あなたはこの、『焼き場に立つ少年』の写真を見てもまだ、戦争はしょうがないと思いますか?
この記事を書いたのは、今年の5月のはじめ。
そしてその記事のもとになったこの写真は、前から知ってたけれども、写真の背景についてはなにも知らんままにいた。
報道写真家 ジョー・オダネル撮影 「焼き場に立つ少年」 (1945年長崎の爆心地にて)
ふたりの息子を育てた後で、再び会うたこの写真。
腹の底から湧き出てくる悲しみと怒りに突き動かされて、黙々と文字起こしした。
そのオダネル氏は、自分のカメラに収めた少年のことが忘れられんと、あらゆる手を尽くして探しはったらしい。
オダネル氏はとうとう、『焼き場に立つ少年』とは再会が叶わなんかったけど、この、背中一面の悲惨なヤケドを負った『被ばくした少年』谷口稜曄さんと会い、言葉を交わすことができた。
その谷口さんが、岩上氏のインタビューを受けはった。
その、とんでもない文字量を、きーこさんが文字おこししてくれてはった。
いつもながらに大大大感謝!
昨日の失敗がまだ少し尾をひいていて、当分文字おこしはやめようと思ったりしてるヘタレのわたしは、きーこさんの爪のあかでも飲まなあかん。
3回に分けて文字おこしされたものを、2回に分けて載せさせてもらう。
谷口さんは少々早口で、言葉尻がとても聞き取りにくい。
そやからこの文字おこしの作業は、とんでもなくしんどかったと思う。
けれども、谷口さんの言葉のひとつひとつが、それはそれは大切な証言であり、それをひとりでも多くの方々に伝えたいという彼の気持ちが、ひしひしと伝わってくる。
ありがとう谷口さん、ありがとう岩上さん、ありがとうきーこさん。
↓以下、転載はじめ
大変有名な被ばくした少年の写真・谷口稜曄さん
8/9 岩上安身氏インタビュー(文字起こし)
8月9日は長崎に原爆を撃ち込まれた日。
広島の原爆については、はだしのゲンはじめ、いろいろなところから、良く話を聞きますし、
このブログでも、
肥田舜太郎先生や、
橋爪文さんの
8月6日の原爆の日の事については文字起こしをしました。
けれど、私は、長崎については、あまり知らない・・・、と思っていました。
この「有名な」と、岩上さんがおっしゃられた、背中が真っ赤に焼けただれている少年の写真。
私も何度も見た事がありますが、これが、長崎原爆で被爆した少年だったということは、初めて知りました。
そして、その少年が、長崎原爆被災者協議会会長になっていらっしゃるという事も、初めて知りました。
岩上さんのインタビューは、とても貴重で、大事なものだと思います。
ちゃんとお話を聞いて心に刻みつけるため、文字起こしをしました。
「核と人類は共存できない。核には、きれいな核も、汚い核もない」
岩上安身による谷口稜曄(すみてる)長崎原爆被災者協議会会長インタビュー
2013/08/09
岩上:
みなさんこんにちは。
ジャーナリストの岩上安身です。
大変暑い夏の昼下がり。本日は私、長崎の方に伺っております。
この、大変有名な、被ばくした少年の写真があります。
背中が一面焼けただれてしまった。
長崎の原爆によって被爆したわけですけれども、この方が谷口稜曄さん。
そして、本日お伺いするのは、その谷口さんです。
谷口さん、よろしくお願いします。
谷口さんは、日本原水爆被害者団体協議会、約して被団協という、その代表委員という事なんでしょうか?
谷口:
はい、そうですね。
岩上:
長崎原爆被災者協議会、こちらの会長もお務めになっている。
今ちょっと、お名刺の裏側の写真を、みなさんにお見せしたんですけれども、
この背中の具合はどうなんですか?
大変やっぱり後遺症がきつい状態にある?
谷口:
完全に焼けてしまっている関係でですね、結局、皮膚呼吸ができない関係で、非常に、夏というのは苦しいんですね。
特に今年は暑くてね、もう、背中が沸騰するみたいで苦しいですね。
岩上:
申し訳ありません、そのコンディションの良くない時にですね、お時間を少し割いていただきました。
今年は、長崎に原爆が投下されて68回目。
本日は、その68回目の当日に当たります。
そして、午前中から、式典も行われました。
ご出席もなされたと思いますけれども、我々も中継を行っていたんですが、
改めてですね、一般的な事でもあるんですけれども、68回を迎えての思いというものを、一言いただけないでしょうか。
谷口:
それはやはり、犠牲になっては、そういう事が出来ないですけど、
あらためて、68年目の8月9日というものを思い、否が応でも、生まれたのが大事、という日なんですね。
その当時、私は16歳で、爆心地から約1.8kmのところを、自転車で郵便配達を配っていました。
岩上:
郵便配達の仕事をしていた。
あの、思いだすという事は、大変お辛い事と思いますが、当時の忘れられない事ですけれども、
その郵便配達の仕事をしている時に、どのように爆発に出会い、大けがを負われたのか、ちょっとひとこと。
谷口:
結局、爆心地から約1.8kmのところを走っていて、後ろから焼かれました。
それで、空襲警報が解除になってね、配達を開始したんですが、
その時に、かすかに飛行機の爆音がして、「おかしいな」と思って をした途端に、あっという間の出来事ですよね。
岩上:
あー、なにか飛行機の爆音が聞こえて、おかしいなと思った瞬間に、閃光が走ったと。
谷口:
そうです。
岩上:
え…、あっという間の出来事だったと。
谷口:
結局、よく言われる3000度、4000度と言われるね、石や鉄を溶かす熱線と、目には見えない放射線とで、後ろから焼かれて、
次に、秒速で200億300億と言われる爆風で、自転車もろとも飛ばされて、道路に叩きつけられました。
道路に伏せていた時にね、「これじゃ死んでしまう」という、死の恐怖を味わいましたけど、
「ここで死ぬもんか」「死んじゃならんぞ」と、自分を励まして生きてきたんです。
そして途中で へ入って見てみると、ずーっとあった家はほとんど焼けてしまって、溶けてしまって、焼けてしまって、
近くで遊んでいた子どもが、こっちへ飛ばされてしまっていた。
それでまた、大きな石がね、直径31ぐらいある石でしょうかね、私の方をめがけて飛んでくる、というのも見えました。
そこでね、「ここで死んじゃう」と、死の恐怖に襲われましたが、「ここで死ぬもんか」「死んじゃならん」と、自分を励ましてきた。
しばらくして、がおさまって起き上ってみると、
左の手は、腕から手の先まで、おもりを下げたように皮膚が垂れ下がり、
背中に手を当ててみると、左側はなんにもなく、焼けただれたように黒く が手に付きました。
それで、乗ってた自転車を見てみると、車体も車輪も、使い物にならない位に曲がってしまってた。
あの時 でやったのが だと思います。
一滴の血も無い、痛みも全く感じない それも皮の状態 そのなかで、放心の状態でとぼとぼ歩いて、あれからは何処にいけば 火事で焼けたりしていました。
岩上:
あの、痛みが全くない状態というのは、どういう事ですか?
谷口:
結局、なんていうんでしょうかね、よく鞭などでピシャッ!と叩かれる時にね、アイタッ!って言うだけでね、痛みをしばらく感じない、そんなものだよね。
しばらくしてから、痛みが出てくる。
ってしまえば 殆ど痛みってなかった。
岩上:
いつ頃、感じるようになったんですか?
谷口:
だから、結局なんていうのか、血は出ないし、痛みは感じないし、だから夢遊病者みたいにね、 の行き先は で焼いていったんだ。
岩上:
え、どこへ向かったんですか?
谷口:
その時、250ちかく離れた所にね、トンネル工場に避難しました。
途中で、先ほど言った、ここに飛ばされた子どもがね、一人の子どもは黒焦げになって死んでいて、ひとりの子どもは、何の傷もうけないで死んでしまった。
そういうのを見ながら、またまわりには、女性の人達は、男か女か分からない状態で それを見ながら、様子を見ながら、「どうしよう」という気も起らなかった。
で、トンネルまで行って、そこで、その中にいた女の人に頼んでね、腕に下がった皮膚が邪魔だから、それを取ってもらいました。
岩上:
手に下がって、皮膚が邪魔だからと、どんな状態で?
谷口:
結局、ここからダラーッと下がっている訳ね。
ここから剥げていて、ここに溜まって、ダラーッと下がっている。
岩上:
それは、背中の方からの皮膚?
谷口:
いや、左の手、
岩上:
左の手。
谷口:
左手。
背中はもう、焼けてしまっていますから、何もなかった。
これが、約1カ月後の写真です。
これが頭ですね、こっちがお尻の方です。
これが左手ですね。
ですから、これ、下は焼けていませんから、皮膚がありますけど、こう焼けたところは骨。
皮膚も何もなくて、骨ばかり。
ここに骨が見えてる。
下の方は、腐って溜まっていますけどね。
岩上:
なにが溜まっているんですか?
谷口:
腐って流れて溜まっている。
これ、真ん中に、黒いところがありますけど、ここは、15年経っても、この傷はふさがらなかった。
これは結局、芯の底まで焼けてしまって、石みたいのが出てくるんです。
岩上:
白くなっているのは、どういうことなんですか?
谷口:
これは薬なんです。
岩上:
あ、薬なんですか。
谷口:
ええ。
岩上:
これは、痩せてて、本当に、ご飯ものどを通らなかったんじゃないですか?
谷口:
そうですね、食べ物だって、今みたいにそんなに無いですからね。
こうやって、うつぶせに寝たっきりですから。
で、こいつは、これは半年位。
岩上:
あー、これは半年経って……。
谷口:
こっちは、アメリカのカメラマンの、ジョー・オダネルという人が写した。
こっちは約半年後で、アメリカの原爆、新爆弾調査の、ハーバード・スミスさんという人が写したもの。
これは なんかに記録されていますけれどもね、21年の1月31日に撮影。
こんな状態でですね、1年9ヶ月寝たきりですから、だから、骨が腐ってしまいました。
岩上:
骨が?
谷口:
骨が腐ってしまった。
岩上:
腐ってしまった。
谷口:
だから今でも、骨と骨の間からね、心臓が動いているのが、目で見る事が出来る。
岩上:
……。
谷口:
ピクピクッてね、動いている。
岩上:
心臓が見える。
谷口:
ええ、ピクピクッと動いているのが見えます。
岩上:
……いや……奇跡的ですね
谷口:
誰一人としてね、「生きる」っていう人はいなかったんです。
毎朝、看護婦さんが病室に出てきて、「今日も生きてる」「今日も生きてる」と、廊下でささやいてた。
このように被爆した関係で、トンネルへ入って、左手の皮膚を切り取ってもらって、
しばらくすると、そこへね、まだ攻撃されるかもわからないから避難所へ、と言われましたけど、
10分も過ぎてなかったかな、とにかく、自分の力で、立ち上がる事が出来なかった。
で 元気な人に背負われて、山の上の木の陰の、草の上に寝かされた。
そこで2晩過ごして、3日目の朝にやっと救出されて、なんか、2km離れている医者のところにおくられました。
ま、そこでも、しばらく治療は受けられなくてね、で、送られていって、それから3日ぐらい経ってから、
やっと傷から、血が少しずつ、じわじわと出てきました。
岩上:
それまで血が出なくて、火ぶくれのようになってたんですか?
谷口:
結局、全然血が出なかったね。
もうあの時に、完全に、血管からなにまで、全部侵されてしまったんでしょう。
だから、6日ぐらいしてから、やっと血が出始めて、それで、たまに、痛みがじわじわと襲ってくるけどね、
それは私にとって、まだ痛いというほどじゃなかったね。
それで、1ヶ月ぐらい全く血が ができなくて、9月になってから、やっと が出来るように多少はこう、
そこで 大丈夫だろうという事で に送られてきました。
そこで、一番初めにやったのが輸血ですが、輸血だって、血管に注射針をさせますが、入っていかない。
岩上:
注射が打てない。
谷口:
はい。
岩上:
輸血が出来ない。
谷口:
輸血でもね、入っていかない。
なんか、それで結局、内臓も全部、侵されてしまっていたんでしょうね。
岩上:
内臓が全部……。
谷口:
はい、心臓からなにから侵されてしまって、
岩上:
侵されてしまっていた。
谷口:
だから、そんな中で、あの時は、牛を殺して肝を持ってきてね、目の前に小さく切って、それを「生で食べなさい」と言われて、
「焼いたり炊いたりしたんじゃだめだ」っていうのね。
岩上:
焼いたり炊いたりしちゃダメだと、生じゃないと……。
谷口:
はい。
岩上:
どうしてですか?
谷口:
それは結局、血液がね、出来ないからでしょうね。
岩上:
たとえば、生のレバーみたいなものを食べると。そうすると、血を取りこめるという事ですか?
谷口:
そうでしょうね。
だけどその頃は、原爆症のことは、誰も知らないですからね。
なんか、そんな事をしてもよくならないし、ずっと日にちが経つにつれて、焼けたところが腐って、流れていくわけね。
岩上:
ああ……火ぶくれが大きくなって破れて、血が出て……腐っていくんですか?
谷口:
腐っていく。
そのやけどの写真のようにね、ただ横に溜まって、1日何回も、ぼろ切れでつまんで、背中を洗ったんです。
岩上:
痛かったですか?
谷口:
もう、痛いというんじゃなくて、苦しくて苦しくてね、もう痛みというのは、そんなに感じないわけですね。
もう、背部を鞭でピシャーっ!と叩かれてね、対外的に「痛い」っていうだけでね、しばらくは痛みを感じない。
また、そういうもんなんですね。
11月になって、今の の海軍病院ですね、いまは(高知病院?)になっていますけれども、そこに送られていきました。
それも、うつぶせのままでね、担架に乗せられて送られていって、
それからそうやってうつぶせになってて、さっきも言いましたようにね、とこも全部腐っていきますね。
ってね、 になってしまいます。
まあ、そうしていきますけど、背中がだんだん腐って流れていくばかりでね、
結局そこで、アメリカが持っていたペニシリンを使いましたけど、これだってほとんど効果が無い。
岩上:
アメリカが。
谷口:
ペニシリンでね。
岩上:
ペニシリン。ああ、効果が無かったですか。
谷口:
ペニシリンっていうのはね、化膿止めですからね。
全然良くならないし、結局、やっぱり、そこら辺で、原爆症だって分かったわけですよね。
岩上:
原爆症。
谷口:
これは、ある特殊な薬を使いましたけど、
その薬というのは、戦時中に、軍の命令で、プロジェクトチームが作って、軍の海上点検(?)されてと言われています。
ナサは研究投与で をいかなくして、全部 してしまったわけね。
岩上:
え?な、なにが?
谷口:
終戦になって、プロジェクトチーム全部が、解散してしまった。
岩上:
あ、プロジェクトチームが解散しちゃった。
谷口:
それを したものを の にもってした。
岩上:
なんていう薬なんですか?
谷口:
それは、
岩上:
日本軍が作った薬なんですね?
谷口:
いやいや、熊本医大でね、研究されて、と言われています。
それを使ってから、血液が非常によく立ち上がって、そして傷が、徐々に良くなっていった。
岩上:
うなんですか。
それは塗り薬なんですか、飲み薬なんですか?
谷口:
飲み薬。
岩上:
飲み薬なんですか。
谷口:
それから結局、4カ月してですね、4カ月経ってやっと、傷が良くなっていくと。
その時は、主治医が看護婦さんにいってね、控室の壁に掛けられている、大きな鏡を持ってこられて、
こうやって、よくなっている傷を見せてくれました。
たいがい、傷の端の方から薄いシワがあって、よくなっていました。
岩上:
あー、そうですか。
谷口:
そうやって、21年の10月頃にね、 行ってて、1年9カ月経って、22年の5月にね、やっと自分の力でベットから できました。
岩上:
寝たきりだったんですね。
谷口:
それまで全く動けなくてね、寝たきりで。
ある日突然、「起きれるんじゃないかな」と思って、自分で、ベットで、自分の身体をずっと動かして、それで立ちあがって して、
その立ち上がった時の痛みっていうのはね、これは誰も、そんなこと言っても信じないし、体験したことないんじゃないかと。
何故かというと、1年9カ月寝たきりですから、起き上がる時にね、頭から足に向かってね、血管の中を血液が流れていくのが分かる。
岩上:
頭から足へ流れていくのが、
谷口:
血液がずーっと、下へ流れていくのがわかる。
それがものすごく痛くてですね、ちょうど針を刺すような痛みでね。
岩上:
これ、背中を通る時が痛い、という事ですか?
谷口:
血液が。
普通はこう、寝たきりですから、普通は寝たきりで、 ないわけでしょ、
それが起き上がった時に、結局、血管の中を血液がずっと流れていくからね。
もうすごい、足だってどこにあるのか分からない状態にね、なりました。
岩上:
全身が痛いっていう事ですか?
谷口:
そうですね。
しばらくもう目を閉じてね、「エエイッ!」って我慢しなきゃいけなかった。
そうこうして を行っていって、3年7カ月経ったときにやっと、「退院しても良い」という許可が出ました。
普通だったら、「退院していい」と言われたら喜ぶんですが、私には喜ぶことができなかったね。
岩上:
喜べなかった、
谷口:
こんな体でね、社会に出て して、みんなと一緒に仕事ができるだろうか、自分に出来るだろうかと、
みんなはダメだと言わなかったけれども、情けなくて歯がゆくてね、
なんたって戦争が憎い、原爆が憎い。
世の中は、私にウソ言ってたと。
日本は絶対に負けないんだと。
お国のために、天皇陛下のために死ぬことは、名誉誉れと美化していってて、いわないでいて、
なぜ戦争に反対しないで でいって、 なんで たのかと、出てないと思った。
岩上:
天皇陛下のために死ぬのが日本人の誉れだ、というふうに言われてきたけれども、
ごめんなさい、ちょっと聞こえなかったんですけれども、
日本人がそのように生きてね、天皇陛下のために死ぬのが誉れだと言われてきたけれども、
谷口:
だからそのね がねウソだったんだと。
まずはそんなことはないというね、
だから世の中の親たちはね、 だったんだと。
まだ16歳ですからね、子どもの時に被爆しているわけですから。
もうその頃というのは、本当に軍国主義をね、叩きこまれることばかりですよ。
だから、それが正しいとみんなが思っている訳ですよ、ね。
岩上:
正しいと思って。
谷口:
今でも、小さい子どもたちにいろいろと親が言うとね、それは正しいと思う訳ですね。
それと同じですね、子どもの頃はそう思ってました。
いざ退院してみた時に、 そんなね、思いましたね。
20年の3月20日に が入ってきて、
岩上:
20年の3月20日、
谷口:
3月20日ね、24年ですね、24年の3月20日に が入ってきて、
岩上:
なにが入ってきたんですか?
谷口:
病院を退院して、長崎に帰って来た。
岩上:
ちょっと長崎から離れた病院だったんですね?
谷口:
大村ですから
岩上:
大村ですね。
谷口:
ま、その後ずっとですね、治療を続けていますけれど、退院して12日目に、元の職場にやっと復帰して、
岩上:
12日後には働きだしたんですか?
谷口:
はい。
岩上:
そうすると、もともと郵便配達の仕事。それに戻れた。
谷口:
その頃は結局、逓信省でね、郵便配達や電報やらが一緒だったけど、
23年に省が分割になってね、私は電通省に配属されて、そして今度は、郵便配達じゃなくて電報配達のね、
岩上:
電報配達…動けたんですか?
谷口:
結局それも、動かなきゃいけないと思ってね。
自転車に乗って、走りまわっていました。
岩上:
背中から血が出るとか、その、火ぶくれのようになっていてね、またこすれて、破れてというような、そんな事はなかったんですか?
もう、大丈夫、ふさがっていたんですか?
谷口:
結局、その後ずっと、次から次へね、あの…よくなくて、これまで14回入院してね、24回手術をしてます。
岩上:
24回も手術を
谷口:
24箇所
岩上:
24箇所。
谷口:
被害で言うと、皮膚を移植しなきゃ。
皮膚を移植しても、移植した皮膚はね、全くやられたところもダメになってしまうと。
これだってそう。
これだって全部ここ、これだけずーっと全部剥ぎ取ってしまって、ここが伸びない訳ね。
初めは寝たままで、 をしてるから、だから関節が変形していますよね。
だから、ここを延ばすために一応手術しましたけど、こっちは剥げてしまって、初めはこのくらいしか伸びなかった。
ずーっと今はこう、110度まで伸びます。
そしてここに皮膚ね、太ももからこんなに大きな皮膚を取ってきて、貼った。
その時は綺麗に、綺麗に貼ったけど、貼ったあとはこないしてね、貼ったけど後でこないになってしまう。
岩上:
初めは綺麗だったけど、変わっていっちゃうんですか?
谷口:
結局こんなにね、ケロイドになってしまう。
背中だってそうだね。
背中も始め、綺麗なのを持ってきて貼ったけど、全部、焼けたところは同じになっちゃうね。
岩上:
同じになっちゃう。変化してしまうんですか?
谷口:
そうだね。
だからそんな状態で、また悪いところは悪くなっていくし。
岩上:
ご家族は無事だったんですか?
谷口:
家族は、私の家はずっと、爆心地から約2.7km~8kmありましてね、
ある程度家の方は大丈夫でしたね。壊れていはいますけれどね。
って、家族というのは非常に からね、複雑なところですから、そこに、私とお姉さんとおじいさんとおばあさんとね、
まあそこで、まずお姉さんが子どもをかばってね、いったけど、その子どもは、全然怪我も何にもしていなかったけど。
なんか、1ヶ月ぐらいが過ぎてから、甲状腺がいかれてね、2回手術したと聞いていますね。
その頃は2歳ですかね。2歳ぐらいね、女の子ね。
まあその、早くここ(甲状腺)に出たからいいんだと思いますね。
その後は全くね、今は異常が無い状況で、いま生活しています。
岩上:
今もお元気で。
谷口:
はい。
岩上:
ああ、よかったです。
一部の人の欲のためにね、戦わされてきたんだ
26;05
岩上:
あの、ものすごい御苦労をなさって、そして戦争、これは正しい戦争をやっているんだ。
そして、天皇陛下のために死ぬんだという思いで、そういう教育を受けて、そして、自分が原爆の直撃を受けてですね、
何年間か寝たきりで、社会に復帰して、そしたら社会ががらっと変わっていて、受け入れるのも大変だったと思うんですけれども、
世の中の価値観ががらっと変わっている時に、なんとか動いて働きだすのも苦しかったと思いますが、
そういう社会の変わりようと言いますかね、信じていたものが、全然違う事になっていた時の驚きとかは、どんなものだったんですか?
谷口:
そうね、
よく、いろんな人たちがね、「
日本のために働いてくれた」と、これは今でも言いますけど、
「
誰が日本のために働いたのか?」という事ですよね。
本当に日本のために働いていたならね、こんなに国民は苦しまなくていいんじゃないかとね。
まさに戦後直後あたりはね、戦後直後、その頃になると食べ物はないしね、住むところも無いし。
そのなかでもね、言われますよね、「国のために働いた」って。
誰が「国のために」と言いだしたのか?っていうね。
今でもですね、「国のために亡くなった人たちをね、祭っているんだ」と、こう言っているけど、
岩上:
靖国神社ですね。
谷口:
ええ。
それだって、本当に国のためであったのならばね、日本国民がね、苦しまなくていい状態になっているわけですけれども、それが全くなっていないと。
だから、それが「国のため国のため」と言いながらね、それは確かに、戦争に駆り出された人達はね、亡くなっているわけ。
その人達は けど、それ以外のね、
戦争に行かなかった人たちもね、ものすごく沢山の人達が殺されていった。
それは国のためにね、戦争をした、その「国のために」と一緒ですから。
だから、その事について全くね、知らないと目をつぶったような状況でね。
岩上:
今日でも目をつぶっているとお感じになりますか?
谷口:
そうですね。
岩上:
お感じになります。
「
国のため」
と言っても「
国民のためじゃなかった」という事ですか?
谷口:
そうですね。
一部の人のためのね、一部の人の欲のためにね、戦わされてきたんだということでね。
そういうふうにね、考えられていますね。
核と人類は共存できない
岩上:
あの、核廃絶を求める運動を、それからずっとやってこられました。
広島・長崎と原爆投下、この災禍を繰り返すまいと思って、運動をされてこられたんだと思うんですけれども、
同時に、その「平和利用」という言葉がですね、1960年代から始まって、それからずっと容認してきた原発がですね、大変大きな事故を起こした。
今ですね、「原発を止めよう」という声が上がっているんですが、推進派の人は、止めるどころかですね、これを輸出して再稼働して、
あろうことに今、猛烈な勢いで、軍国化を進めて、そして、
「原発を持ち続けるには原爆をつくるためだ」と、
「核保有するために必要なんだ」という事を、公言する政治家まで出てきましたよね。
石原さんみたいな、ハッキリと、そういう事を言う人が出てきています。
原発の事故、それからこれまでの運動の事、それから今後、急性向かいでですね、日本が軍国化しつつある事。
ちょっと沢山の質問になって申し訳ないんですけれど、今、どのようにご覧になっていますか?
谷口:
結局私たちはね、「
核と人類は共存できないんだ」と。
核兵器は“核”という事でね、綺麗な核もね、汚い核も無い。
人類は共存できないんだ、という事でね、そのことを。
そんな中で、原子力発電所の研修についても、昔はですね、初めごろは、原子力発電所はどこにつくっているんだ?と。
海の近くにつくって、海からきれいな水を引いてきて冷やして、そして海へ温かい水を流すんだと。
それがどんどんどんどん、その層がね、深くなって広がっていって。
だからそれがね、
地球温暖化に繋がっているんだということでね。
しかし
今はその事については、全く誰も言わなくなったのね。
その中で、今回の福島のね事故だって、ああやって結局 のと、自然のものじゃなくて、人がつくって人が壊したものであるんじゃないかと。
そんな中でも、今でもね、
収束していないどころか、放射能が漏れて、どんどん進んでいるというね、
これについて、結局私はね、広島・長崎の被ばく者、放射能を浴びた被ばく者と、
それから、
今原発から出ている放射能が、全く同じものであるという事でね。
だからこうやって、私ら被ばく者は、
原発をなくさなきゃいけないと言うと同時に、核兵器も無くさなければいけないと言ってきたわけです。
岩上:
ずっと、そうしますと、谷口さんとしては、皆さんとしてはですね、
原発はですね、核の平和利用だからいいんだ、という言い分には与しない(くみしない)と、あるいは、危険だというふうに、お考えになってきているんですか?
谷口:
そうですね。あれは絶対にね、あってはいけないものでね。
岩上:
原爆はもちろん原発も。
谷口:
ええ。
岩上:
あってはならない。
長崎は完全に実験だった
谷口:
はい。
何故かというと、
今、世界にある核兵器というのは全部、長崎型の原爆でしょ。
そこを遡ってみますとね、アメリカの人達はみんな言っているんだけど、
「戦争を早く終わらせるために正しかった」
それだったら、広島と同じ爆弾だけでよかったじゃないかってね。
それなのに、長崎に違う原爆をね、プルトニウム爆弾を使って、
これは、長崎は完全に実験だったんだと。
それが成功した。
そうやって結局、ずっとアメリカ政府はね、被ばく者の実態を調査して、そして、どんどん核兵器をつくっていった。
長崎の原爆が、そういうふうに成功したために、コロンビアのほとりに、原子力発電所をずっと増設して、
で、そこでプルトニウムをたいて、そして出てきたウラニウムをね、燃やしてプルトニウムを取り出して、そして、核兵器をどんどん作ってきたわけだ。
だから、そないしてやってきてね、それは結局、今だったら、5カ国がね、協定を結んでいるけど、
それ以外に、そこにかかっていない国がどんどん増えてきて、
そのなかで、
被ばく国の日本政府だって、インドとか、パキスタンとかに、原子力発電所を建設をやると。
原子力をやるって、「何を言ってるんだ」っていう事ですよね。
だから、今日も安倍総理がいましたけれど、そのことについて、
田上市長も平和宣言の中で言ったように、
結局、
原発の「政府がやっていることは絶対に許せない」という事を言ったけどね、
岩上:
「政府がやっていることは許せない」と、安倍総理に対して、長崎の被ばく者の方がおっしゃった。
谷口:
結局平和宣言として、田上長崎市長が、今日読みあげたけど、
岩上:
あ、平和宣言の中でね。
谷口:
その中でね、その事に触れています。
原子力発電の問題に触れています。
岩上:
あ、そうですか。
広島と長崎、よく簡単にね、遠くからみている人にとっては、同じように捉えられるんですけど、
やっぱり1発目と2発目では意味が違う。
それと、2発目はプルトニウム型だった。実験だったと。
それから、移行の運動が、そういう事によって、やっぱり影響を受けているんでしょうか?
広島の市長がですね、今回、実際そうは言いませんでしたが、「原発と原爆は違うんだ」と。
原爆はひどいんだけど、原発に関してはですね、容認するような発言をすると言う話が、産経新聞とかに書いてありました。
実際、そんな言い方ではなかったようですけれど、
広島と長崎とでは、今日も運動している方も、一般の市民も行政も政治家も、温度差があるんでしょうか?
谷口:
それはやっぱり、長く生きているとね、ありますよね。
岩上:
ありますか。
谷口:
まぁ、人間的なものもあるかもわかりませんけれど、 がちがうのがあります
だから、広島の場合はね、先ほど言った核兵器廃絶という事については、真剣に捉えていますけど、
原子力発電所の問題についてはね、まったふれていなかったというかね。
岩上:
これまでもね、うん。
それじゃ、長崎の方が、より徹底して、原発も原爆もダメだ、と言うような事を言う方が多かったり、そういう話し合いをしても、そういう見解が多いと。
谷口:
そうですね。
だから、市長の宣言も、そういう宣言を作るのも、全部が集まって、その中で検討して出来上がっていく訳。
岩上:
あ、そうですね。
これは、広島は市長が書くけれども、長崎では委員会を作って、市民のみんながかかわって、話し合って作ると聞きました。
谷口:
そうですね。
そのなかにも、時間的なね、いろいろと事がありましてね、長くは出来ない部分もありますけれどね。
岩上:
だからそこで、市民の声が寄せられる過程で、やっぱり311の福島の原発事故は、
これはやっぱり、相当深刻に受け止めて、「原発はダメだ」という事に思いを込めようというのが、
長崎のそういう人たちの総意、と言ったら言い過ぎかもしれませんが、思いは大方の思いになっていますか?
谷口:
そうですね、はい。そういうことです。
文字数制限のため、次の記事に続きます。