Peace Philosophy Centreからの、もうひとつのお話は、『かわいそうな象』という絵本についてです。
わたしはこの本を何回も読んで、そのたんびに泣いてた記憶があります。
なのでよけいに、この本当のことを知って、いやな気持ちになりました。
いやな気持ちというより、なんでこんなことをして子どもを騙さなあかんのか、
それをした当時の大人はきっと、自分らは正しいことをしてると思てたんやと思います。
それが怖い。ほんまに怖い。
そうやって、自分は正しい、ええことしてると思い込んでる、地位も金も権力もある人間が怖い。
日本は今、妙に、あの時期に似た様な方に向こてるような気がしてなりません。
物事を見て聞いて判断する際に、情緒や情念がまず一番おっきな位置を占めがちな傾向がある。
そこを狙て、やつらはつけこんできます。
自分らの思うように物事がすすむように。
悪さしてることがバレへんように。
もっともっと自分らの懐が潤うように。
もう騙されるのはやめましょう。
いつまでも、へ~とか言うてたらかっこ悪い。
見えてないこと、聞こえてないこと、伝えられてないことの中に、真実が隠されてます。
大勢の人が賛成してないことに、正しいことが隠されてます。
この、「かわいそうな象」のほんまの話を読んで、自分の考え方について考えてみてください。
↓以下、転載はじめ
アジア太平洋戦争 もう一つのいわれなき虐殺
「かわいそうな象」の事実関係は絵本に描かれているものと違った
今春、東京では、上野公園の桜を楽しんだ方も多かったのではないでしょうか。
その上野にちなみ、児童「平和」文学の金字塔とされており、英訳もされている絵本「かわいそうな象」の、背景にある事実関係を解き明かした、論考の紹介をしたいと思います。
ちょうど私は、沖縄戦開始時(米軍慶良間諸島上陸、1945年3月末)の被害者を追悼するために、沖縄に行ってきたところです。
米軍の捕虜になったら、男は八つ裂きにされる、女は乱暴され殺されると騙され、背いたら日本軍に殺されかねない状況の中、
愛する者や自らの命を絶たされた人たちの、無念の死を思うにつけ、
戦争とは、国と国との戦いというよりも、国家による敵、味方を問わない市民殺害の行為である、という確信を新たにして帰ってきました。
1943年半ばの東京、空襲も始まっていない時期に、「戦時」だというだけで、必然性もなく、避難も許されずに虐殺された動物たちのことを思うと、
これは、沖縄における、「強制集団死」をはじめとする、日本軍による住民虐殺のように、そして後に東京を本当に襲う、米軍による大虐殺事件「東京大空襲」のように、
無謀な戦争における、もう一つの、いわれなき虐殺事件と位置付けられるのではないか、と。
もうひとつのかわいそうなゾウの話
―戦時の猛獣処分をテーマにした、児童文学に潜む問題について―
小幡 詩子
親子連れで賑わう上野動物園は、1882年(明治15年)に、文明開化と共に生まれた、日本初の動物園。
3月20日は開園記念日で、今年133歳を迎えたが、その長い歴史の一時期、軍事と密接な関係があった。
寺内寿一元帥や東条英機、杉山元参謀総長の名前で、戦地から持ち帰った珍しい動物が、寄贈されていた。
また、戦時中、殺処分された動物たちの慰霊行事は、現在も続いている。
『かわいそうなぞう』は、児童文学作家の土家(つちや)由岐雄によって、太平洋戦争中の上野動物園で、象が殺処分を受けたという実話を元に描かれ、
1951年『愛の学校・二年生』(東洋書館)の中で発表された。
1970年に、金の星社より、「絵本」として出版されるや、大反響を呼び、1998年までに100万部、2005年時点で220万部を超えた。
紙芝居や副読本にも収録されるのみならず、小学年生向けの国語教科書にも採用され、1974年~1986年まで使用され、79年には英訳本も刊行された。
文字や絵を通じてのみならず、評論家の秋山は、ラジオ番組『秋山ちえ子の談話室』で、1970年~2002年の32年間、毎年終戦記念日に、戦争の悲惨さを伝えるために、この絵本を朗読した。
秋山氏によると、この放送が、子どもたちに、戦争はごめんだ!と思う心を育てる役割を果たしてくれる、と願って続けたようだ。
あらすじ
第二次世界大戦が激しくなり、東京市にある上野動物園では、空襲で檻が破壊された際の猛獣逃亡を視野に入れ、殺処分を決定する。
ライオンや熊が殺され、残すは、象のジョン、トンキー、ワンリー(花子)だけになる。
象に毒の入った餌を与えるが、象たちは吐き出してしまい、殺すことができない。
毒を注射しようにも、象の硬い皮膚に針も折れてしまう。
そこで、餌や水を与えるのを止め、餓死するのを待つことにする。
象たちは、餌をもらうために、必死に芸をしたりするが、ジョン、ワンリー、トンキーの順に餓死していく。
さて、三頭の死に、飼育員たちは泣き叫ぶわけだが、初出では、心の中で叫ぶのに対して、
絵本版では、死んだ象の上を、敵機が何機も飛んでいて、その敵機に向かって、「戦争をやめろ」と叫んでいる。
もうひとつのかわいそうなゾウの話
以上、絵本では、飼育員たちが「戦争をやめろ」と、東京上空を飛んでいる敵機に、こぶしを振り上げ叫んでいるが、
本当に、大空襲の最中での出来事であったのか?
関連資料を調べると、象たちが殺された1943年の夏、空襲は、まだ切迫してはいなかった。
確かに、42年に、B25爆撃機による空襲はあったが、まだ小規模な奇襲攻撃にしか過ぎなかった。
B29による東京大空襲は、1944年11月から始まるので、空襲で猛獣たちが逃げ出す心配などなかった。
猛獣ならともかく、なぜ、おとなしく芸をして、人気者の象まで殺されなければならなかったのか?
児童文学評論家の長谷川潮は、土家が、殺処分と空襲の時間的経過を明らかにせず、切迫していないのに殺処分は仕方がないと描き、
そもそも、猛獣処分命令の背後にある、真の意味を描き出すことをせず完結させた、と批判し、戦時猛獣処分をテーマにした、児童文学に潜む問題点を追及した。
そこで、長谷川潮の『戦争児童文学は真実をつたえてきたか』、野坂昭如の『干からびた象と象使いの話』、および小森厚の『もう一つの上野度物園史』に基づいて、
殺処分命令の背後に、一体何があったのか、時系列的にまとめてみる。
これは、仕方のなかった事件ではなく、戦争推進側の人間の勝手によって引き起こされた、
象にとっても、動物園の人々にとっても、戦況を知らされていなかった国民にとっても、悲劇である。
1943年、上野動物園園長の古河忠道は、陸軍獣医として応召しており、福田三郎が園長代理を務めていた。
8月16日、福田と古河は、東京都公園課長から、
「戦局が悪化したわけではないが、万一に備え、一ヶ月以内に、ゾウと猛獣類を射殺せよ」と命令を受けた。
しかし、射殺は住民に不安を与えるので、毒殺に変更された。
動物園関係者は、動物の一部でも救えないか、と他の動物園に相談した。
8月23日、仙台の動物園が、ゾウの『トンキー』とヒョウの赤ちゃんを受け取ることになり、田端駅貨物係との打ち合わせも済んだ。
ところが、これを聞いた、東京都長官(今の都知事、当時は任命された内務官僚)が激怒し、中止を命令。
9月1日に、猛獣処分はほぼ完了。
でも、ゾウはまだであった。
3頭は、鋭い嗅覚で、毒殺用の餌を嗅ぎ分け、食べなかった。
そこで、絶食による餓死の処置がとられた。
オスのジョンは、餌と水が絶たれ、17日後に死んだ。
でも、メスの2頭は、なかなか死に至らなかった。
芸をすれば餌がもらえると思い、飼育員の前で、覚えている限りの芸を必死に披露する、健気な姿を見て、さすがに飼育担当係は、内緒で餌を与えていたのだ。
それがばれて、飼料倉庫は施錠され、飼育係が倉庫に近づくことすら禁止されてしまった。
ゾウの殺処分が遅れ、戦時猛獣処分の事実が、公表前に世間に洩れることを恐れた都は、9月2日に、この『時局に鑑みての非常処置』を公表し、9月4日に、動物慰霊碑の前で、慰霊法要を行った。
慰霊碑に近い象舎の周囲に、鯨幕が張られ、中には、まだ生きている2頭のゾウが隠されていたのに……。
慰霊祭の7日後、絶食18日後にワンジーが死に、トンキーは9月23日、絶食30日後に死んだ。
さて、殺処分は、『軍からの命令』と語られているが、都ではまだ、戦争は緊迫していなかった。
米軍による大空襲は、この1年以上先、敗戦色濃厚になった1944年秋のこと。
では、誰がこれを命令したのか?
東京都長官に就任したばかりの、大達茂雄(戦後の文部大臣)である。
古河によると、
「都長官になる前、シンガポール市長であった大達は、内地に帰って、勝ち戦と思い、戦争の怖さも知らないでいる国民に自覚させるために、
動物園の動物を処分することで、警告を発したかった」とのこと。
さらに、
「ゾウなどの疎開も、断固許さなかったのは、東京が、戦争切迫に備え、全国に範を垂れるとしてやった」のである。
つまり、殺処分は、大空襲で猛獣が逃げ出し、住民が危険に晒されるのを避けるために、仕方がなかったことではなく、
国民に覚悟させ、戦争を継続させるための、いわば『精神論』として行われ、そのため、葬式を派手に演出する必要があった。
この様に、絵本では、大空襲が先で殺処分が後に続くが、実際は、順序が逆であった。
文学では、事実に基づく戦記物でも、虚構の導入は当然である。
だがこの場合、前後の関係が逆転することで、意味合いが全く異なってくる。
土家の絵本をはじめ、空襲が始まって、人間を守るために殺処分された、という視点から書かれた児童文学は、
その決定者たちを人道的に描写し、虐殺指示(加害)の責任を、不問に付す傾向にある。
虐殺の命令者は、戦争推進者で、戦争を始めた側だ。
虐殺命令に至る過程を明白にし、その責任を追求し、初めて、本当に戦争に抗議することではないか?
敵機に「戦争やめろ」と叫ぶのは、見当はずれではないか。
この絵本の他にも、純真な子どもたちの情緒に訴えようと、被害の視点から、戦争に反対する感動作はある。
特に、動物殺処分は、子どもたちの心を切に捉える。
しかし、前後の入れ替えによって、結果として、加害の責任がぼやかされ、被害(犠牲)の面が前面に出され、圧倒的情念に気圧されると、戦争の本質や真実は、捉えにくくなる。
情念自体は結構であるが、論理が議論を生み、熱狂がもたらす暴走を防ぐのに対して、
情念は、議論を封じ、論理の破綻を隠蔽することもあるのを忘れてはならない。
さらに問題なのは、戦後ずっと、本作品を代表的戦争児童文学として、平和教材のひとつとして祭り上げ、神話化してきたことだ。
長谷川は、戦争に至る構造を見抜く批判力が、我々(読み手)に必要である、としている。
だが、現政権肝入りの、教育再生実行会議を中心とする、【美しい日本の歴史】観の下で、構造的に見抜く力は育つのであろうか?
一層難しくなろう。
無垢な幼少期より、被害中心の、悲しいけれど健気で感動的な絵本やビデオに触れて、情操が教育されると、加害の視点が育ちにくくなる。
そんなマインドセットの児童たちが、小・中学校の歴史の授業において、自虐史観はいけないとばかり、加害性、残虐性、強制性等薄められた近現代史を教え込まれると、
加害意識はなくなり、その分、尊大な被害者意識が膨れ上がる危険性もある。
もし、被害妄想から他罰的になり、先制攻撃をすることにもなったら、いつか来た道を辿ることになる。
そうならないためにも、教科書のみならず、戦争児童文学の批判的読み直しが、焦眉の急であろう。
絵本は、教科書以上にやりにくいだろう。
たかが絵本、されど絵本なのだ。
小幡詩子:
地域ケアを考える【猫の手会】のソーシャルワーカー。
わたしはこの本を何回も読んで、そのたんびに泣いてた記憶があります。
なのでよけいに、この本当のことを知って、いやな気持ちになりました。
いやな気持ちというより、なんでこんなことをして子どもを騙さなあかんのか、
それをした当時の大人はきっと、自分らは正しいことをしてると思てたんやと思います。
それが怖い。ほんまに怖い。
そうやって、自分は正しい、ええことしてると思い込んでる、地位も金も権力もある人間が怖い。
日本は今、妙に、あの時期に似た様な方に向こてるような気がしてなりません。
物事を見て聞いて判断する際に、情緒や情念がまず一番おっきな位置を占めがちな傾向がある。
そこを狙て、やつらはつけこんできます。
自分らの思うように物事がすすむように。
悪さしてることがバレへんように。
もっともっと自分らの懐が潤うように。
もう騙されるのはやめましょう。
いつまでも、へ~とか言うてたらかっこ悪い。
見えてないこと、聞こえてないこと、伝えられてないことの中に、真実が隠されてます。
大勢の人が賛成してないことに、正しいことが隠されてます。
この、「かわいそうな象」のほんまの話を読んで、自分の考え方について考えてみてください。
↓以下、転載はじめ
アジア太平洋戦争 もう一つのいわれなき虐殺
「かわいそうな象」の事実関係は絵本に描かれているものと違った
今春、東京では、上野公園の桜を楽しんだ方も多かったのではないでしょうか。
その上野にちなみ、児童「平和」文学の金字塔とされており、英訳もされている絵本「かわいそうな象」の、背景にある事実関係を解き明かした、論考の紹介をしたいと思います。
ちょうど私は、沖縄戦開始時(米軍慶良間諸島上陸、1945年3月末)の被害者を追悼するために、沖縄に行ってきたところです。
米軍の捕虜になったら、男は八つ裂きにされる、女は乱暴され殺されると騙され、背いたら日本軍に殺されかねない状況の中、
愛する者や自らの命を絶たされた人たちの、無念の死を思うにつけ、
戦争とは、国と国との戦いというよりも、国家による敵、味方を問わない市民殺害の行為である、という確信を新たにして帰ってきました。
1943年半ばの東京、空襲も始まっていない時期に、「戦時」だというだけで、必然性もなく、避難も許されずに虐殺された動物たちのことを思うと、
これは、沖縄における、「強制集団死」をはじめとする、日本軍による住民虐殺のように、そして後に東京を本当に襲う、米軍による大虐殺事件「東京大空襲」のように、
無謀な戦争における、もう一つの、いわれなき虐殺事件と位置付けられるのではないか、と。
もうひとつのかわいそうなゾウの話
―戦時の猛獣処分をテーマにした、児童文学に潜む問題について―
小幡 詩子
親子連れで賑わう上野動物園は、1882年(明治15年)に、文明開化と共に生まれた、日本初の動物園。
3月20日は開園記念日で、今年133歳を迎えたが、その長い歴史の一時期、軍事と密接な関係があった。
寺内寿一元帥や東条英機、杉山元参謀総長の名前で、戦地から持ち帰った珍しい動物が、寄贈されていた。
また、戦時中、殺処分された動物たちの慰霊行事は、現在も続いている。
『かわいそうなぞう』は、児童文学作家の土家(つちや)由岐雄によって、太平洋戦争中の上野動物園で、象が殺処分を受けたという実話を元に描かれ、
1951年『愛の学校・二年生』(東洋書館)の中で発表された。
1970年に、金の星社より、「絵本」として出版されるや、大反響を呼び、1998年までに100万部、2005年時点で220万部を超えた。
紙芝居や副読本にも収録されるのみならず、小学年生向けの国語教科書にも採用され、1974年~1986年まで使用され、79年には英訳本も刊行された。
文字や絵を通じてのみならず、評論家の秋山は、ラジオ番組『秋山ちえ子の談話室』で、1970年~2002年の32年間、毎年終戦記念日に、戦争の悲惨さを伝えるために、この絵本を朗読した。
秋山氏によると、この放送が、子どもたちに、戦争はごめんだ!と思う心を育てる役割を果たしてくれる、と願って続けたようだ。
あらすじ
第二次世界大戦が激しくなり、東京市にある上野動物園では、空襲で檻が破壊された際の猛獣逃亡を視野に入れ、殺処分を決定する。
ライオンや熊が殺され、残すは、象のジョン、トンキー、ワンリー(花子)だけになる。
象に毒の入った餌を与えるが、象たちは吐き出してしまい、殺すことができない。
毒を注射しようにも、象の硬い皮膚に針も折れてしまう。
そこで、餌や水を与えるのを止め、餓死するのを待つことにする。
象たちは、餌をもらうために、必死に芸をしたりするが、ジョン、ワンリー、トンキーの順に餓死していく。
さて、三頭の死に、飼育員たちは泣き叫ぶわけだが、初出では、心の中で叫ぶのに対して、
絵本版では、死んだ象の上を、敵機が何機も飛んでいて、その敵機に向かって、「戦争をやめろ」と叫んでいる。
もうひとつのかわいそうなゾウの話
以上、絵本では、飼育員たちが「戦争をやめろ」と、東京上空を飛んでいる敵機に、こぶしを振り上げ叫んでいるが、
本当に、大空襲の最中での出来事であったのか?
関連資料を調べると、象たちが殺された1943年の夏、空襲は、まだ切迫してはいなかった。
確かに、42年に、B25爆撃機による空襲はあったが、まだ小規模な奇襲攻撃にしか過ぎなかった。
B29による東京大空襲は、1944年11月から始まるので、空襲で猛獣たちが逃げ出す心配などなかった。
猛獣ならともかく、なぜ、おとなしく芸をして、人気者の象まで殺されなければならなかったのか?
児童文学評論家の長谷川潮は、土家が、殺処分と空襲の時間的経過を明らかにせず、切迫していないのに殺処分は仕方がないと描き、
そもそも、猛獣処分命令の背後にある、真の意味を描き出すことをせず完結させた、と批判し、戦時猛獣処分をテーマにした、児童文学に潜む問題点を追及した。
そこで、長谷川潮の『戦争児童文学は真実をつたえてきたか』、野坂昭如の『干からびた象と象使いの話』、および小森厚の『もう一つの上野度物園史』に基づいて、
殺処分命令の背後に、一体何があったのか、時系列的にまとめてみる。
これは、仕方のなかった事件ではなく、戦争推進側の人間の勝手によって引き起こされた、
象にとっても、動物園の人々にとっても、戦況を知らされていなかった国民にとっても、悲劇である。
1943年、上野動物園園長の古河忠道は、陸軍獣医として応召しており、福田三郎が園長代理を務めていた。
8月16日、福田と古河は、東京都公園課長から、
「戦局が悪化したわけではないが、万一に備え、一ヶ月以内に、ゾウと猛獣類を射殺せよ」と命令を受けた。
しかし、射殺は住民に不安を与えるので、毒殺に変更された。
動物園関係者は、動物の一部でも救えないか、と他の動物園に相談した。
8月23日、仙台の動物園が、ゾウの『トンキー』とヒョウの赤ちゃんを受け取ることになり、田端駅貨物係との打ち合わせも済んだ。
ところが、これを聞いた、東京都長官(今の都知事、当時は任命された内務官僚)が激怒し、中止を命令。
9月1日に、猛獣処分はほぼ完了。
でも、ゾウはまだであった。
3頭は、鋭い嗅覚で、毒殺用の餌を嗅ぎ分け、食べなかった。
そこで、絶食による餓死の処置がとられた。
オスのジョンは、餌と水が絶たれ、17日後に死んだ。
でも、メスの2頭は、なかなか死に至らなかった。
芸をすれば餌がもらえると思い、飼育員の前で、覚えている限りの芸を必死に披露する、健気な姿を見て、さすがに飼育担当係は、内緒で餌を与えていたのだ。
それがばれて、飼料倉庫は施錠され、飼育係が倉庫に近づくことすら禁止されてしまった。
ゾウの殺処分が遅れ、戦時猛獣処分の事実が、公表前に世間に洩れることを恐れた都は、9月2日に、この『時局に鑑みての非常処置』を公表し、9月4日に、動物慰霊碑の前で、慰霊法要を行った。
慰霊碑に近い象舎の周囲に、鯨幕が張られ、中には、まだ生きている2頭のゾウが隠されていたのに……。
慰霊祭の7日後、絶食18日後にワンジーが死に、トンキーは9月23日、絶食30日後に死んだ。
さて、殺処分は、『軍からの命令』と語られているが、都ではまだ、戦争は緊迫していなかった。
米軍による大空襲は、この1年以上先、敗戦色濃厚になった1944年秋のこと。
では、誰がこれを命令したのか?
東京都長官に就任したばかりの、大達茂雄(戦後の文部大臣)である。
古河によると、
「都長官になる前、シンガポール市長であった大達は、内地に帰って、勝ち戦と思い、戦争の怖さも知らないでいる国民に自覚させるために、
動物園の動物を処分することで、警告を発したかった」とのこと。
さらに、
「ゾウなどの疎開も、断固許さなかったのは、東京が、戦争切迫に備え、全国に範を垂れるとしてやった」のである。
つまり、殺処分は、大空襲で猛獣が逃げ出し、住民が危険に晒されるのを避けるために、仕方がなかったことではなく、
国民に覚悟させ、戦争を継続させるための、いわば『精神論』として行われ、そのため、葬式を派手に演出する必要があった。
この様に、絵本では、大空襲が先で殺処分が後に続くが、実際は、順序が逆であった。
文学では、事実に基づく戦記物でも、虚構の導入は当然である。
だがこの場合、前後の関係が逆転することで、意味合いが全く異なってくる。
土家の絵本をはじめ、空襲が始まって、人間を守るために殺処分された、という視点から書かれた児童文学は、
その決定者たちを人道的に描写し、虐殺指示(加害)の責任を、不問に付す傾向にある。
虐殺の命令者は、戦争推進者で、戦争を始めた側だ。
虐殺命令に至る過程を明白にし、その責任を追求し、初めて、本当に戦争に抗議することではないか?
敵機に「戦争やめろ」と叫ぶのは、見当はずれではないか。
この絵本の他にも、純真な子どもたちの情緒に訴えようと、被害の視点から、戦争に反対する感動作はある。
特に、動物殺処分は、子どもたちの心を切に捉える。
しかし、前後の入れ替えによって、結果として、加害の責任がぼやかされ、被害(犠牲)の面が前面に出され、圧倒的情念に気圧されると、戦争の本質や真実は、捉えにくくなる。
情念自体は結構であるが、論理が議論を生み、熱狂がもたらす暴走を防ぐのに対して、
情念は、議論を封じ、論理の破綻を隠蔽することもあるのを忘れてはならない。
さらに問題なのは、戦後ずっと、本作品を代表的戦争児童文学として、平和教材のひとつとして祭り上げ、神話化してきたことだ。
長谷川は、戦争に至る構造を見抜く批判力が、我々(読み手)に必要である、としている。
だが、現政権肝入りの、教育再生実行会議を中心とする、【美しい日本の歴史】観の下で、構造的に見抜く力は育つのであろうか?
一層難しくなろう。
無垢な幼少期より、被害中心の、悲しいけれど健気で感動的な絵本やビデオに触れて、情操が教育されると、加害の視点が育ちにくくなる。
そんなマインドセットの児童たちが、小・中学校の歴史の授業において、自虐史観はいけないとばかり、加害性、残虐性、強制性等薄められた近現代史を教え込まれると、
加害意識はなくなり、その分、尊大な被害者意識が膨れ上がる危険性もある。
もし、被害妄想から他罰的になり、先制攻撃をすることにもなったら、いつか来た道を辿ることになる。
そうならないためにも、教科書のみならず、戦争児童文学の批判的読み直しが、焦眉の急であろう。
絵本は、教科書以上にやりにくいだろう。
たかが絵本、されど絵本なのだ。
小幡詩子:
地域ケアを考える【猫の手会】のソーシャルワーカー。