染のおっちゃんこと斎藤洋さん。
彼のことを知り、彼のブログ『風の布・パピヨン』の記事を遡って読ませてもらい、彼のひととなりと生き方にとても共感を覚えた。
いろんな記事を紹介したいと思たのやけど、その中から、先日の『さかみちをのぼって』の歌と、この俳句を書かれた赤松桂氏の記事を選ばせてもろた。
↓以下、転載はじめ
枯葎(かれむぐら)
2013年03月20日
このブログに再三、投稿してくれている旧友・赤松桂より、新しいメッセージが届きました。
彼の了解を得て、伝えます。
福島第一原発の冷却システムダウン。
危機的な状況続く夜に。
今年も又、3月11日が巡ってきました。
ちまたでは記憶の風化などど言われ始めていますが、問題はこれからなのだと思っております。
いつものように写真と俳句をお送りします。
今回は少し長いですが、文章も添付しました。
読んでいただければありがたいです。
桂
<国家>とは 難民棄民 原発忌
いのちには いのちのおもさ 枯葎(かれむぐら)
不吉なる 事件のやうに こほり割れ
広島、長崎、そして福島
今、福島で、戦後最大規模の<棄民>政策が進行している。
国策・民営という枠組みで計画、立案され、現実化した原子力発電事業。
東京電力福島第一原子力発電所は、巨大な地震と津波に耐え得ず、全電源を喪失、制御不能となり、メルトダウンを起こし、水素爆発の果てに壊滅した。
「原発事故で設定された福島県の避難指示区域の再編に伴い、少なくとも事故から6年、今後4年は帰還できない住民が、約5万4千人にのぼることが、各自治体などへの取材でわかった。
事故後に避難指示の対象となった約8万4千人の6割超にあたる。
帰還を見通せる区域の住民の中にも、戻らない選択をする人が出てきている」(2013年3月10日朝日新聞)
避難指示区域とは、原発から20キロ圏とその外側の警戒区域を、年間線量で分類したもの。
年間線量50ミリシーベルト超を「帰還困難区域」、
同20超~50ミリシーベルトを「居住制限区域」、
同20ミリシーベルト以下を「避難指示解除準備区域」と位置付けている。
(いまだ立ち入り禁止のままで、「区域見直し未了」の地域も存在する)
「避難指示区域」と呼ばれるまで、福島県のこの一帯はごく普通の町があり、村があり、生活があっただろう。
住民たちの一人一人には名前があり、家族がいて、仕事をし、或いは、犬や猫もいたかもしれない。
当たり前の生活がごく当たり前のように繰り返されていたのだ。
その穏やかな生活は突然、「避難指示解除準備区域」、「居住制限区域」、「帰還困難区域」という無機的な言葉で、ある日突然分断されてしまった。
これらの言葉が、<国家>から発せられた時、それはほとんど暴力と同義である。
地震、津波の被害から非難した人たちは、確認されているだけでも、31万5千196人(2013年2月7日復興庁)、
「自主避難」(これも変な言葉だ)している人たちを加えれば、その数は飛躍的に増えるだろう。
「環境省は8日、放射線量が高く、住民が避難している福島県の11市町村で、国直轄で行う除染の進捗状況を初めて公表した。
着手した4市町村でも、飯館村の宅地は2012年度計画分の1%にとどまるなど、大幅に遅れている。
来年3月の除染完了の目標達成は厳しい状況だ。
計画を見直す可能性もあり、除染の難しさが浮き彫りになった。
住民の早期帰還もずれ込む恐れもあり、生活再建や復興に大きな影響を与えそうだ。」(2013年3月9日朝日新聞)
ここでいう「除染」とは、放射能に汚染された土壌などを、単に他の場所に移動するだけの作業で、放射線量を低減、無害化するものではない。
この「除染」作業から排出される土壌などを集積する「中間貯蔵施設」を、「帰還困難区域」に建設する計画が進んでいる。
もし、その計画が実現した時には、「帰還困難区域」は「帰還絶望区域」とならざるを得ない。
これを、<国家>による棄民政策と呼ばずに、なんと呼ぶべきなのだろうか。
広島、長崎で現出した状況が、福島で再び繰り返されようとしているのだ。
広島、長崎の原爆の惨状を写真によって告発し続けているカメラマン、福島菊次郎の著作、「写らなかった戦後―ヒロシマの嘘」から引用してみる。
「多くの被爆者は、生きる道を求めて全国各地に散り、「原爆流人」と呼ばれ、被爆者であることを隠し続けて生きた。
被爆者とわかれば、就職差別や医療差別、結婚差別、生命保険の加入まで差別されたからである。
知らない土地で、孤立無援の生活を続け、1960年代には、東京都だけでも、1万人以上の被爆者が、病と貧しさの悪連鎖に苦しみながら、つらい就労条件の中で生きていた。」同書212頁)
「年に一度だけ、被爆者が脚光を浴びる8月6日が過ぎると、広島は、次の日から又、札束と利権が渦巻く「平和都市」という名の、砂上の楼閣を築いていった。
多くの被爆者は、年に一度、8月6日に、「平和の聖者」にされるだけで、次第に平和都市の片隅に追い詰められていった。
「ちちをかえせ / ははをかえせ / としよりをかえせ / こどもをかえせ / わたしをかえせ / わたしにつながる / にんげんをかえせ / にんげんの / にんげんのよのあるかぎり / くずれぬへいわを / へいわをかえせ」という痛烈な詩を峠三吉に詠ませたのも、原爆詩人・原民喜を自殺させたのも、
日本の戦後と広島の虚構が、感性の鋭い詩人を絶望に追い込んだからだと言われている。
彼の詩を刻んだ詩碑が、何者かに倒されて壊された事件が起きたこともあった。
<過ちは / 繰返しませぬから>と刻んだ慰霊碑の言葉には、主語がない、と批判する活動家や文化人も現れたが、
ヒロシマ自体が、主語を持たない虚構の平和都市だったのである」(同書206頁)
<国家>が強いてくる<棄民>という現実。
今、福島が直面している現実こそが、我々にとっての現実である。
国策として維持、遂行されてきた原子力発電事業。
原発の「安全神話」が崩壊したところから、大量の<原発難民>が発生した。
そして、さらに、<原発棄民>として、住み慣れた故郷に戻ることさえ拒否されているのだ。
この福島の現実と向き合うことなしになされる議論を、私は信用しない。
この現実と向き合うことなしになされる原発に関する議論は、一切無効だと私は考える。
2013年3月18日 赤松 桂
彼のことを知り、彼のブログ『風の布・パピヨン』の記事を遡って読ませてもらい、彼のひととなりと生き方にとても共感を覚えた。
いろんな記事を紹介したいと思たのやけど、その中から、先日の『さかみちをのぼって』の歌と、この俳句を書かれた赤松桂氏の記事を選ばせてもろた。
↓以下、転載はじめ
枯葎(かれむぐら)
2013年03月20日
このブログに再三、投稿してくれている旧友・赤松桂より、新しいメッセージが届きました。
彼の了解を得て、伝えます。
福島第一原発の冷却システムダウン。
危機的な状況続く夜に。
今年も又、3月11日が巡ってきました。
ちまたでは記憶の風化などど言われ始めていますが、問題はこれからなのだと思っております。
いつものように写真と俳句をお送りします。
今回は少し長いですが、文章も添付しました。
読んでいただければありがたいです。
桂
<国家>とは 難民棄民 原発忌
いのちには いのちのおもさ 枯葎(かれむぐら)
不吉なる 事件のやうに こほり割れ
広島、長崎、そして福島
今、福島で、戦後最大規模の<棄民>政策が進行している。
国策・民営という枠組みで計画、立案され、現実化した原子力発電事業。
東京電力福島第一原子力発電所は、巨大な地震と津波に耐え得ず、全電源を喪失、制御不能となり、メルトダウンを起こし、水素爆発の果てに壊滅した。
「原発事故で設定された福島県の避難指示区域の再編に伴い、少なくとも事故から6年、今後4年は帰還できない住民が、約5万4千人にのぼることが、各自治体などへの取材でわかった。
事故後に避難指示の対象となった約8万4千人の6割超にあたる。
帰還を見通せる区域の住民の中にも、戻らない選択をする人が出てきている」(2013年3月10日朝日新聞)
避難指示区域とは、原発から20キロ圏とその外側の警戒区域を、年間線量で分類したもの。
年間線量50ミリシーベルト超を「帰還困難区域」、
同20超~50ミリシーベルトを「居住制限区域」、
同20ミリシーベルト以下を「避難指示解除準備区域」と位置付けている。
(いまだ立ち入り禁止のままで、「区域見直し未了」の地域も存在する)
「避難指示区域」と呼ばれるまで、福島県のこの一帯はごく普通の町があり、村があり、生活があっただろう。
住民たちの一人一人には名前があり、家族がいて、仕事をし、或いは、犬や猫もいたかもしれない。
当たり前の生活がごく当たり前のように繰り返されていたのだ。
その穏やかな生活は突然、「避難指示解除準備区域」、「居住制限区域」、「帰還困難区域」という無機的な言葉で、ある日突然分断されてしまった。
これらの言葉が、<国家>から発せられた時、それはほとんど暴力と同義である。
地震、津波の被害から非難した人たちは、確認されているだけでも、31万5千196人(2013年2月7日復興庁)、
「自主避難」(これも変な言葉だ)している人たちを加えれば、その数は飛躍的に増えるだろう。
「環境省は8日、放射線量が高く、住民が避難している福島県の11市町村で、国直轄で行う除染の進捗状況を初めて公表した。
着手した4市町村でも、飯館村の宅地は2012年度計画分の1%にとどまるなど、大幅に遅れている。
来年3月の除染完了の目標達成は厳しい状況だ。
計画を見直す可能性もあり、除染の難しさが浮き彫りになった。
住民の早期帰還もずれ込む恐れもあり、生活再建や復興に大きな影響を与えそうだ。」(2013年3月9日朝日新聞)
ここでいう「除染」とは、放射能に汚染された土壌などを、単に他の場所に移動するだけの作業で、放射線量を低減、無害化するものではない。
この「除染」作業から排出される土壌などを集積する「中間貯蔵施設」を、「帰還困難区域」に建設する計画が進んでいる。
もし、その計画が実現した時には、「帰還困難区域」は「帰還絶望区域」とならざるを得ない。
これを、<国家>による棄民政策と呼ばずに、なんと呼ぶべきなのだろうか。
広島、長崎で現出した状況が、福島で再び繰り返されようとしているのだ。
広島、長崎の原爆の惨状を写真によって告発し続けているカメラマン、福島菊次郎の著作、「写らなかった戦後―ヒロシマの嘘」から引用してみる。
「多くの被爆者は、生きる道を求めて全国各地に散り、「原爆流人」と呼ばれ、被爆者であることを隠し続けて生きた。
被爆者とわかれば、就職差別や医療差別、結婚差別、生命保険の加入まで差別されたからである。
知らない土地で、孤立無援の生活を続け、1960年代には、東京都だけでも、1万人以上の被爆者が、病と貧しさの悪連鎖に苦しみながら、つらい就労条件の中で生きていた。」同書212頁)
「年に一度だけ、被爆者が脚光を浴びる8月6日が過ぎると、広島は、次の日から又、札束と利権が渦巻く「平和都市」という名の、砂上の楼閣を築いていった。
多くの被爆者は、年に一度、8月6日に、「平和の聖者」にされるだけで、次第に平和都市の片隅に追い詰められていった。
「ちちをかえせ / ははをかえせ / としよりをかえせ / こどもをかえせ / わたしをかえせ / わたしにつながる / にんげんをかえせ / にんげんの / にんげんのよのあるかぎり / くずれぬへいわを / へいわをかえせ」という痛烈な詩を峠三吉に詠ませたのも、原爆詩人・原民喜を自殺させたのも、
日本の戦後と広島の虚構が、感性の鋭い詩人を絶望に追い込んだからだと言われている。
彼の詩を刻んだ詩碑が、何者かに倒されて壊された事件が起きたこともあった。
<過ちは / 繰返しませぬから>と刻んだ慰霊碑の言葉には、主語がない、と批判する活動家や文化人も現れたが、
ヒロシマ自体が、主語を持たない虚構の平和都市だったのである」(同書206頁)
<国家>が強いてくる<棄民>という現実。
今、福島が直面している現実こそが、我々にとっての現実である。
国策として維持、遂行されてきた原子力発電事業。
原発の「安全神話」が崩壊したところから、大量の<原発難民>が発生した。
そして、さらに、<原発棄民>として、住み慣れた故郷に戻ることさえ拒否されているのだ。
この福島の現実と向き合うことなしになされる議論を、私は信用しない。
この現実と向き合うことなしになされる原発に関する議論は、一切無効だと私は考える。
2013年3月18日 赤松 桂