ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

22才&24才の、オレ流父の日の祝い方

2011年06月19日 | 家族とわたし
息子達の父親に旦那が突然就任してから、今年で20回目の父の日。
幼児だった彼らも、今じゃ立派な大人になった。
長男は24才半、マンハッタンの会社員。
次男はほぼ23才、スポンサー付きのゲーマー兼大学生。今だに実家にて居候中。

昨日から、うちのポンコツ窓用クーラーと、祖父からもらった自転車を取りに、家に戻っていた長男、
「気に入ったワイン買お思てた」予定を変更し、皆で『父の日ブランチ』に出かけることにした。

サンデーブランチというと、やっぱりダイナー。
そこで、行ったことの無い、けれども前々からちょっと興味のあった、次男と彼のガールフレンドがよく行く『トップス・ダイナー』に出かけることにした。

ニュージャージ州にはふたつの顔がある。
ひとつは工業&湿地帯&荒れ放題の廃棄された土地、もうひとつは、ニューヨーク郊外の、自然に恵まれた公園のように美しい町。
アメリカ人の多くは、荒れた方のイメージを持っている人が多く、ニュージャージーというと、「ああ、あそこね」と、顔を軽くしかめる。
「それにあそこは臭いしね」という言葉を付け加えながら……。
永遠の湿地帯からのガスと工場からの排気が、夏の暑さとほどよく混じり、その辺一帯独特の臭いが充満している。
それが、『アームピッツ(脇の下)』州という、いやなあだ名がついている所以である。

トップス・ダイナーは、うちから車で20分ほど離れた、どちらかというと、ワイルドな景色が広がる町の中にある。


今は多分、もう使われていない『はね橋』と、バリバリに使われているけれどボロい橋。


昔ながらの雰囲気満載のトップス・ダイナー。駐車場は満車。


当然、順番を待つ人でいっぱい。


周りをブラブラ歩いていると、この町でよく見る、ミニソーラーを見つけた。


コーヒーにめちゃくちゃうるさい旦那も満足の、オーガニックコーヒー。
食べ物もなかなかいい感じ。


ここで親父の分の支払いを担当するのが、長男のオレ流お祝い。

帰り道、一本一本の柱に、続き絵を落書きした高架を見つけた。


旦那がジャックハンマーを借りた店。マンハッタンの有名な駅の『Grand Central Station』をもじった『Grand Rental Station』。
多分、アメリカンジョークなんだろう……。


さて、次男のオレ流お祝いはこれ。
ミツワとコリアンマーケットで仕入れてきた魚で、スパイシーサーモンロール、寿司各種、サーモンアボガド巻を作る。
その手際の良さったら……さすが寿司職人!




わたしはわたしで、鶏の胸肉を蒸し、錦糸卵ときゅうりを足して、冷やし中華を作り、皆で食べ終わった頃にはお腹はパンパン。

お茶碗や鍋の片付けは、ニーナちゃんと長男、そしてわたしが担当。
久しぶりに、とてもにぎやかな台所だった。
一番嬉しそうにはしゃいでたのは多分、もうとっくに母の日が終わったわたしだったかもしれない。

祝島が思い出させてくれたこと

2011年06月19日 | 日本とわたし
小出裕章×山戸孝×小林武史 祝島で語る「今、おきていること。これからのこと」

祝島の島民の方々の闘いの歴史を読むたびに、わたしはあるひとつのことを思い出す。
若かったわたしが13年弱、嫁をしていた、ある過疎の農村に起こったことだ。
その村も、兼業農家が大部分を占める、少ない人口のうち、お年寄りの割合がとても多い、典型的な過疎地だった。
けれども、姑が丹誠込めて作ってくれた野菜や味噌、そしてコンニャク芋を蒸して手作りするこんにゃくは、どれもこれもが新鮮で、太陽の温かみやエネルギーが、舌に幸せを、身体に生きる力を与えてくれた。
今思い出しても、それはそれは美味い食べ物だった。
米は、忙しい時期だけは、家族総出で作業した。
蚕も飼っていた。
村の真ん中に、なんでも屋の魚屋があり、そこでたいていの物は手に入った。
村寄木や土葬などの古い風習が残る、外からの新米者には、少々溶け込みにくい村でもあった。

そこで十年近く、なかなか妊娠することができず、石女などと揶揄されながらも、なんとか馴染めてきた頃に、やっと長男を身ごもった。
あれよあれよという間に次男にも恵まれ、嫁としても、女としても、それなりに認めてもらい始めてきた頃、
村長のところに、廃棄物処理の会社から、なにやら話が持ちかけられているらしい、という噂が流れてきた。
隣村との境を走る高速道路の向こうに低い山があり、その山を潰して廃棄物処理場を作りたいと言ってきた、との説明があった。
もし受け入れに応じた場合の礼金は、確か300万ちょっとだったと思う。
もう20年以上も前のことだけど、それでもたかがそんな金額で承諾するはずがないと、反対を唱えていた人達が油断している隙に、
あっという間に契約が終わり、山が崩され、巨大な穴の中がこつ然と現れ、そこにしか棄てることが許されないような、得体の知れない廃棄物を運ぶ大型トラックが、次から次へと村にやって来た。

村の香りがすっかり変わった。
農作物の花や実や、家畜の糞、季節毎に変わる山の匂いに混じって、なんともいえない、腸の腐ったような不快な臭いが、村の空気の中に、だんだんと色濃く漂うようになった。
気圧や風の向きによって、それは濃くなったり薄くなったりした。

隣村の保育園まで、幼児の足には途方も無く遠く感じられたであろう距離を、その村の子供達は徒歩で通っていた。
その道中に、廃棄物処理場の山があった。
あっという間に最初の穴が埋まり、埋まったどころか、前の山より高く盛り上がったゴミの山をコンクリートで囲み、そのまた上に埋める穴を作る頃には、車で通りかかるにも、窓をしっかり締めなければ、臭くて我慢ができないようになっていた。
そんな所を、ヨチヨチ歩きの幼児達が、引率の先生に手を引かれ、坂道を上って行かなければならない。
わたしはどうしてもそのことがイヤで、わざと遅刻をさせては、自分の車で送って行った。
『ナマケモノで寝坊の母親』のレッテルを貼られようが、やっぱり町から来たよそ者は変わってる、と陰口を叩かれようが、
あのおぞましい空気を、小さな胸いっぱいに吸い込みながら、毎朝通わせることなどできなかった。

そのうち、山のふもとの、村でいうと一番端の低地に当たる地域の、田んぼの水がヤバいのではないか、という噂が流れ始めた。
農作物にもなんらかの影響が出ているのではないか、という話を、高台の連中がひそひそと語り合うようになった。
その頃になって初めて、たかが数百万の金に踊らされた当時の村の長達と、賛成派だった人達が、密かに非難され出した。
けれども、廃棄物の化け物はそこに根を張り、まるでバベルの塔のように、どんどんどんどんと空に向かって背を伸ばし、
その身体中の毛穴から、おぞましい悪臭を放ち、地中の根からは毒を吐き、貧しいけれど美しかった村をじわじわと汚していった。
もう元には戻れない。
この村の、少なくとも山の麓の半分は、完全に死んでしまうだろう。
わたしは、村の一番高台にある、嫁いだ家の前庭から見下ろし、無責任だった自分を責めながら決心した。
ここで息子達を大きくするわけにはいかない。
毒にまみれた空気を、吸い込ませるわけにはいかない。
臭いがあったことが幸いだった……。



祝島の人達を、祝島の人達の賢さを、強さを、だからわたしは心から敬う。

福島だけではない、今原発を抱えている町や村は、もうすでに一度、金の津波に襲われたのだ。
ものすごく巨大な、今までに見たこともない大きな津波に襲われて、すっかり流されてしまったのだ。
そして流れが引いた時には、びっくりするほど立派でおしゃれな建物や、気持ちのいい公園などと一緒に、
原子力発電所という着ぐるみを着た核の化物が、海辺にデンと腰を降ろしていた。
その怪物の周りの町や村や山には、もう二度と本当の世界は存在していないということを、誰も教えてもらえなかった。
金の津波は人工で、身体には全く感じられない津波だったけれど、もしももう一度、同じような大きさの、本物の津波がやってきたら、今ある生活や人生の保証は誰にもできません。
なぜなら、あなた方の生きている場所は、それほど危うく、全滅の危機と紙一重という、奇跡の連続の上にあるからです。
などと、本当のことを説明してくれる人にも恵まれず、ただただ年月が過ぎ去っていった。

そしてまずは福島に、本物の津波が襲ってきた。




原子炉の中にあったウラン燃料が、2800℃もの熱を持ったドロドロの物体と化し、それを囲んでいた鋼鉄の圧力容器をも溶かし、さらに格納容器をも溶かし、地中に潜り込んでいる。
この前代未聞の、世界初の、とんでもなく危険で恐ろしいことが、ずっと100日以上もじわじわと進行中だということ。
日本の国を背負っている政治屋は、どうしてなにもしないでいられるのだろう?
いつか、なにもなかったことになるかもしれない、などと夢見ているのだろうか?
それとも、もしかしたら本当に、想像することもできない、なにひとつ学ぶこともできない、無能で阿呆な人達なのだろうか?

それがどれほどに危険で恐ろしいことなのかを、世界中の誰ひとり、知らないでいる。
だってこれは初めてのことだから。
けれども、きっといつか、誰の目にも真実が見える時が来る。
その時こそ、原発がこの地球上にあってはならないものだということを、誰もが痛感する瞬間なのだ。