サイエンスポータル(SciencePortal)という科学誌に掲載された、科学ジャーナリスト、倉澤治雄氏の論文を転載します。
「原発事故はまた起きる」(掲載日:2011年12月7日)
『およそ「安全対策」は「これでいい」と思った瞬間が事故の始まりです。
「安全」とはそういうものです。
有名な「ハインリッヒの法則」によると、1件の大事故の周辺には、29件の「大事故につながりかねない事故」があり、
その周辺には300件の「ヒヤリ・ハット」がある、といいます。
今回の事故を招いた背景には、「事故」を「事象」や「不具合」と言いくるめてきた原子力産業界のまやかしがあります。
12月2日、東京電力は「福島原子力事故調査報告書」(以下「東電中間報告書」)を発表しましたが、
その内容を一読すると、すべては「責任逃れ」のために書かれたとしか思えません。
東京電力は当事者です。
当事者しか知りえないことがたくさんあります。
いや、全ての情報とデータは、東京電力が一手に握っている、といっても過言ではありません。
規制機関である原子力安全・保安院も原子力安全委員会も、政府の事故調査・検証委員会も、間もなく国会に設置される事故調査委員会も、東電から情報やデータをもらわなければ何もできません。
その東電がまとめた「東電中間報告書」は、「中間報告」とはいえ、少なくとも「権限」と「責任」について触れなければなりません。
ところが、「東電中間報告書」には、「責任」という言葉が、ただの一度も出てきません。
「強制調査権」を伴わない「事故調査」には、意味がないとつくづく感じます。
政府の事故調査・検証委員会も12月26日に「中間報告」を発表するといわれていますが、
畑村洋太郎委員長自ら、「責任追及は行わない」と宣言しているので、真実に迫る事故調査ができるかどうか疑問です。
例えば「ベント」。
「東電中間報告書」は1号機の「ベント」について、発生直後から「ベントの必要性を認識」して、発電所長(つまり吉田昌郎所長)が「準備を進めるよう指示」したとあります。
ではいったい「ベント」とは、そもそも誰が決断して、誰が実行し、誰が責任を取るのでしょうか?
「ベント」の実施は、場合によっては多数の住民が被ばくします。
仮にあなたが運転員で、ベントの実施を命じられたとします。
あなたは、多数の住民が被ばくする恐れのある中、ベントの弁を開くことができるでしょうか?
もし開いたとして、その責任は誰が取るのでしょうか?
開かなかったら、「業務命令違反」に問われるのでしょうか?
政府の9月の「報告書」では、海江田経済産業相が「原子炉等規制法」に基づいて、「圧力容器の圧力を抑制するよう命令を出した」とあります。
国は、刑事責任を覚悟の上で、この「命令」を出したのでしょうか。
「権限」と「責任」について、全く言及しない「事故報告書」は「報告書」の名に値しないと思いますが、皆さんはどうお考えでしょうか?
ところで、事故から8カ月たった2011年11月12日、東電福島第一原発が初めてマスコミに公開されました。
私も第一陣の一人として、現地を取材しました。
撮影は厳しく制限され、わずか3時間の取材の間、バスから降りることも認められませんでした。
しかし、映像で見なれた原子炉建屋も、現地で実物を見ると、あらためて破壊の大きさが実感され、
事故収束への道のりがいかに厳しいか、まざまざと思い知らされました。
11月12日午前10時、私たちは防護服に身を固めて、2台のバスに分乗して、Jビレッジを出発しました。
東電福島第一原発への道のりは約40分です。
途中の楢葉町、富岡町、大熊町では、対向車もパトカーばかりで、街中にも人の姿は見られませんでした。
地震で崩れた家屋も、放置されたままでした。
「野生化牛に注意」の看板が目を引きました。
置き去りとなった牛が野生化したのでしょう。
「家に帰ってみたら、飼い犬が生きたニワトリをくわえていた」と語る住民もいました。
原発事故の厄災は、生きるものすべてにのしかかっているのです。
それにしても、日本の田園風景はなんと美しいのかと、思わず息を飲む瞬間がある一方、
無人の街と化した原発周辺の街々を見るにつけ、人間の営みのはかなさを感ぜざるを得ませんでした。
午前11時前、バスは正門に到着しました。
警備上の問題を理由に、正門の撮影も許可されませんでした。
敷地内に入って5分ほどで、全体を見下ろせる高台に到着しました。
福島第一原発の敷地は、もともと35メートルの高台です。
6基の原子炉は、高台を海抜10メートルまで削って建てられました。
一望すると、まるで人工のリアス式海岸です。
寄せては引く高波と異なり、海がせりあがるような津波では、「押し波」がぐいぐいと、削られた台地をはい上がってきたのでしょう。
東電が発表した津波の映像を見ると、駆け上がった波頭の先端は、45メートルの建屋をはるかに超えています。
あらためて1号機から4号機に目をやると、今回の事故の大きさを実感します。
3月12日午後3時36分に、水素爆発を起こした1号機は、すでに建屋がカバーで覆われていました。
あたかも何事もなかったかのように、白いカバーは不自然な光沢を放っていました。
2号機は3月15日早朝、圧力抑制室付近で爆発があった、とされていましたが、
「東電中間報告書」では、地震計の記録から、4号機の爆発と取り違えた可能性が高いとしており、真相は分かっていません。
ただし、15日早朝に、2号機の圧力抑制室の圧力は急減し、放射性物質が大量に放出されたのは事実で、
福島原発事故調査・検証委員会が、事実を解明できるかどうか注目されます。
もっとも無残な姿をさらしていたのが3号機です。
3月14日午前11時01分、福島中央テレビの定点カメラが撮影した爆発の映像は、私の脳裏に焼き付いています。
というのも、私が東京のスタジオで、事故の解説をしている最中に起こった爆発だからです。
映像はほぼリアルタイムで放送され、1号機の爆発にも増して衝撃を与えました。
あの時、まず大きな炎が上がったことに驚きました。
建屋を構成するコンクリートの本質は「水」です。
熱でコンクリートから「水」が飛ばされると、ボロボロになります。
私は、まず建屋が崩壊してしまうのではないかと恐れました。
同時に、建屋上部の構造物が、垂直縦方向に大きく吹き飛ばされ、黒っぽい煙が黒雲のように立ち上りました。
排気塔の高さが120メートルですから、おそらく500メートルをはるかに超えたでしょう。
垂直方向のベクトルの原因が、格納容器にあるのではないかと、とっさに疑いました。
放送中、私はかなり動転していました。
「水素爆発」を「水蒸気爆発」と言い間違えるミスも犯してしまいました。
あの瞬間、正直に言って、「もう終わりだ」と思いました。
目の前に現れた3号機を見ていると、悪夢がよみがえってきます。
さらに、落下する巨大な破片の下に作業員がいるかと思うと、いたたまれぬ気持になりました。
実際、注水作業をしていた作業員や自衛隊員らが負傷しました。
4号機の破壊も思ったより深刻に感じられました。
3月15日の東電と保安院の発表は「火災発生」でしたが、実は水素爆発でした。
定期点検のために取り外されていた格納容器の黄色い蓋が、高台からもはっきりと確認できました。
また、使用済み燃料プールの一部と、燃料を釣り上げるクレーンの一部が、壊れた建屋からのぞいていました。
3月15日の早朝、4号機爆発の一報を聞いた時も、思わず絶句しました。
「使用済み燃料プールには格納容器がない」と当たり前の事実が脳裏をよぎり、「今度こそ本当に終わった」と感じたことを覚えています。
高台から4機の原発を眺めたとき、自分がそこに立っていることが、不思議な感じに襲われました。
バスは敷地内を海側に下っていき、集中廃棄物処理建屋を通り過ぎると海側に出ます。
石を土嚢に詰めて積み上げた仮設の防潮堤で、視界が遮られます。
4号機のタービン建屋に差し掛かると、サーベイメーターの線量が上がり始めました。
4号機と3号機の間では、線量率が1時間当たり1,000マイクロシーベルトに達しました。
年間の被ばく線量を、1時間で浴びることになります。
敷地内の作業は、極めて高い放射線量の中で行われています。
しかも、防護服と防護マスクという不自由な環境で、コミュニケーションもままなりません。
私たち記者も、わずか3時間余りの取材でしたが、防護マスクを外した時の爽快感は忘れられません。
最後に、免震重要棟を訪れました。
もしこの建物がなければ、事故はさらに深刻な道をたどったと思われます。
というのも、各原子炉の中央制御室は、放射線量が上がり、運転員すら長時間立ち入ることができなかったからです。
免震重要棟がなければ、事故処理は参謀本部を欠いたまま、さらに迷走したに違いありません。
現地取材の最大の収穫は、現場指揮官の吉田昌郎所長の話を直接聞くことができたことです。
11月24日、吉田所長が病気入院して所長を退いた現在、ほとんど唯一の肉声です。
「ポイントは、原子炉が安定しているかどうかが一番重要だと思っています。
私としては、プラントは安定していると考えています。
ただ、冷温停止という定義の問題や炉内の状況は、本店などの解析で評価してもらう必要があります。
プラントが今日明日異常になるという状態からは、全然遠ざかった状態にあるということを私は確信しています。
逆に言うと、不安定な状態であれば、3,000人の作業員を受け入れることを僕は拒否しますので……」
吉田所長は明確に、「冷温停止」という言葉を避けたがっていました。
「安定している、という観点では確信しています。あとは本店を含めて、どうしっかり説明するかですね」と、
あくまで「安定しているにすぎない」ととれる言い方をしています。
吉田所長を英雄視することはできません。
事故の責任者のひとりです。
しかし、吉田所長ほど率直に、自分の言葉で語った東電幹部はいませんでした。
「一番厳しい時期はいつでしたか?」との私の質問に、次のように答えました。
「やはり、3月11日から一週間が一番、次がどうなるか想像できない中で、できる限りやっていたということで、
感覚的にいうとこの一週間、まあ極端な言い方をすれば、死ぬだろうと思ったことが数度ありました」
私は「死ぬだろう」という言葉に、「死ぬかもしれない」とか「死にそうだった」という比喩とは異なる、死への覚悟のようなものを感じました。
「『死ぬかと思った』とは具体的にどういうことですか」という質問には、次のように答えました。
「例えば1号機の爆発があった時に、どういう状況で爆発したのか分からなかった。
現場から、ケガした人間が帰ってくるという状況で、最悪格納容器が爆発しているとなると、大量の放射能が出てきます。
そこでコントロールが不能になってきます。
それから3号機の爆発。
2号機の原子炉に注水するときに、なかなか水が入りませんで、そういう中で一寸先が見えない。
最悪メルトダウンがどんどん進んで、コントロール不能という状態があったので、その時に終わりかなと感じました」
政府は、16日にも、工程表のステップ2完了を宣言する見通しです。
人々もすでに、事故処理や放射能の問題にうんざりし始めています。
しかし、最後のとりでである格納容器が損傷したまま、融けた燃料の場所も分からないままで、
果たして「冷温停止状態」と宣言することに意味があるでしょうか?
余震や余震による津波のリスクもあります。
ひとたび大規模な火災が起きれば、全てを放棄しなければなりません。
3,000人もの作業員が、防護服に防護マスクという不自由な環境で事故処理にあたる中、ヒューマンエラーの恐れもあります。
何より、大量の高レベル放射性廃液が、いまだに管理されないままたまり続けています。
私たちが事故の現実から目をそらすとき、間違いなく次の事故が準備されています。
放射能まみれの国土を後世に残さないために、これからも私たちは、事実を直視していかなければなりません』
およそ「安全対策」は「これでいい」と思った瞬間が事故の始まりです。
「安全」とはそういうものです。
私たちが事故の現実から目をそらすとき、間違いなく次の事故が準備されています。
放射能まみれの国土を後世に残さないために、これからも私たちは、事実を直視していかなければなりません。
「原発事故はまた起きる」(掲載日:2011年12月7日)
『およそ「安全対策」は「これでいい」と思った瞬間が事故の始まりです。
「安全」とはそういうものです。
有名な「ハインリッヒの法則」によると、1件の大事故の周辺には、29件の「大事故につながりかねない事故」があり、
その周辺には300件の「ヒヤリ・ハット」がある、といいます。
今回の事故を招いた背景には、「事故」を「事象」や「不具合」と言いくるめてきた原子力産業界のまやかしがあります。
12月2日、東京電力は「福島原子力事故調査報告書」(以下「東電中間報告書」)を発表しましたが、
その内容を一読すると、すべては「責任逃れ」のために書かれたとしか思えません。
東京電力は当事者です。
当事者しか知りえないことがたくさんあります。
いや、全ての情報とデータは、東京電力が一手に握っている、といっても過言ではありません。
規制機関である原子力安全・保安院も原子力安全委員会も、政府の事故調査・検証委員会も、間もなく国会に設置される事故調査委員会も、東電から情報やデータをもらわなければ何もできません。
その東電がまとめた「東電中間報告書」は、「中間報告」とはいえ、少なくとも「権限」と「責任」について触れなければなりません。
ところが、「東電中間報告書」には、「責任」という言葉が、ただの一度も出てきません。
「強制調査権」を伴わない「事故調査」には、意味がないとつくづく感じます。
政府の事故調査・検証委員会も12月26日に「中間報告」を発表するといわれていますが、
畑村洋太郎委員長自ら、「責任追及は行わない」と宣言しているので、真実に迫る事故調査ができるかどうか疑問です。
例えば「ベント」。
「東電中間報告書」は1号機の「ベント」について、発生直後から「ベントの必要性を認識」して、発電所長(つまり吉田昌郎所長)が「準備を進めるよう指示」したとあります。
ではいったい「ベント」とは、そもそも誰が決断して、誰が実行し、誰が責任を取るのでしょうか?
「ベント」の実施は、場合によっては多数の住民が被ばくします。
仮にあなたが運転員で、ベントの実施を命じられたとします。
あなたは、多数の住民が被ばくする恐れのある中、ベントの弁を開くことができるでしょうか?
もし開いたとして、その責任は誰が取るのでしょうか?
開かなかったら、「業務命令違反」に問われるのでしょうか?
政府の9月の「報告書」では、海江田経済産業相が「原子炉等規制法」に基づいて、「圧力容器の圧力を抑制するよう命令を出した」とあります。
国は、刑事責任を覚悟の上で、この「命令」を出したのでしょうか。
「権限」と「責任」について、全く言及しない「事故報告書」は「報告書」の名に値しないと思いますが、皆さんはどうお考えでしょうか?
ところで、事故から8カ月たった2011年11月12日、東電福島第一原発が初めてマスコミに公開されました。
私も第一陣の一人として、現地を取材しました。
撮影は厳しく制限され、わずか3時間の取材の間、バスから降りることも認められませんでした。
しかし、映像で見なれた原子炉建屋も、現地で実物を見ると、あらためて破壊の大きさが実感され、
事故収束への道のりがいかに厳しいか、まざまざと思い知らされました。
11月12日午前10時、私たちは防護服に身を固めて、2台のバスに分乗して、Jビレッジを出発しました。
東電福島第一原発への道のりは約40分です。
途中の楢葉町、富岡町、大熊町では、対向車もパトカーばかりで、街中にも人の姿は見られませんでした。
地震で崩れた家屋も、放置されたままでした。
「野生化牛に注意」の看板が目を引きました。
置き去りとなった牛が野生化したのでしょう。
「家に帰ってみたら、飼い犬が生きたニワトリをくわえていた」と語る住民もいました。
原発事故の厄災は、生きるものすべてにのしかかっているのです。
それにしても、日本の田園風景はなんと美しいのかと、思わず息を飲む瞬間がある一方、
無人の街と化した原発周辺の街々を見るにつけ、人間の営みのはかなさを感ぜざるを得ませんでした。
午前11時前、バスは正門に到着しました。
警備上の問題を理由に、正門の撮影も許可されませんでした。
敷地内に入って5分ほどで、全体を見下ろせる高台に到着しました。
福島第一原発の敷地は、もともと35メートルの高台です。
6基の原子炉は、高台を海抜10メートルまで削って建てられました。
一望すると、まるで人工のリアス式海岸です。
寄せては引く高波と異なり、海がせりあがるような津波では、「押し波」がぐいぐいと、削られた台地をはい上がってきたのでしょう。
東電が発表した津波の映像を見ると、駆け上がった波頭の先端は、45メートルの建屋をはるかに超えています。
あらためて1号機から4号機に目をやると、今回の事故の大きさを実感します。
3月12日午後3時36分に、水素爆発を起こした1号機は、すでに建屋がカバーで覆われていました。
あたかも何事もなかったかのように、白いカバーは不自然な光沢を放っていました。
2号機は3月15日早朝、圧力抑制室付近で爆発があった、とされていましたが、
「東電中間報告書」では、地震計の記録から、4号機の爆発と取り違えた可能性が高いとしており、真相は分かっていません。
ただし、15日早朝に、2号機の圧力抑制室の圧力は急減し、放射性物質が大量に放出されたのは事実で、
福島原発事故調査・検証委員会が、事実を解明できるかどうか注目されます。
もっとも無残な姿をさらしていたのが3号機です。
3月14日午前11時01分、福島中央テレビの定点カメラが撮影した爆発の映像は、私の脳裏に焼き付いています。
というのも、私が東京のスタジオで、事故の解説をしている最中に起こった爆発だからです。
映像はほぼリアルタイムで放送され、1号機の爆発にも増して衝撃を与えました。
あの時、まず大きな炎が上がったことに驚きました。
建屋を構成するコンクリートの本質は「水」です。
熱でコンクリートから「水」が飛ばされると、ボロボロになります。
私は、まず建屋が崩壊してしまうのではないかと恐れました。
同時に、建屋上部の構造物が、垂直縦方向に大きく吹き飛ばされ、黒っぽい煙が黒雲のように立ち上りました。
排気塔の高さが120メートルですから、おそらく500メートルをはるかに超えたでしょう。
垂直方向のベクトルの原因が、格納容器にあるのではないかと、とっさに疑いました。
放送中、私はかなり動転していました。
「水素爆発」を「水蒸気爆発」と言い間違えるミスも犯してしまいました。
あの瞬間、正直に言って、「もう終わりだ」と思いました。
目の前に現れた3号機を見ていると、悪夢がよみがえってきます。
さらに、落下する巨大な破片の下に作業員がいるかと思うと、いたたまれぬ気持になりました。
実際、注水作業をしていた作業員や自衛隊員らが負傷しました。
4号機の破壊も思ったより深刻に感じられました。
3月15日の東電と保安院の発表は「火災発生」でしたが、実は水素爆発でした。
定期点検のために取り外されていた格納容器の黄色い蓋が、高台からもはっきりと確認できました。
また、使用済み燃料プールの一部と、燃料を釣り上げるクレーンの一部が、壊れた建屋からのぞいていました。
3月15日の早朝、4号機爆発の一報を聞いた時も、思わず絶句しました。
「使用済み燃料プールには格納容器がない」と当たり前の事実が脳裏をよぎり、「今度こそ本当に終わった」と感じたことを覚えています。
高台から4機の原発を眺めたとき、自分がそこに立っていることが、不思議な感じに襲われました。
バスは敷地内を海側に下っていき、集中廃棄物処理建屋を通り過ぎると海側に出ます。
石を土嚢に詰めて積み上げた仮設の防潮堤で、視界が遮られます。
4号機のタービン建屋に差し掛かると、サーベイメーターの線量が上がり始めました。
4号機と3号機の間では、線量率が1時間当たり1,000マイクロシーベルトに達しました。
年間の被ばく線量を、1時間で浴びることになります。
敷地内の作業は、極めて高い放射線量の中で行われています。
しかも、防護服と防護マスクという不自由な環境で、コミュニケーションもままなりません。
私たち記者も、わずか3時間余りの取材でしたが、防護マスクを外した時の爽快感は忘れられません。
最後に、免震重要棟を訪れました。
もしこの建物がなければ、事故はさらに深刻な道をたどったと思われます。
というのも、各原子炉の中央制御室は、放射線量が上がり、運転員すら長時間立ち入ることができなかったからです。
免震重要棟がなければ、事故処理は参謀本部を欠いたまま、さらに迷走したに違いありません。
現地取材の最大の収穫は、現場指揮官の吉田昌郎所長の話を直接聞くことができたことです。
11月24日、吉田所長が病気入院して所長を退いた現在、ほとんど唯一の肉声です。
「ポイントは、原子炉が安定しているかどうかが一番重要だと思っています。
私としては、プラントは安定していると考えています。
ただ、冷温停止という定義の問題や炉内の状況は、本店などの解析で評価してもらう必要があります。
プラントが今日明日異常になるという状態からは、全然遠ざかった状態にあるということを私は確信しています。
逆に言うと、不安定な状態であれば、3,000人の作業員を受け入れることを僕は拒否しますので……」
吉田所長は明確に、「冷温停止」という言葉を避けたがっていました。
「安定している、という観点では確信しています。あとは本店を含めて、どうしっかり説明するかですね」と、
あくまで「安定しているにすぎない」ととれる言い方をしています。
吉田所長を英雄視することはできません。
事故の責任者のひとりです。
しかし、吉田所長ほど率直に、自分の言葉で語った東電幹部はいませんでした。
「一番厳しい時期はいつでしたか?」との私の質問に、次のように答えました。
「やはり、3月11日から一週間が一番、次がどうなるか想像できない中で、できる限りやっていたということで、
感覚的にいうとこの一週間、まあ極端な言い方をすれば、死ぬだろうと思ったことが数度ありました」
私は「死ぬだろう」という言葉に、「死ぬかもしれない」とか「死にそうだった」という比喩とは異なる、死への覚悟のようなものを感じました。
「『死ぬかと思った』とは具体的にどういうことですか」という質問には、次のように答えました。
「例えば1号機の爆発があった時に、どういう状況で爆発したのか分からなかった。
現場から、ケガした人間が帰ってくるという状況で、最悪格納容器が爆発しているとなると、大量の放射能が出てきます。
そこでコントロールが不能になってきます。
それから3号機の爆発。
2号機の原子炉に注水するときに、なかなか水が入りませんで、そういう中で一寸先が見えない。
最悪メルトダウンがどんどん進んで、コントロール不能という状態があったので、その時に終わりかなと感じました」
政府は、16日にも、工程表のステップ2完了を宣言する見通しです。
人々もすでに、事故処理や放射能の問題にうんざりし始めています。
しかし、最後のとりでである格納容器が損傷したまま、融けた燃料の場所も分からないままで、
果たして「冷温停止状態」と宣言することに意味があるでしょうか?
余震や余震による津波のリスクもあります。
ひとたび大規模な火災が起きれば、全てを放棄しなければなりません。
3,000人もの作業員が、防護服に防護マスクという不自由な環境で事故処理にあたる中、ヒューマンエラーの恐れもあります。
何より、大量の高レベル放射性廃液が、いまだに管理されないままたまり続けています。
私たちが事故の現実から目をそらすとき、間違いなく次の事故が準備されています。
放射能まみれの国土を後世に残さないために、これからも私たちは、事実を直視していかなければなりません』
およそ「安全対策」は「これでいい」と思った瞬間が事故の始まりです。
「安全」とはそういうものです。
私たちが事故の現実から目をそらすとき、間違いなく次の事故が準備されています。
放射能まみれの国土を後世に残さないために、これからも私たちは、事実を直視していかなければなりません。