各務周海(かがみ しゅうかい)氏は、現代美濃の陶芸界にあって、人気、実力とも第一級の
黄瀬戸作家であり、桃山陶器の華とされる黄瀬戸を、現代に再現した美濃の陶芸作家です。
各務周海 (かがみしゅうかい):1941年(昭和16)~2009年5月(交通事故で死亡)。享年67歳
1) 経歴
1941年岐阜県恵那市に生まれます。父は美濃の陶芸家の各務賢周氏です。
1963年 駒沢大学仏教学部を卒業します。
1966年 岐阜県陶磁試験場研究生課程修了し、更に68年まで幸兵衛窯で修業し、
五代加藤幸兵衛氏に師事します。
1969年、岐阜県恵那市長島町永田に、半地下式窖窯の恵那窯を起こし独立します。
1979年 恵那地方産出の原料の研究で、岐阜県知事より卓越技能賞受賞します。
2010年4月27日〜5月9日、京都東山の「野村美術館」で回顧展が開かれました。
東京・日本橋三越、東京しぶや黒田陶苑などで、個展を多数開催しています。
・ 周海氏は、無所属であり、権威有る賞の受賞歴もない、無冠の陶芸を貫き、数々の黄瀬戸の
名品を作り続けています。
2) 黄瀬戸について
① 「油揚手(あぶらあげで)」、「胆班抜け(タンパンぬけ)」、「焦げ」の三拍子揃った黄瀬戸の
再現は、「陶工泣かせ」と言われる程難しく、昔から多くの名工達がその再現に挑んでいます。
加藤唐九郎氏(1897~1985)年や岡部嶺男(1919年~)、北大路魯山人(1883~1959年)ら
多くの陶芸家が挑みながら、特に油揚手と呼ばれる黄瀬戸は、納得のいく作品は少なかった
様です。
② 黄瀬戸は、中国宋代の「青磁」をまねた灰釉で焼いていますが、「青磁」が還元焼成なのに対し、
瀬戸の灰釉は酸化気味だった為に、薄淡黄色の透明性の強い釉となっています。
室町末期に技術が美濃に伝わり、「黄瀬戸」の起源となります。
③ 黄瀬戸には「ぐい呑手」と、その後に茶陶として焼かれた「油揚手」又は「アヤメ手」、さらに
登窯で大量に焼かれた「菊皿手」の三種類に分類されますが、これらは昭和8年に加藤唐九郎
著『黄瀬戸』が出版されて以来、唐九郎の分類が定着したと言われています。
・ 利休好みの「ぐい呑手」: 当時六角の「ぐい呑」に多く見られた釉で、黄瀬戸釉が溶けて、
ツルッとしていた事から付けられた名前です。 肉厚の素地で、火前に置き強火を当て、
いわゆるビードロ釉となった状態で、釉が厚い処は海鼠(ナマコ)釉状に現れた物が多く、
これにはタンパン(胆礬)はみられません。
利休所持の立鼓花入、建水(銘大脇指)や旅枕掛花入(銘花宴)などは古淡を好んでいます。
・ 織部好みの「油揚手」:柔らか味のある、しっとりとした黄色で光沢の鈍い釉肌に、タンパンの
銅緑色と鉄褐色の斑点が発色していて、高台内には焼成時の台に焦げ目が残っています。
・ 「アヤメ手」: 井上家旧蔵のアヤメ文の輪花鉦鉢(どらはち)は、薄手で光沢の鈍い釉調と
刻文のアヤメ紋様にタンパンがある処から、「アヤメ手」といっていますが、他に蕪、露草、梅、
菜の花、花唐草などの文様があります。
3) 各務周海氏の陶芸
以下次回に続きます。