まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

青春18東海道を行く(とりあえず愛知県まで)

2019年08月06日 | 旅行記D・東海北陸

夏の青春18きっぷの2回目。8月3日の予定が空いたので、さて中国観音霊場めぐりか西国四十九薬師めぐりかというところだが、この1回分での札所めぐりはお休みとする。

行き先の候補の一つに、福井の武生にある丹南球場でのBCリーグ(福井対信濃)というのが目についた。天気も雨の心配はない。ただふと、真夏の35度超の猛暑の中で座っていられるかが気になった。福井鉄道の駅から徒歩20分はいいとしても、一度訪ねたこの球場は日陰というのがまったくなかったと記憶している。それは屋外球場ならどこも同じことではあるが、まあ、またの機会にすることに。

他には中央線で美濃から木曽まで行くかとも考えた。何なら途中でサイコロを振って行き先を決めるとか。

そんな中で出たのが、東海道線をひたすら東に向かうというもの。時刻表をたどって乗り継ぎを見てみると、大阪を6時21分発の快速で出ると、米原、豊橋、浜松と乗り換えて、12時41分に静岡に着く。静岡も宿泊したことはあるが、街中に出たことはほとんどない。帰りは近鉄名古屋からアーバンライナーに乗ることにすれば、夕方まで滞在することができる。さらに東を目指して何もせず折り返すだけなら、熱海の先、小田原くらいまで行けそうだが、今回は乗り鉄と見物、後は静岡の食ということで、静岡折り返しの日帰り旅だ。

朝からムワッとした空気の中である。まずは大阪駅に現れる。青春18きっぷのシーズンも本格的になっており、それらしい客の姿も目立つ。6時21分発に乗れば京都で湖西線~北陸線乗り継ぎで北陸にスムーズに抜けられる。私も何度も利用したダイヤである。

朝の時間帯は本数が少なく、また編成も8両と短いので、滋賀県内に入っても県内の移動客で混んでいる。車窓を見ながら、また時折うとうとしながら進む。

8時06分、米原到着。次の8時25分発の豊橋行き新快速はホームの向かい側から出る。先ほどと同じ8両だが、北陸線に乗り換える人もいるためか着席は問題なさそうだ。8時15分頃に貨物列車が通過した後の8時20分頃に入線するとのアナウンスも流れる。

ここからがかつての東国の入口である。水がきれいな醒ヶ井を過ぎ、近江長岡、柏原と抜ける。伊吹山の姿が見えないのが残念だが、夏の蒸し暑さの中では仕方ない。関ヶ原まで来ると関西から別の地方に来たということで日常からの変化を感じる。

ここからは平野部。大垣、岐阜である程度乗客が入れ替わり、次は名古屋に向かう客で賑わう。通路を挟んで隣に座ったご夫婦は名古屋から先、あおなみ線に乗ってレゴランドまで行くようだ。

尾張一宮を過ぎる。先日、大相撲の名古屋場所の観戦に出かけ、西国四十九薬師めぐりとの組み合わせで津に泊まったが、その前には一宮での宿泊を考えていた。名古屋まで10数分で移動できるし、名古屋市内と比べても割安で泊まることができそうだ。また機会があればと思う。

新幹線や名鉄との並走を楽しみ、名古屋に到着。ここで多くの下車があった。

新快速の走りを楽しむ。名古屋近辺の列車に乗ることもなかなかないので、景色もいろいろ見る。大府から武豊線が分岐するが、その先の知多半島もまだ未踏の地が多い。実はこの日も、知多半島の最南端の師崎や、その先の島めぐりをしてはどうかとも考えていた。ただ結局は、青春18きっぷの時季でなくても、近鉄と名鉄でアクセスして、後はバスに乗れば・・と、見送り。以前にもこういうことがあった。いずれは訪ねてみよう。

それと同じことが名鉄にも言える。名鉄も岐阜~名古屋~豊橋の本線だけではなく、愛知、岐阜両県にいろんな路線がある。JRの駅に接続する線もあり、赤い車両が停まっていると、「乗らなければ・・」という気にもなる。知多半島、名鉄乗りつぶし・・・いつかはね。

名鉄の接続駅である蒲郡あたりでは三河湾を遠くに見ることができる。そのまま豊川を渡って豊橋に到着。乗り継ぎの時間はあるが、豊橋~浜松は本数が減り、本数も短くなる。座って行くならすぐに並びたいところだ。

この時は浜松方面からクロスシートの折り返し列車がやって来て、運よく窓側に座ることができた。東海道線、静岡に向けてまだまだ乗り継ぐ・・・。

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大相撲名古屋場所観戦記・後編

2019年07月24日 | 旅行記D・東海北陸

大相撲名古屋場所9日目の観戦記の続き。時刻も昼ほどとなり少しずつ場内の客も増えてきた。ここでまた場内の探索とする。入場口も人が増えており、公式グッズ売り場には先ほど引退した豪風改め押尾川親方の姿もあり、子どもたちの記念撮影に応じていた。

一角の窓に面して人垣ができている。別に売店に行列しているわけではなく何やら外を見ているようだ。方向としては地下鉄市役所駅から歩いてドルフィンズアリーナに入ってきたほうだ。確か建物の手前に関係者用の駐車スペースがあったようだが。

見ているのはまさにその駐車場。というのも、力士・関係者の出入口がこちらにあるそうで、取組を終えて歩いて建物を後にする力士や、出入りする親方たちを見ることができる。駐車スペースはカラーコーンに名前を書いた紙を貼って区分けしており、建物にもっとも近いところは八角理事長のクルマのスペースのようだ。また関取もここまでクルマを乗りつけるようである。

過去の他の人の観戦記を見ると、名古屋場所はアリーナの前の広いスペースを利用して力士の「入り待ち」ができるとあった。しかしこの日来てみると、熱中症予防のために「入り待ち」は取りやめているとのこと。力士も直接クルマを乗りつけるということで、その場所を窓越しに見ようという人が集まっているのだ。

通路に出てきたのは13時から行われるちゃんこ鍋の販売。一杯400円で日によって味付けが変わるそうだが、この日は出羽海部屋レシピの醤油味。それを待つ行列がアリーナの2辺にわたって延びている。普段、何か外食するのに並ぶのを嫌う私だが、この日だけは特別である。災害に遭って配給の炊き出しに並ぶようだが(それは考えすぎか)、40分くらい並んだか。その間に館内から大きな歓声と拍手が起こった。元大関の照ノ富士(現在は幕下)が勝ったようである。

そしていただいたのがこの一杯。食べるのは外のバルコニーでというので気分転換にもなる。

場内に戻ると幕下も後半で、この頃になるとプロとして年数を重ねて一つの「相撲の型」になっている力士同士の取組が続く。やはり序ノ口、序二段のぎこちない相撲とはスピードも違うが、これでもまだ「力士養成員」、つまり給料の出ない番付である。

そして十両の土俵入り。いよいよ関取衆の姿を見ることになる。

幕下の上位5番。次代に期待される納谷(大鵬の孫、貴闘力の子)、豊昇龍(朝青龍の甥)が相次いで登場し、それぞれ美ノ海、千代鳳という関取経験者に勝利した。(ただ場所が終わると二人とも負け越しという結果で、さらなる精進ということになった)

朝の8時すぎから同じ建物にいると時間の感覚が変わって来るのか、十両の取組になると塩をまいたり仕切りの回数が増えたりするが、それほど時間も長く感じない。

そして幕内の土俵入り。人気力士の時はより一層拍手が大きくなる。ただ東方の最後に出てきたのは関脇の御嶽海。東方2大関の休場によるものだから仕方ないが、やはり物足りない。

一方の西方の土俵入り。こちらは最後に髙安が登場して大きな拍手が起こる。前日の中日まで1敗で、そこまで全勝の両大関を追いかけていたが、前日の玉鷲戦で相手の小手投げで左腕を痛めた。そのため出場が危ぶまれたがテーピングをして土俵に上がってきた。まあ、そこはあの元横綱がいる部屋だからかな・・・。

横綱の土俵入り。横から見るというのも現地観戦ならではだが、やはり見事だ。鶴竜の正統派の雲竜型と、白鵬のオリジナルな仕草も混ぜた不知火型の二つを堪能する。両方に「日本一!」と飛ばす声援も聞こえる。

幕内の前半は小兵力士が沸かせる。豪快な塩まきでも人気の照強はベテランの栃煌山を見事寄り切り、7勝2敗の好成績。照強はさらに勝ち星を積み重ね、一時は「幕尻優勝」の可能性も残すほどだった。最終的に12勝3敗で敢闘賞を受賞、3敗は優勝した鶴竜に次ぎ、白鵬に並ぶ「準優勝」である(大相撲には「準優勝」の制度がないのだが)。

そして今や角界でトップクラスの人気と言ってもいい炎鵬。この日は長身の貴源治相手に正面からぶつかり、そのまま寄り切った(最後は足を取っていたようで、決まり手は足取り)。これで6勝3敗。翌日にも勝って幕内初の勝ち越しに王手をかけたがそこから3連敗。勝ち越しが厳しいかと思ったがそれを乗り越え、最終的に9勝6敗で技能賞を受賞した。

またこの日は尾車部屋の力士への声援も大きかった。向正面の一角に尾車部屋のタオルを持ったファンが大勢いて、部屋の矢後、友風に対してコールを送っていた。友風(トモカゼ)は言いやすいのか、私の後ろのイス席にいた外国人の観客も「トモカゼ!トモカゼ!」と一緒にコールしていた。尾車親方・・・そういれば津市出身の元琴風である。この人たちは津からの応援団なのかな。このうち矢後は敗れたが、友風は輝に勝ち、7勝2敗とした。友風はその後も好調をキープし、大関不在ということもあり13日目には結びの一番で鶴竜に初挑戦することになった。そしてはたき込みで鶴竜に今場所唯一の黒星をつける初金星を挙げた。最終的には11勝4敗で殊勲賞を受賞した。

その後も遠藤、朝乃山など注目力士の取組に歓声が挙がる。場所の雰囲気、熱気を直接味わうのは貴重な体験である。

ご当地という点で一番人気と感じたのは御嶽海。力士タオルが出る数は圧倒的に多い。それにしてもタオルを掲げるようになったのはいつ頃だろうか。プロ野球の応援でも選手ごとのタオルが売られており、球場に行くと「いったいこの人は1試合に何枚持ってきているのやら」と思わせるファンも見かけるが、考えれば手軽な応援グッズだと思う。もっともそうした場合のタオルはあくまで掲げるもので、汗や手を拭くものではないようだが・・・。で、肝心の御嶽海は阿炎に投げられて敗け。

そして3大関休場の中、最後の砦で1敗をキープする髙安が登場。相手は正代で、まあ普通に取れば髙安が勝つかなと思う中、負傷の左腕も使って前に出る。しかし土俵際で逆転の突き落としを食らって敗れる。これには場内からは「やはり厳しいのかな」とのため息が出る。

髙安は翌日勝って勝ち越したものの、その次の白鵬を前にして休場。4大関全員が休場という初めての事態となった。取組中の負傷が原因だからある程度仕方ないが、結果だけを見れば大関陣に喝が入ることになってしまった。

いよいよ最後の両横綱の登場である。まずは全勝の白鵬。この日の対戦は逸ノ城である。こちらも過去の対戦からして白鵬が無難に勝つのかなと思った。

しかし立ち合いで正面から当たると、逸ノ城がそのまま巨体を活かして前に出る。白鵬に油断があったのかもしれないが、そのまま西土俵に寄り切って逸ノ城の勝ち。座布団が何枚か飛んだ。白鵬はこの後14日目に琴奨菊に敗れるのだが、いずれもパワー相撲の力士相手に正面から寄られての敗け。一部記事ではそのことをもって白鵬の衰えを指摘するものもあった。さて、どうだろうか。

そして迎えた結びの一番。ここまで大関、横綱が相次いで敗れて鶴竜もどうかという雰囲気も少しはあったように思うが、相手は初顔の明生。動き回って少し粘ったが、まだ前頭上位に上がりたての力士で、さすがに鶴竜を破るだけの力はまだなかった。流れを見れば鶴竜が危なげないという感じで寄り切って全勝をキープ。鶴竜は先に書いたように13日目に友風に敗れたが、それ以外は安定した相撲で14勝1敗で名古屋場所を制することになる。

弓取式は春日龍。弓取式も場所に来ないと最初から最後まで見ることはできない。NHKの中継も、結びの一番から18時の中継終了まで何分かは時間があるが、弓取式を映すことはあまりない。やはり結びの一番の解説や、横綱のコメントを出すことで手一杯なのだろう。ただ最後の儀式なのだから、画面の隅でもいいから映してあげればいいのにとも思う。

波乱もあった9日目もこれで打ちだしとなり、終いの太鼓の音に送られながら大勢の人とともに外に出る。なお名古屋城の外では、投票を6日後に控えた参議院議員選挙の活動が行われて、選挙区、比例の2人の候補者本人が支援を呼びかけていた。相撲観戦帰りで数千人の客が出てくる時間帯は選挙活動の貴重なチャンスなのだろう。連日、候補者が代わる代わる出ているのかもしれない。

名古屋駅まで順調に戻り、予約していた近鉄特急の指定席を変更して早い時間の列車に乗る。当初は、名古屋駅近辺で軽く一杯やってから大阪に帰ろうかと思っていたが、ドルフィンズアリーナの中で十分飲んだのでもう早く帰ろうということもある。さすがに座席の埋まり具合もよく、デラックスシートの通路側しか空いていなかったがそれでも快適である。そのまま順調に大阪に戻った。

さて、大相撲の本場所は大阪場所、過去の東京場所に続いて、名古屋場所を初めて観戦することができた。となると残すは九州場所・・・となる。まあ今年は予定しないとしても、福岡は福岡ならではの面白さがあるだろうから、いずれは観に行きたい。後は、どこかの巡業かな・・・。

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大相撲名古屋場所観戦記・前編

2019年07月23日 | 旅行記D・東海北陸

大相撲名古屋場所は横綱鶴竜の7場所ぶり6回目の優勝で幕を閉じた。大関4人が相次いで休場という事態の中で、千秋楽まで両横綱による優勝争いが続いたことで一応の面目は保つ形になった。また友風、照強、炎鵬ら若手力士で新たに三賞受賞者が出るなど、土俵を沸かせる力士も多かったが、次の横綱、大関を狙う位置の力士たちはまだまだ力不足といったところだった。

15日、その名古屋場所の9日目を観戦した。名古屋場所は初めてだったので会場の様子も大阪場所とはまた違った面白さがあったので、西国四十九薬師めぐりの続きとして書いてみる。

前日は津駅前のホテルに宿泊し、15日朝、客室内で前日コンビニで買っていた朝食を済ませて6時27分発の名古屋行き急行に乗車する。名古屋までは営業キロだと66.5キロあり、急行だと1時間あまりかかるが、そこはクロスシート車両に座ることができて快適に移動する。

名古屋からは地下鉄東山線で栄まで向かい、名城線で市役所に到着。この時点で時刻は8時すぎ。9日目の取組開始は8時40分だから余裕で間に合う。いつ見ても独特な造りの市役所の建物を見て、堀に沿って二の丸を目指す。こちらには昨年「金シャチ横丁」という飲食店のゾーンができている。まだこの時間では開店していないが、名古屋城の新たなスポットとして注目されているようだ。

朝の太鼓の音が聞こえてくる中、二の丸にある愛知県体育館、愛称ドルフィンズアリーナに着く。さまざまな幟が並ぶ。

春場所の大阪府立体育館(エディオンアリーナ)は町中、狭い通りに面しているが、ドルフィンズアリーナは二の丸の中に建つとあって広い。また着いた時にはすでに入場も始まっていて、並ぶこともなく入場する。タマリ席、マス席、イス席で入場口が分かれていて、今回はマス席Cを取っているのでその入口から入る。もっとも、中の通路は席の種類で仕切られているわけでもなく、同じ並びである。係の人に案内されて2階の自席に向かう。

マス席C(一人用)は東西のマス席の一番後の列にあり、すぐ後が通路、そしてイス席である。感覚的には備え付けのイス席の上に櫓を組んだような高さで、座ると尻から腰にかけた高さに手すりが来る。この手すりが背もたれ代わりだ。

また、マス席というと4人がびっしり座って身動きが取りにくいイメージがあるが、このマス席Cは幅が結構広い。隣の席とは棒を目印にして区切っているが、座布団と、大きめのリュックを置いて座ることができる。この後実際座って観戦したが、リュックを立てれば空いたスペースに缶ビールやつまみは楽に並べられた。これはなかなかいい感じだ。

他には四隅にマス席Dというのもある。こちらは四隅のスペースに座布団を並べた広間と言っていいだろう。

もっとも、名古屋場所はイス席でも春場所と比べて土俵が近く見えるように感じる。その辺りは地方場所の良いところと言える。

取組の電光掲示板など見て、1階に下りる。入口正面には賜杯、優勝旗などが飾られている。

そして土俵周りへ。名古屋場所でも、序ノ口や序二段の取組くらいならタマリ席の客でなくても、そこに座っていても特に何も言われない(もちろん、自分の席で観戦するのが正しい)。中には序ノ口の力士であってもタマリ席から大きな声援が飛ぶこともある。そのタイミングからすると部屋の後援者だったり、また愛知県出身の力士に対するものだったりする。

このくらいの番付だと、勝って上の番付を目指すのは当然としても、「相撲を取りきる」ことが求められているように思う。確かに動きがぎこちなかったり、まだ体ができていない(中には私よりも痩せている・・)力士もいるが、とにかくお互い前に出て「相撲を取りきる」一番が多い。逆に、立ち合いで変化するとか、自分からはたきに行くような取組はほとんどない(流れの中で逆転の突き落としはあるが)。この段階の力士には部屋の親方もそうした指導を徹底しているのかな。

正面側、向正面、花道横など場所を変えながら観戦する。いずれもテレビとは違った角度で新鮮だし、特に花道横は出入りする力士の表情もはっきりわかる。勝った力士に拍手すると頭をちょっと下げたり、逆に負けて首をかしげたり舌打ちする力士の顔もわかる。

しばらくはそうやって観戦だが、タマリ席では飲食はできない。まだ午前中だが、後は自席にてビール、日本酒などいただきながら観戦とするか。そろそろ売店も準備が本格的にできたようだ。

相撲のグッズ、土産物はどの店も豊富に取り揃えている。また飲食物は弁当や助六寿司、いろいろつまみもある。一応焼き鳥があり、つまみで買い求めたがどう見てもスーパーのお惣菜コーナーにあるパックだ。まあ、国技館のように専門に作っているわけではないから、これは雰囲気のものだ。ちなみに食事なら館内にレストランがあり、取組を終えた力士がここで食事をすることもあるそうだ。

そんな中、土俵には春日岫(東序二段7枚目)が上がる。序二段とはいえ、私の地元藤井寺市出身の唯一の現役力士。私が観戦した時はいつも敗けていたように思うが、この日は勝武士相手に土俵際で投げを打っての勝利。これには上段からコールさせてもらった。ちなみに名古屋場所は5勝2敗の成績で、来場所は三段目に復帰できそうだ。

土俵上の中入にはまだまだ時間があるが、ブログを書いているほうがいい加減に長くなってきた。ということで、この一文にて、中入・・・。

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立山連峰と魚津の海

2019年05月27日 | 旅行記D・東海北陸

翌朝、早くに起床する。日の出を前に立山の山々のシルエットが見えて幻想的だ。朝風呂に入り、バイキング方式の朝食をいただく。ごはんはおにぎりを自分で取る方式で、富山らしくとろろ昆布を巻いたおにぎりやますの寿司タイプのものもある。

さて5月5日は、高岡でのBCリーグ観戦である(令和の記念講演も印象的だったが、そもそも今回の旅の当初の目的は野球である)。球場には昼前に着けばいいので時間はたっぷりあるが、少し鉄道の旅を楽しむことにしよう。

「あいの風 IR1日フリーきっぷ」というのを発売している。土日、お盆期間中の利用で2000円。金沢から富山まで通しで片道1220円だから往復すれば元は取れるし、片道利用でもそれ以外のところで乗車すれば十分だ。青春18きっぷの時季でも有効日ならこれで石川、富山両県を多少安く通過することができる。また特典として、これから向かうボールパーク高岡での富山サンダーバーズ戦の入場料の割引も受けられる。

ボールパーク高岡の最寄駅は西高岡だが、ここは少し乗り鉄ということでいったん東に向かう。7時51分発の黒部行きは「とやま絵巻」というイベント車両である。旧国鉄~JRの413系を譲り受けたもので、朝夕の通勤通学列車や休日のイベント列車として運転されている。昔ながらのボックス席に陣取るが、窓の外がちょうどラッピングのイラストがかかったところで、景色はやや見えにくい。

市街地を抜けると立山連峰を見ることができる。上のほうにはまだ雪が残っている。早起きして雪の大谷を見に行ってもよかったかなと思う。

列車は黒部行きだが、その一つ手前の魚津で下車する。立山連峰だけでなくせっかくなので日本海を見ようというものである。

駅前から地下道をくぐって海側に出る。まず10分ほど歩いて向かったのはありそドーム。魚津市の産業、スポーツ、文化交流の拠点であり、富山湾の別称である「有磯(ありそ)」からその名がついている。ここに高さ46メートルの展望塔があり、この時間でも開いているのでエレベーターで上る。

ここからは立山連峰、そして有磯の海の両方を眺めることができる。なかなかのスポットである。

スポーツの施設ということで昨年大相撲の夏巡業も行われたそうだ。その魚津場所の番付も記念で展示されている。

アリーナでは朝からバスケットの練習が行われているが、通路にはこの選手の幟が立てられている。ロッテの石川投手は魚津市の出身で、このありそドームの中には地元後援会の事務局も設けられている。サインボールの寄贈もあるし、オフには魚津でのイベントにも顔を出しているようだ。

なお後日、5月26日の試合に先発して勝ち投手となった石川は、同じ富山県出身の朝乃山が平幕優勝したのを受けてお立ち台で「朝乃山優勝おめでとう!」と絶叫していた。朝乃山とともに富山県勢も頑張りを見せているようだ。

ありそドームを出て海岸に着く。魚津の名物といえば蜃気楼。この辺りの海岸から見られるそうだが、いくつかの気象条件が重ならないと確認できない。この時も普通に穏やかや海岸を見たわけでどうということもなかった。

しかし、後で知ったが訪ねた5月5日は、午後から夕方にかけて蜃気楼が確認されたそうである。蜃気楼を観測する魚津埋没林博物館によると、富山市、射水市、氷見市方面から黒部市方面にかけての陸地が見えたそうだ。もっとも、双眼鏡がないと確認できないレベルというが。

駅に戻り、駅前で銘水をペットボトルに汲み、9時25分発の泊行きでいったん一駅先の黒部まで乗る。

黒部からは9時39分発の高岡行きで折り返す。1日フリーきっぷを持っているからこその芸当である。このまま富山も素通りして終点の高岡に向かう。

2駅先の西高岡へは30分後に発車する一本後の列車となるが、高岡で待つ形にしたのは、この日の昼食の調達のため。西高岡駅近辺はスーパーやコンビニもないようだし、独立リーグの球場の食事情はどこもあまりよろしくない(クルマで来るのが前提のためか、ビールも販売していない球場もある)。そのため、高岡駅の売店にてますのすし、ぶりのすしの小箱やら、ホタルイカの干物やらを買い、コンビニにて他の飲食物も買う。暑くなる予報で、凍らせたペットボトルも仕入れる。

高岡は越中の国府があったところで、大伴家持も国府で赴任したところである。この日は高岡観光は行わないが、駅のコンコース、観光案内所の前では大伴家持が「令和」を掲げての歓迎である。令和は万葉集由来、その万葉集の編纂に尽くしたのは大伴家持ということで、この地ならではの盛り上がりだろう。

列車待ちの間にJR城端線や氷見線を走る気動車の車両をカメラに収めた後、準備万端で次の金沢行きに乗り込み、11時10分、西高岡着。

毎度ながら球場に着くまでが長い紀行文になったが、いよいよBCリーグ観戦である・・・。

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富山の夜 朝乃山優勝

2019年05月26日 | 旅行記D・東海北陸

令和初の本場所となった大相撲夏場所。14日目の結果で、平幕の朝乃山が2敗を守っての優勝となった。トランプ大統領が千秋楽の取組を観戦してアメリカ大統領杯を渡すということでも話題となったが、まさかの平幕優勝である。まあ、取組編成や前日の栃ノ心戦での審判団の「誤審」など、この優勝にはすっきりしないものがあるとする向きもあるようだが、優勝は優勝である。これから期待の力士の一人ということでおめでとうでよいのではないか。

なお、三役経験がない力士の平幕優勝は佐田の山以来58年ぶり(佐田の山は後に横綱になった)、富山県出身力士の優勝は大正時代の横綱・太刀山以来103年ぶりだという。これは富山の人たちにとっては明るいニュースである。

ちょうど、私の紀行文も富山編である。訪ねたのは大型連休中で夏場所はまだ始まる前だったが、郷土出身力士を応援する人はたくさんいたとして、まさか優勝まですると思った人は果たして何人いたことやら。ただこれを自信として、来場所以降の上位定着、そしてさらにその上を期待したいものである。

・・・さて、富山に行っていた5月4日の話。

「万葉集とその未来」という演題だが、新元号令和の意味についてその考案者とされる中西進氏の講演を聴き、歩いて富山駅に戻る。この日の宿泊は富山駅前のホテルアルファーワン。これまで富山には何回か泊まったことはあるが、このホテルは初めてである。

割り当てられたのは上層階だったが、部屋からの眺めがよかった。窓からは富山駅を見下ろす形で、駅前には路面電車が頻繁に行き交うのを見ることができる。北陸新幹線が富山駅のホームに入るのも見える。鉄道ファンにとっては見ていて飽きることのない眺めである。さらに、写真では上手く写らないのだが駅前の建物群の向こうには立山連峰の姿も見える。5月のこの時期は頂上付近には雪の姿も見える。そしてあの中では雪の大谷を歩くのも人気である。

部屋で少し休憩し、時刻はそろそろ17時。ではでは富山で一杯ということで外に出る。

向かったのは、駅前の「ヤットルゾー五條」。久しぶりに入る店である。前に来た時には満席で断念したこともある。富山には他にも有名な大衆酒場もあるのだが、私としてはこちらを選択するところだ。訪ねたのは開店時間の17時を少し回ったばかりだが、すでにカウンター、テーブルでは何組かの客が一献やっているところである。早めに開けたのか、事情を知っている地元の人たちか。幸いカウンターが空いていたので陣取る。

店内には大相撲のカレンダーや番付もあるし、朝乃山の色紙もある。こちらの店も地元出身力士として応援しているようだ。もし富山行きが14日目、千秋楽のタイミングだったらこの店も大変な賑わいになったことだろう。もちろんこの時はそういうことなど誰も頭にはなかったのだが。

メニューにはおすすめがいろいろ書かれている。その中では富山の定番のアテ(ほたるいか酢味噌、イカの黒つくり、バイ貝煮付)、昆布締め三種(さす、ひらめ、あおりいか)をまずいただく。

他には、「今はシーズンではないんですが・・」と言いながら、滑川産の紅ずわいがにの面詰めというのもいただく。かにの甲羅の中に脚肉、かに味噌などを詰め込んだもので、限定の一品である。

マナー的にありなのかと思いつつも、中身をいただいた後の甲羅に、立山の燗酒を注いで甲羅酒も味わう。

最後は白えびの昆布焼き。昆布の風味とえびのパリパリ感を楽しむ。この店は他におでんも名物なのだが、あてはこれだけでも十分である。どうせこの後ホテルの部屋でも続きをやるので・・・。

ホテルに戻り、大浴場に入る。浴場からも駅を見下ろすことができるのがよい。また同じフロアには無料のマッサージチェアもあり、これを使っていい心持ちである。部屋に戻って、ますの寿司、ぶりの寿司や昆布巻きのかまぼこなどをつまみながら「二次会」であるが、昼間の疲れもあってか早い時間に就寝となる・・・。

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中西進氏による「令和」誕生の講演を聴く

2019年05月25日 | 旅行記D・東海北陸

5月4日、富山駅に到着。先ほど福井駅で今庄そばを食べたが、今度は昼食として立山そばをいただく。

講演会場の富山国際会議場には路面電車が最寄とあるが、徒歩でも行ける範囲なので歩いていく。ただ開場までは時間があるので、その前にどこかに立ち寄ることにする。

そこで向かったのは国際会議場の向かいにある富山城跡。模擬天守が建つがそういえば中に入ったことがなかった。立派な石垣を持つ城である。天守閣は富山市郷土博物館として開放されている。

富山城は戦国時代、神保長職により築城された。当時は神通川が現在よりも東に大きく蛇行しており、神通川を自然の要害とする形でその南岸に建てられた。富山近辺を巡っては一向一揆、上杉謙信、武田信玄、織田信長らが激しく争い、最後は信長の家臣である佐々成政が支配し、富山城も大規模に改修された。

しかし豊臣秀吉の天下統一で佐々成政は敗れ、その後は前田氏の治世となった。加賀前田氏の分藩である富山藩である。展示では神保氏以来の城のさまざまな歴史を紹介しているが、まだまだ知られていないことも多いようである。

さて、城跡を出てかつての二の丸にある国際会議場に向かう。開場は13時30分だが、その前に早くも長い行列ができている。少し時間を前倒しにして開場となった。

観覧席は扇形に広がっているが、中央部は招待客、その横の前列は地元の中高生、その周りが一般客とエリアが分かれている。募集では定員800人とあったが、これは一般客エリアを指すのだろう。また制服姿の中高生もやってきた。学校全体で来るというよりは、万葉集に興味のある子どもたちなのだろう。

客席もほぼ満席となったところで、14時に講演開始。まずは石井隆一富山県知事から挨拶。「新元号令和が万葉集から取られたということで、やはり万葉集の第一人者からお話をいただきたい。ということで、ご本人は認めていないがほとんどの方が元号の考案者と思っているだろう中西進先生にお願いした」という。「中西氏は高志の国文学館の館長でもあるし、ちょうど万葉集の編者で、越中の国司も務めた大伴家持の生誕1300年ということもあり、これを機に富山の文化の魅力を高めていきたい」と締める。

続いては橘慶一郎衆議院議員の挨拶。元高岡市長で、高岡の選挙区からの選出議員である。市長時代に万葉集に接するようになってからは、講演や挨拶で万葉集の一首を口ずさむようになったとのことで、令和が万葉集から取られたことに対して「万葉集には中国との文化交流の息吹があり、元号が取りやすいのではないか」とした。最後には、「大伴家持にも梅の花を愛でる歌がある」として、「春のうちの 楽しき終へ(をへ)は 梅の花 手折り招きつつ 遊びあるべし」(4174番)の一首を披露した。

後で知ったが、この一首は、大宰府で大伴旅人が梅の花を愛でる宴の中で詠まれた三十二首の「追和歌」という。父の旅人が大宰府で宴を開いた時、家持はまだ少年だったが、後に自身が越中に国司として赴任して梅の花を見た時、大宰府の宴を懐かしく思い出したのだろう。

この後は平成時代の富山県の出来事を振り返る映像や、大伴家持と越中とのつながりをまとめた映像が流れ、何だかんだで30分ほどが経つ。

そして中西進氏が登壇。御年89歳とのことだが足取りや話しぶりもしっかりしている。たださすがに演台には椅子が用意されていて腰をかけての話である。石井知事や橘議員も招待席の一番前で聴講する。

「石井知事から1ヶ月ほど前に連絡があり、高志の国文学館の館長の給料を上げる話なのか、それとも館長をクビになる話なのかと思って聞いてみたら講演をしてほしいと」(1ヶ月前といえば、元号が令和に決まり、その由来が万葉集で・・・と世間が話題になり始めた頃で、その時から「中西氏が考案者だ」という噂は出ていた)

「年数を無機質に加算する西暦と違い、元号は時の君主の統治の年数である。中国の聖典から引用したいわば『おしゃれ』のようなもので、その王様が立つ未来の理想を掲げたものである」

「元号は中国の聖典、いわば儒教精神を表したものだが、いつまでもそれだけを理想、スローガンとして掲げるのは難しいのではないか。別に安倍首相だけの考えというわけではなく、儒教以外からスローガンを選ぼうという機運が出るのは当然だと思う。元号はそれぞれの国の理想を掲げる『文化装置』の一つである」

「元号は『倫理コード』のようなもので、日本人の倫理コードに即したものであるべきと思う。日本では伝統的に和歌が美しい言語を紡ぎだしてきた。和歌に倫理コードがあるとして、このたび『私とよく似た名前の人』が考えたそうです」(ここで会場から笑いが起こる。「私とよく似た名前の人が考えた」って、あなたが考案者であることを認めとるがな)

「初春の令月、梅の花とは季節の挨拶のようなものである。日本人にとって自然は『哲学』である。梅の花は冬から春にかけて花を開くことから古来『初花』とされてきた。また万葉集には『寄物陳思』という、自分の思いを物に託して詠んだ歌の分類があるが、そこでも『風のようにむなしい』『雲のようにふわふわした気持ち』という表現があり、日本人は古来から自然現象の中に哲学を感じ、表現の基本としてきた。俳句が季語を重視するのもそうでしょう」

「令和という時代、未来に向けてどのように夢を描けばよいか。これまでの元号を見ると、明治は『明らかに治める』ということで、統治者側、上からのメッセージである。大正の『大いに正しい』も為政者側からの号令のように聞こえる。昭和の『昭かな平和』や平成の『天平らかに地成る』も儒教的である。もっと人々や民を見てほしい。ただ前天皇陛下はご自身から人に歩み寄られていた」

「『令』とはうるわしい、整ったという意味がある。上の部分は人二人を表し、真ん中は玉を表している。玉を抱きかかえている人からできた文字である。また『和』は十七条憲法の和でもある。『和を以て貴しとなす』は聖徳太子だけでなく、当時国を失い日本に逃れてきた百済の知識人たちの思いであり、崇高な、切実な願いであった。今の日本国憲法も、外国との激しい戦争に敗れた直後に作られたもので、十七条憲法と時代背景は共通している。そのところは、今の宰相にも尊重してほしいことである。だから『令和』とは、『玉を大事に抱きかかえているような和、真珠のような輝き、秩序が整った平和』という願いが込められているといっていい」

「日本人は元号という倫理コードを持ち、自然の中に哲学を持つ。そしてこれからは玉のような和を持つ世の中になればと思う」という言葉で締められた。1時間の講演は内容盛りだくさんだった。この講演の模様は地元ローカルニュースだけではなく、ネットニュースや翌日の新聞記事でも取り上げられ、メディアによっては十七条憲法のくだりを「安倍政権批判」と取り上げたものもあった。

中西氏は他にも講演やインタビューでの露出が目出ち、そのうちに自身が「考案者」であることも否定しなくなった模様である。別にいいのではないか。今のところ「令和」という元号は言葉として概ね好評のようだし、元号にはこうしたメッセージが込められている、日本の倫理コードが表れているという根拠がわかれば、これからの時代をどのように良くしていくかを考える機会になるのではないかと思う・・・。

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「令和」の話を聴きに富山へ行こう

2019年05月24日 | 旅行記D・東海北陸

また続いて連休中の話。

このたびの大型連休は九州・五島行きを楽しんだが、それを決める前には、野球の独立リーグ・BCリーグ観戦を考えていた。それも、なかなか訪ねる機会がない関東地区の球団の試合で、あの辺の球場めぐりをしてみようかと思っていた。

関東での観戦はまたの機会にするとして、長い連休を活かして1試合は観てみたい。そこで選んだのが、5月5日に高岡西部球場(高岡ボールパーク)で行われる富山サンダーバーズ対福井ミラクルエレファンツ戦。13時からのデーゲームだが、前日の4日に富山で宿泊する。単純に富山の魚で一杯やりたかっただけで、夕方までに着けばいいのでそこまでの途中下車を楽しもうかと考えていた。

そんな4月のある日のこと、とある講演の記事に目が止まった。「万葉集とその未来」というお題で、講演するのは中西進氏。万葉集研究の第一人者にして、現在は富山市の高志の国文学館の館長も務めているが、このたびの改元にあたり「令和の考案者とされる」として注目を集めた方である(本人は否定しているが)。

5月4日の14時から、中西氏の高志の国文学館館長としての改元記念特別講演が富山国際会議場で行われ、無料で800名が聴くことができるとある。4日・・富山に前泊する日だ。これも何かの縁だろうと、この日はこの講演をメインにしよう。

聴講は富山市のホームページから申し込みができるが、申し込み多数の場合は抽選とある。幸い応募締め切り日前だったのでホームページにて申し込むと、後日、参加はがきが郵送された。新たな元号にまつわるこうしたイベントに参加するのもいいだろう。いい記念だ。そのためか、事前に中西氏の著作を文庫本だけど買ったりする。

富山にはどうやって行くか。当初、夕方までに富山に着けばいいやということで鈍行乗り継ぎを考えていたが、講演が14時からなら昼には富山入りとなる。そのため、福井から金沢までの指定席特急券を買った。なぜ途中区間の特急券?だが、福井まで鈍行でつなぎ、いったん改札を出た後で、時間短縮で特急に乗るためだ。まあ要は、福井駅で今庄そばを食べるとか、福井ならではの海鮮つまみを買うため・・の時間確保であるが、復路は特急で素通りするだけに、往路で敬意を表しておこうというものである。

さて5月4日。プランなら大阪駅6時21分発の快速に乗り、湖西線経由で鈍行を乗り継いで9時47分に福井に着き、10時13分発の「サンダーバード7号」で金沢に移動、第三セクター経由で富山には12時04分着としていた。青春18きっぷの時季ではないので鈍行だけにこだわる必要もなく、別に特急に乗ってもよい。この日については福井での20分あまりの乗り継ぎ時間内に上記のことをすれば全然問題ない。

4日早朝、大阪駅に現れる。ただ私もいい加減なもので、6時21分発の快速に始まってその後乗り継ぐのなら、いっそ大阪から6時30分発の「サンダーバード1号」に乗り、福井で降りるなら降りたらええやん・・となった。そこで福井までの自由席特急券を買い、サンダーバードが発車する11番線に向かうと、自由席車の乗車口に並ぶ人はそれほど多くなく、席には座れそうだ。大型連休中にあって意外である。

途中駅からの乗車もそれほどなく、隣に客が乗ってこないまま、湖西線から北陸線に入る。そのまま走り8時29分、福井に到着した。

改札を出て、今庄そばの立ち食い。そばじたいに何か特徴があるとか、そば通をうならせるものがあるわけではないのだが、「旅先の駅の立ち食いそば」という点では全国的にも知られた存在である。私としては福井より北に向かうための通過ポイントのようなものだ。

この後は土産物コーナーに向かう。たいてい買うのは鯖のへしこと、オーロラ印の味付たら。これらは一度食べたらやみつきになる。

予定よりさらに早く着き、お目当てのものも手に入った。次は10時13分発の「サンダーバード7号」だが、ここも前倒しで行こう。すでに買っている特急券も自由席なら前の列車に乗れるので、9時15分発の「しらさぎ51号」に乗る。米原始発だからか自由席も空いている。

途中建設中の北陸新幹線の橋脚を見ながら走る。芦原温泉や加賀温泉に停車していくが、むしろここから乗ってくる客が多い。このまま金沢に向かい、北陸新幹線に乗り継げば東京方面まで一直線だ。

10時05分、金沢に到着した。どうせ富山に行くのなら2駅だけ北陸新幹線に乗るのもありかと思ったが、ここは並行在来線・IRいしかわ鉄道~あいの風とやま鉄道の泊行きに乗り継ぐ。2両編成のためか満員である。そのまま県境を越え、11時09分、富山に到着。学生の時から鉄道旅行で何回も来ており、昔の鉄道駅の風情が印象的だったのが、今は立派な高架駅である。

さて中西進氏の講演は13時半から入場開始である。それまではぶらぶら過ごすことに・・・。

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レンタサイクルで敦賀を走る

2018年07月02日 | 旅行記D・東海北陸
7月に入った。早いもので今年も残り半分である。

その初日である1日、敦賀まで足を延ばした。目的は、BCリーグの観戦である。今年は甲賀で滋賀ユナイテッドの試合を2回観ているが、たまには別の球団をということで、大阪から近い福井ミラクルエレファンツの試合を観る。場所は関西から北陸の玄関とも言える敦賀。対戦相手が滋賀ユナイテッドとなるが、福井の主催試合なら福井の彭を応援する(BCリーグや四国アイランドリーグの場合、原則としてホームチームを応援するので)。

試合開始は13時、一般入場は12時から。単に試合観戦だけなら大阪をゆっくり出ても間に合う。ただ問題はアクセス。これまで敦賀市の運動公園にある球場にはクルマで行ったことはあるが、クルマを手放してから行くのは初めてである。駅からは4キロあまり離れていて、歩くと結構時間がかかりそうだ。コミュニティバスは日曜日でも日に数本あるが、ちょうどよい時間に着くのがない。開門の2時間前に着いてもどうしようもないし、その次となると試合開始直前になる。タクシー・・はもったいないな。

そこで浮かんだのはレンタサイクル。確か前に途中下車した時、構内の観光案内所に看板があった。これを利用するなら、午前中に敦賀の町を散策して、そのまま球場に向かえばよい。営業も8時半から18時半までと長いのもよい。

ということで、JRの「夏の関西1デイパス」を手に、また始発で出発する。東海道線から湖西線に入る。この道中の画像がないのは、カメラにSDカードを入れるのを忘れたためだ。敦賀に着いて、レンタサイクルを借りる前にまずは駅前のコンビニでカードを仕入れた。思わぬ出費。

案内所にはさまざまなタイプの自転車があり、その中で選んだのはスポーツタイプ。前かごはないが、荷物はリュックを背負うので問題ないだろう。日常生活で使わない自転車に乗るのも久しぶりやなと、まずはこぎ出す。敦賀の町は駅前の商店街を含めてほとんどの歩道が自転車通行可となっている。一方通行の自転車レーンはこの日走る限りでは1ヶ所だけだった。

まず向かうのは気比神宮。北陸道の総鎮守、越前の国の一ノ宮である。古くは勃海国の使者を迎える迎賓館の役目を果たしたとか、南北朝の戦いの時は南朝方にくみして戦ったという歴史がある。『太平記』にも、越前や北陸道で南北双方が激戦を繰り広げたという記述がある。京につながる一帯を押さえるかどうかということで重要な意味を持つところだったのだろう。当時に植えられたものの2代目という松の木もある。

時代が下ると平穏なもので、松尾芭蕉が敦賀に『奥の細道』で立ち寄ったのを記念して境内を整備したり、絵馬には地元の敦賀気比高校の甲子園出場を祈願する文言がある。OBにはNPBで活躍の選手も多いが、現役でもっとも活躍しているのは(大学経由だが)バファローズの吉田正尚だろう(少し前なら社会人経由の内海哲也かな)。

海べりに出る。向かったのは敦賀港駅。かつて大陸との玄関口として栄えた駅で、当時の木造駅舎が鉄道資料館として観光客に開放されている。

交通の要衝として栄えた敦賀の近代史をまとめた展示である。戦前まで、日本とロシア(ソ連)を結ぶメインルートだったのが、敦賀までの鉄路とウラジオストクまでの航路である。シベリア鉄道を経由するのが当時の最短ルートで、その先にはモスクワ、ベルリン、パリがある。海を越えるがその先にはロンドンがある。大陸へ渡るパスポートや、当時の大陸との時刻表には、西洋への憧れが詰まっているように見える。私もそういう形で大陸に渡ってみたい憧れがないわけではないが、現実はそうはいかない。

旧敦賀港駅舎では敦賀を中心に北陸の鉄道のあれこれを知ることができるが、この最近、新たな鉄道スポットができたという。それが「敦賀赤レンガ倉庫」である。敦賀港駅舎のすぐ近くにある。1905年に建てられたが、元々は石油の倉庫だったという。後に軍の備品庫や昆布の貯蔵庫にもなったが、2015年に観光スポットとしてリニューアル。目玉は昔の敦賀の町を再現したジオラマと、敦賀ならではの味が楽しめるレストランである。

ジオラマを見るのも初めてなのだが、最近になって赤レンガ倉庫に新たなシンボルが誕生した。往年の小浜線を走っていたキハ28型車両が静態保存されることになり、先日搬入された。赤レンガが潮風を避ける盾になるという。中を見ることはできないが、急行「わかさ」のヘッドマークを掲げた旧国鉄型塗装の車両にはうなるものがある。

中のジオラマ館に入る。空の位置に据えられたスクリーンに画像が流れるので全体的にレイアウトとしては暗めだが、往年の扇形機関庫(現在はこの地に新幹線ホームができる予定で工事中)も再現された敦賀駅や、昔ながらの町並み、疋田のループ線もあればその先の杉津からの越前への線路もある。海の向こうに広がるのはウラジオストクである。蒸気機関車に牽引された貨物列車や、気動車の特急、急行、ローカル線も走る。まだ「電車」というのはこのジオラマには登場していない。ちょうどバスツアーで訪ねていた観光客の団体と一緒にレイアウトを眺める。改めて、敦賀という町が鉄道を中心に栄えてきたところだというのを感じさせる。

レストラン館はスイーツ、カフェの店もあるかと思えば、日本海の幸を出す店もある。値段は町の居酒屋より高いが、こうした店で魚を味わうのもいいだろう(昼間のみの営業で、夜飲みには使えないが)。

赤レンガ倉庫を後にして、現在の敦賀港駅を見に行く。貨物駅として機能しているが、いつしか列車の行き来はなくなった。コンテナは積まれているがトレーラーによる代行輸送で、現在このような貨物駅は「オフレールステーション」と呼ばれている。敦賀港の場合は南福井駅との間をトラックで結ぶことになっている。近年、地球環境への配慮だとか、あるいはトラック輸送の人手不足を背景に「モーダルシフト」として鉄道輸送の見直しが行われているが、「列車」による実輸送が盛んなのはあくまで主要都市圏間の輸送ばかりで、地方のかつての貨物駅、コンテナ駅というのは、私がそうした事業に従事していた当時より減っている。自動車代行駅とか、コンテナセンターとかいう呼称はいろいろあったが、それらをひっくるめて現在はオフレールステーションと呼んでいるようだ。ただそのオフレールステーションすら廃止されたところもある。要はJR貨物が完全に撤退した駅といっていいだろう。昨今の鉄道貨物の世界も様変わりしているようだ。

敦賀港のオフレールステーションの先にあるのが金崎宮である。現在では「難関突破」や、それ以上に「恋の宮」として知られるところだ。こちらも先の気比神宮と同じく、南北朝の戦いの時はこの地に城が設けられ、南朝方として激戦の舞台となった。後醍醐天皇の皇子、恒良親王と尊良親王もこの地で奮戦の末に戦死した。現在の神社になったのは明治時代のことで、両親王を祭神とする。

また、金崎宮は城跡としても知られる。織田軍と浅井・朝倉連合軍の戦いでは激戦となり、羽柴秀吉がしんがりを務めて信長からの信頼を一気に高める結果となった場所である(難関突破の由来)。なぜ恋の宮なのかはこの際さておくとして・・・。

金崎宮の背後はちょっとした階段の道になっており、敦賀湾を見下ろす御殿跡に出る。ちょうど目の前には敦賀の火力発電所があり、大量の石炭が積まれている構内を見ることができる。その先は日本海へと続く長い入江。この地形も、敦賀が良港である要素の一つである。

そろそろ時間となり、球場に向かう。本当なら夏本番を迎える気比の松原に行ってもいいのだが、球場のほうが良いかなと。そうして町の中を漕いで行くが、どうも尻が痛くなってきた。スポーツサイクルのためにサドルも小さく、私の重いウエイトがそのぶんサドルに集中するようだ。ここは我慢してペダルを踏み、球場を目指す。途中の交差点脇にあるコンビニで飲食物を購入する。球場の売店もどうせ品数もないのだろうし、熱中症対策で冷凍のペットボトルなども仕入れる。ビールは・・・この暑さでは余計に身体がしんどくなるだろうし、下手したら自転車といえども「飲酒運転」になりかねないので差し控える。ひとり乾杯は帰りの特急の中でいいだろう。

球場に到着。時刻は11時40分くらいで、先にファンクラブ会員のみ入場できる時間帯だ。一般客は12時ちょうどからだが、球場の周りにはちらほらと開門を待つ客もいる。私服姿だが、滋賀ユナイテッドの私設応援団「近江豪勝連合」のメンバーたちも木陰で待っている。

12時となり開門(といっても、数人の客がぱらぱらと入り、選手やスタッフからプログラムや敦賀市の観光パンフレットを受け取るくらい)。この後はこのスタンドで、BCリーグ西地区優勝の福井と、最悪と言っていい成績での最下位の滋賀との対戦を観ることに・・・。
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帰りは夜の関西線回り

2018年04月14日 | 旅行記D・東海北陸
豊川、岡崎を回った日帰り旅もそろそろ夕方。降り立ったのは金山駅。JRと名鉄が交わる「総合駅」である。そろそろいい時間となり、このエリアで一杯やってから大阪に戻ることにする。改札のところで「知多四国」というポスターを見る。知多半島にある四国八十八所の写し霊場で、ウォーキングのコースとしても人気だという。いずれ、こちらも区切り打ちで回る機会があるかもしれない。

ホッピーとやきとんの立ち飲み客で賑わう店にもひかれたが、やはり名古屋に来たのだからと名古屋らしい店に行く。ということでベタな選択なのでが、手羽先の「世界の山ちゃん」に入る。大阪にも店があるのだが・・。

こちらでは定番の手羽先に加えて、みそ串カツ、うずら玉子などいただく。山ちゃんの手羽先を食べたのも久しぶりだが、あのスパイスは食欲を進める何かがある。

変わり種の飲み物もあるので挑戦する。赤味噌ハイというのがあるのでどんなものか注文する。何でも味噌と絡めるのが名古屋の味とはいえ、サワーまでとは。味噌汁を飲んでいるという感じはしないが、甘酸っぱいような香りがする。うーん、これは今一つかな。

一方で西尾産の抹茶を使った抹茶割りは濃い感じがしてよかった。手羽先にも合うといえば合う。

一通りいただいたところで駅に戻り、そろそろ大阪に向けて戻る。実は名古屋発21時の難波行き近鉄特急の指定席を買っていたのだが、これだと帰宅は23時半頃になる。そして名古屋駅に戻った時刻はまだ18時すぎ。今日はその時間までいることもないかと思い、青春18の旅とする。行きが東海道線だから帰りは関西線にしようと、その時はよく考えずに18時35分発の快速みえ21号に乗車。途中の四日市で、途中で追い越した亀山行きに乗り継ぐことができる。

19時07分、四日市に到着。しばらくホームで待つが、ここで雨が降ってきた。また風も強い。この時季に見られる不安定な天候である。やってきた19時14分発の亀山行きに乗り込む。

19時41分、亀山到着。次の加茂行きはそれほど待たずにあるのかなと思いきや、次は20時16分発まで30分以上待ちである。夜の30分は大きい。また亀山の駅前には古い個人経営の店しかなく、この時間はもう閉まっている。改札横の売店も閉まっているし、コンビニその他は10分ほど歩かなければならない。キャリーバッグを重そうに引いた女性客が、「食べるところも何もないんですかあ」と改札の駅員に困った様子で尋ねている。

亀山からは2両のキハ120。20時すぎだが外は完全に真っ暗。外は雨だが、スマホで雨雲の様子を見ると、この時間に雨が降っているのはこの辺りだけのようだ。車内にいるからいいものの、何でわざわざこのルートをたどったかなと苦笑いする。

21時35分、加茂に到着。接続の21時44分発の列車は奈良行き。まあ、奈良から接続列車があるのだろうと向かい、21時59分に奈良到着。

しかし、ここでまた時間が開く。次のJR難波行きは22時18分発と、およそ20分待ち。名古屋からここまで何だかんだで乗り換えの待ち時間が重なっている。東海道線回りなら新快速でとっくに大阪に着いているだろうし、名古屋から21時発の近鉄特急に乗っても同じような時間に大阪に戻れた形である。

結局この後は天王寺まで行かず、柏原で近鉄道明寺線に乗り換え、道明寺から藤井寺というルートで帰宅した。23時を回っていて、正に1日をフルに使う結果になった。この翌日にはBCリーグ観戦でまた滋賀の甲賀まで向かうのだが・・・。

乗る方はバラエティに富んでいた。行きが東海道線で豊橋、飯田線で豊川。ここが折り返しになり、帰りは名鉄で名古屋、名古屋からは関西線に乗り、最後は近鉄道明寺線を通る。名古屋を中心にした8の字型、メビウス型のルートは「乗りで」があった。次は行ったことのない名鉄沿線も見たいものである・・・。
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八丁味噌と岡崎城

2018年04月12日 | 旅行記D・東海北陸
岡崎公園前で下車。こちらは愛知環状鉄道の中岡崎駅と接しており、JRの岡崎駅に渡ることができる。ただせっかく来たのだから、何年かぶりに岡崎城のある岡崎公園に向かうことにする。

その前に、愛知環状鉄道の高架をくぐって、昔ながらの蔵造りのある建物に向かう。「カクキュー八丁味噌」の工場である。名古屋めしの味には欠かせない八丁味噌だが、その発祥は岡崎であり、現在八丁味噌を名乗ることができるのは、「まるや八丁味噌」と、「カクキュー八丁味噌」の2社のみだという。その他はあくまで赤味噌に過ぎないのだとか。

こちらは中の見学が無料でできる。30分ごとに案内があり、私の回は30名ほど参加した。まずは八丁味噌の歴史ということで史料館に向かう。明治時代に建てられた仕込み蔵を改装した建物である。

八丁味噌の「八丁」とは、岡崎城から西へ八丁(約870メートル)の距離にある八丁村(八帖村)で造られたことからその名がついており、大豆、塩、水のみを原料とする。一般に「赤だし」として飲まれている味噌は、米麹など他の原料も交えて風味を整えたものだという。まずは大豆を蒸して握りこぶし大の玉を造り、直径一間(約180cm)の杉の桶に6トンの味噌玉を仕込む。その上に3トンの石を乗せて2年ほど熟成させる。現在でも昔ながらの製造法を守っているという。かつては宮内省の御用達でもあった。

続いて熟成蔵に案内される。入口のところに、昨年の秋に造られたばかりの真新しい桶があるかと思えば、その奥には天保時代のものと書かれた桶もある。他にも石の積まれた桶が整然と並べられており、見ているだけで唾液が出てきそうだ。

最後には八丁味噌と赤だしの試飲。味噌汁ということで言えば風味を工夫した赤だしのほうが美味しく感じた。ただ、原点というか、八丁味噌のほうが濃厚で「味噌を食っているな」という感じがする。せっかくなので八丁味噌、赤だしそれぞれのインスタント用味噌汁をお土産に購入する。他に珍しいものとして浜納豆を購入。こちらは酒のあてでもよし、茶漬けにしてもよしという一品である。

この後は、城下町の通りを八丁歩いて岡崎公園に着く。まずは岡崎城跡に行こうと天守閣前の広場に出ると、賑やかな音楽が聞こえてくる。何かやっているようだ。

こちらは「グレート家康公『葵』武将隊」の皆さんによる演武ショー。徳川家康を中心に、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の徳川四天王、それに本多忠勝の娘で真田信之に嫁いだ稲姫に扮した6人組。最近よくあるおもてなし部隊というか、パフォーマンスのグループである。またギャラリーも子ども連れのほかに、いわゆる「歴女」の方々も目立つ。こういうグループの存在は歴史上の人物や武将を身近なものに感じさせる効果がある。

だいたいこうしたメンバーは現代風のイケメンが揃うのだが、私としては巨漢で三枚目役の酒井忠次がいい存在感を出しているなと思った。最後は「堪忍おどり」というのをギャラリーと一緒に踊り、記念撮影タイムとなる。希望する人は手持ちのカメラやスマホで一緒に撮ることもできる。

この後は、すぐ後ろの「三河武士のやかた家康館」に入る。こちらは徳川家康の生涯をパネルで紹介した展示館で、見どころは関ヶ原の戦いのジオラマ解説。時間軸に沿って、各武将の兵隊の人形が関ヶ原を駆け回る。また企画展示では火縄銃が取り上げられている。火縄銃といえば細長い形をイメージするが、中には「これを一人で担ぐのは無理ではないか」と思う大型の形状のものもある。火縄銃も泰平の時代になると、型としての術になったり、また銃そのものも美術品としての要素が強くなったりと、役割が変わってきた。現在では各地の保存会の人たちが城祭りのようなイベントで腕前を披露している。

一通り見た後で、天守閣に向かう。こちらは戦後に復元されたコンクリート造りの建物で、中は主に江戸期の岡崎藩の時代の紹介である。天守閣が建てられたのが江戸時代の本多氏が藩主だった頃だから、そうした紹介になる。

5階からは岡崎市内の展望が広がる。城のすぐ下には矢作川の支流である乙川が流れている。かつては帆掛け船の荷卸し場になっており、「五万石でも岡崎様は お城下まで舟が着く」と謡われたところだ。今は岡崎公園の一部であるが、多くの屋台が出ている。

岡崎公園は桜の名所ということで、4月13日まで桜祭りが行われるとある。ただ、今年は桜の開花が各地で早かった分、4月7日という日にもかかわらず半分以上が散ってしまっている。岡崎で降りることにしたのは城と桜という組み合わせを楽しみにしたこともあったが、ちょっと残念。まあ仕方がない。

このまま川沿いを歩き、東岡崎駅に出た。時間は16時前。岡崎の駅前での一杯というのも考えたが、さすがにまだどの店も開店前である。もう1時間待つのも中途半端なので、このまま名鉄で名古屋に向かうことにする。駅のコンビニで八丁味噌のもう1件の老舗である「まるや八丁味噌」の商品があったので、こちらも追加土産で買い求める。

乗車するのは名鉄特急。指定席のミューシートをおごってみた。直線の多い区間を快走する乗り心地もなかなかよい。これで名鉄名古屋・・・と行くところだが、今回は趣向を変えて一つ前の金山で下車する。同じ飲むのも気軽に飲むならこちらのほうがよさそうで・・・。
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豊川稲荷は神社ではなく寺院だった・・・

2018年04月11日 | 旅行記D・東海北陸
JRの豊川駅から歩いて豊川稲荷に向かう。駅前から車道が伸びて、両側が商店街になっている。実は一本入ったところが昔からの参道で、飲食店や土産物店が並んでいるというのは、豊川稲荷に着いて初めて気づいた。

初めて気づいたといえば、豊川稲荷に来ること自体が初めてなのでそうなのだが、稲荷神社につきものの朱色の鳥居が見えない。それどころか、豊川稲荷の正門である総門は屋敷の門構えのようである。

総門をくぐると山門があり、仁王像が立つ。そうかと思えば左手には石造りの鳥居や狐の像もある。私がイメージする稲荷神社とは趣が異なる。日本三大稲荷の一つとされているが(伏見稲荷、祐徳稲荷と合わせて三大稲荷とされているが、伏見稲荷以外については諸説あるそうだ)、こういう感じなのかな。

これは私が知らなかっただけだが、豊川稲荷は神社ではなく曹洞宗の寺院である。正式には「妙嚴寺」といい、本尊は豊川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)である。手に宝珠を持ち、白狐に乗っているという。元々は古代インドの民間信仰から生まれた仏教の神だが、日本では神仏習合で稲荷神と同一視された。

妙嚴寺が開かれたのは嘉吉元年(1441年)のことで、以後は今川義元や徳川家康の保護を受ける。江戸時代も大岡忠相や渡辺崋山などの歴史上の人物や、一般大衆からも篤い信仰を受け、豊川稲荷として栄えた。ただ、明治の神仏分離によって、稲荷神と吒枳尼眞天が分離され、鳥居も外された。今のように鳥居が建ち、狐の像が見られるようになったのは戦後のことだという。だから歴史はあるといっても伏見稲荷とは系統がだいぶ違う。日本三大稲荷に諸説があると先に書いたが、「日本三大稲荷『神社』」とする向きは豊川稲荷は対象外としている。こんなところにも日本の神仏の複雑な関係が見える。

ということで、本殿に向かう。明治末に着工、昭和の初めに完成した建物である。正面には吒枳尼眞天の真言「おんしらばった にり うん そわか」の札がある。それならば、数珠は持ってきていないが般若心経のお勤めをしなければなるまい。少し横にずれてブツブツとやり、最後に豊川吒枳尼眞天の真言を7度唱える。全く思っていなかった展開である。今回のサイコロの出目も、吒枳尼眞天や狐が呼び寄せたものかもしれない。

境内はこの後奥の院に続く。豊川稲荷の見どころは本殿よりもむしろ奥の院だそうで、元々吒枳尼眞天が祀られていたところだという。そこで向かうとまず目に飛び込むのが両側に立てられた数多くの幟。伏見稲荷の拝殿の奥から一ノ峯に続く千本鳥居のようなものである。地元の個人や企業に交じって、県外からも多く奉納されている。

その間には諸仏を祀るお堂もあるし、腹を撫でるとご利益が授かるという大黒天の像もある。曹洞宗の寺だがなぜか弘法大師も祀られている。道元はどげんした・・?

その中に奥の院のお堂があり、ここでも吒枳尼眞天の真言を唱える。

境内の最も奥、奥の院の奥(ややこしいな)に「霊狐塚(れいこづか)」というのがある。鳥居をくぐり、両側に吒枳尼眞天の幟と、何対もある狐の像を見る。

で、たどり着いたのは・・無数の狐の像。ゴツゴツした岩があり、その方向に狐が向いている。狐の像は願い事がかなった人たちが御礼の意味で奉納したそうだが、狐がこれだけ集まるというのはシュールな感じ。珍スポットとして紹介されることが多いそうだが、パワースポットとしても人気があるのだという。インスタ映えするとしてスマホであれこれ撮っている人がいるかと思えば、狐の多さに圧倒されたか泣き出す子どももいる。

何だか圧倒された感じを抱きながら参道を戻り、これで境内一周となる。時刻はちょうど昼時ということで食事にする。駅から続く昔からの参道に向かう。ちょうど総門の前の角に行列ができている店がある。豊川はいなり寿司発祥の地とされており、地元もいなり寿司で町を盛り上げようとPRに熱心だ。その「門前そば山彦」に入る。豊川のいなり寿司の店でも老舗だという。いなり寿司とそばというのはよく合うが、ここは愛知ということできしめんもある。

いなり寿司は「ミックス」を注文。五目いなり(ひじき、ニンジン、しいたけ、くるみ、タケノコ)と、葉山葵のいなりの組み合わせである。甘く煮た揚げに五目飯というのはなかなか見られない。また葉山葵のピリ辛というのも面白い。この店は昔ながらの味を守っているが、他の店ではいなり寿司に鰻を乗せたり、いなり寿司そのものを揚げてみたり、あるいはハンバーガー風にアレンジしたりと、いろいろ加工しているのもあるそうだ。最も美味しいのは昔ながらのスタンダードないなり寿司だと思うのだが、また機会があればこうした変わり種を試すのもいいかもしれない。

駅に戻る。ここで折り返すとして、行きに乗った飯田線ではなく名鉄の豊川線に乗る。こちらの駅名は豊川稲荷。これで国府まで出て、名古屋本線に乗ることにする。途中の駅で乗り換えて名鉄の支線に寄り道というのも面白そうだ。2両編成の列車に揺られ、豊川市内の近郊区間をトコトコと走る。

国府からの列車乗り継ぎで名古屋、岐阜方面のホームに移ると、リュックを背負いウォーキング姿の人たちであふれかえっている。改札の外にも乗車券を買う行列ができていた。何かのイベントかとスマホで検索すると、当日(4月7日)、トヨタ車体の健康保険組合主催のウォーキングイベントで豊川稲荷駅から国府駅まで歩くというのがあったそうだ。途中、佐奈川堤、赤塚山公園という地元の桜のスポットを通り、三河国の国分寺跡も経由する10.5キロのコース。ちょうど昼過ぎで完歩した人たちがホームに来たところに当たったようだ。それにしても桜・・・今年の傾向からして途中のポイントでもほとんど散ってしまっていたのではないだろうか。花に絡めたイベントというのは難しい。

やって来た特急はウォーキングの客で満員となる。私ももちろん立った状態で移動する。旧東海道の宿場町に近いルートを快走する。その中で、この列車をどこで降りるか考える。乗り鉄、名鉄乗りつぶしにこだわるなら新安城まで行って西尾線~蒲郡線とたどるのが面白そうだ。

ただ結局下車したのは次の東岡崎。そしてホームの向かい側で待っていた各駅停車で岡崎公園前に向かい、ここで外に出る。以前一度訪ねたが、岡崎での途中下車ということにした。西尾や蒲郡はまたの機会として楽しみにしておく。

岡崎で下車したのは桜の名所である岡崎城跡に行くというのもあるし、その前に名古屋の味覚の原点というべきスポットに行ってみようということで・・・・。
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飯田線の通し列車に乗る・・・豊川まで

2018年04月10日 | 旅行記D・東海北陸
青春18きっぷ利用の日帰り旅で目指す愛知、岐阜。目的地を決めるのにサイコロを使うことにして、関ヶ原を過ぎたところでサイコロアプリを起動する。もうタイトルからしてどこに行くことになったかはおわかりかと思うが、出たのは「5」。豊橋から豊川稲荷を目指すことになった。

出目によっては岐阜での乗り換えになったが、豊橋までということは、新快速の終点まで乗ることができる。まずはゆっくり車窓を見ることができる。

岐阜を過ぎて車内は満員。遠くに岐阜城を見て、木曽川、清洲城を過ぎる。名鉄の線路が近づくと名古屋である。愛知県に入ると雨も止み、この先は大丈夫だと安心する。そういえば、新潟や会津を回る青春18きっぷの大旅行をする男性は中央線に乗り換えたのだろうか。

東海道線の名古屋から先の区間に乗ることもなかなかなく、車窓を眺めるながら、豊川稲荷からの帰りをどうしようか考える。名古屋まで名鉄で戻るとして、途中は三河の国を走る支線にも寄ろうかとも思う。名鉄には乗ったことがない支線が多く、こうしたところを回ると新たな楽しさが見つかるかもしれない。

10時28分、豊橋に到着。乗り換え階段を多くの客が駆け上がる。この先浜松行きがあり、東海道線を東へ向かう客は席取り合戦となる。私はここから飯田線に乗り換えるとして、階段上の通路の売店で豊橋名物の竹輪など買い求める。え?飲み鉄のおつまみに決まっとるでしょうが。

その飯田線のホームは名鉄との共用である。駅名標を見ると、豊橋の次は船町。面白いのは、同じホームの反対側の名鉄乗り場では、豊橋の次が伊奈というのをJRのデザインで書かれている。駅コードが併記されているので名鉄と気づくくらいだ。

飯田線はかつて豊川鉄道という私鉄だった。また、名鉄の前身は愛知電鉄という鉄道だった。それぞれが同じくらいの時期に豊橋に路線を伸ばすにあたり、その合流地点から豊橋の間は、お互いが単線の線路を敷いて、それを複線として使用するという話があったそうだ。その名残が、国鉄からJRを経て現在まで続いているが、現在は完全にJRが有利で、名鉄は申し訳なさそうに乗り入れているようにも見える。

これから飯田線の10時42分の列車に乗るが、これが飯田線全線の100近いを7時間弱かけて走る岡谷行きである。飯田線に乗ることが目的なら時間帯的にもベストな列車である。ホームに下りた時にはすでに乗車口に長い列ができている。出で立ちからして、青春18きっぷで全線を乗り通すか、あるいは沿線の秘境駅を訪ねるか、いわゆる乗り鉄の殺気すら感じられる。乗ること自体は問題ないのだが、座れるかどうかは大きい。だから良い席狙いの殺気である。私もそのいずれかのためにこの列車に乗るのなら、知らないうちにそんな表情になっていたかもしれない。

ただ、この日は豊川が目的地。豊川までなら区間列車が頻発しており、座るのが第一なら区間列車に乗れば十分である。ただそこは、飯田線全線の通し列車に乗るほうが面白そうだ。座席は別にいいので、運転席の後ろに立ってみる。この一角も、「ビデオカメラをガラスに吸盤で貼り付けて前面展望を撮影しようというおっさん」とか、「望遠レンズのカメラを首からぶら下げ、右手には時刻表をにぎり、左手ではパンをかじりながら列車番号名をブツブツと唱えるお兄さん」など、こうした列車にお似合いの輩、もといキャラクターたちのパラダイスである。もっとも、その横に立つ私も、他の乗客には同類と見られているだろうが・・・。

運転席の後ろなので、かつてそうした経緯があった線路の様子も見える。豊川を渡り、分岐点で正式にJRと名鉄の線路が分かれる。ただしばらく走ると左側からまた線路が寄り添ってくる。こちらは名鉄の豊川線である。

10時54分、豊川に到着。ここで下車する。岡谷まで7時間近く走る列車のうち、12分だけ乗ったことになる。それもまたいいかな。ホームで列車の発車を見送るが、ボックス席に、ドア横のベンチ席に陣取った人の顔を見ると、やはり「乗りに来た」客の多さを感じる。

さてここからは豊川稲荷に向かう。駅では狐がお出迎えで・・・。
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青春18で東へ・・・行き先はサイコロで

2018年04月09日 | 旅行記D・東海北陸
先の記事では4月8日のBCリーグ観戦について書いたが、その前の日、7日は青春18きっぷを手に東に向かっていた。

北の方は年末年始や今年の西国めぐりで訪ねたし、西や南も何やかんやで訪ねている。とすると東へ向かいたい。岐阜や愛知には、行っているようで行ったことのないスポットも結構ある。ただそれらをどう回ろうかとなると、また迷ってしまう。・・・ということで、そうした時はサイコロである。とりあえず回るエリアを出目に挙げて、それに委ねることにする。

大阪6時21分発の米原行きに乗る。朝の時間だが大阪駅ホームの快速乗車口には長い列ができている。普通に京都あたりに出かける感じの客も多いが、いかにも青春18きっぷのヘビーユーザーという感じに見える客もいる。この列車は大阪始発ということもあり、まずはほぼ全員が座れた。

朝早いのでウトウトとしながら進む。まずはこの列車で米原まで行き、8時25分発の新快速豊橋行きに乗り継いで関ヶ原を越えるつもりだ。京都で乗客の半分が入れ替わるが、同じように京都から滋賀に向かう客が乗って来る。

シート越しに、前の席の男性客が行程を書いたメモが見える。メモと言ってもスーパーのチラシの裏に大きな文字で書かれているので、目に入ってくる。見える限りでは、この先新潟まで向かい、磐越西線で会津若松経由で郡山、磐越東線から常磐線と回って東京に出て、大阪に戻ってくる。2泊3日の行程のようだが、鈍行で乗り通すとなると結構ハード、途中で観光する時間もないだろう。これも純粋な乗り鉄の姿である。新潟までは北陸線~第3セクター乗り継ぎも検討したようだが、名古屋から中央線など乗り継いで向かうようだ(どういう乗り継ぎプランなのか、時刻表で推測してみようか)。

この前日の6日から天気が崩れていて、7日も朝のうちは近畿から東海にかけても雨が残る予報だった。また気温もぐっと下がるそうだ。外の空模様も冬を思わせる感じがして、雨も降ってきた。

米原に到着。乗り継ぎの新快速は同じホームの向かい側から発車する。早速乗車口には行列ができる。8両編成の運転とあり、それなら全員着席できそうだ。事実、車庫からの仕立列車のクロスシートには並んでいた全員が座り、それでも通路側に空席があった。

列車は雨の中、東へ進む。沿線には桜も多いが、残念ながら花が散っている。開花~満開が早かったぶん仕方ないのだが、ちょっと残念だ。

関ヶ原を過ぎる。ここまでだらだら書いて引っ張ったようだが、天下分け目?の行き先サイコロとする。もちろん、周囲の目もあるのでスマホのサイコロアプリだが。その出目は・・

1.岐阜~一宮~清洲など、尾張西部から名古屋(この辺りはJR、名鉄いずれに乗っても通過してばかり)

2.下呂温泉(ただし、美濃太田からは時間節約で特急に乗り換え)

3.恵那から明知鉄道(岩村城跡も含む)

4.太多線~多治見~豊田市(足助、香嵐渓も行けるかな)

5.豊橋、豊川稲荷、後は三河エリア(名鉄の三河エリアの路線にも乗れるかな)

6.知多半島を縦断(歴史のある半島、ともかくは南端の師崎を目指す)

関ヶ原から東に進み、行き先のエリアを時計回りに出目に充てる。それぞれ観光の面ではいろいろ新たな楽しみが期待できる。

外がどんよりした中で出た目とは、果たして・・・?
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帰りは呑み鉄にて・・・・(余計な書き足しあり)

2018年01月12日 | 旅行記D・東海北陸
元日の夕方、城端線て高岡に戻ってきた。次に乗るのは15時32分発の金沢行き。今度はあいの風とやま鉄道~IRいしかわ鉄道の直通列車である。券売機できっぷを買うと、中央には「倶利伽羅~金沢」と表示される。県境に近い倶利伽羅が両鉄道の境目であり、金沢で下車する時にわかりやすくするということか。

平地に下りると積雪はほとんどない代わりに雨である。その中を快走し、16時10分に金沢に到着。次に乗るのは16時31分発の敦賀行きで、敦賀までは2時間半の行程である。ちょうど夕方に差し掛かることもあり、売店でなにがしか仕入れる。バッグの中には昨夜のホテルでの「二次会」の残りもあるはずだ。ちょうど転換クロスシートで隣も空席のため、鈍行での呑み鉄である。まあ、正月だし・・・。それよりも前の席には中国人の6人のグループ、後ろの席は西洋人の男性と英語で会話する日本人女性のカップルと、鈍行の車内もインターナショナルである。

新幹線の白山基地への高架線を見ながら走るうちに外は暗くなり、駅ごとに地元の人たちが下車する。また小松では特急2本を先行させるために16分停車。長距離鈍行らしさも味わう。

福井に行くと必ず買うのがこの「味付けたら」。三国の業者が加工していて、ある意味福井のソウルフードだという。塩加減のキツさは身体に悪そうだが、クセになる一品。越前沖でたらがたくさん獲れるのかと思いきや、たらはオホーツクのものだというのは意外である。富山では昆布〆やら昆布巻きのかまぼこが郷土料理の一つだが、その富山では昆布は採れない。それと似た図式で、福井の味付けたらも北前船文化なのかな・・?と想像してしまう。

すっかり暗くなった18時05分に福井到着。ここでも12分停車だが、ホーム上の売店、今庄そばのスタンドは閉まっている。改札外の駅弁店も閉まっているのは正月だから早じまいのようだ。まあ、後は帰るだけだからとそのまま車内に戻る。

19時06分、敦賀に到着。後は湖西線、JR京都線に乗り継いで大阪に戻る。大阪に戻ると外はまだまだ明るいが、元日夜独特の人出の少ない光景だった。この風情も悪くない・・・。

(以下、余分の書き足し)
さて、この記事を書いているのは1月12日。前日はこの冬最強という寒波の襲来もあり、日本海側では大雪となった。そんな中で、新潟の信越線で起きた列車の立往生。JRの対応について賛否両論あるが、現場の状況を考えると、無人の雪原を歩かせるよりも、暖房の効いた車内にいてもらうほうがトータルで安全だと判断したのは理解できる。ただ、それをもっと早くきちんと説明してあげればよかったのではと思う。新潟の人が我慢強いのか知らないが、関西だと早い時点で乗客が勝手にドアを開けて降りだすか、車掌がシバかれるかのどちらかだろう。

それより気になったのが、立往生した車両のひ弱さ。最近のアルミ製か何か知らないが、車両が薄っぺらいな・・・というのが感想。昔の鋼鉄製の国鉄型車両ならこのくらいの雪(昔は普通に降っていたのでは?)なら多少強引に走り抜けたのではと思う。まあ、これは勝手な感想なのだが、ちょっと鉄道がいろんなところでヤワになってないか?と、この記事を見ながら思ったことである・・・。
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五箇山・相倉集落へ

2018年01月11日 | 旅行記D・東海北陸
白川郷から、再び富山県に入り五箇山を目指す。今度はバスの最前列の席に座って前方の景色を楽しむ。朝来た時から時間が経っていて雪の量も少し減ったようにも見えるが、それでも時おり降ってくる。

再び岐阜、富山の入り組んだ県境を過ぎて富山県に入る。先ほどの白川郷は村自体は過疎であるが、南部に通じる道もありまだ開けた印象があった。それに比べるとやはり国境を越える越中への道のりのほうが厳しそうである。秘境度でいえば五箇山のほうが深そうだ。

菅沼に到着。ここから観光客の乗車がある。今回は菅沼はバスの車窓から見るに止め、そのまま相倉を目指す。こちらには一度、世界遺産に認定されて間もない時期に見学している。世界遺産と言えば姫路城や法隆寺、原爆ドームに厳島神社といった歴史的建造物というイメージだったところに、合掌造りの集落が認定された。見学に来ていた人の中に、「これが世界遺産? 何だ、オレの田舎と一緒じゃないか」と言っていたのがいたのを覚えている。日本の昔の田舎の景色が世界遺産になることが当時すぐには結びつかなかったようだ。その後、世界遺産として日本からも文化遺産、自然遺産がさまざま認定されるようになったが、合掌造りの集落よりも無理がありそうな物件がないわけでもない。それがどこかと言うのは伏せるとして・・・。

相倉口のバス停に到着。下車したのは私だけだったが、ここから何人かの乗車がある。バス停から5分ほど歩いて集落入口の駐車場に着く。白川郷と比べて集落の規模は小さいが、落ち着いてまとまって見える。世界遺産がどうとか関係なく、日本の冬にはこうした景色があり、人の生活があることを感じさせる。こちらは先ほどの白川郷のように東南アジアから多くの観光客が来るわけでもなさそうで、静かである。次のバスまで1時間弱しかないが、集落を回るには十分である。

白川郷の展望台へは雪のため上がれなかったが、相倉では、民家の間に「ビュースポット」と書かれた手書きの看板があり、それに従って雪道を少し上がる。前の人の足跡はあるが、時おりそれを踏み抜いてズボッと足首の上まではまってしまう。

そして出たのはこの景色。相倉の観光写真でよく見る角度とは異なるが、昔話にでてきそうな風景である。

時間があれば民俗館や産業伝承館を見学するところだが、今回は中の見学は省略する。稲作ができない厳しい自然の中、五箇山はかつては加賀藩の支配下にあって、年貢米の代わりに火薬の原料となる塩硝を製造したり、養蚕で暮らしてきたという歴史に思いを馳せる。

今は塩硝も養蚕もなくなり、観光が産業になっている感じだが、相倉集落の全ての家が観光に従事しているわけではないだろう。そうした人たちは何を生業としているのかも気になる。

南砺市の地酒の三笑楽を土産として、そろそろバスの時間となり、集落を離れて相倉口のバス停に戻る。次の便は土日祝日ダイヤでの城端駅行き。行きと同じ路線バスタイプの車両で、乗客は私を含めて4人。冬とはいえ淋しい乗車率である。ここでまた山越えとなるが、雪が降るかと思えば晴れ間も出て、複雑な天気である。

城端駅に到着。これから城端線に乗るのだが、ここまでの行程は、朝早くに高岡を出たことで1時間ほど前倒しで進んでいる。その時間を使って、例えば城端の町並みを歩くこともできるのだが、ここに来て雨が降ってきた。これで町歩きはもういいかとなり、そのまま高岡行きの気動車に乗ることにした。

元日も早くも午後の時間になったが、これから大移動で大阪に戻ることに・・・。
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