うちの番地は1番。
続きの庭は番号なし。
そして隣のアンドレの家の番地は7番。
なんでそんなことになるのかわからんけど、うちとアンドレの家の間に、すてきな庭があった。

この庭は、この家が建てられた110年前から、家の庭として愛されてきた。

子どもらが遊び、リスや鳥が遊び、木々は育ち、この通りの憩いの場としてずっとここに存在してた。
ここを初めて訪れた時、この庭のひっそりとした、けども温かく迎えてくれる気が伝わってきて、いっぺんに好きになった。
けど……前のオーナーが50年以上もの間住んだこの家の特別な庭は、今の物価と我々の甲斐性が釣り合わず、自分達のものにできんかった。
引っ越したその日から、いつ、誰が、この庭を買うのやろうとくよくよするわたしに、「悩んでも仕方がないことに囚われるな」と、旦那は嗜めた。
朝ご飯を食べる時に、真正面の窓から、カエデの老木のお腹の部分が見える。

炊事や料理の下準備をしてる時は、目の前に全体が見えて、いつだって嬉しくなった。

リスはしょっちゅう遊びに来てた。

わたしは内緒で、がんばろな、絶対にあんたらのことは守ったるからと、話しかけた。毎日、毎日……。
そうやって一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年目の今年の夏、庭を買うた不動産屋のオーナーが現れて、たまたま外に居た旦那に、整地を始めると告げた。
整地して、複合住宅を建てると言う。
まず、低木がやられた。重機が根こそぎ倒していった。
そして、カエデの爺さんと仲良しの、白樫の木の幹が、一本、また一本と切られていった。

せめて、最後の姿を撮っておこうとカメラを構えるのやけど、泣けて泣けて、オイオイ泣けて、どうしようもなかった。

裏庭でも、大変なことが起こった。
作業してる人に、旦那が、このブドウの古い木だけは傷つけんといて欲しいと、再々頼んでたにも関わらず、

重機は乱暴にかきこんで、根こそぎ引っこ抜いてしもた。

毎年、甘酸っぱい実をいっぱいつけてくれたブドウの木。

素朴な楽しみやったブドウの実。

百年以上の木は、おいそれとは切り倒せないというので、とりあえず残されたカエデの爺さん。

爺さんは、整地されてしもて土だけになった庭を見下ろして、静かに嘆いてた。

太うてゴツゴツした体を抱いて、てのひらでパンパン叩きながら、大丈夫やで、大丈夫やでと話しかけた。
けど、なにが大丈夫やのん?
わたしになにができるん?
きっとカエデの爺さんもそのことは知ってる。
突然の整地からしばらくして、うちの東側と裏庭が隣接してる、元ポールとピンキーの家に引っ越してきたマークが、
「今となっては手遅れかもしれないけど、あの庭は残されるべき財産だと思う。新米者が言うのもなんだけど」と言い出した。
「陳情すべき相手も知ってるし、行動を起こしてみようと思うが、どうだ?」と尋ねられ、「もちろんよろしくお願いします」と言うた。
彼が陳情の際に書いてくれた手紙が送られてきた。
この庭を、庭として残すことの意義。
通りすがりの者にさえ、安らぎを与えてくれる空間の大切さ。
二百年近く生きている木を、まだ生命力があるにも関わらず、人間の都合で切ることへの異議。
ほんの一つ、通りを隔てた所にある隣町では、老木をむやみに切り倒すことを禁じる法律があって、木は守られている。
そういった庭としての価値を、ていねいに書いてくれてあった。
他に、どうしても家を建てるとしても、複合住宅にすると路上駐車の台数が増え、通りに迷惑がかかること、
個人宅にしても、家の敷地内に車4台を停められる余地があることが法律で定められているのに、到底無理だということ、
などという、旦那やわたしには全く気がつかなかったことを書き並べて、現実的な疑問として訴えてくれていた。
マークが言うように、間に合わんかもしれん。手遅れなんかもしれん。
けど、この庭の、カエデの爺さんのために、闘おうと言うてくれたこと、行動に移してくれたことが、ありがたかった。
ありがたくてありがたくてたまらんかったから、カエデの爺さんのこの写真と一緒に、お礼のメールを送った。

マークの隣に住むケリーが、近所に署名を集めに行ってあげると言うてくれた。
その時、わたしがマークに送ったメールを一緒に持っていくと言う。
カエデの爺さんの念力やと、わたしは信じてる。
続きの庭は番号なし。
そして隣のアンドレの家の番地は7番。
なんでそんなことになるのかわからんけど、うちとアンドレの家の間に、すてきな庭があった。

この庭は、この家が建てられた110年前から、家の庭として愛されてきた。

子どもらが遊び、リスや鳥が遊び、木々は育ち、この通りの憩いの場としてずっとここに存在してた。
ここを初めて訪れた時、この庭のひっそりとした、けども温かく迎えてくれる気が伝わってきて、いっぺんに好きになった。
けど……前のオーナーが50年以上もの間住んだこの家の特別な庭は、今の物価と我々の甲斐性が釣り合わず、自分達のものにできんかった。
引っ越したその日から、いつ、誰が、この庭を買うのやろうとくよくよするわたしに、「悩んでも仕方がないことに囚われるな」と、旦那は嗜めた。
朝ご飯を食べる時に、真正面の窓から、カエデの老木のお腹の部分が見える。

炊事や料理の下準備をしてる時は、目の前に全体が見えて、いつだって嬉しくなった。

リスはしょっちゅう遊びに来てた。

わたしは内緒で、がんばろな、絶対にあんたらのことは守ったるからと、話しかけた。毎日、毎日……。
そうやって一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年目の今年の夏、庭を買うた不動産屋のオーナーが現れて、たまたま外に居た旦那に、整地を始めると告げた。
整地して、複合住宅を建てると言う。
まず、低木がやられた。重機が根こそぎ倒していった。
そして、カエデの爺さんと仲良しの、白樫の木の幹が、一本、また一本と切られていった。

せめて、最後の姿を撮っておこうとカメラを構えるのやけど、泣けて泣けて、オイオイ泣けて、どうしようもなかった。

裏庭でも、大変なことが起こった。
作業してる人に、旦那が、このブドウの古い木だけは傷つけんといて欲しいと、再々頼んでたにも関わらず、

重機は乱暴にかきこんで、根こそぎ引っこ抜いてしもた。

毎年、甘酸っぱい実をいっぱいつけてくれたブドウの木。

素朴な楽しみやったブドウの実。

百年以上の木は、おいそれとは切り倒せないというので、とりあえず残されたカエデの爺さん。

爺さんは、整地されてしもて土だけになった庭を見下ろして、静かに嘆いてた。

太うてゴツゴツした体を抱いて、てのひらでパンパン叩きながら、大丈夫やで、大丈夫やでと話しかけた。
けど、なにが大丈夫やのん?
わたしになにができるん?
きっとカエデの爺さんもそのことは知ってる。
突然の整地からしばらくして、うちの東側と裏庭が隣接してる、元ポールとピンキーの家に引っ越してきたマークが、
「今となっては手遅れかもしれないけど、あの庭は残されるべき財産だと思う。新米者が言うのもなんだけど」と言い出した。
「陳情すべき相手も知ってるし、行動を起こしてみようと思うが、どうだ?」と尋ねられ、「もちろんよろしくお願いします」と言うた。
彼が陳情の際に書いてくれた手紙が送られてきた。
この庭を、庭として残すことの意義。
通りすがりの者にさえ、安らぎを与えてくれる空間の大切さ。
二百年近く生きている木を、まだ生命力があるにも関わらず、人間の都合で切ることへの異議。
ほんの一つ、通りを隔てた所にある隣町では、老木をむやみに切り倒すことを禁じる法律があって、木は守られている。
そういった庭としての価値を、ていねいに書いてくれてあった。
他に、どうしても家を建てるとしても、複合住宅にすると路上駐車の台数が増え、通りに迷惑がかかること、
個人宅にしても、家の敷地内に車4台を停められる余地があることが法律で定められているのに、到底無理だということ、
などという、旦那やわたしには全く気がつかなかったことを書き並べて、現実的な疑問として訴えてくれていた。
マークが言うように、間に合わんかもしれん。手遅れなんかもしれん。
けど、この庭の、カエデの爺さんのために、闘おうと言うてくれたこと、行動に移してくれたことが、ありがたかった。
ありがたくてありがたくてたまらんかったから、カエデの爺さんのこの写真と一緒に、お礼のメールを送った。

マークの隣に住むケリーが、近所に署名を集めに行ってあげると言うてくれた。
その時、わたしがマークに送ったメールを一緒に持っていくと言う。
カエデの爺さんの念力やと、わたしは信じてる。