ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

憲法学の常識もない連中のゴリ押し改憲は、まさしく『憲法クーデター』と言うべき由々しき事態!

2013年04月28日 | 日本とわたし
asobitarianさんのブログ『Die Zeit des Rechts』に出会た。
96条改憲について調べてた時、ツィートで見つけたんがきっかけ。

憲法クーデターという言葉が目に飛び込んできた時、わたしの脳ミソは、そうや、その通りや!と叫んでた。
とても分かりやすう書いてくれてはるので、ぜひぜひ、みなさんにも読んでもらいたいと思い、ここに転載されてもらいます。

『憲法学の常識もない連中が、数の力に任せて96条を改憲するようなことがあれば、まさしく憲法クーデターと言うべき由々しき事態』

こんな事態を放っとくことは、主権者であることを丸投げするということ。
歴史に残る無責任者で阿呆です!
そんな大人をひとりでも減らそう!

↓以下、転載はじめ(太字、強調は、わたし個人の考えで行いました)


96条改憲は憲法クーデターである

安倍自民党が、憲法「改正」に執念を燃やしている。
そのための突破口と位置付けているのが、憲法改正手続きを定めた96条の改憲である。
現行憲法が、憲法改正の発議要件を、国会の各議院の3分の2以上の賛成を要するとしているのを、過半数の賛成に緩めようとしているのであり、来る参院選の争点に掲げると息巻いている。
言うまでもないことながら、自民党が、改憲の争点としてまず真っ先に96条を持ってきたのは、いったん憲法改正の発議要件を、衆参各院の2分の1にまで緩和してしまえば、
自民党の長年の悲願であった、9条改憲をはじめ、人権制約の根拠を人権の内在的制約原理である「公共の福祉」から、外在的制約原理である「公益・公の秩序」に置き換えることによる人権保障の骨抜き(無制約化)や、
天皇の元首化、国民の義務規定の乱立など、次々とやりたい放題の改憲が容易になるからである。
そのためには、衆参両院で、改憲勢力が3分の2という、現行憲法の改正手続き要件を満たす可能性がある次期参院選後を、千載一遇のチャンスと見て、ここで一気に改憲要件を緩和してしまおう、としているのである。

そこで、安倍首相は、9日の衆院予算委員会で、96条改正の意図を、「2分の1以上の国民が(憲法を)変えたいと思っても、3分の1をちょっと超える国会議員が反対すればできないのはおかしい」と述べている。
確かに、安倍首相が、96条の意味を全く理解できず、国民投票の賛成要件と国会議員の発議要件が違っていることを「おかしい」と思っていることは、十分に理解できる。
先日の記事(「アベシンゾーと「驚愕の事実」」)でも指摘したように、安倍首相には憲法の意味が全く理解できていないので、
なぜ改憲要件が、通常の立法よりも厳しくなっているのかということ自体が理解できないために、「おかしい」と感じているのであるが、それがどれほど大問題であるかも先日の記事で指摘した。

自民党は昨年、改憲草案とともに公表した「憲法改正草案Q&A」の中で、96条改正の理由について、「世界的に見ても、改正しにくい憲法となっています」と述べているが、
これが事実に反する大嘘であることは、4月13日の東京新聞特報面「チェック改憲 改正手続き 国際比較すると」でも詳細に証明されている。
成文憲法を持たない英国やニュージーランドといった、特殊な不文憲法の国を除けば、今日、成文憲法を持つ国は、ほとんどが硬性憲法(通常の立法や法改正より厳しい改正手続きを定めた憲法)であって、
そうでなければ、そもそも立憲主義の国とは言えない
のである。
立憲主義とは、人権を保障するため、権力分立を定めた憲法を制定し、そうすることで、時々の為政者の恣意的な権力行使を制限し、人々の自由を確保しようとする思想であるから、
憲法改正手続きが、通常の立法手続きと同様であれば、到底この役割を果たしえないことは自明である。

そこで、憲法が、立憲主義の憲法たりうるためには、憲法改正についても、おのずから一定の限界がある、というのが憲法学界の通説である。
憲法改正の限界については、細かく言えば色々な学説が分かれているが、現在、日本の憲法注釈書としておそらく最も権威のある『注釈 日本国憲法』(青林書院)によれば、
憲法改正の限界として、
第1に、憲法制定権力の担い手である主権の変更は認められないこと、
第2に、元の憲法との同一性を失わせるような改正は認められないこと、
第3に、憲法改正手続き規定および改正禁止規定の実質に触れるようなことは改正行為として認められないこと、
の3点が挙げられている(『注釈 日本国憲法(下)』1461頁)。

これが、憲法改正規定の限界をめぐる、通説中の通説と言うべきものであろう。
憲法改正手続きの改正が、改正権の限界を超えていると考えられる理由は、国の最高法規(98条)である憲法の改正行為が、法的に秩序づけられた行為であるためには、
立法手続きを定める法規範が、法律に上位する憲法規範と考えなければならないのと同様、改正規定そのものが、憲法典のなかにあっても、他の諸規定よりも一段上位の法規範と考えなければならないからである。
それゆえ、「改正手続き規定は、憲法制定権力が、憲法典成立以後法的に行為しうる唯一の道筋であり、行為準則であって、改正手続きの実質に触れる改正はできない」(佐藤幸治『憲法』)のである。

憲法を、一度もまともに勉強したことのない安倍首相のような改憲派議員が、この説明を理解できるかどうかはわからない(ことにしてあげる)が、
こうした憲法学の常識もない連中が、数の力に任せて96条を改憲するようなことがあれば、まさしく憲法クーデターと言うべき由々しき事態である。
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内閣も各大臣も国会も国会議員も、憲法によって「制限され」、国民から「指示・命令され」る側!以上!

2013年04月28日 | 日本とわたし
ツィッターで見つけた、安倍首相のシドロモドロ(というか、日本語をしゃべってるとは思えへん答弁……いや、答えになってるとは思えへん答弁)
URLを残し忘れたので、申し訳ないですけど、書き写させてもらいました。

衆院内閣委員会での日本共産党の赤嶺政賢議員に対する安倍首相答弁(歴史認識関連部分)
(2013年4月26日、仮起こし=J)
※赤旗政治記者の仮起こしです。あくまでも、ご参考まで。

赤嶺政賢議員:
法案に入る前に、安倍総理の国会発言について聞いておきたいと思います。
昨日、韓国の外務次官が別所駐韓大使を呼び、「日本政府と政治家による、ゆがんだ歴史認識と時代錯誤の言動に対し、強く遺憾の意を表する」と抗議するなど、外交上の問題になっています。
 
問題の発端である4月23日の参議院予算委員会で、安倍総理は、村山談話について、「いろいろ曖昧な点がある」とした上で、
「とくに、侵略という定義については、これは学界的にも定まっていないといってもいいんだろうと思うわけでございますし、
それは、国と国との関係において、どちら側から見るかということにおいて違うわけでございます」、このように述べました。
 
総理は、日本の過去の戦争について、どちら側から見るかで評価が違う、というのでしょうか。
中国や韓国から見ると侵略だが、日本から見るとちがう、というのですか。


安倍晋三首相:
えー、いわゆる村山談話はですね、戦後50年を機に出されたものであり、また戦後60年にあたっては、当時の小泉内閣が、談話を出しているところでございます。
わが国はかつて、えー、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な…多大の損害と苦痛を与えた。
その認識においては、安倍内閣は、歴代の内閣と共通の立場、同じ立場でございます。

ま、その上においてですね、ま、しかるべき時期に21世紀に相応しい未来志向の談話を発表したいと、ま、考えており、
そのタイミングと中身については、今後十分に考えていきたいと、ま、先般そのように答弁をいたしました。

ま、いずれにせよ、韓国や中国をはじめとする、ま、近隣の国々は、えー、日本にとっても重要な、ま、パートナーでもあります。
えー、私は、これらの国々との関係強化に引き続き努力をしていくとともに、えー、地域の平和と繁栄に、積極的に貢献をしていく所存でございます。
えー、ま、歴史認識の問題についてはですね、ま、基本的に、私が先般も述べたことはですね、えー、政治家がとやかく、ま、いうべきことではないと。
えー、歴史家がせん…歴史家や専門家に委ねることが適当であろうと、このように考えております。

えー、私は歴史認識に関する問題が、外交問題、ま、政治問題化されることは、もちろん望んでいないわけでございまして、
いわば、歴史認識問題について、ま、政治のば…ば、ば、場においてですね、議論することが結果としてですね、それは、外交問題、えー、政治問題に発展をしていくわけでございまして、
だからこそそれは、それこそは、まさに、えー、歴史家、専門家に任せるべきことであろうと、えー、このように判断をしております。


赤嶺:
再度確認いたしますけれども、村山談話で、植民地支配と侵略が、アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたという認識、これは継承するということですね。


安倍:
ま、これは、あの、ま、継承するとかしないとかということではなくてですね、それは、あのー、さきほど、えー、申し上げましたように、
えー、村山談話がですね、50年を機に発出をされたものであり、60年を機に小泉談話が出されたわけでございまして、
えー、ま、今回政権が代わり、安倍内閣が誕生したなかにおいてですね、えー、そして、えー、もうじき70年を迎えることになるわけでございますが、
えー、内閣としてですね、えー、ま、未来志向の談話を、えー、発出していくのが、適当ではないかと、ということも含めて、えー、よく考えていきたいと、ま、こういうことでございます。


赤嶺:
非常に曖昧であります。
日本が、中国や朝鮮半島をはじめ、アジア諸国に対して侵略戦争を行ったということは、歴史的、客観的な事実であります。
1941年12月、日本がアメリカ、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まった直後、42年1月、米英中ソはじめ26カ国が連合国共同宣言を発表し、
生命、自由、独立を擁護し、人類の権利、及び正義を保持するため、あらゆる資源を動員して、日本、ドイツ、イタリアに対抗する共同闘争を呼びかけます。
 
そして、1943年11月、「日本国に関する米英中3カ国によるカイロ宣言は、日本国の侵略を制止し、かつこれを罰するため、今次の戦争をなしつつあるものなり」と、
日本との戦争の目的が、日本の侵略制止にあると、このように規定しております。
1945年7月、ポツダム宣言には、カイロ宣言の履行が明記され、そのポツダム宣言を、日本が受諾したのであります。
 
こうした事実を前提として、現在につながる戦争後の国際秩序と、国連体制が形成をされました。
総理が、国によって見え方が違うと、このように発言するのは、こうした歴史の事実を否定することになるものではありませんか。


安倍:
まあ、いま、もう、答弁したとおりでございますが、ま、歴史というのは、ま、一般論としていえばですね、これは、あの、えー、確定するって、えー、それは確定するのが難しいこともあるわけでありまして、
長い年月をかけてですね、専門家の手のよって、えー、新たなファクトが、これ、掘り出されていくことも、ま、ございます。
ま、そういうようなこともですね、えー、あわせていきながら、まあ、まさに、えー、これは専門家、あー、歴史家に委ねるべきであってですね、
えー、私が政治家として神のごとくそれを判断することはできないと、えー、このように申し上げているところでございます。


赤嶺:
日本の政治家が、あの侵略戦争に対する反省から、国際社会からいろんなことを要求され、いま戦後につながっている、これは歴史家が判断することじゃないですよ。
日本の政治家が判断をして、これにもとづいて国際社会に向き合っていくことこそ、大事だと思います。
 
で、見過ごせないのはですね、総理は侵略の定義について、これはまだ定まっていないとおっしゃいました。
ところが、国連総会決議3314は、侵略の定義に関する決議をしておりますが、これはご存知ですか。


安倍:
ま、しかし、これは、あのー、歴史家のなかにおいてはですね、さまざまな、まあ、議論が、あるのは事実でございまして、
えー、ま、私もですね、えー、そうした定義については、ま、さまざまな観点から議論がいまでもされていると、いうふうに承知をいたしております。


赤嶺:
この侵略の定義というのは、「侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全、若しくは政治的独立に対する…武力の行使である」と明確に定義しております。
この侵略の定義というのは、国際刑事裁判所の規定にも援用され、国際社会が、侵略行為と侵略犯罪を処罰する根拠規定とされております。
これは日本も加盟をしております。
 
国連は、戦後のこのような長い議論を経て、侵略の定義に至ったのであります。
やはりですね、そういうこともゆがめて発言するようなことは、許されないと、このように思います。



この人は、いっつもこんなふうにしゃべってんの?
質問してる人が、もっときちっとわかるように発言できんのかと、徹底的にしつこう求めても、こんな訳ワカメの状態で押し切られてまうの?
ほんで、それを、周りのだ~れも、なんとかせなって思わんの?
こんなんに、国の行方を任せなあかん不幸は、ここでいうたらブッシュのあの8年間に匹敵するな。
ここではまだ、相も変わらず、武器商人やら戦争屋やら、モンサントやら、世界を代表する悪党らがぎょうさん居てて、不幸は絶賛続行中やけど、
日本は原発の重大事故っちゅう、新たな、ある意味決定的な深い傷を遭うてなお、まだこの悪党らの操り人形チャンに甘んじてる人間が首相をやってる。

JICL 法学館憲法研究所の方々が出さはった、安倍首相への手紙を続いて載せさせてもらいます。
あの男の日本語能力では、これは理解できんやろと思いつつ、こういう文章を発表するのはきっと、我々市民に、身近な人だけでもええから伝えて欲しいということちゃうやろか。
転載にあたり、わたし個人の意思で、文字の強調をさせてもろた。

憲法改正権は国民にあり、国民にのみ帰属する。     
内閣および各大臣、国会および国会議員は、いずれも、憲法によって「制限される側」であり、国民から「指示・命令される側」に立っている。


↑この、基本中の基本ともいえる、憲法というもんの在り方を、まだ知らん人、なんとなく知らん人に、どうしても伝えたいと思たから。


改憲を問う!

拝啓 安倍晋三様 あなたが「改憲」に前のめりになるのは筋が違いませんか?
2013年4月15日

法学館憲法研究所

安倍さん、あなたは、首相在任中の「憲法改正」に、強い意欲を持っているそうですね。
まずは、国会による憲法改正案の発議を容易にする、96条の「改正」から手がけるということは、あなた自身の口からも度々語られています。
そして、同じように「改憲」を唱える「日本維新の会」に、参議院選挙後の連携を見据えて、接近を図っているとも伝えられています。
しかし、ちょっと待ってください。
あなたがこのように「改憲」に前のめりになるのは、筋が違いませんか?
それは、次のような問題があるからです。

第一に、いまの国会の構成が、衆議院も参議院も「違憲」状態にある、ということです。
昨年末の衆議院選挙については、全国で、16件の「一票の格差」訴訟が起こされましたが、
その16件の訴訟すべてにおいて、各高等裁判所は「違憲」(14件)または「違憲状態」(2件)の判決を言い渡し、うち2件では、選挙無効の宣告さえなされています。
これだけ見事に「違憲」判断がそろい、「合憲」判断は1件もなかったのですから、現在の衆議院の構成が「違憲」状態にあることは、もはや明白といわなければなりません。
最高裁の判決ではないからといって無視することは、とうてい許されうる状況にはありません。
また、参議院については、昨年10月の最高裁判決が、「違憲状態」であると断じていますから、現在の参議院の構成もやはり、「違憲」状態にあるということになります。
 
「違憲」の選挙は、本来無効です。
これまで裁判所は、「違憲」と判断しても、選挙じたいを無効とすることは避けてきましたが、
それは、選挙を無効とした場合に生じるさまざまな問題を考慮してのことであり、「違憲」の選挙に正当性を認めたものではありません。
まさにいろいろな「事情」を考慮して、無効とすることは避けた(「事情判決」)、というだけであって、「違憲」の選挙は本来無効である、という原則そのものを変えたわけではないのです。
ですから、「違憲」の選挙によって選ばれた現在の国会議員は、あなた自身も含めて、本来からいえば、国会議員たりえないはずなのです。
「違憲」の選挙は、本来なら無効なのですから。
 
要するに、いまの国会は、衆議院も参議院も、本来なら無効であるはずの選挙によって選ばれた議員、つまり、本来なら議員たりえないはずの議員によって構成されている、ということです。
その意味で、いまの国会議員は、「正当に選挙された代表者」(憲法前文)とは言いがたいのです。
それでも、議員としての地位が一応認められているのは、さまざまな事情を考慮した、一種の「緊急避難」的措置としてのことに過ぎません。
このような立場にある議員がなしうることは、選挙制度の違憲状態を解消したうえで、憲法に反しない正当な選挙を速やかに実施することまで、と考えるべきでしょう。
それまでの間、国民生活に支障を及ぼさないために、必要最小限の国政事項を処理することは、「緊急避難」のうちに入ることとして認められるでしょう。
しかし、そこまでです。
とりわけ、憲法改正の発議のような、国の枠組みの根幹にもかかわる事項は、本来なら国会議員たりえないはずの、正当性に瑕疵のある国会議員によって扱われてはならない事項の最たるものというべきです。
そういう意味で、あなたがいま「改憲」を言うことは、まったく不適切なことなのです。

 
第二は、あなたが、首相として「改憲」をめざすとしていることと、憲法との整合性の問題です。
言うまでもないことですが、内閣には憲法改正権はありません。
憲法改正権は国民にあり、国民にのみ帰属します。


「国民の代表」にも、憲法改正権はありません。
文字どおり「国民にのみ」あるのです。
それは、憲法というものが、そもそも、「統治権に対する法的制限」を意図したものであり、「権力担当者に対する国民からの指示・命令」としての意味をもつものだからです。
内閣および各大臣、国会および国会議員は、いずれも、憲法によって「制限される側」であり、国民から「指示・命令される側」に立っているのです。
「制限される側」、「指示・命令される側」が、その制限や指示・命令の内容を自由に変えられるというのでは、制限も指示・命令もまったく無意味なものになります。
だから、内閣に憲法改正権がないのは当然のことであり、また、国会も、「国民の代表者」によって構成される「国民代表機関」であっても、憲法改正権そのものはもちえないのです。
 
ただ、憲法は、国会が「国民代表機関」であることにかんがみ、国会に憲法改正の発議権を委ねています
この、国会の発議権は、憲法改正権は国民にのみあるという観点からいえば、国会が憲法改正を主導できるということを意味しません。
国民の側から、具体的にここをこう改正すべきだという声が上がり、それについて国会で議論せよという声が高まったときにはじめて、
国会は その国民の指示を受けて 憲法改正原案をまとめ国民に提示する、というのが本来のあり方
なのです。
そうではなく、国会議員たちが「ここは自分たちにとって都合が悪いから変えたい」といって改憲発議をするのは、本来筋違いなのです。
国会議員が改憲に前のめりになるべきではないのです。
まして、憲法改正の発議権が委ねられているわけでもなく、なによりも政権担当者として、統治権の中枢を担う内閣が憲法改正を主導することは、絶対に避けられなければなりません。
それは、政権の都合のいいように憲法を変えることにつながりかねない行為であり、「統治権に対する法的制限」としての憲法の意味を、大きく損なうこととなるからです。
その意味で、あなたが首相として「改憲」をめざすというのは、筋が違う、といわなければならないのです。

このように考えてくれば、憲法96条の国会による発議の要件を、衆・参それぞれ総議員の「3分の2以上」から「過半数」に変えようというあなた方の企図には、重大な問題があることがわかると思います。
「過半数」で発議できるということは、基本的には、ときどきの政権与党だけで改憲発議できるということを意味します
つまりこれは、政権の都合のいいように憲法を変えることを、より容易にすることになります。
ですから、この「改憲」は、「3分の2」か「過半数」かという単なる数字の問題ではなく、憲法の意味そのものを大きく損なうことにつながりかねないものなのです。
あなたは、「憲法について国民に議論してもらう機会は多いほうがいい」ということを、「過半数」にすべき理由の一つとしてあげているようですが、
「憲法について国民に議論してもらう機会」を国会が提供するという発想自体、憲法改正は国会が主導すべきだという誤った考え方に立っているものといわなければなりません。
かりにそのことを問わないとして、「過半数」にするという96条の変更を、どうしてもやりたいというのであれば、
同時に、政権に都合のいいような憲法変更の可能性をできるだけ防ぐため、政権与党は憲法改正原案を国会に提出できないこととする、といった制限を設けるべき
でしょう。
そこまでやるというのなら、あなた方の96条「改正」企図も、善意のものと受け止めましょう。
それでも、その発想自体は誤っていると、私たちは考えますが……。

法学館憲法研究所
所   長:伊藤真(伊藤塾塾長・弁護士)
顧   問:浦部法穂(神戸大学名誉教授)
客員研究員:水島朝穂(早稲田大学教授)
客員研究員:村井敏邦(大阪学院大学教授)
客員研究員:森 英樹(名古屋大学名誉教授)



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