先々週は用事があった。
先週は、毒蜘蛛に刺されてアレルギーが出た。
そんなこんなで、ミリアムから、続けて2回キャンセルの連絡が入った気功瞑想。
2回ぐらい飛んだかて大丈夫や。そう思てたけど、やっぱり心の平安を保ちにくい。
わたしにはほんまに必要な時間やとつくづく思う。
今日は、外に出たとたん、ムッとした熱気が空気に溶けててびっくりした。
風も生暖かい。
ポンちゃんの、ケラケラ笑てた花びらの一片一片が、はらりはらりと風に乗って落ちてきた。
息子らが幼かった頃、三井寺の階段に降り積もった桜の花びらを、頭の上からかけ合っこした。楽しかったなあ……。
今日の道教の話は、待つことについて。
ミリアムは、これはひとつの例ね、と言うて、自分の経験談を話してくれた。
「わたしがとても若かった頃、姉とすごく仲良くしていた男性がいてね、彼は姉の仕事を手伝ったり、用事を一緒にしたり、ボーイフレンドというより、とても頼りになるパートナーみたいな感じの人だったの。
でも、時間が経つうちに、彼は妹ともいろいろと接することになり、妹とも親しくなった。
姉と妹の間を、ひょうひょうと、どっちもつかずで渡り歩いてる彼を見てると、とてもイライラしたし、最初に親しかったはずの姉が可哀相に思えたの。
姉の方は、はっきりとは態度に出さなかったけれども、彼のことを愛しているに違いないと、なぜかわたしがそう勝手に思って、
だから結局は、妹の方に行ってしまった彼を、わたしはとてもイヤな人間だと思い、それを両親や友人に話したのね。
そのことが耳に入った妹は激怒して、それ以降、わたしと妹の関係はとても悪くなってしまったの。
若かったから、その当時はわからなかった。
けれども今は、それなりに年を重ね、気功や道教を学んできて、ようやくあの時の自分のやったことは間違っていたと思えるようになったの。
わたしが◯◯に対してどう思うか、ということが、その時のわたしには一番重要なことだったのね。
でも、物事や人を、そんなふうに自分の物差で測っている間は、わたしの目も心も、ちゃんと見ることができない。
理解というのはそういう行為ではなくて、一歩身を引いて、見守りながら待つこと。
そうしていると、時が来れば自然に、理解という扉のカギを開けることができる。
で、ようやく、何十年もかかって、わたしは彼に謝りたい、という気持ちになった。
でも、ここからが一番大事なのね。
気がつきました。謝りたいです。だから謝ります。
それではだめなのね。
ここでわたしはまた、一所懸命考えないといけないし、待たないといけない。
彼は、わたしの謝罪を受け取る気になっているだろうか。
電話で済ませるには大き過ぎる問題だから、飛行機でイスラエルまで飛ばなくてはならない。
イスラエルに行くことと謝ることを、一緒に片付ける時間があるだろうか。
だからわたしはまた、待たなければならないのね。次の段階に進むために。
けれども待っているのはわたしだけではない。このことをわたしはしっかりと反省しなければならない。
待っているのは妹も同じ。
わたしの軽々しい怒りの言葉が、ふたりの人生に待つことを強いてしまった。
でもね、今まうみが言いたくてウズウズしてることは、わたしの話とはまた別。
待った方がいいことと、待っている場合ではないことがある。
例えば今、まうみがなんとか助けたいと思っている、汚染地に居残っている子どもたちのための運動がそう。
ただ、焦ってはだめ。
急ぐべきだけども、焦って言葉をすべらせたり、事を荒立てたりしてはいけない。
一息、大きく深呼吸して、目を閉じて、5分でも10分でもいいから待つ。そうやって待つことの名人になってほしい。
一日に一回でもいいから、目を閉じて、一切の思考を頭から追い出して、守りたい人、幸せになってほしい人のことを思い浮かべてみて。
そうして、その人たちが嬉しそうに笑っている顔や、ゆったりとくつろいでいる様子を強く強くイメージしてみて。
そうやって、毎日毎日、良いことを想像する。幸せを感じてそれを念じる。
その力は、まうみが今想像しているよりもずっとずっと、すごく強いの。
子どもたちの健康を、豊かな人生を、心の底から祈ってあげて。
先週は、毒蜘蛛に刺されてアレルギーが出た。
そんなこんなで、ミリアムから、続けて2回キャンセルの連絡が入った気功瞑想。
2回ぐらい飛んだかて大丈夫や。そう思てたけど、やっぱり心の平安を保ちにくい。
わたしにはほんまに必要な時間やとつくづく思う。
今日は、外に出たとたん、ムッとした熱気が空気に溶けててびっくりした。
風も生暖かい。
ポンちゃんの、ケラケラ笑てた花びらの一片一片が、はらりはらりと風に乗って落ちてきた。
息子らが幼かった頃、三井寺の階段に降り積もった桜の花びらを、頭の上からかけ合っこした。楽しかったなあ……。
今日の道教の話は、待つことについて。
ミリアムは、これはひとつの例ね、と言うて、自分の経験談を話してくれた。
「わたしがとても若かった頃、姉とすごく仲良くしていた男性がいてね、彼は姉の仕事を手伝ったり、用事を一緒にしたり、ボーイフレンドというより、とても頼りになるパートナーみたいな感じの人だったの。
でも、時間が経つうちに、彼は妹ともいろいろと接することになり、妹とも親しくなった。
姉と妹の間を、ひょうひょうと、どっちもつかずで渡り歩いてる彼を見てると、とてもイライラしたし、最初に親しかったはずの姉が可哀相に思えたの。
姉の方は、はっきりとは態度に出さなかったけれども、彼のことを愛しているに違いないと、なぜかわたしがそう勝手に思って、
だから結局は、妹の方に行ってしまった彼を、わたしはとてもイヤな人間だと思い、それを両親や友人に話したのね。
そのことが耳に入った妹は激怒して、それ以降、わたしと妹の関係はとても悪くなってしまったの。
若かったから、その当時はわからなかった。
けれども今は、それなりに年を重ね、気功や道教を学んできて、ようやくあの時の自分のやったことは間違っていたと思えるようになったの。
わたしが◯◯に対してどう思うか、ということが、その時のわたしには一番重要なことだったのね。
でも、物事や人を、そんなふうに自分の物差で測っている間は、わたしの目も心も、ちゃんと見ることができない。
理解というのはそういう行為ではなくて、一歩身を引いて、見守りながら待つこと。
そうしていると、時が来れば自然に、理解という扉のカギを開けることができる。
で、ようやく、何十年もかかって、わたしは彼に謝りたい、という気持ちになった。
でも、ここからが一番大事なのね。
気がつきました。謝りたいです。だから謝ります。
それではだめなのね。
ここでわたしはまた、一所懸命考えないといけないし、待たないといけない。
彼は、わたしの謝罪を受け取る気になっているだろうか。
電話で済ませるには大き過ぎる問題だから、飛行機でイスラエルまで飛ばなくてはならない。
イスラエルに行くことと謝ることを、一緒に片付ける時間があるだろうか。
だからわたしはまた、待たなければならないのね。次の段階に進むために。
けれども待っているのはわたしだけではない。このことをわたしはしっかりと反省しなければならない。
待っているのは妹も同じ。
わたしの軽々しい怒りの言葉が、ふたりの人生に待つことを強いてしまった。
でもね、今まうみが言いたくてウズウズしてることは、わたしの話とはまた別。
待った方がいいことと、待っている場合ではないことがある。
例えば今、まうみがなんとか助けたいと思っている、汚染地に居残っている子どもたちのための運動がそう。
ただ、焦ってはだめ。
急ぐべきだけども、焦って言葉をすべらせたり、事を荒立てたりしてはいけない。
一息、大きく深呼吸して、目を閉じて、5分でも10分でもいいから待つ。そうやって待つことの名人になってほしい。
一日に一回でもいいから、目を閉じて、一切の思考を頭から追い出して、守りたい人、幸せになってほしい人のことを思い浮かべてみて。
そうして、その人たちが嬉しそうに笑っている顔や、ゆったりとくつろいでいる様子を強く強くイメージしてみて。
そうやって、毎日毎日、良いことを想像する。幸せを感じてそれを念じる。
その力は、まうみが今想像しているよりもずっとずっと、すごく強いの。
子どもたちの健康を、豊かな人生を、心の底から祈ってあげて。