あんなにちっちゃかった息子その2が成人しました。
息子その1の成人の日に、昔の古い写真から選びに選んだものをスキャンしてもらい、それをもとにスライドショーを作りました。
初めての経験だったので、失敗や思い違いが多く、何度も挫折を味わいながら、
しかもクリスマス前のクソ慌ただしい時期だったので、なんでこんなこと始めてしもたんやろなあと、深いため息つきながら、
それでもやっぱり特別な式もないこの国で(実際ここでの成人は21才だし)、ひっそり20才になるのは可哀想な気がして、
写真とMacに詳しい友人の旦那さんにめちゃんこお世話になりながら、母ちゃんは頑張ったわけです。
そして当日手渡して、テレビの画面にそれが流れた時、感動しまくってたのは母独り……。
優しいくせに素っ気ない派の息子その1は、「あんがと」と一言言うて部屋に戻ってしまいました。
それから1年と8ヶ月が経ち、またまた母ちゃんは、性懲りも無く、息子その2のスライドショーを作りました。
散々失敗した経験と、新しいMacに内蔵されているシステムが強い味方になってくれたので、
今回はホイホイッと、まあ、たま~に瞬間泣きましたが、無事に短時間で出来上がりました。
息子その1の出産は、陣痛の極期が2日半、1時間の強烈な痛みと10秒間の休息という、異常な状態で続いたにも関わらず、
子宮口がどうしても4センチしか開かなくて、焦った産科医がハサミを使って羊水を出してしまい、
びっくりした息子はわたしの心臓目がけて突進したのでした。
すでに3日近く痛みの極限にいたわたしは、食べられず眠れず、疲労困憊していたので、
そのショックで呼吸が停止してしまいました。
看護師がわたしに馬乗りになって、鬼の形相で、息子をぎゅうぎゅう押し戻そうとしていたのが最後の映像。
世界が急に薄れていき、「呼吸停止!呼吸停止!」と叫ぶ看護師の声が耳にこだましていました。
ああ、わたしは死ぬんやなあ。けど子供だけは助けて欲しい。わたしの命をどんな風に使てもええから助けて欲しい。
そやけどつまらんなあ。こんな、待ちに待った素晴らしい日に死ななあかんやなんて……と思たのを覚えています。
息子その2(娘ではなく)が欲しいと思たのが、そんなメチャクチャな出産から半年が経った頃でした。
誰一人賛成してくれなかったし、そんなことを考えるのは自殺行為だと諭されました。
なので、いろいろと陰謀を企んで、元夫を騙くらかして、二人目の息子を授かりました。
もともと8年も妊娠できなくて、石女だの、実家に帰れだのと言われたりしてたのに、
どうしてあの時、あんなに確信があったのか、今も我ながらに不思議です。
どうしても、時間を空けずに、しかも息子を身ごもる。そう決めました。
新たに通うようになった別の産婦人科の医者に事情を話すと、本気で呆れながらも、協力しようと言ってくれました。
そして20年前の今日、できたら自然に産みたいというわたしの願いを叶えようとしてくれた医者と一緒に頑張りましたが、
やはりどうしてだか、子宮口が4センチしか開きません。
そのうちに、子宮破裂が始まりかけてしまったので、母子ともに危険ということで、帝王切開になりました。
でも、それで良かったんです。
お腹を開けた時、担当医と助手が声を揃えて、「うわっこれは酷い」と言いました。
皮の下は膿だらけ。まずはそれをバキュームしなければ、子宮が見えませんでした。
ゴボゴボという鈍い音が何回も手術室に響きました。
息子は癒着部分に挟まっていて、医者が彼の脇に手を入れ、足を手術台にかけてウンウン引っ張ってもなかなか出られません。
わたしのお腹も引っ張られて痛かったけど、ごめんな、ごめんなと謝り続けました。
息子の首にはへその緒が3重に巻き付き、体一面ロウのような膜で覆われ、皮膚は紫色をしていました。
前の医者が慌てて切り刻んだ子宮壁はとても弱くなっていて、癒着も酷かったので、帝王切開は大正解でした。
あれから20年。
いろんな所から落っこちて、頭に穴を何個も作りました。
歩けるようになると鉄砲玉の本領発揮。あっという間に居なくなってしまいました。
人と同じことをするのを嫌い、よく無茶をして、体中傷だらけ。
わたしはとにかく、無事に大人になってくれることだけを一所懸命祈り続けました。
そして彼は、優しく思いやりのある大人になりました。相変わらず鉄砲玉ではあるけれど……。
このまま無事におじいちゃんその2になって、おじいちゃんその1と、
もし生きてたら旦那も一緒に(自分の方が長生きする気満々?)、
わたしが血のにじむような思いで創り上げたアホ伝説でも思い出しながら、
死んでいくわたしを笑って見送ってほしいなあと思います。
息子その1の成人の日に、昔の古い写真から選びに選んだものをスキャンしてもらい、それをもとにスライドショーを作りました。
初めての経験だったので、失敗や思い違いが多く、何度も挫折を味わいながら、
しかもクリスマス前のクソ慌ただしい時期だったので、なんでこんなこと始めてしもたんやろなあと、深いため息つきながら、
それでもやっぱり特別な式もないこの国で(実際ここでの成人は21才だし)、ひっそり20才になるのは可哀想な気がして、
写真とMacに詳しい友人の旦那さんにめちゃんこお世話になりながら、母ちゃんは頑張ったわけです。
そして当日手渡して、テレビの画面にそれが流れた時、感動しまくってたのは母独り……。
優しいくせに素っ気ない派の息子その1は、「あんがと」と一言言うて部屋に戻ってしまいました。
それから1年と8ヶ月が経ち、またまた母ちゃんは、性懲りも無く、息子その2のスライドショーを作りました。
散々失敗した経験と、新しいMacに内蔵されているシステムが強い味方になってくれたので、
今回はホイホイッと、まあ、たま~に瞬間泣きましたが、無事に短時間で出来上がりました。
息子その1の出産は、陣痛の極期が2日半、1時間の強烈な痛みと10秒間の休息という、異常な状態で続いたにも関わらず、
子宮口がどうしても4センチしか開かなくて、焦った産科医がハサミを使って羊水を出してしまい、
びっくりした息子はわたしの心臓目がけて突進したのでした。
すでに3日近く痛みの極限にいたわたしは、食べられず眠れず、疲労困憊していたので、
そのショックで呼吸が停止してしまいました。
看護師がわたしに馬乗りになって、鬼の形相で、息子をぎゅうぎゅう押し戻そうとしていたのが最後の映像。
世界が急に薄れていき、「呼吸停止!呼吸停止!」と叫ぶ看護師の声が耳にこだましていました。
ああ、わたしは死ぬんやなあ。けど子供だけは助けて欲しい。わたしの命をどんな風に使てもええから助けて欲しい。
そやけどつまらんなあ。こんな、待ちに待った素晴らしい日に死ななあかんやなんて……と思たのを覚えています。
息子その2(娘ではなく)が欲しいと思たのが、そんなメチャクチャな出産から半年が経った頃でした。
誰一人賛成してくれなかったし、そんなことを考えるのは自殺行為だと諭されました。
なので、いろいろと陰謀を企んで、元夫を騙くらかして、二人目の息子を授かりました。
もともと8年も妊娠できなくて、石女だの、実家に帰れだのと言われたりしてたのに、
どうしてあの時、あんなに確信があったのか、今も我ながらに不思議です。
どうしても、時間を空けずに、しかも息子を身ごもる。そう決めました。
新たに通うようになった別の産婦人科の医者に事情を話すと、本気で呆れながらも、協力しようと言ってくれました。
そして20年前の今日、できたら自然に産みたいというわたしの願いを叶えようとしてくれた医者と一緒に頑張りましたが、
やはりどうしてだか、子宮口が4センチしか開きません。
そのうちに、子宮破裂が始まりかけてしまったので、母子ともに危険ということで、帝王切開になりました。
でも、それで良かったんです。
お腹を開けた時、担当医と助手が声を揃えて、「うわっこれは酷い」と言いました。
皮の下は膿だらけ。まずはそれをバキュームしなければ、子宮が見えませんでした。
ゴボゴボという鈍い音が何回も手術室に響きました。
息子は癒着部分に挟まっていて、医者が彼の脇に手を入れ、足を手術台にかけてウンウン引っ張ってもなかなか出られません。
わたしのお腹も引っ張られて痛かったけど、ごめんな、ごめんなと謝り続けました。
息子の首にはへその緒が3重に巻き付き、体一面ロウのような膜で覆われ、皮膚は紫色をしていました。
前の医者が慌てて切り刻んだ子宮壁はとても弱くなっていて、癒着も酷かったので、帝王切開は大正解でした。
あれから20年。
いろんな所から落っこちて、頭に穴を何個も作りました。
歩けるようになると鉄砲玉の本領発揮。あっという間に居なくなってしまいました。
人と同じことをするのを嫌い、よく無茶をして、体中傷だらけ。
わたしはとにかく、無事に大人になってくれることだけを一所懸命祈り続けました。
そして彼は、優しく思いやりのある大人になりました。相変わらず鉄砲玉ではあるけれど……。
このまま無事におじいちゃんその2になって、おじいちゃんその1と、
もし生きてたら旦那も一緒に(自分の方が長生きする気満々?)、
わたしが血のにじむような思いで創り上げたアホ伝説でも思い出しながら、
死んでいくわたしを笑って見送ってほしいなあと思います。