢賢治の「旅程幻想」という詩が石碑になっている。「生き残った私たちは亡くなられた人たち これから生まれてくる子どもたちに どう生きるかを示す責任がある 私たちは宮沢賢治の『利他の精神』がその道しるべになると考える」と、石碑を建立した主旨が書かれている。「旅程幻想」は賢治が三陸を一人旅した折、大槌で詠んだとされる一節という。地元の有志がクラウドファンディングで資金を集めて建てたもの。

大槌は「南部鼻曲がり鮭」のゆかりの地であることを示すモニュメントがある。近くの大槌川が鮭の遡上する川で、岩手県内でも早期から人工ふ化に取り組んだところだという。

大槌町は震災の報道でよく目にした町の一つである。それは地震発生時に災害対策本部を町役場に立ち上げるために庁舎に参集した町長をはじめ、数十人の職員が津波の犠牲になり、町の行政機能がしばらくマヒしてしまったことによる。

現在の町役場横の坂道を上がる。この先は中世の城跡である城山公園がある。ここに避難した人も多かったが、津波では町の人口の1割を超える1500人以上が犠牲になった。当時この城山公園から津波の様子を撮影した動画もある。

ここに「希望の灯り」がある。震災の翌年に置かれたもので、神戸市、南相馬市、陸前高田市にある慰霊と復興を祈るガス灯から分けられた灯りだ。ちょうどこの先の斜面に墓地があり、多くは以前から建っていたものだが、中には震災で亡くなった方も葬られている墓があるかもしれない。

一方では同じ敷地内に納骨堂が設けられている。

被災当時の大槌町役場庁舎は昨年2018年に解体された。震災遺構として保存すべきか、解体すべきか、多くの議論があったという。

・・・この旅の後、旅行記がなかなか進まない中で、9月に入ってNHKで大槌町を取り上げた番組を見た。日曜朝の、いわば緩い時間帯で流れる番組である。この8月、大槌町では遺族や町職員の証言をまとめた『生きる証』という冊子を発行した。製本されたものは有料だが、大槌町のホームページからPDF版を無料で入手することもできる。

震災当時、町職員はどのような動きをしたのか。数少ない生存者や、遺族による証言をベースに綴られたドキュメント。当時は役場の対応の不備を責める論調も多く、これまで語ることを拒む人もいたが、改めて番組で当事者の証言に触れると、当時ではわからなかった人々の行動も少しずつ明らかになる中で、単純に対応が良い悪いで評価できるものではないことがわかる。彼らにしかわからない苦悩が今も続いている。番組を見たからというのがあるが、どのようなものか、改めて全文を読みたいと思う。

さて、先ほど触れた吉里吉里から浪板海岸に差し掛かる。浪板海岸は、寄せる波はあっても返す波がないという世界でも珍しい「片寄せ波」だという。そのため特にサーフィンのスポットとして人気があるという。ちょうど海岸を見下ろすホテルの脇から海岸に下りる道があり、クルマを停めてしばし波と戯れるサーファーたちを眺める。私には全く縁がない遊びやなと思いつつ。

今はのどかな景色、ホテルもサーファーや観光客で書き入れ時だが、震災で砂浜が「消滅」した時はこの観光ホテルも浸水した。宿泊客は何とか無事に避難させたが、その支配人が行方不明となった。

ホテルの駐車場の片隅に、津波到達を示す石柱がある。ホテルの高さだと3~4階に相当する。海岸まで結構高さがあるように見えるが、津波はそれを超えたのである。いかに東日本大震災の津波が強烈なものだったかがうかがえる。

また、ここにも宮沢賢治の詩碑が建てられている。「暁穹(ぎょうきゅう)への嫉妬」。「暁穹」とは「あかつきのそら」という意味だろうか。この海岸から東の空を眺めるというのもロマンだろう。その意味でこのホテルも泊まってみたくなるが、それらを一変させる自然の脅威というものを改めて感じる。

高い防潮堤が築かれ、町並みの再建も進む陸中山田を過ぎる。本州最東端のトドヶ崎(トドは魚偏に毛)の標識が出て、一瞬そちらに行ってみようかという気になった。ただクルマをいったん停めて情報を見ると、灯台のある場所へは直接クルマで行くことはできず、駐車場から山道を歩いて1時間かかるという。完全に秘境だ。

ということでそのまま宮古に向かう。まだまだ先は長い・・・。

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被災地復興を見る~釜石・鵜住居

2019年09月14日 | 旅行記B・東北

釜石市の鵜住居地区にやってきた。町に入る前に向かったのは根浜海岸。海水浴場があり、釜石市の名所の一つだったが、東日本大震災の津波で砂浜が1.3キロにわたって消失した。その後再生工事が進み、今年の夏、震災以来初めて海開きが行われたという。ただ天候が悪いものの人の姿が見えないなと思ってみると、海水浴場は8月12日までの開業だったそうだ。引き続き再生工事を進め、来年には元通りにしたいという。

この海岸を見下ろす高台に集落ができている。津波で失われた集落が移転したもので、海べりの民宿も移っている。曇っているのは残念だが海の景色は素晴らしい。高台に移転した後も、海のある景色をということで防潮堤も最低限の高さにとどめたという。

町中に入る手前に鵜住居復興スタジアムがある。かつては鵜住居小学校と釜石東中学校があったそうだ。三陸では数多くの人が津波の犠牲になったが、釜石では市内の小中学生のほぼ全員が無事だった。これは「釜石の奇跡」として多くの人に希望を与えた。ただ、年月が経ちさまざまな検証が行われる中で、これは「奇跡」ではなく「当然の結果」だという評価が出るようになった。「日常の訓練、教育」「防災意識の高さ」「的確な判断での避難」・・・釜石の取り組みは震災後も各地から注目され、教育関係者が釜石に防災教育の手法を学びに来ることもあるという。

その学校の跡地に建つスタジアム。9月からのラグビーワールドカップでは2試合(フィジー対ウルグアイ、ナミビア対カナダ)組まれている。普段でもメインスタンドの一部を見学用に開放しているとのことでのぞいてみる。

スタジアムは陸上のトラックがない球技専用である。スタンドのベンチには杉の木が用いられ、一部には旧国立競技場や東京ドームなどから寄贈された「絆シート」というのもある。スタンドとグラウンドも近く、どの席に座っても見やすい傾斜である。ラグビーの試合も迫力あるものに映るだろう。現地で観戦することはできないが、どんな様子だったか、ニュースを通してでも見てみたい(大勢の観客で賑わいますように)。

前日通った鵜住居駅に着く。ラグビーにちなんで「トライステーション」という愛称がつけられている。また駅前は「うのすまい・トモス」という交流施設になっている。

その中心にあるのが「釜石祈りのパーク」で、震災犠牲者の追悼施設となっている。先ほど「釜石の奇跡」で市内の小中学生のほぼ全員が無事だったと書いたが、全体で見れば1000人を超す犠牲者が出た。やはり悲劇は悲劇である。今年の3月に完成した碑文には震災の教訓として「命を守る」市民憲章として、「備える」「逃げる」「戻らない」「語り継ぐ」を掲げている。これはどこの被災地にも言えることだし、津波に限らず台風や豪雨災害にもつながる話だと思う。

その横に資料を展示する交流館があり、開館予定の9時になったので入ろうとするが鍵が閉まっている。先ほど、周囲を清掃していたスタッフの方もいたので休業ということはないだろうが、しばらくしても開く様子がない。まあ、まだまだこの先の行程も長いし、鵜住居ではスタジアムの中を見ることもできたということであきらめて先に進む。

釜石市を抜け、隣町の大槌町に入る・・・。

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被災地復興を見る~三陸町越喜来

2019年09月12日 | 旅行記B・東北

8月16日、この日は日本海を北上する台風10号の影響で、岩手県沿岸も午後から雨の時間帯があるという。まあ、直接東北を通過するわけではないのでマシである。

さて、大船渡プラザホテルを朝の6時半に出発する。前からの記事で、この夜の宿泊地を普代村の黒崎から別の地に変更したと触れているが、その場所とは内陸部に入った岩泉である。たまたま、温泉ホテルの和室2食つきが空いていたのを13日に見つけて予約した。岩泉に泊まる気になったのは、今は廃線となった岩泉線の終着駅があったところで、当時、東北のJR全線の乗りつぶしを達成したのがこの駅だった思い出がある。一方で、その北にある日本三大鍾乳洞のひとつである龍泉洞には行っていないのと、並走する道路をたどって岩泉線の廃線跡を見てみようということもある。これらは最終日の17日に取っておいて、そのまま宮古まで出て三陸自動車道で一気に仙台に戻ることにする。

その前に16日だ。岩泉には明るい時間に着くとなると移動も結構ハードである。被災地めぐりもあるが、三陸のリアス式海岸の名勝も見たい。国道45号線で行けるところまで行くことにする。大船渡から盛にかけての市街地を抜ける。朝からどんよりした天気だ。市街地を抜けると山深い景色になる。

視界が開けて、大船渡市三陸町に入る。越喜来(おきらい)という集落があり、国道からいったん離れたところに前日通った三陸鉄道の三陸駅がある。この辺り全体を指す地名を町や駅の名前にするとはスケールが大きい。

駅からも見えるのだが、ここで訪ねたのは「ど根性ポプラ」。津波に耐えて生き残った1本の木といえば陸前高田の「奇跡の一本松」が有名だが、今回来るまで、こうしたポプラがあるとは知らなかった。まあ、高田松原という景勝地の松が全滅する中で1本だけ残ったというのは奇跡と言っていいだろう。

このポプラは、昭和のはじめにここに店舗兼自宅を構えていた人が家の庭に植えたものである。その後、1933年の昭和三陸地震の津波、1960年のチリ地震の津波、そして2011年の東日本大震災の津波・・と三度の津波に遭った。それぞれの津波で越喜来の集落は大きな被害を受けたが、このポプラは残った。特に東日本大震災の津波では10数メートルの高さまで来て、ポプラの3分の2が水に浸かったが、それでも耐え抜いた。その姿が「ど根性」となり、周辺を整備することになった。

ポプラじたいがそうした災害に強いのか、あるいはこの木だけが特別なのかはさておき、三度の大津波を耐え抜いたというのはど根性ものである。もう少し注目されてもよいのではないかと思う。

国道45号線に戻り、大船渡市から釜石市に入る。山道から海沿いに下りた国道沿いにあるのが三陸鉄道の唐丹(とうに)駅。ホームがあるだけの小さい駅だが、国道から駅前に入るところに石柱がある。「伝えつなぐ大津波」とある。駅、国道は集落を見下ろす高い位置にあるように見えるが、駅の高さ(ホームも完全に浸かったそうだ)まで津波が来たそうだ。

国道45号線はそのまま釜石の市街地に入る。前日三陸鉄道に乗った時は釜石駅の改札口を出ることもなかった。釜石といえば釜石大観音もあるし、鉄の歴史館、世界遺産の橋野高炉跡もある。本来であればこうしたスポットを訪ねて釜石らしさを楽しむところだが、開館時間前を理由に素通りする。一つ一つ回っていたのでは岩泉に着くのが何時になるのやらということもあった。いや、今回の旅では「震災遺構>観光スポット」という縛りを自分で作っているのもある。

そのまま釜石の中心部を抜けて、来たのは釜石市の鵜住居地区。ここではまた国道45号線を離れて集落の中に向かう・・・。

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被災地復興を見る~三陸鉄道・復路、おばんです大船渡

2019年09月10日 | 旅行記B・東北

久慈12時08分発の宮古行きは2両編成で出発する。名物「うに弁当」とビールが胃袋に収まってとりあえずは落ち着く。

陸中野田に到着。駅舎は地元の観光物産館やレストランが入る建物となっており、ちょうど食事中の客たちが列車に向かって手を振ってくる。

天候の変化は激しいようで、野田玉川から海岸線に出ると、往路では濃い霧状態だったのだが今度は青空が広がっている。安家川橋梁から見る景色も先ほどとは対照的だ。ここで一時停車のサービスがあり、撮影タイムとなる。

堀内を挟んで大沢橋梁でももう一度一時停車する。この辺りが三陸鉄道でもっとも海の景色を楽しめるところである。夏でも霧と晴れが交互に繰り返される天候というのも三陸の一つの表情である。

島越に着く。今度は駅前の慰霊碑もはっきりと見える。北リアス線の区間は明治の三陸大津波を踏まえてルートが計画され、路線の多くがトンネルだったこともあって東日本大震災のダメージは最小限で済んだとされているが、それでも島越や田老では大きな被害となった。今日は気動車で通過するだけだが、翌日16日は再びレンタカーで移動するため、こうしたところも立ち寄っていくことにする。

行きよりも時間が短いように感じられ、13時54分に宮古に到着。乗り継ぐのは14時13分発の盛行きだが、改札口を出ずにそのままホームの前方に停車中の列車に乗り継ぐ。お盆期間中ということもあってか乗客も多く、席取り合戦となる。

宮古から盛までは2時間ほどの行程である。時間帯が時間帯なので途中でウトウトした区間があったり、また窓ガラスが曇ってきたりということで淡々と進んでいたように思う。気がつけば盛に到着したような感じである。16時35分着。

盛から1駅だけBRTに乗車する。いったんJR駅に向かい、券売機で大船渡までの乗車券を購入する。みどりの窓口もあるし、ここだけを見ればJRの鉄道と変わるところはない。次の便は16時55分発の陸前矢作行きである。BRTの大船渡線は盛~気仙沼間を運行しているが、途中の陸前高田で気仙沼方面と陸前矢作行きにルートが分かれる。元の大船渡線の線路に沿うならば陸前矢作行きのほうが忠実だが、町の復興計画で市街地の場所も変わったこともあり、気仙沼へは新たなルートができた形である。陸前高田~陸前矢作が大船渡線の支線のような形になっている。

同じホームでの列車とバスの乗り換えとなり、旅行者や地元の人でバスの席もほどよく埋まる。5分走って大船渡に着くとそこそこの下車があった。

さて、14日に続いて大船渡プラザホテルに泊まる。夜は地元の味を求めての居酒屋めぐりかというところだが、この夜は部屋でゆっくりと飲むことにした。そのネタだけ買い求めることにして、隣接するキャッセン大船渡にある地元スーパーのマイヤに向かう。

「キャッセン」というのは、「いらっしゃい」「来てね」を意味する地元言葉の「来ゃっせん」から取られたそうである。マイヤは岩手県~宮城県に19店舗を展開しているが、本社は大船渡にあり、キャッセン大船渡内にある店は言わば本店の位置付けである今は1階建ての広く感じる店舗だが、元は5階建てだったという。震災の津波では3階まで浸水し、従業員や住民数十人が屋上に避難した。4階の売り場にお菓子があったので、それを近くのプラザホテルの屋上に避難していた人に分けるなどして救出を待ったという話もある。幸い、大船渡市内でも内陸にあった店舗が無事だったので、そこにスーパーのネットワークで供給された商品を集め、地元の食のライフラインを支えることもあった。

ホテルで自炊はできないので刺身の盛り合わせとか惣菜などが中心になるが、地酒もしっかり置いている。300mlを何種類か買う。このサイズなら、飲みきれなくても持ち帰りは容易だ。

部屋に戻ると夕方のNHKの岩手ローカルニュースの時間で、その名も「おばんです いわて」。冒頭でアナウンサーが「おばんです」と挨拶するのにおおっと反応する。

県内ニュースがいろいろ伝えられる中で、今回訪ねた、通ったところの話題には目が行く。前夜の8月14日は陸前高田で「改元記念 まちかど盆踊り」というのが開かれたそうで(前日通ったが全く気づかなかった)、その賑わいがレポートされていた。合わせて浴衣コンテストがあり、震災後に陸前高田に嫁いできたという女性の声も紹介されていた。

また、岩手県の一部では例年この時季に成人式を行うそうである。その様子として、南部地区の八幡平市と、三陸の田野畑村の成人式が紹介されていた。田野畑村では遊覧船にも乗っていたし、現在復興工事に従事しているというちょっとやんちゃな感じのお兄さんも真面目に新成人の抱負を語っていた。こうしたニュースも地元局ならではで面白い。

もっとも、旅先でこの時間といえば郷土料理を楽しみに居酒屋にいることがほとんどで、そのぶんこの日夕方のローカルニュースが新鮮に映ったのも事実である。

ニュースの最後は天気予報。台風10号がこの日中国地方に上陸してそのまま日本海に抜けるが、東北は翌日16日は雨風に注意とある。岩手県は進路から外れているが、台風から離れたところも間接的な影響があるそうだ。その後の全国ニュースでは台風の西日本への影響や、山陽新幹線をはじめとした計画運休を中心に取り上げていた。現地はもちろん大混乱だっただろうが、案内が早かったためか、利用客も早めの行動を取って極端なことにはならなかった模様である。

それはそれとして、16日は岩手県内も雨風が強まる予報である。16日の宿泊は普代村の黒崎から別の場所に変更している。それがどこかは改めて触れるとして、いずれにしても長いドライブになる。デスクの上も片付いたので早めに寝ることにする・・・。

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被災地復興を見る~久慈

2019年09月09日 | 旅行記B・東北

久慈駅に降り立つ。折り返しとなる列車は12時08分発ということで1時間ほどある。

今回の旅のプランニングでは、久慈に連泊することも一時考えていた。三陸鉄道を1日で往復全線乗車するとなると1日がかり。レンタカーの移動となるとクルマを1日置いておくことになり、南の盛か北の久慈のいずれかに泊まるというわけだ。その中で今回は盛(大船渡)を選択した。

久慈に来たのは学生の時以来ではなかろうか。東北をぐるりと一周して、JR八戸線から南下して、三陸鉄道の北リアス線(当時)~宮古~山田線というコースだったと思う。その時も久慈は乗り換えで通過しただけだった。それほど記憶にも残っておらず、実質は初めてといってもいいだろう。

その久慈だが、朝ドラ「あまちゃん」の町と言ってもいい。ドラマは見ていないので現地での紹介やネット検索で知ったことだが、ドラマの舞台「北三陸市」というのは久慈市で、三陸鉄道も「北三陸鉄道」としてドラマに登場している。実際の列車を使ったロケも行われたし、ドラマの中でも震災からの復興、運転再開の場面がある。

駅舎には「あまちゃん」のコーナーが設けられ、ポスターやドラマに出てきた小道具も飾られている。

また駅前には「あまちゃんハウス」というスポットがある。ドラマで使われた駅のセットや衣装などある。これらもドラマにハマっていた人にとっては懐かしく、うなるものであろう。

近年、大河ドラマや朝ドラの舞台になったり、主人公ゆかりの地だったりするとそれに絡めた町おこしがさかんである。「あまちゃん」が放送されたのは2013年。当然、震災復興を応援するという狙いがあったのかなと思う。脚本を書いた宮藤官九郎さんは元々「小さな田舎の、地元アイドルによる町おこし」というのがドラマの核で、特に東北を題材としたものではなかったそうだが、さまざまな取材を通して三陸を舞台にしたそうである。また震災についても、フィクションのドラマの中でも実際にあった出来事として触れている。ドラマでは登場人物の誰かが津波の犠牲になったとかいう設定にはせず、人々の心の動きや、その先の希望について描写するというもの。

当時はドラマの中で震災について触れるべきかどうか、視聴者、ファンの中にもいろいろな意見があったそうだが、三陸が舞台になっている以上は「触れない」というわけにはいかず、ただ「どう触れる」かについては相当考えたという。

その時の「ブーム」というのはとっくに去っているが、地元の人たちにとっては震災復興と重ねていつまでも大切にしたい作品なのだろうし、全国的に見ても今でも根強いファンが多い作品と言える。

帰りの12時08分発の宮古行きに乗ろうとホームに出る。8月15日、そういえば(という言い方は怒られるだろうが)終戦記念日である。同じく列車を待つ人同士の会話で「天皇陛下が替わって初めてだねえ」という声も聞こえる。

宮古行きは2両編成。それでも1ボックスあたり2~3人ほどの盛況である。少し前に八戸からの列車が久慈に着いており、そこからの乗り継ぎも多いのだろう。こうしてみると八戸線も久しぶりに乗りたかった。やはりまたいずれか、鉄道とBRTを純粋に乗り継いでの三陸縦断をやりたいなと思う。

昼食は久慈で購入した「うに弁当」。東日本屈指の人気駅弁で、予約以外は1日20個限定販売だという。早い時は朝のうちに売り切れるそうでどうなのかなと思って声をかけると、「少し待って」と言われる。するとパックからウニを取り出し、敷き詰めたごはんの上に並べる。そして包装して「お待たせ」である。待ったといっても2分くらいのものだ。ただ私の後にも次々に注文の声がかかっていたので、20個限定なら昼の時間で完売になったのではないかな。そして、こういうものが手にあるということなら帰りは「飲み鉄モード」発動である。駅には置いていないので、ホームに向かう前にあわてて駅前の個人経営の酒屋に走った。

実にシンプルな駅弁である。ウニの煮汁で炊いたご飯の上には、5~6個分あるというフレーク状の蒸しウニが乗っかる。添えているのはたくあんとレモンのみ。ウニがフレーク状というのは、「うに弁当」として紹介されている画像とはちょっと違うように思うが、ウニはウニである。三陸の味ということで美味しくいただく。

帰りも同じルートということになるが、その中で何か変化はあるだろうか・・・。

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被災地復興を見る~三陸鉄道・往路(宮古~久慈)

2019年09月08日 | 旅行記B・東北

宮古で乗客が入れ替わった9時23分発の久慈行きは、市街を抜けて長いトンネルに入る。やってきたのは一の渡駅。三陸鉄道における秘境駅である。三陸鉄道というと海沿いを走る景色がよく紹介されるが、こうした山の中の小さな駅もある。

一の渡を出るとまた長いトンネル。このトンネルを抜けると窓ガラスが曇る。トンネルの中と外の温度差が大きいのだろう。この先も写真のような見え方の区間が多い。

田老に到着。田老といえば高い防潮堤がある町ということで、私も小学校や中学校の地理で習った覚えがある(教科書に載っていたのかな)。明治、昭和の大津波で町が大きな被害を受けたことを受けて、45年ほどかけて巨大な防潮堤を築いた。「万里の長城」と呼ばれるほどで田老町(現在は宮古市に編入)の名物だったが、東日本大震災の津波は「万里の長城」をいとも簡単に乗り越えた。田老地区だけで200人以上が津波の犠牲になったのだが、立派な防潮堤があることの安心感から逃げ遅れた人が多かったとも言われている。

田老を過ぎると「新田老」という駅名標とホームが見えた。宮古市の田老総合事務所の新築移転にともない新たに設けられる予定の駅である。

田老までは旧国鉄の宮古線として造られたが、この先普代までは三陸鉄道の開通により開通した区間ということもあって、トンネルがもっと長くなる。トンネルとトンネルの間に駅があるという感じだが、地形によるところも多い。三陸鉄道が開通する前は海べりの集落間の移動は、険しい山道を行くか、それこそ船で行くかだったという。

その中で津波で鉄道も大きな被害を受けた島越、田野畑を過ぎる。中でも島越は駅舎、線路も津波で流されたところで、駅に隣接して慰霊碑もある。ただ霧が濃くて写真が撮れない。

普代、白井海岸を過ぎる。堀内(ほりない)の手前で減速する。大沢橋梁で、海をバックに列車が走る写真の定番である。もっとも列車に乗っていたのでは列車込みの景色は見られないのだが、ここでしばらく停車して、車内からの撮影タイムとなる。山側のボックス席にいる人も海側に寄ってきてカメラやスマホを構える。

堀内はドラマ「あまちゃん」で「袖が浜」駅として登場したところ(ドラマを見ていないので、そうですかという感じだが)。

堀内を出てすぐに過ぎるのは安家川(あっかがわ)橋梁。秋には鮭が遡上する清流である。またも高いところからの展望となるが、数分前に渡った大沢橋梁と対照的に霧が濃い。朝、盛から三陸鉄道に乗って来て、天気の移り変わりを感じていた。台風も西日本に来ているから天気が不安定なのはわかるが、これは曇りとは違う霧である。島越は窓が曇っていたから写真はないが、駅の周りは霧で覆われていた。

そうか、これが三陸の海霧なんやと。内陸で朝にできる霧とはまた違った景色である。三陸沖は南からの黒潮と北からの親潮がぶつかるところだが、夏に張り出す太平洋高気圧の空気が親潮で冷やされ、水滴となって現れる。それが海霧の正体である。そしてそれが巨大な固まりとなり、海からの風で流されると昔から農作物にも影響を及ぼす「やませ」となる。

十府ヶ浦海岸から陸中野田にかけても約18メートルの津波により大きな被害を受けた。町並みの高台移転と同時に、かつて町並みがあったところには防潮林や緑地公園が整備され、三陸鉄道の路盤も再建時には第2堤防として造られた。

11時07分、久慈駅のもっとも端のホームに到着。盛から163キロを1度乗り換えで4時間半かけて到着した。長いようなあっという間のような時間だった。ここで約1時間滞在して、折り返し乗車とする・・・。

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被災地復興を見る~三陸鉄道・往路(盛~宮古)

2019年09月07日 | 旅行記B・東北

8月15日、ニュースは前夜から台風10号関連一色だった。15日朝の時点では太平洋上にいて、西日本への上陸が予想されていた。結果を先に書くと、台風はこの後で豊後水道から愛媛の佐田岬を通過し、午後に呉市に上陸、中国地方から日本海に抜けるコースを取った。

台風による死者は2名、怪我人が57名という発表で、近年の災害を思えばまだマシだったといえるが(被害に遭われた方にはお見舞い申し上げます)、前日からの動きとして交通機関への広い影響のほうがニュースになったように思う。中でも大きかったのが、山陽新幹線を15日朝から終日全線で計画運休するというものだ。ちょうどお盆の時季、早めに移動しようと前日の新幹線も大混雑したという。他にも四国、岡山、広島、山口の在来線も終日計画運休となり、青春18きっぷでこのエリアを旅しようという人たちも大変だったのではと思う。

さて旅先の大船渡、この日の天気はまずまずの予報。1日で三陸鉄道全線を往復するわけだが、車窓は楽しめそうだ。ただ、外を見るとどんよりと曇っている。

レンタカーをプラザホテルの駐車場に残して、ホテルに隣接する大船渡駅に向かう。6時25分発の盛行きBRTで、これに1駅だけ乗る。かつての鉄道の路盤を道路に造り変えたもので、この上をバスが走っていく。道路と交差するところは信号になっていて、一部には専用道路への誤進入を防ぐための遮断機がある。バスが近づくとこれらが感知して、バスがスムーズに走行できる仕組みである。

5分ほどの乗車で盛駅に到着。かつて気動車が発着していたホームに横付けされ、普通のバスのように運転席横の運賃箱に小銭を入れる。

盛から久しぶりの三陸鉄道の乗車である。全線フリーきっぷは6000円。結構な値段に見えるが、盛~久慈の片道通しで3710円するし、フリーきっぷは2日間有効である。本来は途中下車を楽しみながら乗り通すべきなのだろうが・・。また、南リアス線版、北リアス線版など区間限定の1日フリーきっぷもある。

6時42分発の釜石行きは、鉄道旅行らしい姿が何人かいる程度。普段なら通学利用があるのだろうがガラガラで出発する。ボックス席の真ん中にテーブルが据え付けられている。観光利用ならこの上に食べ物を並べてというのもいいだろう。

それにしても、窓が曇っている。相当湿度が高いのだろう。車内から窓を拭こうとするが曇りは取れず、これは外からのもののようだ。三陸鉄道はトンネルが多く、トンネルを抜けるとしばらくは冷気を残すためか窓はくっきりするのだが、またしばらくすると曇ってくる。車窓の写真が厳しいが、これはなるようにしかならないなと思う。

綾里、恋し浜という旅心をくすぐられる名前の駅を過ぎて、三陸で列車行き違いのためしばらく停車する。三陸駅とはスケールの大きい名前である。ホームには七夕の吹き流しが飾られている。

この後は海岸に近い区間も走るが、外の湿気で窓が曇るのでぼやけたまま見る。まあ、翌日同じようなところをレンタカーで走るので、その時に改めて見ることにするか。

7時31分、釜石に到着。次に乗るのは7時50分発の久慈行きである。待ち時間が20分あるが、ここはせっかくなので海側の席を確保したい。久慈行きは宮古方面からの折り返し列車のようなので、改札口は出ずにそのまま乗り換えホームで待つ。向かいには釜石線の快速盛岡行きが待機している。

三陸鉄道を乗り通すと書いているが、釜石~宮古はJR山田線だった区間である。この線も津波に遭ったところで、どのように復旧させるのかが焦点だった。当初、JRは気仙沼線や大船渡線と同じくBRTで仮復旧させたが、鉄道の再建コストを考えてそのままBRTでの復旧を地元に打診した。しかし地元の反対もあり、その後さまざまな経緯があった結果、JRが鉄道復旧までの整備を行い、復旧後は施設を地元自治体が所有、列車の運行は三陸鉄道に移行することになった。これにより、それまでは山田線を挟んで三陸鉄道の南リアス線(盛~釜石)と北リアス線(宮古~久慈)とだったのが、盛~久慈まで一本の「リアス線」となる。そして今年の3月に「リアス線全線開通」となり、地元の明るい出来事となった。地元の財政負担の現実は厳しいのだろうし、JRが山田線を復旧させたのは見方によっては「手切れ金の代わり」なのかもしれないが、三陸が一本のレールで結ばれることの効果を選んだ形である。地元も新・三陸鉄道を全面的に支援するだろうし。

久慈行きは1両でやって来た。車体にはラグビーワールドカップのPRが書かれている。釜石はかつての新日鐵釜石に表されるようにラグビーが盛んなところで、今年開催のワールドカップでも復興支援を兼ねて試合が組まれている。早くに並んだおかげで海側のボックス席に陣取ることができた。

入り江とトンネルが交互に広がるところで、その合間に三陸自動車道の高架橋が姿を見せる。三陸鉄道が新たに生まれ変わったといっても、こうしてみるとやはり道路優先なのではという気がする。

復興住宅が並ぶ両石の次が鵜住居である。釜石市の中でも特に津波被害が大きかったところだが、駅前を中心に新たな町造りが進められている。また遠くには工事が進む鵜住居スタジアムが見える。あそこがラグビーの試合会場である。翌日レンタカーで北上する時には鵜住居には改めて立ち寄ろうと思う。

防潮堤が築かれている大槌湾を見て、釜石市から大槌町に入る。列車行き違いのためにちょっとだけホームに出る。大槌町は震災の津波で町長をはじめとして多くの職員が犠牲になっている。地方自治体の首長が津波で帰らぬ人となったのは大槌町だけだという。

この先は吉里吉里、波板海岸と風光明媚なところを走る。吉里吉里では木彫りの人形たちがホームで出迎えてくれる。波板海岸の辺りでは高台を走り、松並木の向こうに海を見る。相変わらずどんよりした曇り空が続く。

また標高が低くなり、陸中山田に着く。この一帯も津波で大きな被害に遭った中で、駅舎も新しくなり、周囲も少しずつ建物が並ぶようになっている。この辺りから駅ごとの乗客が増え、1両ということもあって宮古に近づくにつれて立ち客も出るようになる。

陸中山田からは一度内陸部に入る。この辺りで、朝からどんよりしていた雲も晴れ、青空も見えるようになった。

津軽石という駅に着く。この先に津軽石川という川に沿うが、ここも高い堤防が築かれている。結構奥まったように見えるが宮古湾に注ぐ河口の辺りで、津波の時には津軽石川の水が逆流し、堤防を超えて列車や駅にも押し寄せたという。

閉伊川を渡って9時15分、宮古に到着。ここで8分停車し、乗客のほとんどが入れ替わる。しかし立ち客が多いうえに、主要駅なのにワンマン運転のため出口が前方1ヶ所で、そこで精算を行うから時間がかかる。さらに、ホームには1両の乗車を待つ長い列ができている。そしてまた満席、立ち客も出るほどになった。これまですれ違った列車はすべて2両だったのに、なぜこの列車だけ1両運転なのだろうか。

宮古から先は北リアス線区間となる。同じ列車の中だがこの先は次の記事にて・・・。

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被災地復興を見る~大船渡

2019年09月05日 | 旅行記B・東北

2019年の「大船渡」と聞けば、大船渡高校の佐々木投手を連想する人が多いだろう。メジャーのスカウトも注目する選手だが、特にその名が全国に広まったのが、岩手県大会決勝戦の花巻東高校との試合での登板回避といえる。大船渡の監督が故障のリスクを回避したためというが、全国の野球ファンの中でも賛否両論あったことである。そこまでの経緯を詳しく知らないのだが、私個人としては致し方なかったのかなと思う。

旅をしていた8月14日当日、甲子園大会はまだ2回戦。大会はこの後で履正社高校が星稜高校に勝って甲子園初優勝となるが、大会を通して星稜の奥川投手の評価も上昇した。この秋のドラフトで佐々木、奥川両投手には何球団が1位指名するかが早くも注目されている。さて、バファローズはどうするかな。

話を14日に戻す。この日と翌日に宿泊するのは大船渡駅前にある「大船渡プラザホテル」だが、いったん通過して4キロほど先にある盛駅に向かう。大船渡線のBRTと三陸鉄道の接続駅で、翌15日は三陸鉄道に乗るのだが、早朝の出発のため今のうちに全線フリーきっぷを買うことにする。また、盛駅の周りに駐車場があるかも見ておきたかった。

JRと三陸鉄道の駅舎が隣接して並ぶ。駐車場は駅前のロータリーにあるが、あくまで送迎用の扱いで、長時間の駐車ははばかられる。また周りにはコインパーキングもない。というわけで翌日はBRTに大船渡~盛の1駅分だけ往復で利用することにして、レンタカーはホテルの駐車場に1日停めたままにする。レンタカー代1日分がもったいないのではという声が聞こえてきそうだが、三陸鉄道に乗ることも旅の大きなポイントなので致し方ない。

共用のホームに出てみる。駅舎に面した片面ホームと、橋を渡った島式ホームの2本がある。駅舎側と向かい側には線路があったはずだが、今はBRT用としてかさ上げして舗装されている。ホームの高さはちょうど道路に面した歩道くらい。駅舎側が降車専用で、バスはその先で旋回して向かい側の乗車ホームに着く。そのホームでは三陸鉄道とBRTが並ぶ形となり、気動車とバスを同じレベルで乗り換えるという、おそらく全国でもここだけという光景となる。これは翌日のお楽しみだ。

その向こうには線路と貨車が見える。岩手開発鉄道という石灰石輸送専用の貨物線である。かつては旅客営業をしていた時期もあったそうだ。

大船渡に戻り、プラザホテルにチェックインする。BRTの大船渡駅の目の前で、建物も新しい。ただこのプラザホテル、大船渡の老舗とも言えるのだが、最大で12メートルの高さとなった震災の津波で一帯は壊滅的な被害を受け、ホテルも損壊した。今の建物は震災後の新たな町造りの中で移転新築されたものである。このホテルに泊まることじたい、被災地復興を見るという今回の旅のテーマにマッチしている。

部屋は広いタイプのシングルルーム。窓からは同じく復興で整備された商店が集まる「キャッセン大船渡」を見ることができる。2晩泊まるわけだが、この「キャッセン大船渡」の中だけで食事は賄えそうである。

時刻は17時を回ったところ。早めの一杯ということで、どんな店があるのかキャッセンに向かう。そして一番ホテル寄りにある「鮨ささき」に入る。大船渡の名店だそうで、震災後は仮設店舗で営業していたが、キャッセンの開設を機に本営業を再開したという。鮨がメインだが夜は居酒屋の一品も数多く取り揃えていて、外に出ていたメニューを見て入ることにした。

ご飯ものは後でどうにかするとして、やはり三陸の海の幸である。

刺身の盛り合わせ、値段は結構するが地元の歓迎の印としてありがたくいただく。

マンボウのとも和え。「とも和え」とは魚介類の身と肝を和えたもので、これまでアンコウのそれはいただいたことがあるが、マンボウとは。マンボウじたい口にする機会があるわけでなく、美味いものか否か判定難しいのだが、ただこの一品はよかった。

そして、店としてはお手軽な一品なのだろうが、西から来た者にはレアなホヤの刺身。それも、殻はそのままで中に盛り付けたもの。乾物や燻製を悠に超える美味さである。切り身と一緒に液体(ビールでも酒でも水でもよい)を口に含むと口の中に甘味が広がる境地も楽しむ。これをいただいたことで、三陸に来た満足感が一気に高まる。

もう一品ということで、サメの心臓の刺身と迷った後で注文したのはマグロのカマ焼き。大ぶりで身も厚かった。三陸の幸を満喫できたところで店を後にする。

まだ外が明るいので町並みを少し見る。津波被害が大きかった大船渡、高い防潮堤が築かれている。

地元スーパーのマイヤで翌朝の食事を買ったり、書店で震災関連のものを手にしてプラザホテルに戻る。まあ、後は部屋でゆっくり過ごそう。連泊なので気持ちも楽だ。旅行会社は朝食つきで手配してくれたが、朝食時間よりも前に出発してしまうので・・・。

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被災地復興を見る~陸前高田

2019年09月04日 | 旅行記B・東北

旅行記が長くなっている今回の旅、ようやく岩手県に入る。陸前高田に泊まることも一時は検討してみたが、翌日15日に三陸鉄道を盛~久慈間往復することにしたため、起点に近い大船渡にした経緯がある。

時刻も15時半となり、気仙沼からは国道45号線が道なりに三陸自動車道に続くのでそのまま走る。陸前高田で下りると、町並みの高台移転が進む市の中心部に出てくる。まだ区画整理が行われたところで建物の数は少ない。

陸前高田で見るのは「奇跡の一本松」である。今でこそ震災遺構があちらこちらで整備されているが、いち早くそうした動きを見せたスポットの一つである。前回6年前の被災地めぐりではここが北の端だったが、その時書いた記事を見返してみると、観光地化の動きに向けてやや冷やかに見ていたように思う。ただ、今回前日からいろいろ回る中で、そうしたスポットも必要ではないかと思うようにもなっている。震災のこと、津波のことも特に違う地域に住む者の中では風化している面もあるが、こうしたスポットがあれば訪ねる目印ともなる。物見遊山気分で行くところではないかもしれないが、遺構と合わせて復興も見るということでもよいのではないかと思う。

前回訪ねた時は国道45号線沿いに更地の駐車場があるだけだったと思うが、今回来ると土産物や飲食店もできている。

その一角に、地元の語り部の人の手による写真展示室がある。陸前高田の各地区の被災~復興の様子の写真が壁一杯に並ぶ。家族連れも食い入るように見ていて、中学生くらいの子もメモを取っていた。震災があったのが8年前だから、この子どもはまだ小学校に上がるか上がらないかくらいで覚えていないだろう。ただ子どもはもちろん、大人も学ぶところは多い。写真もそうだが、メッセージに語り部の熱い思いが込められている。

「奇跡の一本松が何故残ったか?」という問いには、色々な要件が重なったとしつつも、「津波の高さよりも枝の部分が高くスルーした」、「ユースホステルが防波堤替わりをして守ってくれた」、「気仙川の流れる水が津波の力を弱めた」という考察をしている。

その一方で、日ごろからの「避難」に対する意識を見学者に問いかけている。「避難所に行ったことがあるか?」、「その避難所が安全かどうか真剣に考えたことがあるか?」、「その避難所にどういった備蓄・設備があるか知っているか?」・・。これを大きな間違いと断じたうえで、日本という国が自然災害のリスクが一番高い先進国と認識するよう訴えている。最後には、東日本大震災の出来事を自分事として考え、家族で災害の際に避難する場所・集まる場所を決めておくように訴えている。実際のメッセージはもう少し激しい口調で書かれているのだが、そこまで言わないと一般の人たちには伝わらない実態もあるのだなと思う。


奇跡の一本松だが、道路工事中ということもあり、しばらく国道沿いに歩いて向かう。国道の向かい、海側には新しい施設ができつつある。この9月22日に高田松原津波復興祈念公園というのが開かれるそうだ。被災した道の駅・高田松原も移転して再開する他、国営の追悼施設、津波の伝承施設も新たに設けられる。奇跡の一本松や、被災した道の駅の建物も震災遺構として公園の中に組み込まれることになる。

そして奇跡の一本松に着く。後ろのユースホステルの建物ともども震災遺構。もっとも目にしている一本松は当時の木がそのまま生えているわけではなく、防腐措置や補強、さらにはブラスチックや合成樹脂などによる複製を経たものである。奇跡の一本松についてはこうした経緯もあって地元でも保存の是非がいろいろ言われていて、それが私もやや冷やかに見たことにつながる。今回、一本松だけではなく道の駅なども含めた公園として整備するというのは、もっと広く震災について触れることにつながるので前進と言える。またいつの日か、その公園も訪ねてみようと思う。

この日(8月14日)は女川を出発して海沿いに大船渡までレンタカーで走行だが、当初思っていたより時間はかかった。東北にそれほど土地勘がないので距離を甘く見ていたところもあった。ただその中でも復興の様子、震災の伝え方に対するさまざまな考えというのを少しでも見ることができたのは得るところ多かった。

陸前高田から先は震災以降初めて訪ねるところばかりである。旅の日程もようやく折り返しに差し掛かり、またどのような景色を見ることができるか期待するところである・・・。

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被災地復興を見る~気仙沼

2019年09月02日 | 旅行記B・東北

8月14日、午後をすっかり回ったところで気仙沼の市街地に入ってきた。震災発生からこれで3回目の訪問だが、前回から6年経っており、町の様子もすっかり変わっている。津波に遭った南気仙沼駅の姿というのも覚えているのだが、BRTとなってからは県道沿いに移された。これまでは港への最寄り駅だったが、少し離れた形となる。

港に向かう前にいったん気仙沼駅方面に出て、回り込む形で港にやってきた。こちらもすっかり様子が、町の形が変わった。

かつて商店が並ぶ一角、津波の大きな被害があったところに「グラウンドゼロ」というのがあった。2001年に発生したアメリカ同時多発テロの現場になぞらえて、震災を忘れてはならないとのモニュメントとして、被災した漁船の浮き玉や大漁旗などを飾り立てた。地震発生時刻の14時46分を指した時計も置かれた。前回訪ねた時は敷地も広がり、小公園の趣もあった。

大島行きのフェリー乗り場には新たな施設ができているし、その横も新たな商店街の建設が進んでいる。確かグラウンドゼロはこの辺りだったのではと思うが、かさ上げ工事にともなう道路整備のため、2015年には撤去されたという。市ではなく個人の方が自力でやっていたものなので仕方ないか。

漁港に回る。昼食がまだで、おさかなセンターではどうかと中に入るが、この時間にも関わらず食堂は長蛇の列。やはり手前で済ませておけば、と残念がる。他に海産物が販売コーナーに並ぶが、生ものか冷凍加工品がほとんどで、旅で持ち歩くには不適だ。残念だが仕方がない。

仕方がないといえば、本当はこの先の町の中心部の復興の様子も見たかったのだが、時間が押している。この日の宿泊地である大船渡まではまだ40キロ近くある。

押しているという時間だが、今の時刻はこれ。このガソリンスタンドも津波に遭ったが、地震発生の14時46分で止まっている時計を掲げている。その時刻と、今歩いているこの時刻がピタリ合っているのだ。意図したことではなく全くの偶然である。気仙沼はこれでいいかなと思った。先ほどの伝承館や岩井崎といった、元々予定に入っていなかったスポットに接することもできたし。

港の先を見るのはまた次の機会として、市街地を北に抜けて唐桑町に出る。気仙沼線の鹿折唐桑駅近くに巨大な漁船「第18共徳丸」が打ち上げられていて、一種の観光スポットになっていたところだ。気仙沼市は保存を目指し、船を保有していた水産会社も同意していたが、住民の反対により漁船は撤去され、今は復興住宅が建ち並ぶ一帯である。まあ、漁船についてはこれまで多くの人が訪ねるとともに、画像や映像も多く残されている。先ほどの伝承館にもあったはずだ。今はそうした技術は発達しているので、アーカイブとして残すというのも選択肢だと思う。これも地元の人たちが出した答えである。

さて大船渡に向かうのだが、その前に陸前高田を通る。陸前高田といえば・・ということで、あのスポットには立ち寄ろうと思う・・・。

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被災地復興を見る~階上(気仙沼市)

2019年09月01日 | 旅行記B・東北

東日本大震災による気仙沼市での死者・行方不明者は約1400人に上る。前回6年前、さらにさかのぼって震災発生から約100日後と、震災後にこれまで2回気仙沼市を訪ねているが、いずれも市の中心部が中心だった。

今回ももちろんその様子を訪ねるのだが、前日にネットで震災遺構などの情報を見ていると、今年3月、市の南部の階上地区に新たなスポットができているということを知った。それが気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館である。ネットの口コミでも「ここはぜひ行くべき」という感想が多く寄せられているようだ。国道45号線から少し東に折れて向かってみる。

周囲に更地が目立つ中、4階建ての学校の校舎が見えてきた。ここがその場所のようで、他のクルマも頻繁に出入りしている。入口には「宮城県気仙沼向洋高等学校」とある。この高校は120年近い歴史を持ち、元々は水産を専門とした高校だったが現在は情報科学や機械技術の学科も持つ総合高校である。震災の当日は約170名の生徒と数十名の教職員が校内にいたが、校舎の4階に到達するくらいの津波だったが全員が避難して無事だったという。高校が後日まとめた「その時、現場はどう動いたか」という文書によると、さまざまな要因、幸運が重なったとはいえ、生死の分かれ目となったのは、津波に対しての「危機意識の高さ」だったとしている。そのために生徒も迅速に避難したし、教職員も「マニュアル保持とそれを超えた行動ができた」としている。

もっとも地元の人の中には津波の犠牲になった人がいたわけで、複雑な思いを持つ向きもあるだろうが、高校生、教職員に犠牲者が出なかったのが後押ししたのだろう。校舎を震災遺構として保存し、かつ伝承館という建物を新たに整備した。また校舎も津波当時の様子をあえてそのまま保存し、見学ルートとして中に入って見ることができる。この「遺構の中を見学できる」というのが口コミでもプラス評価となっているようだ。

入館するとまずは20分ごとに上映される映像シアターに案内される。ここでは震災時の映像が流される。建物が密集した中心部を津波が襲い、必死に逃げようとする人やクルマ。湾内では漁船が流され、また漏れた燃料に引火したことにより火災が発生。住民たちの「ヤバい!」「逃げて!」という必死の声も入る。震災当時、ニュース映像として流れたものもある。今見ても衝撃的である。それが10分以上続く。

この後は津波が引いた後の市内の写真パネルが続く。

そして高校の南校舎に入る。1階から4階、そして屋上の一部を見学ルートとして開放している。先ほどの映像や写真パネルの展示室は撮影禁止だが、これから見学ルートとなっているところは写真撮影も可である。パンフレットにはそれぞれの教室配置図が書かれている。

それぞれ津波でぐちゃぐちゃになってしまったが、ほぼそのままの状態で保存しようというものである。保健室ではベッドや布団などが当時のままに残されている。

会議室や校長室もそのままである。

続いては3階まで上がる。ここは送信練習室と電気磁気室を見ることができる。送信練習室には防風林の松の木が打ち上げられたのがそのまま残されている。

そして電気磁気室。教科書やノート、書籍もここに残っているが、さらに驚くのはクルマがひっくり返って漂着している。高さ8メートルの位置だが、ベランダのフェンスをなぎ倒して教室の中に流れ着いたという。人の手で同じようにクルマをここまで持ってこいと言われても難しい話で、自然の驚異を改めて感じる。それにしても、よく犠牲者が出なかったものだと思う。

4階が津波の到達地点、約12メートルという。先ほど訪ねた小金沢駅も同じくらいの高さだ。通信実習室に金属製のレターケースがあり、その下半分が錆びている。そのことから津波がここまで到達したことがわかる。

さらにベランダの外には壁が壊れた跡がある。近くの冷凍工場の建物がここに衝突したのだという。その工場の壁材に使われていたスポンジが部屋の中に流れ込んだ。この衝突跡は外から見てもはっきりわかる。

屋上に上がる。ここには何脚かの机が置かれている。生徒や教職員は避難したが、それでも一部の教職員と、奥で建設中の北校舎の工事関係者が校内に残っており、重要書類やサーバを上の階に移動するなど行っていた。最後に屋上に避難したが、それでも少しでも高くということで机を積み上げたのだという(その後、流れ着いたボートを引き寄せ、全員無事に脱出することができた)。

ここからは被災した体育館の様子や、町の様子もよく見ることができる。

一度外に出て、北校舎と総合実習棟の間に向かう。ここも津波の跡をそのまま残しており、がれきと一緒にクルマが折り重なっているのを見る。ここは引き波の通り道となったそうで、内陸にあったものが海に戻される途中で引っかかったのだという。今は撤去されたようだが、当時は家屋も引っかかったそうである。

南校舎と北校舎の間の中庭に1本の木が生えている。昭和40年度の卒業生が記念植樹したものだとある。この中庭にも津波が押し寄せ、クルマや家屋が校舎に引っかかったくらいだが、この木だけは奇跡的に残ったのだという。

ここまで津波の脅威を当時に近い状態で保存している震災遺構を見たのは初めてである。映像や写真は数多く残っているが、こうした「現物」が目の前にあるというのはその何倍もの説得力があるように思う。

校舎の見学を終えると再び展示コーナーとなり、こちらでは復興の様子を記録した写真や、家族を失った後で立ち直ろうとする人たちの様子を描いた映像がある。時系列で震災と復興について学ぶことができる。最後には見学者が付箋に感想を書き、メッセージボードに貼りつけるコーナーがあるが、夏休み期間中ということもあってか1日ごとに設けられたボードも連日付箋でいっぱいである。私も何がしかのメッセージを書き、ボードに1枚貼らせてもらう。

この東日本大震災遺構・伝承館には1時間ほど滞在したわけだが、遺構の中を見学できること、また今回接することはなかったが語り部による体験談を聴くことができるとあって、風化が懸念される中で震災の伝承スポットとして修学旅行や外国人旅行者が訪ねることも多いそうだ。

翌々日付の地元紙・河北新報でも1面で取り上げていたが、今年3月の開場以来、7月末までに4万3000人が来館、早くも年間目標7万5000人の半数を超えて出足は順調だという。しかし、来館者が目標数に達しても約1500万円の赤字で、不足分は気仙沼市の一般会計から補てんするという。

国(復興庁)は震災遺構の整備を支援するということを、この前の南三陸町の記事でも書いた。ただよく読んでいくと、支援金である復興交付金で整備できるのは各市町村で1ヶ所までで、その対象は保存に必要な初期費用のみとされている。その後の維持費用は各自治体が負担するということで、これも震災遺構の保存の賛否が分かれる要因なのだとある。こうした見方というのはこれまであまり気づかなかった。被災者の心情もそうだが、費用という現実的な面もあったわけだ。そのために取り壊して慰霊碑のみとしたところもあったのだろう。自治体によっては維持費用として基金を設けたり、ふるさと納税を充てたりとそれぞれに苦労があるそうだ。

この東日本大震災遺構・伝承館は慰霊というよりは学習スポットとしておすすめしてよいところだと思う。交通はBRT気仙沼線の陸前階上駅から徒歩20分ほどかかる。

この先にある岩井崎まで行ってみる。長い年月をかけて海水が侵食した石灰岩の地質である。また江戸時代には仙台藩が塩づくりをしていたという。この日は結構風がつよく、遠くから白波が立っているのが見える。ただ先ほどの気仙沼向洋高校を襲った津波もこの海岸を伝ってきたものである。石灰岩の岩場から離れたところでは護岸工事が行われ、防潮堤が築かれている。

その海岸を向いて左右に二つ立っているものがある。

一つは、気仙沼の出身で江戸時代に第9代横綱となった秀ノ山雷五郎の銅像。現代の横綱のように「大関で2場所連続優勝、またはそれに準ずる成績」という基準で昇進するものではなく、大関の中から吉田司家により横綱の「免許」を授与されるという、いわば名誉職のようなものである。どこかで聞いた名前だなと思うと、現在の年寄名跡に「秀ノ山」の名前がある。江戸時代の横綱のしこ名がそのまま年寄に引き継がれているケースの一つのようで、現在の保有者は現役の琴奨菊。この像も津波に遭ったが、そのまま持ちこたえたという。さすが、土俵際で残すとは横綱である。

もう一つ立っているのは「龍の松」。津波で多くの松の木がなぎ倒された中で、この1本だけがこのような姿で残った。それが龍が天に昇る様子に見えるとしてこの名前がついた。一時は枯死しそうになったが、鎮魂と復興の願いを込めるとして加工を施し、現在に至っている。こうして見ると、横綱と龍が階上の地の守り神になっているように見える。

その間にあるのが潮吹岩。これは波が岩場に衝突すると、時折高い水しぶきを上げるのでその名前がついた。案内記事では10メートルはあろうかという高いしぶきが上がる写真が多い。この日訪ねたところは高さはそれほどではなかったが、それでも東映映画のオープニングを彷彿とさせるような景色である。で、そこから張本や大杉や土橋が出てくる・・・って、それは東映違いか。

気仙沼に入る前に思わぬ形でいい寄り道となったが、昼の時間は結構過ぎている。この後気仙沼市内で海鮮の昼食をと思い国道45号線に戻るが、大丈夫だろうか・・・。

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被災地復興を見る~南三陸町

2019年08月31日 | 旅行記B・東北

国道398号線から国道45号線に出たところにあるのが気仙沼線の陸前戸倉駅。内陸にある前谷地を出た気仙沼線は、この辺りから海沿いを走ることになる。

とは言うものの、現在の気仙沼線は鉄道ではなくBRTでの運行である。前谷地~柳津間は列車の運転もあるが、気仙沼に直通するのはBRTである。バスは柳津~陸前戸倉までは国道45号線を走り、陸前戸倉からはかつての線路の路盤を改修した専用ルートを主に走行する。BRTは元々は自動車渋滞の緩和や環境対策として取り入れられた交通システムだが、この気仙沼線と、この先の大船渡線(気仙沼~盛)については、津波被害からの復旧が困難で、また採算も見込まれないことから実質鉄道廃線~バス転換により誕生したものである。もっともJRとしてはあくまで現役の路線の一つという位置づけである。

BRTはバス単体での運行ということで、必要があれば増発も容易だし、駅(停留所)の配置やルート設定も柔軟にできる。町が高台移転すればルートを変更して駅(停留所)が設けられたケースもある。現に鉄道時代よりも運行本数は増えているし、後に訪ねる陸前高田の「奇跡の一本松」も新たに設けられた駅(停留所)だし、支線ルートができたりもしている。

こう書くとBRTは良いことづくめのように思われるかもしれないが、やはり道路と同じスピード制限があるし、朝夕は交通渋滞に巻き込まれることもあり、鉄道より所要時間が延びたという話もある。何事も100%とはいかない。

こういう話になると、鉄道が失われたことで町の存在感が低下した・・と思ってしまうのは、鉄道ファンの勝手な気持ちだろうか。要は地元の人たちがどう感じているかだが。

繰り返しになるが、今回BRTでの移動を組まなかったのは残念である。あれこれ書くのなら、やはりまずは乗らないと・・。

時折BRTの専用線を見ながら国道45号線を走る。沿線は三陸自動車道も整備されているし、入江をオーバークロスする高架橋の建設も進められている。地域全体としては、いかにクルマでのルートを確保し、強化するかに重きが置かれているように見える。まあ、そうなんだろう。

そんな中、南三陸町の中心の志津川に差し掛かる。その中心スポットが「南三陸さんさん商店街」。前回訪ねた時はもう少し内陸のほうにあり、仮設店舗が何軒かあって頑張ってるなという印象だったが、今はかさ上げした土地に28の店舗が集まっている。駐車場に入るのも少し待たなければならないくらいの賑わいだ。

地元の人向けに日用品を扱う店もあれば、観光客向けに「南三陸キラキラ丼」というご当地の海鮮丼を出す店もある。興味を引かれたがまだ昼には時間があるし、食事はこの先の気仙沼かなと思っていたので、ここは見るだけにする(後でこの判断を悔やむことになるのだが・・)。

その一方で引かれたのが商店街の一角にある写真店。この「さりょうスタジオ」、店主の佐藤信一さんによる「南三陸の記憶」という展示館でもある。事前にこうしたスポットがあることを知らず、「南三陸の記憶」の案内パネルを目にしてもどこか別の場所でやっているのかなと追って行ったら実は目の前の写真店だった。

南三陸町での津波による死者・行方不明者は約900人。かつての津波の教訓から防災意識も高い町だそうだが、それでもこれだけの犠牲者が出た。また、南三陸町の防災対策庁舎のことも悲劇として伝えられている。最後まで防災無線で避難を呼び掛けた職員が津波に呑まれてしまったところである。これが大きく取り上げられて、防災対策庁舎は慰霊の場として多くの人が手を合わせることになった。

私が前回6年前に訪ねた時も、この防災対策庁舎については「ぜひとも行かなければ」という気持ちがあった。そして現地に着き、その生々しい様子や、まだ建物の残骸が残る周囲の様子に心を痛めつつも、「すごいもん見た」という興奮のようなものを感じたのを覚えている。地元の人たちから見れば実に無礼な思いなのだが。

その3月11日、津波が来るとなった時、佐藤さんはカメラを持って高台に避難した。そして町を襲う津波の様子を記録した。展示パネルには時刻が挿入されていて、その光景を分刻みで伝えている。徐々に水位が高まり、水面の下に沈む建物、少しでも高いところにしがみつく人たち、それらが切迫感とともに見るものに伝わってくる。佐藤さんの自宅兼写真店もこの時に流されてしまったそうだ。それでもこの時を残さなければならない・・写真家の性なのかもしれないが、当時の状況がどのようなものだったのか、その一瞬は?・・というものをこうして少しでも共有できるのは実に貴重だと思う。

佐藤さんはその後の避難生活、そして復興への道のりについて「写真の力を信じて」「伝えてゆく」ということをテーマとして写真を撮り続けてきた。時が経つにつれて地元の人たちの笑顔のカットも少しずつ増えたように見える。そして到達点の一つが、楽天イーグルスが2013年に優勝した時。さんさん商店街でもパブリックビューイングを実施したようで、皆が喜ぶ姿を写した1枚も印象的だった。

さて、防災対策庁舎は現在どうなっているか。このさんさん商店街から川の土手を挟んだ対岸に見ることができる。この土手もかさ上げされたもので、防災対策庁舎は周囲を土手に囲まれたようにして存在している。ちょうど、佐藤さんの「南三陸の記憶」の写真パネルがあり、被災当時の状況と見比べることができる。前回訪ねた時は周囲もまだ津波の爪痕が残り、気仙沼線の志津川駅も変わり果てた姿で、写真パネルに近い状況だったのだが、今は庁舎だけを残して周囲一帯が復興祈念公園の工事の最中である。関係車両以外は中に入れないようだ。

防災対策庁舎を残すかどうかはさまざまな議論となった。殉職した職員の行動は道徳の教科書に載ったこともあるし、「原爆ドーム」のように震災被害の象徴と位置付ける向きもある。一方で津波の惨劇を思い出したくないという人もおり、取り壊してほしいという意見もあった。結局は、国が震災遺構の保存に対する支援策を表明したこともあり、南三陸町ではなく宮城県が2031年まで保有するという形で保存が決まった。震災から20年というのをひとまず区切りにして、その間に「その後」どうするかを地元でよく考えるようにということである。阪神・淡路大震災もそうだが、20年も経てば街じたいは「復興」として新しい景色が見られる一方で、「風化」はかなり進むのではないかと思う。その時、震災を忘れない、震災を語り継ぐ術としてどのようなものがあるだろうか。

志津川を後にして、国道45号線に戻る。この先も入江が次々に現れ、その都度「津波の到達地点」の標識を目にする。南三陸町から気仙沼市に入る。

気仙沼線の小金沢駅に向かう。国道には「小金沢駅⇒」という標識はあるが、現在は「跡地」である。海が見える駅として知られていたが、ここも津波の被害に遭ったところである。海が見えるといっても目の前にあるわけではなく崖の上にあるのだが、それでも津波はやって来た。標高でいうと13メートルほどで、建物でいえば4階くらいか。いかに大きなものだったかが感じられる。

一方で次の大谷海岸駅は目の前が砂浜という駅だった。前回訪ねた時は献花台があったように思うが、併設の道の駅も少し移転したようだし、かつて駅があったところも工事をしているようだ。

当初はこのまままっすぐ気仙沼の中心部や、前回訪ねられなかったリアス・アーク美術館に向かおうかと思っていたのだが、前日エリア情報をネットで見る中で、震災に関するある施設が新たにできていることを知った。それは中心部の手前の階上地区にあり、いったん国道45号線を離れて海岸方面に向かう・・・。

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被災地復興を見る~石巻・2

2019年08月30日 | 旅行記B・東北

8月14日、夏の旅の3日目である。この日は女川から海岸に沿ってレンタカーで走り、大船渡に向かう。道中は津波被害の特に大きかった地域で、6年前に訪ねた時のことを思い出しつつ、現在の様子を見ることにする。なお宿泊の大船渡は目的地として訪ねることじたい初めてである。

さまざまな被災地や慰霊碑があるのだがもちろん1日で全て訪ねるのは無理で、いくつかをピックアップして回ることになる。「ここは行くべき」というのを見逃したり素通りしたりするかもしれないが、その辺りはご理解いただければと思う。

まずは朝食。時間はチェックインの時に希望をとっており、早い組の6時半からである。トレーラーハウスを出て敷地の中央にある食堂の建物に向かう。外は雨模様。この日、台風10号が南の海上から北に向かっており、翌日15日は西日本に上陸との予報が出ていた。その影響で北日本含めて広い範囲に雨をもたらしているようだ。またニュースによれば、台風接近にともない、15日は山陽新幹線を全線終日計画運休させる可能性があるとも伝えられていた。

朝食はメインにメヌケという、メバルの一種の焼き魚で、ごはんと味噌汁がおかわり自由。数組の客とともにいただく。

その後雨の中、7時半すぎに出発する。国道398号線で女川の漁港の中を走る。女川は震災後、防潮堤を「建てない」という選択をした。地形として難しいということもあるが、町がほぼ全滅したことで、一から町を造り直すに当たって土地のかさ上げをいち早く決めたことがある。さらにどこかで聞いたことだが、やはり海とともに時を重ねてきた女川の人たちにとってみれば、防潮堤で海から切り離されてしまうことに抵抗感があったからとも言われている。

港を離れると上り坂となり、海岸からはいったん離れる。高台から海が望めるのだろうが、雨だし濃い霧も出ていて視界がよくない。

女川町から再び石巻市に入る。下り坂になって漁港の集落に出ると今度は高い防潮堤が目立つ。やはり自治体ごとの方針があるのだろうが、いち旅行者がその是非をジャッジすることはできない。

そんな中クルマは雄勝地区に入る。前回通った時は津波の爪痕がまだ残っていたが、今回来ると様子が一変していた。前日から走る中で目にしたのを遥かに超える巨大な防潮堤の建設工事が進められている。お盆で業者は休みなのか何かが動く様子はないが、確か家があったよな?というところも巨大なコンクリートで固められているし、重機の姿も見える。お好きな方にはたまらない光景だろう。

この雄勝地区、震災前は約4300人の人口だったのが、200人以上が津波の犠牲になり、現在は1300人にまで減っているという。石巻市の一部なので目立たないが大変な減少である。その中で被災した集落は高台に移転して、なおかつ巨大な防潮堤を築くというものである。後でネット記事を検索すると、さすがにこれはやり過ぎという論調のものがたくさん出てきた。

雄勝からまた上り下りがあり、北上川に出てきた。ここでは大川小学校跡を訪ねるつもりだが、交差点を右折(河口方面)するところを誤って左折してしまった。前回来ているのだが別方向からだったために場所もうろ覚えで、カーナビにも出ていなかったこともある。

北上川の土手に出て道を間違えたことに気づいたのだが、たまたまその時、土手の下に別の慰霊碑を見つけ、脇道を下る。ここは大川小学校の校区だった間垣地区で、小学校ともども津波で住民の半数が犠牲になったという。残った住民も離れた場所で住むことを余儀なくされたが、思い出と慰霊ということで、この場所に慰霊碑を建て、桜を植えた。道を間違えたから訪ねることになった場所だが、大川小学校が注目されることが多い中で地元の人たちの思いが伝わるように思えた。

そしてクルマの向きを変えて、大川小学校に到着した。やはりここを訪ねる人が多いようで、8時半すぎという早い時間だが他県ナンバーのクルマが結構停まっている。

大川小学校は児童74人、教師10人が津波の犠牲になった。地震発生から津波到達まで50分ほどあったが、その間、どこに避難するかをめぐってさまざまな混乱やパニックがあり、正しい判断を行うことが困難だったとされている。学校は北上川の河口から5キロ離れた場所にあり、ハザードマップからも外れていた。まさかという思いもあったのではないだろうか。

慰霊碑に手を合わせて、校舎を見て回る。校舎は震災遺構として残し、周りを公園として整備することが決まっている。そのためか、小学校が現役だった頃の様子を紹介したパネルが立てられ、現在の姿と対比させている。1985年に完成した校舎は、円形と扇形の建物を組み合わせた斬新なデザインだったが、今は痛々しい姿を残すばかりである。

前回訪ねた時は立ち入れなかったかと思うが、校舎の裏山に続く道があるので行ってみる。津波の到達点の標識が約10メートルの高さにある。裏山の道はやや急に感じるが、その高さまで上ってみる。津波警報が出た際、裏山に逃げようとした児童もいたが教師が学校に引き留めたとも言われている。3月の東北、雪が積もっていたのと、やはり学校のほうが安全(まさかここまで津波は来ないだろう)という判断があったか。結局は北上川を渡る橋のところに避難しようと向かったのだが、津波はその方向から流れ込んできた。助かった児童は列の後方にいて、いずれも裏山に逃げたのだという。

児童の遺族の一部は学校や自治体の責任を問うとして訴訟を起こし、一審、二審とも遺族側が勝訴している(現在上甲審中)。ただ、前回訪ねた際、校舎を前にして思うのも何だが、大川小学校に限らず、裁判で損害賠償を求めるというのに違和感を覚えたものだ。結局はみんなが被害を受けた未曾有の災害ではないか、裁判をやることでどうなるのか・・という思いがあった。それは、今回訪ねてもそう変わるものではなかった。前の記事ではちょっと感情的なことも書いている。

その北上川を渡る橋のたもとにある慰霊碑で手を合わせる。

大川小学校を後にして、その橋で北上川を渡る。前回はいったん上流に沿って走り、内陸のほうを回ったのだが、今回はここから海沿いに南三陸町を目指す。北上川を右に見て河口のほうに向かう。川幅がまた広くなる。やはり東北地方を代表する河川の一つである。

その河口に面したところは道路も付け替えられ、道沿いに慰霊碑が建つ。石巻市北上地区で、吉浜小学校や石巻市役所北上支所の跡地も近くにある。津波は12メートル、小学校の校舎の3階までの高さで、卒業式の準備で残っていた児童たちも犠牲になったという。

それにしても、先ほど大川小学校から結構走ってきたが、この河口から津波により川の流れが逆に押し戻され、大川小学校まで、いやさらに向こうの間垣地区も呑み込まれたのかと思うと、改めて津波の威力を感じてしまう。

このまま国道398号線を走り、キャンプ場のある神割崎を過ぎる。被災地めぐりは女川・石巻から南三陸町に入る・・・。

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