冷たい雨が降っていた。
気温がガタンと下がり、風も強い。
こんな日だと、まず集まらないかもしれないな。
そう思いながら、集合場所のイーストサイドにある公園に向かった。

地べたでいったいなにやってんのかと近づいて行くと、原子力のマークを真ん中に印刷した、巨大ツルを折っている。

その横では、原子力(核)に反対してきた運動家の方々のスピーチが。

日本で発見された耳の無いうさぎの写真がここにも。

震災と津波、そして原発事故の被害者の方々への慰霊を込めて。

折り方のわからないアメリカンにも手伝ってもらい、わたしも二羽折った。

マンハッタンから、わずか25マイル離れた所にあるインディアン・ポイント原発。稼働し始めてから35年経つ。
情報がうやむやにされたまま、あと20年の稼働期間の延長が決まりかけている。
原発ができてからずっと現在まで、原発組織の連中を相手に闘っている人達。

福島や日本の現状を伝える人達。

皆、真剣だ。

集会中、雨脚がどんどん強くなってきた。でも、この大きな木が我々を守ってくれる。

1時間ほどかけて、ユニオン・スクエア経由で、ロックフェラー・センターまで行進するぞ~!

ユニオン・スクエアを通過した辺りで、とうとうどしゃ降りに。
雨宿りにビルやお店の入り口に佇んでいる人達が、わたし達に声援を送ってくれる。
みんなびしょ濡れになってきたのに、誰ひとり途中で抜けようとしないので、ひとまず地下鉄に乗ることになった。

地上に出ると、ありがたいことに小雨になっていた。

ロックフェラー・センター前、GM(米国の巨大電力会社)ビルディング(高さ259m、70階建て)の正門前に到着。

みんな無言で、びしょ濡れになったツルやプラカードを置いていく。
10分ぐらいすると、警備員が慌てて外に出てきた。

「こんなとこでなにしてんだ!すぐに立ち退きなさい!」
初めてのことでビビっているわたし。耳元で言われている男性は、まるで英語がわからないみたいにすっとぼけている。
心配になって、すぐ横に居るアメリカン男性に尋ねると、「いいんだこれで。奴らが警官でも呼ぶまで知らんぷりしてたら」と言う。
数人の警備員がワラワラと中から出てきたが、我々が次々に「原発反対!核を地球から無くせ!インディアン・ポイントの原発を止めろ!フクシマから学ぼう!」などと叫んでいるのを、眺めているだけ。
言いたい事は言った。さあ、解散!
ツルは彼らに片付けていただくことにした。

途中で別れた旦那と、ユニオン・スクエアで待ち合わせをした。
道すがら、大好きなMoMA(ニューヨーク近代美術館)の前を素通り!残念!

マンハッタンには、ビルとビルの間にふと、こんな空間があったりする。

今日みたいに寒いと、地下鉄の構内のモワモワさがありがたい。
けれどもこれはいかがなものか……。
ダウンタウンへの線に乗り換えるためのエレベーター。中に入った途端に猛烈なおしっこ臭!どこの変態さん?!

待ち合わせ場所のBarnes&Noble。わたしの好きな、お店の中にある本読み放題の店内喫茶。

さて、明日、誕生日を迎える旦那父へのプレゼントも買ったことだし、歩き疲れたし、よく濡れて冷えたし、そろそろ家に帰ろう。
ユニオン・スクエアに来たら、いつも気になっていたこの数字。

桁が百兆まであり、なにかの集計かと思ったのだけど、よくよく眺めていると、両端の数字はまるで変わらないままに、真ん中の数字が、目にもとまらない速さで変化している。
旦那は、全世界の人口ちゃう?などと言うが、そんなアホなことがあるわけがない。
で、数字を見上げながらブツブツふたりで話していると、突然おっきな声で呼び止められた。
「ヘ~イ、そこのおふたりさん、あの数字がなんの数字か、聞きたいかぁ~い」

いやあ、しゃべるしゃべる!彼はこのユニオン・スクエアの角っこで、わたし達のような者を見つけては、あの数字の謎を解き明かしてくれるおっちゃんなのであった!
で、結局話がわかったのか?と聞かれると……すんません、あんまりようわかってないのであった!
ネイティブの旦那でさえ、まあ、その話に興味が無く、ちゃんと聞いてなかったらしいが、よくわからんと言っていた。
なにやらこの、さらに怪しいビルの、金色の輪と、ビルの上部から出ている黒い手のことも説明してくれていたが……。

やっと雨が上がって、深い霧に包まれた街。

今日、アメリカ人達と一緒に行進してみて、感じたことがある。
みんなおんなじじゃないか。
情報を隠匿され、どんなに頑張って反対してもごり押しで建設が進み、人々が疲弊しきった頃には巨大な施設が建設されてしまっている。
日本の、祝島のように、とことん反対できた人々の強さを、心の底から敬いながら、できなかった自分を卑下して生きている。
核に魂を吸い取られてしまった一部の人間のために、そんな人間が、国を司る地位にいるがために、
国が丸ごと、間違った方向に歩んで行ってしまう。
その国を、直に下支えしている人達と、そんな人達を気の毒に思いつつ、見て見ぬふりをしてきたわたし達。
もう一度ここに、河北新報に載っていた記事の一部と、村上春樹氏のスピーチの一部を載せようと思う。
今日のデモ行進の間、わたしの心の中でずっと響いていたことなので。
河北新報『東日本大震災・被災3ヵ月/東北の位置付け変え自立を』
平和を望むが、基地は要らない。
電気は欲しいが、原発は来てほしくない。
「人ごとの論理」とは自己中心と同義語である。
地元にもたらされる公共事業と雇用、わずかばかりの補助金がそうした矛盾を覆い隠し、都市と地方を分断してきた。
村上春樹氏『被爆国日本は核反対を』上・下
核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。
我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。
我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。
たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、
我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。
核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。
それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。
日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。
それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。
しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。
だから歩こうと思った。
これからの残りの人生を、小さな声ではあるが、小さな一歩ではあるが、核アレルギーを持ち続け、大事な道筋を取り戻すために。
3.11は、世界中で、我に返ることができた、加害者であったことを自分自身に告白できた人がいる。
古い自分の命日でもある。
気温がガタンと下がり、風も強い。
こんな日だと、まず集まらないかもしれないな。
そう思いながら、集合場所のイーストサイドにある公園に向かった。

地べたでいったいなにやってんのかと近づいて行くと、原子力のマークを真ん中に印刷した、巨大ツルを折っている。


その横では、原子力(核)に反対してきた運動家の方々のスピーチが。


日本で発見された耳の無いうさぎの写真がここにも。

震災と津波、そして原発事故の被害者の方々への慰霊を込めて。


折り方のわからないアメリカンにも手伝ってもらい、わたしも二羽折った。

マンハッタンから、わずか25マイル離れた所にあるインディアン・ポイント原発。稼働し始めてから35年経つ。
情報がうやむやにされたまま、あと20年の稼働期間の延長が決まりかけている。
原発ができてからずっと現在まで、原発組織の連中を相手に闘っている人達。

福島や日本の現状を伝える人達。

皆、真剣だ。


集会中、雨脚がどんどん強くなってきた。でも、この大きな木が我々を守ってくれる。


1時間ほどかけて、ユニオン・スクエア経由で、ロックフェラー・センターまで行進するぞ~!



ユニオン・スクエアを通過した辺りで、とうとうどしゃ降りに。
雨宿りにビルやお店の入り口に佇んでいる人達が、わたし達に声援を送ってくれる。
みんなびしょ濡れになってきたのに、誰ひとり途中で抜けようとしないので、ひとまず地下鉄に乗ることになった。

地上に出ると、ありがたいことに小雨になっていた。

ロックフェラー・センター前、GM(米国の巨大電力会社)ビルディング(高さ259m、70階建て)の正門前に到着。

みんな無言で、びしょ濡れになったツルやプラカードを置いていく。


10分ぐらいすると、警備員が慌てて外に出てきた。

「こんなとこでなにしてんだ!すぐに立ち退きなさい!」
初めてのことでビビっているわたし。耳元で言われている男性は、まるで英語がわからないみたいにすっとぼけている。
心配になって、すぐ横に居るアメリカン男性に尋ねると、「いいんだこれで。奴らが警官でも呼ぶまで知らんぷりしてたら」と言う。
数人の警備員がワラワラと中から出てきたが、我々が次々に「原発反対!核を地球から無くせ!インディアン・ポイントの原発を止めろ!フクシマから学ぼう!」などと叫んでいるのを、眺めているだけ。
言いたい事は言った。さあ、解散!
ツルは彼らに片付けていただくことにした。

途中で別れた旦那と、ユニオン・スクエアで待ち合わせをした。
道すがら、大好きなMoMA(ニューヨーク近代美術館)の前を素通り!残念!


マンハッタンには、ビルとビルの間にふと、こんな空間があったりする。

今日みたいに寒いと、地下鉄の構内のモワモワさがありがたい。
けれどもこれはいかがなものか……。
ダウンタウンへの線に乗り換えるためのエレベーター。中に入った途端に猛烈なおしっこ臭!どこの変態さん?!

待ち合わせ場所のBarnes&Noble。わたしの好きな、お店の中にある本読み放題の店内喫茶。

さて、明日、誕生日を迎える旦那父へのプレゼントも買ったことだし、歩き疲れたし、よく濡れて冷えたし、そろそろ家に帰ろう。
ユニオン・スクエアに来たら、いつも気になっていたこの数字。

桁が百兆まであり、なにかの集計かと思ったのだけど、よくよく眺めていると、両端の数字はまるで変わらないままに、真ん中の数字が、目にもとまらない速さで変化している。
旦那は、全世界の人口ちゃう?などと言うが、そんなアホなことがあるわけがない。
で、数字を見上げながらブツブツふたりで話していると、突然おっきな声で呼び止められた。
「ヘ~イ、そこのおふたりさん、あの数字がなんの数字か、聞きたいかぁ~い」

いやあ、しゃべるしゃべる!彼はこのユニオン・スクエアの角っこで、わたし達のような者を見つけては、あの数字の謎を解き明かしてくれるおっちゃんなのであった!

で、結局話がわかったのか?と聞かれると……すんません、あんまりようわかってないのであった!
ネイティブの旦那でさえ、まあ、その話に興味が無く、ちゃんと聞いてなかったらしいが、よくわからんと言っていた。
なにやらこの、さらに怪しいビルの、金色の輪と、ビルの上部から出ている黒い手のことも説明してくれていたが……。

やっと雨が上がって、深い霧に包まれた街。

今日、アメリカ人達と一緒に行進してみて、感じたことがある。
みんなおんなじじゃないか。
情報を隠匿され、どんなに頑張って反対してもごり押しで建設が進み、人々が疲弊しきった頃には巨大な施設が建設されてしまっている。
日本の、祝島のように、とことん反対できた人々の強さを、心の底から敬いながら、できなかった自分を卑下して生きている。
核に魂を吸い取られてしまった一部の人間のために、そんな人間が、国を司る地位にいるがために、
国が丸ごと、間違った方向に歩んで行ってしまう。
その国を、直に下支えしている人達と、そんな人達を気の毒に思いつつ、見て見ぬふりをしてきたわたし達。
もう一度ここに、河北新報に載っていた記事の一部と、村上春樹氏のスピーチの一部を載せようと思う。
今日のデモ行進の間、わたしの心の中でずっと響いていたことなので。
河北新報『東日本大震災・被災3ヵ月/東北の位置付け変え自立を』
平和を望むが、基地は要らない。
電気は欲しいが、原発は来てほしくない。
「人ごとの論理」とは自己中心と同義語である。
地元にもたらされる公共事業と雇用、わずかばかりの補助金がそうした矛盾を覆い隠し、都市と地方を分断してきた。
村上春樹氏『被爆国日本は核反対を』上・下
核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。
我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。
我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。
たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、
我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。
核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。
それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。
日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。
それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。
しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。
だから歩こうと思った。
これからの残りの人生を、小さな声ではあるが、小さな一歩ではあるが、核アレルギーを持ち続け、大事な道筋を取り戻すために。
3.11は、世界中で、我に返ることができた、加害者であったことを自分自身に告白できた人がいる。
古い自分の命日でもある。