昨日、堀アナウンサーのことを書いてる時、思い出した人がいる。
山川建夫さん。建夫と書いてゆきおと読む。
彼がフジテレビで、売れっ子アナウンサーをしてはった時、わたしは田舎の嫁をしてたので、「3時のあなた」とかで、ちょこちょこ観てたような覚えがある。
穏やかな、人当たりの良さそうな彼の胸の内に、そして身体に、深く刻み込まれた戦争体験と、戦争を憎む強い意思があったことなんか、全然知らんかったのやけど。
原発事故以降、わたしはツィッターで、今まで気づかんふりしてた社会の問題についての自分の思いを、140文字以内の言葉にして伝えるようになった。
それと同時に、それはもう大勢の、思いを同じくする、もちろん環境も、性格も、年令も、文化も、それから多分、他の事に対する考え方も違う人たちと知り合い、支え合うようにもなった。
その中のひとりに、この山川氏がいる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/5d/6a66173ce10362fd1b488842380ea0f3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/f9/76d6bb7f2f347eb3ca60f762d1e48ace.jpg)
↓以下はウィキペディアより
東京・千駄ヶ谷生まれ。
慶應義塾大学卒業。
フジテレビアナウンサーとして、およそ17年間務めた後に退社、その後は、憲法改正に反対する主張、環境保護や、自然と親しむ暮らしについての講演などを行っている。
大学を卒業した1968年に、アナウンサーとしてフジテレビに入社、同期入社のアナウンサーには逸見政孝、松倉悦郎、竹下典子(野間脩平夫人)ら。
ベ平連に係わって、ベトナム戦争反対運動を行っていたこともある山川は、ワイドショー番組「3時のあなた」で、ベトナム視察報告をした、当時参議院議員でもあった山口淑子(李香蘭)を、
「2週間程度の取材で、戦争の実態がわかるのか」などと批判、それが問題となって、同番組を降板した。
また、社内では、労働組合を結成して、同社の経営(当時の鹿内信隆社長による準同族経営)を糾弾するなどしており、1985年には、同社を退社することとなった。
北海道小樽市の1年半を含む2年半、ワンボックスカーの改造車で、家族と全国を旅し、1987年に辿り着いた千葉県・市原市の農村に定住した。
田畑を耕し、野山を歩く日々を送りながら、フリーアナウンサーとしての活動も行っている。
芸能事務所は、1989年から、東京俳優生活協同組合に所属している。
私生活では、フジテレビの同僚アナウンサーだった宮崎総子と結婚、一女をもうけた。
後に、宮崎とは離婚、女児は、宮崎の義兄である俳優・仲代達矢夫婦の養女となり、後に、仲代奈緒として芸能界デビューしている。
フジテレビ退職後の放浪と田舎暮らしは、再婚した妻と娘と共に行っている。
↓そして以下(今から8年前の6月に、千葉県市原市で行われた講演会での紹介プロフィール)には、もうちょっと詳しい話が紹介されてる。
山川建夫(ゆきお)さんは、憲法連絡会の講演会に「呼びかけ人」として参加されている。
講演の前後のトークなどで、所信の一端をうかがってはきた。
そこからだけでも、波瀾万丈の人生を送って来られたことがわかる。
●戦争体験
山川さんは、東京は千駄ヶ谷の生まれ。
1945年6月の、山の手空襲のときは1歳半。
母におぶわれ、近所の防空壕のすき間に入りこむが、山川さんが激しく泣いたため、みんなに遠慮した母は防空壕を出て、火の海のただ中へ。
火勢に追われてお寺に逃げ込み、防火水槽の水を体にかけながら助かる。
後に防空壕を見に行くと、蒸し焼き状態で、みな死んでいた。
「オマエのお陰で助かった」と、母に言われ続けた。
後日、栃木へ疎開する列車が、艦載機に襲撃される。
山川さんの耳からは血が流れていた。
銃弾がかすめたらしい!!
後に、その地に講演に行きその話をすると、主催者から、「そのときの列車の台車が駅に保存されている」と知らされ、対面したという。
●局アナ時代
そんな原体験のせいか、戦争の話題となると独特の感慨がわき、物議を醸すこともあったらしい。
その一。
1970年、ときは大阪万博。
フジテレビ『小川宏ショー』の列島リレー中継。
万博正面ゲートから、山川さんは「このようなときでも戦乱のベトナムでは……」としゃべりだし……。
その二。
参議院議員山口淑子(李香蘭)が、米軍の護衛を受けて南ベトナムを取材。
それを、ワイドショーで、得意気に報告したのだそうな。
山川さんはその時、「2週間程度の取材で、戦争の実態がわかるものでしょうか?」と、疑問をはさんだという。
彼は、ベ平連に関わり、脱走米兵にも会い、話を聞き、戦況を把握していたそうだ。
山口女史は、本番中は、額に青筋を立てながらも黙っていたが、終わるやいなや、局幹部に直訴したそうな。
極めつけ。
「鹿内体制(当時の鹿内信隆社長による準同族経営)糾弾」のために労組を結成、活動したともいう。
そんなこんなで、『小川宏ショー』を降板させられることになる。
その日、後日判明したことだが、義憤に駆られたタイムキーパーが、1分を捻出。
小川キャスターが、「山川さんはきょうが最後です。最後に一言、どうぞ」と、山川さんにマイクを渡した。
山川さんは、黙って去るつもりだったが、「わたしは、自分の意思で降板するのではない。降板させられるのだ」と、思いを語る。
スタジオは大混乱。
エンディングがどうなったか、覚えていない。
役員室に連れ込まれ、査問を受ける。
しばらくして、フジテレビを退社。
全国放浪の旅に。
●市原に定住
改造車に寝泊まりしながら、全国を訪ね走る。
そんなある日、4歳の娘さんが、「もう、車で寝るのはイヤ!」と叫び、奥さんも同調したそうな。
気に入った市原に住むことに。
その娘さんも、来春は、大学卒業だという。
築60年の家を借り、畑を耕したが、3年くらい経ったとき、古老から「男は田んぼをやって一人前だよ」と言われ、稲作もすることに。
村人から認められたようで嬉しかった、という。
爾来、無農薬栽培をモットーとし、除草剤は使わない。
村人からは、「なぜ薬を使わないのか」と、非難の口調で糾問されることがあるという。
ベトナム戦争の「枯れ葉剤」から生まれた除草剤は、使いたくない。
田に入り、田の草を取っていると、「無我の境地」になれる。
一陣の涼風を感じてわれに返るとき、「自然と共に生きている」ことを実感でき、何ごとにも代えられない「至福のときだ」という。
自然と生きているからこそ、環境破壊のすさまじさを感じるという。
人類の住処である地球が、存亡の危機に瀕しているとき、最大の環境破壊である戦争に、うつつを抜かしている場合ではない。
「戦争を出来るように憲法を改正するなんて、もってのほかだ」
山川さんは、アナウンス学院講師として、後進の養成にあたるかたわら、司会業もこなし、豊富な体験に基づく講演活動も行っている。
全国を駆け回る日々である。
そして以下↓が、山川さんご自身による140文字に要約された思いの数々から抜粋させていただいたもの。
■民主党を離党した平智之議員を知るにつけ、こんな素晴らしい国会議員が存在していた事が、まるで奇跡のように思える。
官僚主導への危機感は深い。
特に、原子力産業の存続が、この国を滅ぼすと訴える。
その為にも、大飯3・4号機の再稼働を許した事の自己の責任を、痛感しておられる。
大いなる感銘を受けた。
■三宅雪子さんが、千葉4区で野田首相に挑戦は、話題としては面白いかもしれないが、民主党叩きは注意してやらないと、結果的に自民党を利する事になる。
前2回の、総選挙の政権党総崩れ現象が起きると、自民党が大勝するかもしれず、今度ばかりは極めて危険だ。
真の敵は自民党だという事を、胆に銘じておかねば
■国家とは非情なものだ。
国民の生命を守るどころか、逆に見殺しにし、使い捨てる。
例えば水俣で、チッソの側に立ち、「薬害エイズ」で、製薬会社の側に立った。
そして今、福島で、住民を見殺しにしようとしている。
国が救済の手を差し伸べなくとも、私達は生き延びなくてはならない。
国家幻想をキッパリ捨てて。
■中国からのPМ2.5、北朝鮮の核実験の放射性物質、どちらに対しても迅速に対応した、この国の観測体制。
その真逆の、福島第一原発からの放射性物質への対応。
この国の「正体」がモロ見えだ。
もうそんな、小手先の「パフォーマンス」を止めて、この国の住人の生命を、本気で護ってもらいたい。
■この国の農業をボロボロにした自民党の首相が、「日本の美しい田園を守って参ります」とは、恥知らずも甚だしい。
加えて、日本農業を攻めの産業にして、外貨を稼ごうとは。
確かに、この国の農産物の品質は高いと思うが、その上に大量の放射性物質がばら撒かれたのを、首相は、無かった事だとでも言うのか。
■福島事故由来の放射能から、少しでも安全な所に住みたいという願いを実現する為の、この度の岡山、広島への娘の旅に同行して感じたのは、
受け入れ活動のほぼ全てが、個人の「善意」でなされている、という事でした。
管理・運営者の、頭の下がるような献身的活動。
移住者同士の支え合い。
無いのは、国の姿だけだ。
■天皇が、「放射能という、困難な問題を克服して行こう!」と呼びかけたのに対し、首相が、再稼働の先頭に立つ!と、記者会見で表明したというこの「ギャップ」も凄いが、
もっと問題なのは、天皇の、放射能のくだりの発言を、テレビ各局のニュースでカットした事だ。
こんな事が許されていいのか!
メディアは追及しろ。
■TVにいた者として、その影響力の底知れなさは、骨身に沁みている。
だから権力側は、それを絶対に手放さない。
今日の動きを中継すれば、「情勢」は一気に変わって行くに違い無い。
東京新聞の如きテレビがいつ現れるか?
それがまだまだ先の事だとしても、再稼働でもすれば、権力への不信感の火に油となる。
■山本太郎から「カツ」が入れられた。
「3・11以降、この国では、緩慢な殺人が行われている。
悠長な事は言ってられない。
反原発のもとに、一つにならなければ。
一票たりとも、死に票を出してはならない」
その通り!
あの地震と共に起きた福島原発事故を、二度と起こしてはならぬ!
地震はいつ起きるか分らない。
■原発再稼働に向けて、野田首相が、いよいよ立地自治体の説得に乗り出すことを表明したようだ。
今、原発を再稼働する理由は、どこを探してもこれっぽちも無い。
国会事故調の事故原因の究明すら済んでないのに、動かせる訳がない。
それでも動かすというなら、それ相当の覚悟をした方がよい。
国民を舐めるな!
■「いのちの党」をつくった菅原文太さんが、川田龍平さんへの挨拶の中で、
「80近くになって、東京を離れ、農業を始めてみたら、人間以外の生き物が、如何に危機的な状況なのかが分かった。
そんな事も知らずに、東京で呑んだくれていたのが、本当に申し訳ないと思う」と仰っていた。
その事に、今こそ皆が気付く時なのだ
■テレビの中に、山本太郎さんのような人が出演すると、いっぺんに、テレビが嘘である事がバレテしまう。
かれが、全存在をかけて、真実を語る事によって、他の出演者のリアリティーの無さが、透けて見えるからだ。
だからテレビ局は、真実を語る人間を排除してきたし、国民を欺く道具として、国に支配され続けて来たのだ
■ぼくの知り合いで、プロの有機農家が何人もいるが、皆この事故で、生活が根本から壊された。
一生懸命、良い作物を届けたいと努力していた人ほど、打撃を受けた。
福島で自殺した有機農家の方は、本当に無念だったと思う。
なのに、大震災を口実に、利権を貪る連中が存在するとは!
一撃の元に粉砕したい衝動に駆られる。
■「天皇制」に疑問を持ち続けて来たとは言え、現天皇の、追悼式典での振る舞いに、ぼくは感動を覚えさえしました。
天皇を取り巻く人々の醜悪さの中で、彼の真摯さに胸を打たれたのです。
その、「放射能という、困難な問題を克服しよう!」という天皇の決意を、テレビ各局は、「何処か」からの指示で放送しなかった!
■最近、とても気になる風潮がある。
「私達も、原発の電気を享受してたのだから、事故の責任を追及する資格が無いのでは」というものだ。
それが、「文化人」から発せられると、極めて危険。
先の大戦で、反対しなかった自分達にも責任が、という、「一億総懺悔」で、戦争責任を不問にした。
同じ徹を踏んではならない!
■おカネより食べ物が大事、と言ったら「おカネが無かったら食べ物が買えない」と言われた。
ぼくは古い人間なので、食べ物は作るものと思っているが、今では殆どの人が、買うものだと思っているんだと気付かされました。
でも、その認識を変えないと、いつ酷い目に遭うか判らない状況が、目の前に迫っています。
■追悼式典での天皇の、「放射能の問題を克服しなければ」の部分が、NHKほかでカットされていたという。
誰の指示で?
何の為に?
自分に都合の悪い事なら、天皇のお言葉だってカットしてしまう。
一方で、情報の隠蔽、歪曲。
漏らせば厳罰。
国民に番号を割り振り、徹底的に管理。
やり放題の暴走を止めなくては!
■自分を「偉い」と思っている人間ほど、始末の悪いものは無い。
他人の忠告に耳を貸さないから、人間としての器は、いつも空っぽ。
代わりに、思い上がりと傲慢さで、びっしり満たされている。
弱者に寄り添うどころか、これでもかと差別し、排除する。
こうした存在が、原発事故を起こしたとも。
石原さん、あなたの事です。
■3・11後、我が家、我が身に起きた事。
事故の起きた年末、一緒に山を駆け回っていた犬が、突然死んだ。
その頃から、ぼくはタンが切れなくなり、膝から下の皮膚が、所々黒ずみ始め、軽くぶつけただけで皮下出血し易くなった。
2匹の猫は、喉に腫瘍が出来ているようで、嚥下しずらそう。
益々酷くなるばかりだ。
■広島に疎開した娘に、「お父さんも原発に関して何か言え」と促されて始めたツイッターだが、いつも言い放しで申し訳なく思っています。
3・11以降のこの国は、益々酷くなるばかりです。
ぼくの子や孫の世代が、安心して生きて行ける兆しが見えたら、ツイッターを止めたいと思っているのですが……。
■安倍首相始め、日本の支配者達は、この国が自分の物だと錯覚して、私物化している。
だから、国民も自分のものであり、総選挙の公約が嘘だったと分っても、平然としていられる。
私達は、舐め切られているのだ。
日本が、米国の奴隷状態であるように、この国の民も、国家の奴隷なのだ。
もういい加減に奴隷を止めよう!
■TPPへの参加は、最早時代遅れだ。
その方向は、もうとっくに終わっている。
湾岸戦争時、自衛隊の派遣を免れる為、日本は、140兆円とかのカネを出し、世界の「不評」を買った。
その時思ったが、それを環境対策、特に、経済成長に突き進む中国の大気汚染防止の為に使っていれば、人類に貢献出来、感謝された。
■TPPは時代遅れと言ったが、ではこれからの時代とは。
間違い無く、自然を敬い、大地そのものと繋がって食べ物を産み出し、「地域」の人々が支え合ってサバイバルして行く事です。
その地域が、更に周りの地域と繋がって支え合い、足りないもの、余った物をやり取りする。
投機マネーと無縁の世界です。
■新聞各紙で、TPP参加と安倍内閣の支持が急上昇。
そりゃそうだ。
各紙一斉に、TPP交渉参加を持ちあげているもの。
ぼくは27年前から、房総の真ん中で、田畑、山林の荒廃の進行に心を痛めて来た。
何とかしたいと思っても、個人の力では歯が立たなかった。
それを放置、いや進行させたのは、他ならぬ自民党だ!
■この国が壊れて行く。
この国の人々も、一緒に壊れて行くのか。
それともハッと気付いて、「再生」に向かうのか。
その重大な岐路に、私達は立っている。
TPPや、安倍内閣の支持率を見ると絶望的だが、この国の「真実」に気付き始めた人も、潜在的に増えている筈だ。
それが、いつ、どんな形で顕在化するか、楽しみだ
■今、とても気になる二人。
文化放送「ソコトコ」パーソナリティー吉田照美と、「新政府初代内閣総理大臣」坂口恭平。
前者の番組は、今月末で終了しようとしている。
後者は、機能不全に陥ったこの国の、政治システムに代わる、個々の人間が主役の新たなシステム、を創造しようとしている。
終わりと始まり。
何かが産まれる。
■吉田照美さんは、3・11以降のメディア界の中で、突出して、「事実」をリスナーに提供して来た。
3号機建屋爆発後の、アーサー・ビナードさんの、プルトニウム飛散のコメントは非常に貴重だった。
この国の「原発体制」に隠された情報に、光を当て続けて来た彼の存在を賭けたコメントは、ぼくらに勇気を与えた。
■照美さんの番組終了は、年初めから公表されていたが、43年前出演していた、朝のワイドショーでのぼくの降番については、視聴者に、最後の日まで知らされなかった。
そのまま行けば、ぼくは突然、番組から消える事になっていた。
レギュラー出演者が、或る日急に消えるという「異常事態」が、何故起きようとしたか。
■70年当時、ベトナム戦争は、末期的な状況だった。
メディアは、ベトナムでの米国の戦争を、支持していた。
だから、番組内での反戦的発言は、許されなかった。
その一方、ゲスト出演者の中で、米国を支持する者は沢山いた。
その一人の発言に堪りかねて、思わずぼくは、言葉を挟んでしまった。
■ベトナムでの取材を終えて出演したゲストは、それが命がけだったと言い、日本に帰って来て、この国が平和で素晴らしいと言った。
ぼくは反射的に、「あなたが平和だと言う日本の基地から、ベトナム人を殺しに米軍が出撃している事を、どう思っているのか?」と、強い口調で問いただした。
■更に、「数日の取材で、ベトナム戦争が分ったような口は利かないでくれ」といった為、ゲストを怒らせた。
この「事件」後、ぼくは上層部から、ゲストに謝罪するように言われたが、突っぱねた為、問題が尾を引き、その後の「反戦発言」も重なって、とうとう番組から降ろされる事になった。
その日が近付いて来た。
■ぼくにとっての番組最後の日、その枠内のどこかで、視聴者に別れを告げたかったが、とうとう最後まで来てしまった。
メイン司会者が、「突然ですが、今日で、山川さんが番組を降りる事になりました」と告げた。
そのままCМに入る筈だったのに、何故かまだ、1分近く時間が余っていた。
彼がぼくに、発言を振った。
■ぼくに発言のチャンスが回って来た!
ぼくは、これまでの感謝と、この降番が自分の意志では無い事を、辛うじて告げた。
それでもまだ30秒程、時間があったと思うが、言いたい事は山ほど有ったのに、何も言えなかった。
無言の、石と化したスタジオに、永遠と思える30秒が経過し、CМに入った。
■CМに入った途端、突然スタジオが動いた。
ぼくは、10数人の管理職に手足を抱えられ、そのまま役員室に連れ込まれ、つばが飛んで来るほどの罵声を浴びせられた。
一方、TVを見ていた視聴者は、一体何が起きたのか分らず、一斉に局に電話を掛けた為、回線のヒューズが焼き切れ、不通となった。
■ぼくが引き起こした「事件」は、メディアから、スタジオジャックとか言われたが、それまでのバーチャルな繋がりだった「視聴者」と、直接会える事になり、
ただ受け身の状態での視聴から、TVに主体的に係わり、視聴者の意見を反映させ、TVを変えて行こう、という機運が生まれかけたのだが……。
■TV局の後ろに国が、そのバックに米国が、という構図の中で、一人で立ち向かったとしても、所詮は線香花火。
あっという間につまみ出された、というところ。
局アナ生命の終わり。
たったのワンチャンスでした。
だから、ぼくは、吉田照美さんの果たして来た「役割」に、本当に頭が下がります。
■「ソコトコ」は終わっても、吉田照美は終わらない!
これからも、本当の事を発言し続けて行って下さい。
そして、メディアに係わる人達は、照美さんに続き、更に彼を、次々に乗り越えて行って欲しいと思います。
降ろされても降ろされても、新しい人達が登場し、メディアを生まれ変わらせるまで、前進し続けて下さい。
↑以上、ツィッターからの転載おわり
組織というもんは、大きゅうなったら腐り、投機マネーでブクブク太った権力者らの奴隷となり、社会にどんどん毒をまいて、人や自然を傷つける。
その組織の中に居て、良心を持ち続けようとする者は、とことん疲れ果て、傷つけられ、結局は組織の方から吐き出されてしまう。
腐ったヘドロの中に居てもなお、保ち続けた良心は、人一倍キラキラと輝いてる。
その光は、次に続く人たちの、志のエネルギーとなる。
降ろされても降ろされても、疎ましがられても拒まれても、それでも本当のことを伝えようとする人は登場する。
その人の数が多いか少ないか、支える人の数が多いか少ないか、それがその社会の運命を決める。
腐った組織はもう二度と、元の形には戻れへん。
腐ってるんやから仕方がない。
腐ったものは捨てるしかない。
次の命のための肥にでもしてやればいい。
自らすすんで奴隷になるのはもうやめよう。
良心を持つことを恐がるのはもうやめよう。
山川建夫さん。建夫と書いてゆきおと読む。
彼がフジテレビで、売れっ子アナウンサーをしてはった時、わたしは田舎の嫁をしてたので、「3時のあなた」とかで、ちょこちょこ観てたような覚えがある。
穏やかな、人当たりの良さそうな彼の胸の内に、そして身体に、深く刻み込まれた戦争体験と、戦争を憎む強い意思があったことなんか、全然知らんかったのやけど。
原発事故以降、わたしはツィッターで、今まで気づかんふりしてた社会の問題についての自分の思いを、140文字以内の言葉にして伝えるようになった。
それと同時に、それはもう大勢の、思いを同じくする、もちろん環境も、性格も、年令も、文化も、それから多分、他の事に対する考え方も違う人たちと知り合い、支え合うようにもなった。
その中のひとりに、この山川氏がいる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/5d/6a66173ce10362fd1b488842380ea0f3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/f9/76d6bb7f2f347eb3ca60f762d1e48ace.jpg)
↓以下はウィキペディアより
東京・千駄ヶ谷生まれ。
慶應義塾大学卒業。
フジテレビアナウンサーとして、およそ17年間務めた後に退社、その後は、憲法改正に反対する主張、環境保護や、自然と親しむ暮らしについての講演などを行っている。
大学を卒業した1968年に、アナウンサーとしてフジテレビに入社、同期入社のアナウンサーには逸見政孝、松倉悦郎、竹下典子(野間脩平夫人)ら。
ベ平連に係わって、ベトナム戦争反対運動を行っていたこともある山川は、ワイドショー番組「3時のあなた」で、ベトナム視察報告をした、当時参議院議員でもあった山口淑子(李香蘭)を、
「2週間程度の取材で、戦争の実態がわかるのか」などと批判、それが問題となって、同番組を降板した。
また、社内では、労働組合を結成して、同社の経営(当時の鹿内信隆社長による準同族経営)を糾弾するなどしており、1985年には、同社を退社することとなった。
北海道小樽市の1年半を含む2年半、ワンボックスカーの改造車で、家族と全国を旅し、1987年に辿り着いた千葉県・市原市の農村に定住した。
田畑を耕し、野山を歩く日々を送りながら、フリーアナウンサーとしての活動も行っている。
芸能事務所は、1989年から、東京俳優生活協同組合に所属している。
私生活では、フジテレビの同僚アナウンサーだった宮崎総子と結婚、一女をもうけた。
後に、宮崎とは離婚、女児は、宮崎の義兄である俳優・仲代達矢夫婦の養女となり、後に、仲代奈緒として芸能界デビューしている。
フジテレビ退職後の放浪と田舎暮らしは、再婚した妻と娘と共に行っている。
↓そして以下(今から8年前の6月に、千葉県市原市で行われた講演会での紹介プロフィール)には、もうちょっと詳しい話が紹介されてる。
山川建夫(ゆきお)さんは、憲法連絡会の講演会に「呼びかけ人」として参加されている。
講演の前後のトークなどで、所信の一端をうかがってはきた。
そこからだけでも、波瀾万丈の人生を送って来られたことがわかる。
●戦争体験
山川さんは、東京は千駄ヶ谷の生まれ。
1945年6月の、山の手空襲のときは1歳半。
母におぶわれ、近所の防空壕のすき間に入りこむが、山川さんが激しく泣いたため、みんなに遠慮した母は防空壕を出て、火の海のただ中へ。
火勢に追われてお寺に逃げ込み、防火水槽の水を体にかけながら助かる。
後に防空壕を見に行くと、蒸し焼き状態で、みな死んでいた。
「オマエのお陰で助かった」と、母に言われ続けた。
後日、栃木へ疎開する列車が、艦載機に襲撃される。
山川さんの耳からは血が流れていた。
銃弾がかすめたらしい!!
後に、その地に講演に行きその話をすると、主催者から、「そのときの列車の台車が駅に保存されている」と知らされ、対面したという。
●局アナ時代
そんな原体験のせいか、戦争の話題となると独特の感慨がわき、物議を醸すこともあったらしい。
その一。
1970年、ときは大阪万博。
フジテレビ『小川宏ショー』の列島リレー中継。
万博正面ゲートから、山川さんは「このようなときでも戦乱のベトナムでは……」としゃべりだし……。
その二。
参議院議員山口淑子(李香蘭)が、米軍の護衛を受けて南ベトナムを取材。
それを、ワイドショーで、得意気に報告したのだそうな。
山川さんはその時、「2週間程度の取材で、戦争の実態がわかるものでしょうか?」と、疑問をはさんだという。
彼は、ベ平連に関わり、脱走米兵にも会い、話を聞き、戦況を把握していたそうだ。
山口女史は、本番中は、額に青筋を立てながらも黙っていたが、終わるやいなや、局幹部に直訴したそうな。
極めつけ。
「鹿内体制(当時の鹿内信隆社長による準同族経営)糾弾」のために労組を結成、活動したともいう。
そんなこんなで、『小川宏ショー』を降板させられることになる。
その日、後日判明したことだが、義憤に駆られたタイムキーパーが、1分を捻出。
小川キャスターが、「山川さんはきょうが最後です。最後に一言、どうぞ」と、山川さんにマイクを渡した。
山川さんは、黙って去るつもりだったが、「わたしは、自分の意思で降板するのではない。降板させられるのだ」と、思いを語る。
スタジオは大混乱。
エンディングがどうなったか、覚えていない。
役員室に連れ込まれ、査問を受ける。
しばらくして、フジテレビを退社。
全国放浪の旅に。
●市原に定住
改造車に寝泊まりしながら、全国を訪ね走る。
そんなある日、4歳の娘さんが、「もう、車で寝るのはイヤ!」と叫び、奥さんも同調したそうな。
気に入った市原に住むことに。
その娘さんも、来春は、大学卒業だという。
築60年の家を借り、畑を耕したが、3年くらい経ったとき、古老から「男は田んぼをやって一人前だよ」と言われ、稲作もすることに。
村人から認められたようで嬉しかった、という。
爾来、無農薬栽培をモットーとし、除草剤は使わない。
村人からは、「なぜ薬を使わないのか」と、非難の口調で糾問されることがあるという。
ベトナム戦争の「枯れ葉剤」から生まれた除草剤は、使いたくない。
田に入り、田の草を取っていると、「無我の境地」になれる。
一陣の涼風を感じてわれに返るとき、「自然と共に生きている」ことを実感でき、何ごとにも代えられない「至福のときだ」という。
自然と生きているからこそ、環境破壊のすさまじさを感じるという。
人類の住処である地球が、存亡の危機に瀕しているとき、最大の環境破壊である戦争に、うつつを抜かしている場合ではない。
「戦争を出来るように憲法を改正するなんて、もってのほかだ」
山川さんは、アナウンス学院講師として、後進の養成にあたるかたわら、司会業もこなし、豊富な体験に基づく講演活動も行っている。
全国を駆け回る日々である。
そして以下↓が、山川さんご自身による140文字に要約された思いの数々から抜粋させていただいたもの。
■民主党を離党した平智之議員を知るにつけ、こんな素晴らしい国会議員が存在していた事が、まるで奇跡のように思える。
官僚主導への危機感は深い。
特に、原子力産業の存続が、この国を滅ぼすと訴える。
その為にも、大飯3・4号機の再稼働を許した事の自己の責任を、痛感しておられる。
大いなる感銘を受けた。
■三宅雪子さんが、千葉4区で野田首相に挑戦は、話題としては面白いかもしれないが、民主党叩きは注意してやらないと、結果的に自民党を利する事になる。
前2回の、総選挙の政権党総崩れ現象が起きると、自民党が大勝するかもしれず、今度ばかりは極めて危険だ。
真の敵は自民党だという事を、胆に銘じておかねば
■国家とは非情なものだ。
国民の生命を守るどころか、逆に見殺しにし、使い捨てる。
例えば水俣で、チッソの側に立ち、「薬害エイズ」で、製薬会社の側に立った。
そして今、福島で、住民を見殺しにしようとしている。
国が救済の手を差し伸べなくとも、私達は生き延びなくてはならない。
国家幻想をキッパリ捨てて。
■中国からのPМ2.5、北朝鮮の核実験の放射性物質、どちらに対しても迅速に対応した、この国の観測体制。
その真逆の、福島第一原発からの放射性物質への対応。
この国の「正体」がモロ見えだ。
もうそんな、小手先の「パフォーマンス」を止めて、この国の住人の生命を、本気で護ってもらいたい。
■この国の農業をボロボロにした自民党の首相が、「日本の美しい田園を守って参ります」とは、恥知らずも甚だしい。
加えて、日本農業を攻めの産業にして、外貨を稼ごうとは。
確かに、この国の農産物の品質は高いと思うが、その上に大量の放射性物質がばら撒かれたのを、首相は、無かった事だとでも言うのか。
■福島事故由来の放射能から、少しでも安全な所に住みたいという願いを実現する為の、この度の岡山、広島への娘の旅に同行して感じたのは、
受け入れ活動のほぼ全てが、個人の「善意」でなされている、という事でした。
管理・運営者の、頭の下がるような献身的活動。
移住者同士の支え合い。
無いのは、国の姿だけだ。
■天皇が、「放射能という、困難な問題を克服して行こう!」と呼びかけたのに対し、首相が、再稼働の先頭に立つ!と、記者会見で表明したというこの「ギャップ」も凄いが、
もっと問題なのは、天皇の、放射能のくだりの発言を、テレビ各局のニュースでカットした事だ。
こんな事が許されていいのか!
メディアは追及しろ。
■TVにいた者として、その影響力の底知れなさは、骨身に沁みている。
だから権力側は、それを絶対に手放さない。
今日の動きを中継すれば、「情勢」は一気に変わって行くに違い無い。
東京新聞の如きテレビがいつ現れるか?
それがまだまだ先の事だとしても、再稼働でもすれば、権力への不信感の火に油となる。
■山本太郎から「カツ」が入れられた。
「3・11以降、この国では、緩慢な殺人が行われている。
悠長な事は言ってられない。
反原発のもとに、一つにならなければ。
一票たりとも、死に票を出してはならない」
その通り!
あの地震と共に起きた福島原発事故を、二度と起こしてはならぬ!
地震はいつ起きるか分らない。
■原発再稼働に向けて、野田首相が、いよいよ立地自治体の説得に乗り出すことを表明したようだ。
今、原発を再稼働する理由は、どこを探してもこれっぽちも無い。
国会事故調の事故原因の究明すら済んでないのに、動かせる訳がない。
それでも動かすというなら、それ相当の覚悟をした方がよい。
国民を舐めるな!
■「いのちの党」をつくった菅原文太さんが、川田龍平さんへの挨拶の中で、
「80近くになって、東京を離れ、農業を始めてみたら、人間以外の生き物が、如何に危機的な状況なのかが分かった。
そんな事も知らずに、東京で呑んだくれていたのが、本当に申し訳ないと思う」と仰っていた。
その事に、今こそ皆が気付く時なのだ
■テレビの中に、山本太郎さんのような人が出演すると、いっぺんに、テレビが嘘である事がバレテしまう。
かれが、全存在をかけて、真実を語る事によって、他の出演者のリアリティーの無さが、透けて見えるからだ。
だからテレビ局は、真実を語る人間を排除してきたし、国民を欺く道具として、国に支配され続けて来たのだ
■ぼくの知り合いで、プロの有機農家が何人もいるが、皆この事故で、生活が根本から壊された。
一生懸命、良い作物を届けたいと努力していた人ほど、打撃を受けた。
福島で自殺した有機農家の方は、本当に無念だったと思う。
なのに、大震災を口実に、利権を貪る連中が存在するとは!
一撃の元に粉砕したい衝動に駆られる。
■「天皇制」に疑問を持ち続けて来たとは言え、現天皇の、追悼式典での振る舞いに、ぼくは感動を覚えさえしました。
天皇を取り巻く人々の醜悪さの中で、彼の真摯さに胸を打たれたのです。
その、「放射能という、困難な問題を克服しよう!」という天皇の決意を、テレビ各局は、「何処か」からの指示で放送しなかった!
■最近、とても気になる風潮がある。
「私達も、原発の電気を享受してたのだから、事故の責任を追及する資格が無いのでは」というものだ。
それが、「文化人」から発せられると、極めて危険。
先の大戦で、反対しなかった自分達にも責任が、という、「一億総懺悔」で、戦争責任を不問にした。
同じ徹を踏んではならない!
■おカネより食べ物が大事、と言ったら「おカネが無かったら食べ物が買えない」と言われた。
ぼくは古い人間なので、食べ物は作るものと思っているが、今では殆どの人が、買うものだと思っているんだと気付かされました。
でも、その認識を変えないと、いつ酷い目に遭うか判らない状況が、目の前に迫っています。
■追悼式典での天皇の、「放射能の問題を克服しなければ」の部分が、NHKほかでカットされていたという。
誰の指示で?
何の為に?
自分に都合の悪い事なら、天皇のお言葉だってカットしてしまう。
一方で、情報の隠蔽、歪曲。
漏らせば厳罰。
国民に番号を割り振り、徹底的に管理。
やり放題の暴走を止めなくては!
■自分を「偉い」と思っている人間ほど、始末の悪いものは無い。
他人の忠告に耳を貸さないから、人間としての器は、いつも空っぽ。
代わりに、思い上がりと傲慢さで、びっしり満たされている。
弱者に寄り添うどころか、これでもかと差別し、排除する。
こうした存在が、原発事故を起こしたとも。
石原さん、あなたの事です。
■3・11後、我が家、我が身に起きた事。
事故の起きた年末、一緒に山を駆け回っていた犬が、突然死んだ。
その頃から、ぼくはタンが切れなくなり、膝から下の皮膚が、所々黒ずみ始め、軽くぶつけただけで皮下出血し易くなった。
2匹の猫は、喉に腫瘍が出来ているようで、嚥下しずらそう。
益々酷くなるばかりだ。
■広島に疎開した娘に、「お父さんも原発に関して何か言え」と促されて始めたツイッターだが、いつも言い放しで申し訳なく思っています。
3・11以降のこの国は、益々酷くなるばかりです。
ぼくの子や孫の世代が、安心して生きて行ける兆しが見えたら、ツイッターを止めたいと思っているのですが……。
■安倍首相始め、日本の支配者達は、この国が自分の物だと錯覚して、私物化している。
だから、国民も自分のものであり、総選挙の公約が嘘だったと分っても、平然としていられる。
私達は、舐め切られているのだ。
日本が、米国の奴隷状態であるように、この国の民も、国家の奴隷なのだ。
もういい加減に奴隷を止めよう!
■TPPへの参加は、最早時代遅れだ。
その方向は、もうとっくに終わっている。
湾岸戦争時、自衛隊の派遣を免れる為、日本は、140兆円とかのカネを出し、世界の「不評」を買った。
その時思ったが、それを環境対策、特に、経済成長に突き進む中国の大気汚染防止の為に使っていれば、人類に貢献出来、感謝された。
■TPPは時代遅れと言ったが、ではこれからの時代とは。
間違い無く、自然を敬い、大地そのものと繋がって食べ物を産み出し、「地域」の人々が支え合ってサバイバルして行く事です。
その地域が、更に周りの地域と繋がって支え合い、足りないもの、余った物をやり取りする。
投機マネーと無縁の世界です。
■新聞各紙で、TPP参加と安倍内閣の支持が急上昇。
そりゃそうだ。
各紙一斉に、TPP交渉参加を持ちあげているもの。
ぼくは27年前から、房総の真ん中で、田畑、山林の荒廃の進行に心を痛めて来た。
何とかしたいと思っても、個人の力では歯が立たなかった。
それを放置、いや進行させたのは、他ならぬ自民党だ!
■この国が壊れて行く。
この国の人々も、一緒に壊れて行くのか。
それともハッと気付いて、「再生」に向かうのか。
その重大な岐路に、私達は立っている。
TPPや、安倍内閣の支持率を見ると絶望的だが、この国の「真実」に気付き始めた人も、潜在的に増えている筈だ。
それが、いつ、どんな形で顕在化するか、楽しみだ
■今、とても気になる二人。
文化放送「ソコトコ」パーソナリティー吉田照美と、「新政府初代内閣総理大臣」坂口恭平。
前者の番組は、今月末で終了しようとしている。
後者は、機能不全に陥ったこの国の、政治システムに代わる、個々の人間が主役の新たなシステム、を創造しようとしている。
終わりと始まり。
何かが産まれる。
■吉田照美さんは、3・11以降のメディア界の中で、突出して、「事実」をリスナーに提供して来た。
3号機建屋爆発後の、アーサー・ビナードさんの、プルトニウム飛散のコメントは非常に貴重だった。
この国の「原発体制」に隠された情報に、光を当て続けて来た彼の存在を賭けたコメントは、ぼくらに勇気を与えた。
■照美さんの番組終了は、年初めから公表されていたが、43年前出演していた、朝のワイドショーでのぼくの降番については、視聴者に、最後の日まで知らされなかった。
そのまま行けば、ぼくは突然、番組から消える事になっていた。
レギュラー出演者が、或る日急に消えるという「異常事態」が、何故起きようとしたか。
■70年当時、ベトナム戦争は、末期的な状況だった。
メディアは、ベトナムでの米国の戦争を、支持していた。
だから、番組内での反戦的発言は、許されなかった。
その一方、ゲスト出演者の中で、米国を支持する者は沢山いた。
その一人の発言に堪りかねて、思わずぼくは、言葉を挟んでしまった。
■ベトナムでの取材を終えて出演したゲストは、それが命がけだったと言い、日本に帰って来て、この国が平和で素晴らしいと言った。
ぼくは反射的に、「あなたが平和だと言う日本の基地から、ベトナム人を殺しに米軍が出撃している事を、どう思っているのか?」と、強い口調で問いただした。
■更に、「数日の取材で、ベトナム戦争が分ったような口は利かないでくれ」といった為、ゲストを怒らせた。
この「事件」後、ぼくは上層部から、ゲストに謝罪するように言われたが、突っぱねた為、問題が尾を引き、その後の「反戦発言」も重なって、とうとう番組から降ろされる事になった。
その日が近付いて来た。
■ぼくにとっての番組最後の日、その枠内のどこかで、視聴者に別れを告げたかったが、とうとう最後まで来てしまった。
メイン司会者が、「突然ですが、今日で、山川さんが番組を降りる事になりました」と告げた。
そのままCМに入る筈だったのに、何故かまだ、1分近く時間が余っていた。
彼がぼくに、発言を振った。
■ぼくに発言のチャンスが回って来た!
ぼくは、これまでの感謝と、この降番が自分の意志では無い事を、辛うじて告げた。
それでもまだ30秒程、時間があったと思うが、言いたい事は山ほど有ったのに、何も言えなかった。
無言の、石と化したスタジオに、永遠と思える30秒が経過し、CМに入った。
■CМに入った途端、突然スタジオが動いた。
ぼくは、10数人の管理職に手足を抱えられ、そのまま役員室に連れ込まれ、つばが飛んで来るほどの罵声を浴びせられた。
一方、TVを見ていた視聴者は、一体何が起きたのか分らず、一斉に局に電話を掛けた為、回線のヒューズが焼き切れ、不通となった。
■ぼくが引き起こした「事件」は、メディアから、スタジオジャックとか言われたが、それまでのバーチャルな繋がりだった「視聴者」と、直接会える事になり、
ただ受け身の状態での視聴から、TVに主体的に係わり、視聴者の意見を反映させ、TVを変えて行こう、という機運が生まれかけたのだが……。
■TV局の後ろに国が、そのバックに米国が、という構図の中で、一人で立ち向かったとしても、所詮は線香花火。
あっという間につまみ出された、というところ。
局アナ生命の終わり。
たったのワンチャンスでした。
だから、ぼくは、吉田照美さんの果たして来た「役割」に、本当に頭が下がります。
■「ソコトコ」は終わっても、吉田照美は終わらない!
これからも、本当の事を発言し続けて行って下さい。
そして、メディアに係わる人達は、照美さんに続き、更に彼を、次々に乗り越えて行って欲しいと思います。
降ろされても降ろされても、新しい人達が登場し、メディアを生まれ変わらせるまで、前進し続けて下さい。
↑以上、ツィッターからの転載おわり
組織というもんは、大きゅうなったら腐り、投機マネーでブクブク太った権力者らの奴隷となり、社会にどんどん毒をまいて、人や自然を傷つける。
その組織の中に居て、良心を持ち続けようとする者は、とことん疲れ果て、傷つけられ、結局は組織の方から吐き出されてしまう。
腐ったヘドロの中に居てもなお、保ち続けた良心は、人一倍キラキラと輝いてる。
その光は、次に続く人たちの、志のエネルギーとなる。
降ろされても降ろされても、疎ましがられても拒まれても、それでも本当のことを伝えようとする人は登場する。
その人の数が多いか少ないか、支える人の数が多いか少ないか、それがその社会の運命を決める。
腐った組織はもう二度と、元の形には戻れへん。
腐ってるんやから仕方がない。
腐ったものは捨てるしかない。
次の命のための肥にでもしてやればいい。
自らすすんで奴隷になるのはもうやめよう。
良心を持つことを恐がるのはもうやめよう。