田口ランディさんという作家がいる。
つい三日前までは、名前は知ってるけど、どういう人なんか、どんな顔をしてはるんかも知らん、著書を読んだこともない人やった。
ほんで、正直に言うとこの人を、なぜか男の人やと思い込んでた。
ちょっと前に、東京からブルックリンに戻ってきた、ジョージとかおりちゃん、そして一人息子の海くんの家に遊びに行った時、
帰り間際にかおりちゃんが、「まうみさんに読んでもらいたい本がある」と言いながら、バタバタと本箱の中から抜き出してきた2冊の単行本を手渡してくれた。
「ちょっとね、題名が『遺体』とか『死刑』とかでおどろおどろしいんだけど……。あ、まうみさんは田口ランディ、読んだことある?」
「え?読んだことない、名前は知ってるけど」
「じゃ、これも読んでみて」
かおりちゃんの感性が好きやし信じてるから、彼女がお勧めの本なら読んでみたいと、わたしはいつでもありがたく借りて読ませてもらう。
家に戻って、紙袋の4冊を取り出してみた。

田口ランディさんの『ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ』と『サンカーラ』、石井光太さんの『遺体』、そして森達也さんの『死刑』。
うう……重い……。
まず、石井さんの『遺体』を読んだ。
その感想はまた後日、頭の中をまとめてから書きたいと思てる。
次に、初めての作家、ランディさんの『サンカーラ』を読んだ。
なんでかおりちゃんがわたしに、ランディさんの著書を紹介しようと思たのか、読み始めてすぐにわかった。
迷てるからや。
迷いながら、自分に問うてる。
どう生きたらええのかと。
その問いの質が、日に日に重とうなってきてる。
けど、この重たさは、もっともっと前から、感じてなあかんもんやった。
その重さを背負って、ずぶずぶと、足の裏にまとわりついてくる泥が、いったいどこから流れてきたもんかを、きちっと自分で見つけなあかんかった。
なんとなく、世の中には辛い思いをしてはる人がいると知ってても、自分かてそれなりに辛い思いしてんねんからと、自分の目を社会に向けることを避けてきた。
ようやっと、自分なりに、これまでの人生の中で一番安定してるっぽい暮らしになったっぽい、などと思い始めてた。
それでも世の中は、胸の中がゾワゾワするような、ようわからんけど恐ろしいというような感じを思い出させる無数の毛玉が、わたしらが歩いた風圧で、ころころと転がっていく。
転がってるのは、テレビの画面の中やったり、新聞紙の紙面の上やったり、と思いたかったけど、ほんまは自分のすぐ目の前に転がってた。
わたしは見て見ぬふりして、言い訳をいっぱい用意して、ダムで沈んだ村のこと、水俣病のこと、ハンセン病のこと、米軍基地のこと、原発のことを、一回として真剣に考えてこんかった。
そういうのはもう、問題が大き過ぎるからとか、部外者の自分が、それも無名の、自分の暮らしでアップアップしてるようなピアノ教師が、
子育てと仕事と家事に加えて、村の寄り合いやら子供会やら、PTAの役員やら自治会やら婦人会やら、自分の家族のごたごたの始末やらで、それでのうても目がまわってるのに、
そんなもんがいくら必死で考えても、なんとかしよう思ても、それがいったいなんになるんやと、やってみる前から両手に白旗持って、ピラピラと風になびかせてた。
ほんまに、なぁ~んにも考えてこんかった。
そのことが、どんなに申し訳なかったことか。
そのことが、どんなに恥ずかしかったことか。
そやから今、毎日毎日、一日も欠かさず、考えるようになった。
けども、考え始めてみると、考えなあかんことが次から次へと、芋づる式に出てくる。
その蔓は、丸い地球の地面の奥深くに、海底のそのまた下に、ずっとずっとつながってる。
今すぐにでも解決せなあかんことが、それなりの大勢の人が必死になって行動しても、なかなかうまいこと解決していかへん。
はじめのうちは、そのことに腹を立てたり焦ったりした。
けど、そんなことを何回、何十回とくり返してるうちに、やっとやっと、これらは多分、わたしが生きてるうちには解決せんことなんやなと思えるようになった。
ほならわたしはいったい今、何してんのやろ。
その答が、ランディさんの『サンカーラ』の中にあった。
わたしらはいつかは死んで、その身体はこの世から消えてってしまうのやけど、
わたしらが考えたことは決して消えることがなくて、ずっとずっと、引き継がれながら生き続ける。
週末の気功瞑想の日に、ミリアムがこんなことを言うた。
「私たちが持っているものというのは、身体だけなのよね。
そして、私たちがよく感じる痛みや感情は、その身体が作り出すもの。
自然は大きな魂で、私たちの魂はその一部なの。
だから、身体はいつか、その寿命を全うしたり、病気にかかったり、事故に遭ったりして、現世からとりあえず消えるけれども、
魂はもともと自然の一部なのだから、しっかりと残り続けるの。
そして、元の魂に戻る時はね、それはそれはもう、あたたかで気持ちのよいものに全身が包まれて、なんともいえない良い気持ちになるのよ。
どんなに、その直前まで痛みに苛まれていた人も、ものすごい恐怖に襲われていた人も、後悔して悲しみのどん底にいた人も、みんなみんな、魂に帰る時は気持ちがいいの。
お日様の光にすっぽり包まれた時のように」
ランディさんも、同じようなことを書いていた。
その偶然に驚いた。
同じ日に、全く環境も国も違う女性から、同じ話を教えてもらった。
葉っぱだってみんな、お日様の光が大好き。

ちょいといじわるして、向きをあちこち変えてみる。

え?ちょっとちょっと、お陽さんどこ?と慌てるのやけど、数日も経てばちゃ~んと、お日様の方に葉っぱの向きを変えてる。

わたしはこれからも考えよう。うんうんと頭を抱えて考えよう。その考えが、自分の言葉としてきちっと出てくるまで考えよう。
つい三日前までは、名前は知ってるけど、どういう人なんか、どんな顔をしてはるんかも知らん、著書を読んだこともない人やった。
ほんで、正直に言うとこの人を、なぜか男の人やと思い込んでた。
ちょっと前に、東京からブルックリンに戻ってきた、ジョージとかおりちゃん、そして一人息子の海くんの家に遊びに行った時、
帰り間際にかおりちゃんが、「まうみさんに読んでもらいたい本がある」と言いながら、バタバタと本箱の中から抜き出してきた2冊の単行本を手渡してくれた。
「ちょっとね、題名が『遺体』とか『死刑』とかでおどろおどろしいんだけど……。あ、まうみさんは田口ランディ、読んだことある?」
「え?読んだことない、名前は知ってるけど」
「じゃ、これも読んでみて」
かおりちゃんの感性が好きやし信じてるから、彼女がお勧めの本なら読んでみたいと、わたしはいつでもありがたく借りて読ませてもらう。
家に戻って、紙袋の4冊を取り出してみた。

田口ランディさんの『ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ』と『サンカーラ』、石井光太さんの『遺体』、そして森達也さんの『死刑』。
うう……重い……。
まず、石井さんの『遺体』を読んだ。
その感想はまた後日、頭の中をまとめてから書きたいと思てる。
次に、初めての作家、ランディさんの『サンカーラ』を読んだ。
なんでかおりちゃんがわたしに、ランディさんの著書を紹介しようと思たのか、読み始めてすぐにわかった。
迷てるからや。
迷いながら、自分に問うてる。
どう生きたらええのかと。
その問いの質が、日に日に重とうなってきてる。
けど、この重たさは、もっともっと前から、感じてなあかんもんやった。
その重さを背負って、ずぶずぶと、足の裏にまとわりついてくる泥が、いったいどこから流れてきたもんかを、きちっと自分で見つけなあかんかった。
なんとなく、世の中には辛い思いをしてはる人がいると知ってても、自分かてそれなりに辛い思いしてんねんからと、自分の目を社会に向けることを避けてきた。
ようやっと、自分なりに、これまでの人生の中で一番安定してるっぽい暮らしになったっぽい、などと思い始めてた。
それでも世の中は、胸の中がゾワゾワするような、ようわからんけど恐ろしいというような感じを思い出させる無数の毛玉が、わたしらが歩いた風圧で、ころころと転がっていく。
転がってるのは、テレビの画面の中やったり、新聞紙の紙面の上やったり、と思いたかったけど、ほんまは自分のすぐ目の前に転がってた。
わたしは見て見ぬふりして、言い訳をいっぱい用意して、ダムで沈んだ村のこと、水俣病のこと、ハンセン病のこと、米軍基地のこと、原発のことを、一回として真剣に考えてこんかった。
そういうのはもう、問題が大き過ぎるからとか、部外者の自分が、それも無名の、自分の暮らしでアップアップしてるようなピアノ教師が、
子育てと仕事と家事に加えて、村の寄り合いやら子供会やら、PTAの役員やら自治会やら婦人会やら、自分の家族のごたごたの始末やらで、それでのうても目がまわってるのに、
そんなもんがいくら必死で考えても、なんとかしよう思ても、それがいったいなんになるんやと、やってみる前から両手に白旗持って、ピラピラと風になびかせてた。
ほんまに、なぁ~んにも考えてこんかった。
そのことが、どんなに申し訳なかったことか。
そのことが、どんなに恥ずかしかったことか。
そやから今、毎日毎日、一日も欠かさず、考えるようになった。
けども、考え始めてみると、考えなあかんことが次から次へと、芋づる式に出てくる。
その蔓は、丸い地球の地面の奥深くに、海底のそのまた下に、ずっとずっとつながってる。
今すぐにでも解決せなあかんことが、それなりの大勢の人が必死になって行動しても、なかなかうまいこと解決していかへん。
はじめのうちは、そのことに腹を立てたり焦ったりした。
けど、そんなことを何回、何十回とくり返してるうちに、やっとやっと、これらは多分、わたしが生きてるうちには解決せんことなんやなと思えるようになった。
ほならわたしはいったい今、何してんのやろ。
その答が、ランディさんの『サンカーラ』の中にあった。
わたしらはいつかは死んで、その身体はこの世から消えてってしまうのやけど、
わたしらが考えたことは決して消えることがなくて、ずっとずっと、引き継がれながら生き続ける。
週末の気功瞑想の日に、ミリアムがこんなことを言うた。
「私たちが持っているものというのは、身体だけなのよね。
そして、私たちがよく感じる痛みや感情は、その身体が作り出すもの。
自然は大きな魂で、私たちの魂はその一部なの。
だから、身体はいつか、その寿命を全うしたり、病気にかかったり、事故に遭ったりして、現世からとりあえず消えるけれども、
魂はもともと自然の一部なのだから、しっかりと残り続けるの。
そして、元の魂に戻る時はね、それはそれはもう、あたたかで気持ちのよいものに全身が包まれて、なんともいえない良い気持ちになるのよ。
どんなに、その直前まで痛みに苛まれていた人も、ものすごい恐怖に襲われていた人も、後悔して悲しみのどん底にいた人も、みんなみんな、魂に帰る時は気持ちがいいの。
お日様の光にすっぽり包まれた時のように」
ランディさんも、同じようなことを書いていた。
その偶然に驚いた。
同じ日に、全く環境も国も違う女性から、同じ話を教えてもらった。
葉っぱだってみんな、お日様の光が大好き。

ちょいといじわるして、向きをあちこち変えてみる。

え?ちょっとちょっと、お陽さんどこ?と慌てるのやけど、数日も経てばちゃ~んと、お日様の方に葉っぱの向きを変えてる。

わたしはこれからも考えよう。うんうんと頭を抱えて考えよう。その考えが、自分の言葉としてきちっと出てくるまで考えよう。
