奈良の山中で40年余り、師も持たず、賞や栄誉にも囚われず、土と格闘し40年で200トンの土を
焼いている陶芸家に、辻村史朗氏がいます。
1) 辻村 史朗(つじむら しろう): 1947年(昭和 22)~
① 経歴
1947年 奈良県御所市に、牧畜を家業とする家の4男として生まれるます。
1965年 東京駒場の日本民藝館で、偶然大井戸茶碗に遭遇し、大きな感銘をうけます。
この事が、今後陶芸に進む切っ掛けになります。
1966年 19~21歳の三年間、奈良の禅寺三松寺(曹洞宗)に住み込み、修行を行っています。
1968年 実家に帰り家業を手伝いながら、独立する為の資金作りに励みます。
1969年 リヤカーの車輪を利用した轆轤を自作し轆轤による作陶を始めます。同年結婚します。
1970年 奈良県奈良市水間の山中に土地を求め、民家の古材や廃材を使って自らバラックの様な
家を建て同時に、自宅近傍に薪窯を築きます。 井戸も自力で掘ったそうです。
小さな窖窯で焼いた、ぐい呑みや茶碗などを、京都の有名観光地の道端で売って、生計を
立てていたそうです。
1977年 30歳の時、今までの修行の成果を披露する為、奈良水間の自宅で、初めての個展 を
開催し、大成功を納めます。奈良の山奥に面白い陶芸家がいると言う事で、山奥にもかかわらず
多くの人が見に来たそうです。
1978年 前年の個展の反響に気を強く持ち、大阪三越にて個展を開催し、古美術商の近藤金吾氏
の眼に止まります。 翌年にも同じ場所で、個展を開催します。
その後も、東京日本橋三越、松坂屋本店(名古屋)、丸栄(名古屋)、有楽町阪急(東京)、
阪急梅田本店(大阪)、その他、たち吉本店(京都)、岩田屋(福岡)各地の画廊で個展を、
多数開催ています。
1981年 兵庫県加西市にある北条羅漢を見て感銘を受けます。以後羅漢が主要なテーマの一つ
となり、絵付けや釘彫りで、作品の表面に施す様になります。
1982年 京都の近藤金吾氏の店に作品を持参した際、荒川豊蔵氏(人間国宝)を紹介され、
作品を絶賛されます。
1993年 海外でも人気を博し、ドイツ・フランクフルト・ジャパンアートにて個展を開催。
英国・ウエスト・デュポンにて築窯、作陶を行っています。
1994年 ロンドン・ギャラリー・ベッソンにて個展を開催 。
1999年 裏千家茶道資料館にて「辻村史朗 壷と茶碗展」を開催します。
米国のメトロポリタンやボストン、ブルックリンなど、名だたる美術館に作品が所蔵されています。
② 辻村 史朗氏の陶芸
) 師を持たず、まったくの独学との事です。更にいかなる美術団体にも所属していない様です。
) 彼の展示会で見られる作品は、ほとんどが信楽や、伊賀焼きの焼き締めの作品が多い
です。しかし、抹茶々碗等には、唐津、志野、引出黒茶碗などもあります。
修行時代には、日本の各地の焼き物以外に、中国や朝鮮の陶器や磁器までも制作して
います。この多彩な経験が後々大きな収穫として。現れる様になります。
) 一回の個展で約150点の作品を出品するそうですが、その為には、数トンの土を使って
制作、焼成するとの事で、自宅周辺には多くの作品が、放置されています。
又、「自然に放置した作品は、熟成され更によくなる」と述べています。
熟成されていく事を、「きれいさび」と呼んでいます。
屋外に放置する事により、雨風に打たれ長い間には、釉も風化されて古色を帯びてきます。
更に、貫入(小さな釉のヒビ)に土やコケが入り込み、汚れた様な雰囲気が醸し出されます。
これらの現象は、見る人によっては、好ましい作品に熟成された物となります。
) 窯は7窯(薪、灯油、ガス、電気)所有し、作品に応じて使い分けています。
壷ならば、1250~1350℃で焼成し、土の塊の様な花入では1400℃を超える高温で焼いて
います。
) 弟子は採らない主義で、陶芸家に成った二人の息子さん(辻村唯、辻村塊氏)も、師匠らしい
事は何もしなかったとの事です。 但し、例外として元総理大臣の細川護煕氏がいます。
a) 美術雑誌で辻村氏の作品を見て、辻村氏の作品に惚れ込み、弟子入りを要請しますが
断れ続けた末、直接奈良の辻村氏宅まで出掛け、口説き落として、弟子入りに成功し、
辻村氏の横で轆轤の修行に入ります。
b) 月に1~2回、1回数日間から数週間、別棟に寝泊りして陶芸の修行を行います。
c) 一年半に及ぶ修行の末、「もうその辺でいいだろう」の言葉でを貰い、師から独立します。
③ 辻村史朗氏の作品。
以下次回に続きます。