最近つくづく思います。
このカオスの発端は、原子力マフィア(ムラ)というものが、閉鎖的で欲の塊の上、無責任な人間で構成されており、
無知で無恥で無正なくせに、権力と金だけは持っていて、放射能というとてつもなく危険なものを扱う立場に居座っている、ということだと。
史上最悪の事故が起こり、それがまだなにも解決されないどころか、解決される可能性すら見出せないまま15ヵ月も経ってしまい、
さらに、頻繁に起きている地震が、事故を起こした原発の周辺で、日本にしたら普通の規模のものが起こっただけで、この世の終わりを迎えるかもしれないのに、
腹話術の人形並みの、子供のお使いみたいな臆病な政治屋が、わかったような顔して、原発のことをどうこうしようとしています。
わたし達は早急に、世界に向かって、「助けてくれ!あいつらを原発から引き剥がしてくれ!」と叫ばなければならないのではないのでしょうか?
さて、これから、先月の末の5月31日、JBPress(Japan Business Press)のウォッチング・メディアに掲載されていた、
烏賀陽 弘道さんの取材による記事を紹介します。
わたしがいよいよ、今いる政治屋に任せていてはいけないと、危機感を募らせている理由が、きっとわかっていただけると思います。
福島第一原発事故を予見していた電力会社技術者
無視され、死蔵された「原子力防災」の知見
『フクシマの原発災害を取材するため、私が次に訪れたのは四国だ。
愛媛県松山市である。
それは私が『原子力防災─原子力リスクすべてと正しく向き合うために』という本に出合ったからだ。
3.11後、原子力発電所事故に関する文献をあさっていて、この本を見つけて読んだとき、椅子から転げ落ちそうになるほど驚いた。
『原子力防災─原子力リスクすべてと正しく向き合うために』(松野元著、創英社/三省堂)
福島第一原発事故、そのあとの住民の大量被曝など、
原発災害すべてについて「そうならないためにはどうすればよいのか」という方法が細部に至るまで具体的に書かれていたからだ。
逆に言えば「これだけの災害が予想できていたなら、なぜ住民を被曝から救えなかったのか」という疑問が心に焼き付いた。
私がずっとフクシマ取材で「答えが見つからない」「答えを見つけたい」と思っている疑問は、
「なぜ、何万人もの住民が被曝するような深刻な事態になってしまったのか」「どうして彼らを避難させることができなかったのか」だ。
だから「どんな避難計画があったのか」「どんな訓練をしてきたのか」を福島県や現地の市町村に聞いてまわってきた。
その「調べるたびに分かった部分」を本欄を借りて報告している。
ところが、その大きな疑問の大半に、この本は明快に答えていた。
だから、現実に政府が取った対策が、いかに「とっくに予測されていたことすら回避できなかった幼稚極まるもの」だったかが分かった。
■「ムラ」内部から指摘していた「防災」体制の欠陥
てっきり3.11後に書かれた本なのだと思って「奥付」を見直してまたびっくりした。
2007年1月とある。
つまり、この本の著者は、事故の5年前に「フクシマ」を的確に予言していたことになる。
一体著者は誰だと思った。
小出裕章氏のような在野の研究者なのだろうか。
それも違った。
四国電力の元技術者であり、伊方原発にも勤務していたばかりでなく、原子力安全基盤機構にも在籍していた、と著者略歴にある。
つまり「電力業界」「原子力ムラ」の人でないか。
「ムラ」の内部にも、住民を原発災害から守るはずの「防災」態勢の欠陥を指摘していた人がいたのだ。
そして、その知見は事故の5年も前に刊行され、共有されていた。
しかも、特殊な専門書ではない。
170ページ、1冊2100円。
私はアマゾンで買った。
ここまで分かっていたなら、電力業界・原子力ムラは一体何をしていたのだろう。
政府はなぜこれだけの知見を踏まえた事故対策が取れなかったのだろう。
どうしても、著者に会って話が聞きたいと思った。
電力業界内部の人だから、断られるかもしれない。
恐る恐る連絡を取った。
ところが、携帯電話に出た男性は、その場で取材を快諾してくれた。
私は東京から松山に向かう飛行機に飛び乗った。
■全国の原発事故の対策システムを設計運用
その著者は、松野元さんという。
路面電車が走る道後温泉の街・松山の駅前で、松野さんと会った。
松山市の出身。1967年、東大工学部電気工学科を卒業し、四国電力に入った。
2004年に四国電力を定年退職したそうだ。
柔和な紳士だった。
駅前の喫茶店で向かい合った。
仕事の内容を聞いてますますびっくりした。
松野さんは、全国の原発事故の対策システムを設計運用する責任者だったのだ。
原子力安全基盤機構(当時は原子力発電技術機構)の緊急時対策技術開発室長だった当時、
「ERSS」(緊急時対策支援システム)の改良と実用化を担当したという。
ERSSは、原発事故が起きたときに、原子炉の圧力や温度、放射性物質放出量の予測といったデータをオフサイトセンターや東京の関係部署に送る重要なシステムだ。
話題になった「SPEEDI」が放射性雲の流れを警告する「口」なら、ERSSはそれと対になる原子炉の情報収集をする「目と耳」である。
自然な流れとして、松野さんはERSSとSPEEDIの両方に精通している。
また「原子力防災研修」の講師もしていたという。
この研修には、原子力発電所の防災対策を「監督」する経産省の原子力防災専門官も参加する。
つまり松野さんが書いた本は「教科書」であり、3.11で国は「教科書レベル」のテストにすら落第したということなのだ。
ということは、松野さんが書き残した知見は、今も経産省や、その下にある原子力安全・保安院に受け継がれていなくてはならないはずなのだ。
「なぜ住民を避難させることができなかったのか」という疑問の手前には、
「なぜSPEEDIのデータが住民の避難に使われなかったのか」という疑問がある。
これまで本欄で見てきたように、SPEEDIが本来の機能を果たしていれば、
3月15日に放射性雲が北西(南相馬市~飯舘村)に流れることは予測できたはずであり、
その住民に警告を出して避難させることができたはずだからだ。
私はそうした疑問を松野さんに1つずつぶつけていった。
松野さんの答えはいずれも明快であり、原子力災害を知り尽くした人にしかない説得力があった。
■「15条通報」で住民避難が始まるはずだった
──当初、国は「原子炉が高温高圧になって温度計や圧力計が壊れたため、SPEEDIのデータは不正確だから公表しなかった」と説明していました。
しかし「事故に備えたシステムが事故で壊れた」など矛盾した説明で、とうてい信用できませんでした。
「率直に言って、たとえSPEEDIが作動していなくても、私なら事故の規模を5秒で予測して、避難の警告を出せると思います。
『過酷事故』の定義には『全電源喪失事故』が含まれているのですから、プラントが停電になって情報が途絶する事態は当然想定されています」
ここでもう、私は一発食らった気持ちだった。
3.11の発生直後の印象から、原発事故は展開を予測することなど不可能だと思っていたからだ。
──どういうことでしょうか。
「台風や雪崩と違って、原子力災害は100倍くらい正確に予測通りに動くんです」
──当初は福島第一原発から放出された放射性物質の量がよく分からなかったのではないのですか。
それではどれくらい遠くまで逃げてよいのか分からないのではないのでしょうか。
「そんなことはありません。総量など、正確に分からなくても、大体でいいんです」
そう言って、松野さんは自著のページを繰った。
そして「スリーマイル島事故」と「チェルノブイリ事故」で放出された希ガスの総量についての記述を探し出した。
「スリーマイル島事故では、5かける10の16乗ベクレルのオーダーでした。
チェルノブイリ事故では5かける10の18乗のオーダーです。
ということは、福島第一原発事故ではとりあえず10の17乗ベクレルの規模を想定すればいい」
「スリーマイル島事故では避難は10キロの範囲内でした。
チェルノブイリでは30キロだった。
ということは、福島第一原発事故ではその中間、22キロとか25キロ程度でしょう。
とにかく逃がせばいいのです。
私なら5秒で考えます。
全交流電源を喪失したのですから、格納容器が壊れることを考えて、25時間以内に30キロの範囲の住人を逃がす」
──「全交流電源喪失」はどの時点で分かるのですか。どこから起算すればいいのですか。
「簡単です。
『原子力災害対策特別措置法』第15条に定められた通り、福島第一発電所が政府に『緊急事態の通報』をしています。
3月11日の午後4時45分です。
このときに格納容器が壊れることを想定しなくてはいけない。
つまり放射性物質が外に漏れ出すことを考えなくてはいけない。ここからが『よーい、スタート』なのです」
私はあっけにとられた。
そういえばそうだ。
法律はちゃんと「こうなったら周辺住民が逃げなくてはいけないような大事故ですよ」という基準を設けていて
「そうなったら黙っていないで政府に知らせるのだよ」という電力会社への法的義務まで作っているのだ。
「全交流電源喪失・冷却機能喪失で15条通報」イコール「格納容器の破損の恐れ」イコール「放射性物質の放出」なのだ。
そして、それは同日午後2時46分の東日本大震災発生から、わずか1時間59分で来ていたのだ。
すると、この後「全交流電源喪失~放射性物質の放出」の間にある「メルトダウンがあったのか、なかったのか」という論争は、
防災の観点からは、枝葉末節でしかないと分かる。
「15条通報」があった時点で「住民を被曝から守る」=「原子力防災」は始まっていなくてはならなかったのだ。
■原子炉を助けようとして住民のことを忘れていた?
「甲状腺がんを防止するために子どもに安定ヨウ素剤を飲ませるのは、被曝から24時間以内でないと効果が急激に減ります。
放射性物質は、風速10メートルと仮定して、1~2時間で30キロ到達します。
格納容器が壊れてから飲むのでは意味がない。
『壊れそうだ』の時点で飲まないといけない」
ところが、政府が原子力緊急事態宣言を出すのは午後7時3分である。
2時間18分ほったらかしになったわけだ。
これが痛い。
「一刻を争う」という時間感覚が官邸にはなかったのではないか、と松野さんは指摘する。
そういう文脈で見ると、発生から24時間経たないうちに「現地視察」に菅直人首相が出かけたことがいかに「ピントはずれ」であるかが分かる。
──首相官邸にいた班目春樹(原子力安全委員会)委員長は「情報が入ってこなかったので、総理に助言したくでもできなかった」と言っています。
SPEEDIやERSSが作動していないなら、それも一理あるのではないですか。
「いや、それは内科の医師が『内臓を見ていないから病気が診断できない』と言うようなものだ。
中が分からなくても、原発災害は地震や台風より被害が予測できるものです」
「もとより、正確な情報が上がってきていれば『専門家』は必要ないでしょう。
『全交流電源喪失』という情報しかないから、その意味するところを説明できる専門家が必要だったのです。
専門家なら、分からないなりに25時間を割り振って、SPEEDIの予測、避難や、安定ヨウ素剤の配布服用などの指示を出すべきだったのです」
ひとこと説明を加えるなら、福島第一原発が全交流電源を失ったあと、首相官邸が必死になっていたのは、
「代わりの電源の用意」(電源車など)であって、住民の避難ではなかった。
本欄でも報告したように、翌日3月12日午後3時前の段階で、原発から3キロの双葉厚生病院(双葉町)での避難すら完了せず、
井戸川克隆町長を含む300人が1号機の水素爆発が噴き出した「死の灰」を浴びたことを思い出してほしい。
「ERSSの結果が出てくるまでの間は、SPEEDIに1ベクレルを代入して計算することになっています。
そのうえで風向きを見れば、避難すべき方向だけでも分かる。
私なら10の17乗ベクレルを入れます。
それで住民を逃がすべき範囲も分かる」
──どうして初動が遅れたのでしょうか。
「地震で送電線が倒れても、津波が来るまでの1時間弱は非常用ディーゼル発電機が動いていたはずです。
そこで東京にあるERSSは自動起動していたはずだ。
このとき原発にはまだ電源があったので、予測計算はまだ正常に進展する結果を示していたでしょう。
しかし、ERSSの担当者が、非常用ディーゼル発電機からの電源だけで原子炉が正常を保っている危うさを認識していれば、
さらに『ディーゼル発電機も故障するかもしれない』という『全電源喪失』を想定した予測計算をしたと思います。
この計算も30分でできる。
私がいた時はこのような先を読んだ予測計算も訓練でやっていた。
原子力安全・保安院のERSS担当部署がそれをやらさなかったのではないか。
この最初の津波が来るまでの1時間弱のロスが重大だったと思う」
──すべてが後手に回っているように思えます。なぜでしょう。
「何とか廃炉を避けたいと思ったのでしょう。
原子炉を助けようとして、住民のことを忘れていた。
太平洋戦争末期に軍部が『戦果を挙げてから降伏しよう』とずるずる戦争を長引かせて国民を犠牲にしたのと似ています」
──廃炉にすると、1炉あたり数兆円の損害が出ると聞きます。それでためらったのではないですか。
「1号機を廃炉する決心を早くすれば、まだコストは安かった。
2、3号機は助かったかもしれない。
1号機の水素爆発(12日)でがれきが飛び散り、放射能レベルが高かったため2、3号機に近づけなくなって14日と15日にメルトダウンを起こした。
1号機に見切りをさっさとつけるべきだったのです」
──その計算がとっさにできるものですか。
「1号機は40年経った原子炉なのですから、そろそろ廃炉だと常識で分かっていたはずです。
私が所長なら『どうせ廃炉にする予定だったんだから、住民に被曝させるくらいなら廃炉にしてもかまわない』と思うでしょう。
1機1兆円です。
逆に、被害が拡大して3機すべてが廃炉になり、数千人が被曝する賠償コストを考えると、どうですか?
私は10秒で計算します。
普段から『老朽化し、かつシビアアクシデント対策が十分でない原子炉に何かあったら廃炉にしよう』と考えておかなければならない」
■このままうやむやにすると、また同じことが起きる
私にとって不思議だったのは、これほど事故を予見し尽くしていた人材が電力業界内部にいたのに、その知見が無視され、死蔵されたことだ。
松野さんにとっても、自分の長年の研究と専門知識が現実の事故対策に生かされなかったことは痛恨だった。
「私の言うことは誰も聞いてくれませんでした。
誰も聞いてくれないので、家で妻に話しました。しかし妻にもうるさがられる。
『私の代わりにハンガーにかけたセーターにでも話していなさい』と言うのです」
松野さんはそう言って笑う。
「このままうやむやにすると、また同じことが起きるでしょう」
「広島に原爆が落とされたとき、日本政府は空襲警報を出さなかった。
『一矢報いてから』と講和の条件ばかり考えていたからです。
長崎の2発目は避けることができたはずなのに、しなかった。国民が犠牲にされたんです」
「負けるかもしれない、と誰も言わないのなら(電力会社も)戦争中(の軍部)と同じです。
負けたとき(=最悪の原発事故が起きたとき)の選択肢を用意しておくのが、私たち学者や技術者の仕事ではないですか」
そして、松野さんはさらに驚くような話を続けた。
そもそも、日本の原発周辺の避難計画は飾りにすぎない。
国は原子炉設置許可の安全評価にあたって、格納容器が破損して放射性物質が漏れ出すような事故を想定していない。
もしそれを想定したら、日本では原発の立地が不可能になってしまうからだ。
そんな逆立ちした論理が政府や電力業界を支配している、というのだ』
↑以上、転載終わり。この記事には続きがあるのだそうです。
このカオスの発端は、原子力マフィア(ムラ)というものが、閉鎖的で欲の塊の上、無責任な人間で構成されており、
無知で無恥で無正なくせに、権力と金だけは持っていて、放射能というとてつもなく危険なものを扱う立場に居座っている、ということだと。
史上最悪の事故が起こり、それがまだなにも解決されないどころか、解決される可能性すら見出せないまま15ヵ月も経ってしまい、
さらに、頻繁に起きている地震が、事故を起こした原発の周辺で、日本にしたら普通の規模のものが起こっただけで、この世の終わりを迎えるかもしれないのに、
腹話術の人形並みの、子供のお使いみたいな臆病な政治屋が、わかったような顔して、原発のことをどうこうしようとしています。
わたし達は早急に、世界に向かって、「助けてくれ!あいつらを原発から引き剥がしてくれ!」と叫ばなければならないのではないのでしょうか?
さて、これから、先月の末の5月31日、JBPress(Japan Business Press)のウォッチング・メディアに掲載されていた、
烏賀陽 弘道さんの取材による記事を紹介します。
わたしがいよいよ、今いる政治屋に任せていてはいけないと、危機感を募らせている理由が、きっとわかっていただけると思います。
福島第一原発事故を予見していた電力会社技術者
無視され、死蔵された「原子力防災」の知見
『フクシマの原発災害を取材するため、私が次に訪れたのは四国だ。
愛媛県松山市である。
それは私が『原子力防災─原子力リスクすべてと正しく向き合うために』という本に出合ったからだ。
3.11後、原子力発電所事故に関する文献をあさっていて、この本を見つけて読んだとき、椅子から転げ落ちそうになるほど驚いた。
『原子力防災─原子力リスクすべてと正しく向き合うために』(松野元著、創英社/三省堂)
福島第一原発事故、そのあとの住民の大量被曝など、
原発災害すべてについて「そうならないためにはどうすればよいのか」という方法が細部に至るまで具体的に書かれていたからだ。
逆に言えば「これだけの災害が予想できていたなら、なぜ住民を被曝から救えなかったのか」という疑問が心に焼き付いた。
私がずっとフクシマ取材で「答えが見つからない」「答えを見つけたい」と思っている疑問は、
「なぜ、何万人もの住民が被曝するような深刻な事態になってしまったのか」「どうして彼らを避難させることができなかったのか」だ。
だから「どんな避難計画があったのか」「どんな訓練をしてきたのか」を福島県や現地の市町村に聞いてまわってきた。
その「調べるたびに分かった部分」を本欄を借りて報告している。
ところが、その大きな疑問の大半に、この本は明快に答えていた。
だから、現実に政府が取った対策が、いかに「とっくに予測されていたことすら回避できなかった幼稚極まるもの」だったかが分かった。
■「ムラ」内部から指摘していた「防災」体制の欠陥
てっきり3.11後に書かれた本なのだと思って「奥付」を見直してまたびっくりした。
2007年1月とある。
つまり、この本の著者は、事故の5年前に「フクシマ」を的確に予言していたことになる。
一体著者は誰だと思った。
小出裕章氏のような在野の研究者なのだろうか。
それも違った。
四国電力の元技術者であり、伊方原発にも勤務していたばかりでなく、原子力安全基盤機構にも在籍していた、と著者略歴にある。
つまり「電力業界」「原子力ムラ」の人でないか。
「ムラ」の内部にも、住民を原発災害から守るはずの「防災」態勢の欠陥を指摘していた人がいたのだ。
そして、その知見は事故の5年も前に刊行され、共有されていた。
しかも、特殊な専門書ではない。
170ページ、1冊2100円。
私はアマゾンで買った。
ここまで分かっていたなら、電力業界・原子力ムラは一体何をしていたのだろう。
政府はなぜこれだけの知見を踏まえた事故対策が取れなかったのだろう。
どうしても、著者に会って話が聞きたいと思った。
電力業界内部の人だから、断られるかもしれない。
恐る恐る連絡を取った。
ところが、携帯電話に出た男性は、その場で取材を快諾してくれた。
私は東京から松山に向かう飛行機に飛び乗った。
■全国の原発事故の対策システムを設計運用
その著者は、松野元さんという。
路面電車が走る道後温泉の街・松山の駅前で、松野さんと会った。
松山市の出身。1967年、東大工学部電気工学科を卒業し、四国電力に入った。
2004年に四国電力を定年退職したそうだ。
柔和な紳士だった。
駅前の喫茶店で向かい合った。
仕事の内容を聞いてますますびっくりした。
松野さんは、全国の原発事故の対策システムを設計運用する責任者だったのだ。
原子力安全基盤機構(当時は原子力発電技術機構)の緊急時対策技術開発室長だった当時、
「ERSS」(緊急時対策支援システム)の改良と実用化を担当したという。
ERSSは、原発事故が起きたときに、原子炉の圧力や温度、放射性物質放出量の予測といったデータをオフサイトセンターや東京の関係部署に送る重要なシステムだ。
話題になった「SPEEDI」が放射性雲の流れを警告する「口」なら、ERSSはそれと対になる原子炉の情報収集をする「目と耳」である。
自然な流れとして、松野さんはERSSとSPEEDIの両方に精通している。
また「原子力防災研修」の講師もしていたという。
この研修には、原子力発電所の防災対策を「監督」する経産省の原子力防災専門官も参加する。
つまり松野さんが書いた本は「教科書」であり、3.11で国は「教科書レベル」のテストにすら落第したということなのだ。
ということは、松野さんが書き残した知見は、今も経産省や、その下にある原子力安全・保安院に受け継がれていなくてはならないはずなのだ。
「なぜ住民を避難させることができなかったのか」という疑問の手前には、
「なぜSPEEDIのデータが住民の避難に使われなかったのか」という疑問がある。
これまで本欄で見てきたように、SPEEDIが本来の機能を果たしていれば、
3月15日に放射性雲が北西(南相馬市~飯舘村)に流れることは予測できたはずであり、
その住民に警告を出して避難させることができたはずだからだ。
私はそうした疑問を松野さんに1つずつぶつけていった。
松野さんの答えはいずれも明快であり、原子力災害を知り尽くした人にしかない説得力があった。
■「15条通報」で住民避難が始まるはずだった
──当初、国は「原子炉が高温高圧になって温度計や圧力計が壊れたため、SPEEDIのデータは不正確だから公表しなかった」と説明していました。
しかし「事故に備えたシステムが事故で壊れた」など矛盾した説明で、とうてい信用できませんでした。
「率直に言って、たとえSPEEDIが作動していなくても、私なら事故の規模を5秒で予測して、避難の警告を出せると思います。
『過酷事故』の定義には『全電源喪失事故』が含まれているのですから、プラントが停電になって情報が途絶する事態は当然想定されています」
ここでもう、私は一発食らった気持ちだった。
3.11の発生直後の印象から、原発事故は展開を予測することなど不可能だと思っていたからだ。
──どういうことでしょうか。
「台風や雪崩と違って、原子力災害は100倍くらい正確に予測通りに動くんです」
──当初は福島第一原発から放出された放射性物質の量がよく分からなかったのではないのですか。
それではどれくらい遠くまで逃げてよいのか分からないのではないのでしょうか。
「そんなことはありません。総量など、正確に分からなくても、大体でいいんです」
そう言って、松野さんは自著のページを繰った。
そして「スリーマイル島事故」と「チェルノブイリ事故」で放出された希ガスの総量についての記述を探し出した。
「スリーマイル島事故では、5かける10の16乗ベクレルのオーダーでした。
チェルノブイリ事故では5かける10の18乗のオーダーです。
ということは、福島第一原発事故ではとりあえず10の17乗ベクレルの規模を想定すればいい」
「スリーマイル島事故では避難は10キロの範囲内でした。
チェルノブイリでは30キロだった。
ということは、福島第一原発事故ではその中間、22キロとか25キロ程度でしょう。
とにかく逃がせばいいのです。
私なら5秒で考えます。
全交流電源を喪失したのですから、格納容器が壊れることを考えて、25時間以内に30キロの範囲の住人を逃がす」
──「全交流電源喪失」はどの時点で分かるのですか。どこから起算すればいいのですか。
「簡単です。
『原子力災害対策特別措置法』第15条に定められた通り、福島第一発電所が政府に『緊急事態の通報』をしています。
3月11日の午後4時45分です。
このときに格納容器が壊れることを想定しなくてはいけない。
つまり放射性物質が外に漏れ出すことを考えなくてはいけない。ここからが『よーい、スタート』なのです」
私はあっけにとられた。
そういえばそうだ。
法律はちゃんと「こうなったら周辺住民が逃げなくてはいけないような大事故ですよ」という基準を設けていて
「そうなったら黙っていないで政府に知らせるのだよ」という電力会社への法的義務まで作っているのだ。
「全交流電源喪失・冷却機能喪失で15条通報」イコール「格納容器の破損の恐れ」イコール「放射性物質の放出」なのだ。
そして、それは同日午後2時46分の東日本大震災発生から、わずか1時間59分で来ていたのだ。
すると、この後「全交流電源喪失~放射性物質の放出」の間にある「メルトダウンがあったのか、なかったのか」という論争は、
防災の観点からは、枝葉末節でしかないと分かる。
「15条通報」があった時点で「住民を被曝から守る」=「原子力防災」は始まっていなくてはならなかったのだ。
■原子炉を助けようとして住民のことを忘れていた?
「甲状腺がんを防止するために子どもに安定ヨウ素剤を飲ませるのは、被曝から24時間以内でないと効果が急激に減ります。
放射性物質は、風速10メートルと仮定して、1~2時間で30キロ到達します。
格納容器が壊れてから飲むのでは意味がない。
『壊れそうだ』の時点で飲まないといけない」
ところが、政府が原子力緊急事態宣言を出すのは午後7時3分である。
2時間18分ほったらかしになったわけだ。
これが痛い。
「一刻を争う」という時間感覚が官邸にはなかったのではないか、と松野さんは指摘する。
そういう文脈で見ると、発生から24時間経たないうちに「現地視察」に菅直人首相が出かけたことがいかに「ピントはずれ」であるかが分かる。
──首相官邸にいた班目春樹(原子力安全委員会)委員長は「情報が入ってこなかったので、総理に助言したくでもできなかった」と言っています。
SPEEDIやERSSが作動していないなら、それも一理あるのではないですか。
「いや、それは内科の医師が『内臓を見ていないから病気が診断できない』と言うようなものだ。
中が分からなくても、原発災害は地震や台風より被害が予測できるものです」
「もとより、正確な情報が上がってきていれば『専門家』は必要ないでしょう。
『全交流電源喪失』という情報しかないから、その意味するところを説明できる専門家が必要だったのです。
専門家なら、分からないなりに25時間を割り振って、SPEEDIの予測、避難や、安定ヨウ素剤の配布服用などの指示を出すべきだったのです」
ひとこと説明を加えるなら、福島第一原発が全交流電源を失ったあと、首相官邸が必死になっていたのは、
「代わりの電源の用意」(電源車など)であって、住民の避難ではなかった。
本欄でも報告したように、翌日3月12日午後3時前の段階で、原発から3キロの双葉厚生病院(双葉町)での避難すら完了せず、
井戸川克隆町長を含む300人が1号機の水素爆発が噴き出した「死の灰」を浴びたことを思い出してほしい。
「ERSSの結果が出てくるまでの間は、SPEEDIに1ベクレルを代入して計算することになっています。
そのうえで風向きを見れば、避難すべき方向だけでも分かる。
私なら10の17乗ベクレルを入れます。
それで住民を逃がすべき範囲も分かる」
──どうして初動が遅れたのでしょうか。
「地震で送電線が倒れても、津波が来るまでの1時間弱は非常用ディーゼル発電機が動いていたはずです。
そこで東京にあるERSSは自動起動していたはずだ。
このとき原発にはまだ電源があったので、予測計算はまだ正常に進展する結果を示していたでしょう。
しかし、ERSSの担当者が、非常用ディーゼル発電機からの電源だけで原子炉が正常を保っている危うさを認識していれば、
さらに『ディーゼル発電機も故障するかもしれない』という『全電源喪失』を想定した予測計算をしたと思います。
この計算も30分でできる。
私がいた時はこのような先を読んだ予測計算も訓練でやっていた。
原子力安全・保安院のERSS担当部署がそれをやらさなかったのではないか。
この最初の津波が来るまでの1時間弱のロスが重大だったと思う」
──すべてが後手に回っているように思えます。なぜでしょう。
「何とか廃炉を避けたいと思ったのでしょう。
原子炉を助けようとして、住民のことを忘れていた。
太平洋戦争末期に軍部が『戦果を挙げてから降伏しよう』とずるずる戦争を長引かせて国民を犠牲にしたのと似ています」
──廃炉にすると、1炉あたり数兆円の損害が出ると聞きます。それでためらったのではないですか。
「1号機を廃炉する決心を早くすれば、まだコストは安かった。
2、3号機は助かったかもしれない。
1号機の水素爆発(12日)でがれきが飛び散り、放射能レベルが高かったため2、3号機に近づけなくなって14日と15日にメルトダウンを起こした。
1号機に見切りをさっさとつけるべきだったのです」
──その計算がとっさにできるものですか。
「1号機は40年経った原子炉なのですから、そろそろ廃炉だと常識で分かっていたはずです。
私が所長なら『どうせ廃炉にする予定だったんだから、住民に被曝させるくらいなら廃炉にしてもかまわない』と思うでしょう。
1機1兆円です。
逆に、被害が拡大して3機すべてが廃炉になり、数千人が被曝する賠償コストを考えると、どうですか?
私は10秒で計算します。
普段から『老朽化し、かつシビアアクシデント対策が十分でない原子炉に何かあったら廃炉にしよう』と考えておかなければならない」
■このままうやむやにすると、また同じことが起きる
私にとって不思議だったのは、これほど事故を予見し尽くしていた人材が電力業界内部にいたのに、その知見が無視され、死蔵されたことだ。
松野さんにとっても、自分の長年の研究と専門知識が現実の事故対策に生かされなかったことは痛恨だった。
「私の言うことは誰も聞いてくれませんでした。
誰も聞いてくれないので、家で妻に話しました。しかし妻にもうるさがられる。
『私の代わりにハンガーにかけたセーターにでも話していなさい』と言うのです」
松野さんはそう言って笑う。
「このままうやむやにすると、また同じことが起きるでしょう」
「広島に原爆が落とされたとき、日本政府は空襲警報を出さなかった。
『一矢報いてから』と講和の条件ばかり考えていたからです。
長崎の2発目は避けることができたはずなのに、しなかった。国民が犠牲にされたんです」
「負けるかもしれない、と誰も言わないのなら(電力会社も)戦争中(の軍部)と同じです。
負けたとき(=最悪の原発事故が起きたとき)の選択肢を用意しておくのが、私たち学者や技術者の仕事ではないですか」
そして、松野さんはさらに驚くような話を続けた。
そもそも、日本の原発周辺の避難計画は飾りにすぎない。
国は原子炉設置許可の安全評価にあたって、格納容器が破損して放射性物質が漏れ出すような事故を想定していない。
もしそれを想定したら、日本では原発の立地が不可能になってしまうからだ。
そんな逆立ちした論理が政府や電力業界を支配している、というのだ』
↑以上、転載終わり。この記事には続きがあるのだそうです。