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山田詠美『珠玉の短編』その8

2017-11-05 07:16:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 母とはしばらく顔を合わせていませんでした。今回も、しばし放浪の旅に出ると言い残して、高足ガニを食べに西伊豆に行ってしまったのでした。「珠美さんのお母さんなのに悪いけど、あの人がいなくなると、この家の湿度がいっきに下がって、快適ですね」盛生が、ほっとしたように言うのを聞いて、途端に気を良くしてしまう珠美です。彼こそが「むしやしない」の長と抜擢するのに相応しいのだわ、と珠美は胸を熱くしました。それなのに、いったい、何が起きたのでしょう。ある日、外出から戻って、浴室掃除をすべくドアを開けたところ、そこには、放浪の旅をしている筈の母と、そんな母など眼中にない筈の盛生が、仲良く湯舟につかっていたのでした。「珠美さんの軽みの魅力が何故、後を引くかと言ったら、それは、お母さんの存在が隠し味となっていたんですよ。あっさりとしているのに濃厚な風味……ああ!」「何、言ってんの?『むしやしない』の分際で」「おれが、あんたの『むしやしない』なら、あんただって、おれの『むしやしない』だったんだ!」怒号の応酬です。その様子をしばらくながめていた母でしたが、とうとうげんなりしたらしく、止め止め、と言いながら手を叩きました。「二人共、たまには、おなかがくちくなるまで、ちゃんと食べなきゃ」珠美は目眩を覚えながら、改めて自分に問い直してみます。ええっと、どっちだっけ? 虫が養うの? それとも養われるの?
『鍵と鍵穴』
 時は昭和。愛の崇高さを信じていた頃のこと。そのためなら命を賭するものも厭わない若者たちが、少なからず存在したのです。このおはなしは、そんな一途な男たちの内のひとり、坂元守、愛称マモちゃん、の恋の行方について。それは、初恋でした。高校に入学してまもなく守を襲ったその感情が、世の中で恋と呼ばれるものだというのが、彼にはすぐさま解りました。生まれてからずっと、家族の間では、マモちゃんと呼ばれて来ました。自分でも自身をそう呼びました。甘やかされている、とは思いませんでした。常に温かい家族に囲まれている恵まれた自分を意識して、感謝の気持でいっぱいになる謙虚な守なのでした。幼い頃から慈愛に満ちた家で育って来た守にとって、外の世界は脅威でした。殺伐とした気持ち、すさんだ有様。高校に入学してからしばらくは穏やかな日が続いていました。偏差値の高い学校であったので、守と同じ中学を卒業した者は、さほど多くなく、彼は新鮮な気持であたりを見渡していました。そんなある日のことです。守は、ホームルームの時間に、うっかり失策を犯してしまいました。それは、彼の世界を一変してしまったのです。議題は、これからの家族のあり方についてという抽象的なものでした。誰もが積極的に発言しようとはせず、指名された者が曖昧に雑感を述べるだけにとどまっていました。聞きながら、守は、終始苛々してきました。家族に対して、こんなにもつまらない考察しか持てないなんて、と思ったのです。早く自分の家族を誇りたい、と切望して、教師を執拗に目で追い回しました。守のまとわり付く視線にとうとう観念したのか、教師は「坂元」と名を呼びました。守は話し始めました。自分を慈しんでくれる理想の家族の有様を。それは、独壇場でした。教師は言いました。坂元、そこまで自分の家族を理想化するのは、かえって不健全なんじゃないのか? その言葉に、守は、かっとなりました。「……でも、マモちゃんちはねえ……」おっと、失言。程度の軽い失策のつもりで、守は口に手を当てました。しばしの間、沈黙が支配しました。その後、教室は爆笑の渦と化したのでした。「いい加減に止めなさいよ。私だって、家族の前では、今でも自分のこと、京ちゃんって呼ぶんだから!」クラス委員の波野京子でした。それが、彼に初恋が訪れた瞬間でした。蜜月は始まりました。学校では目立つことを良しとしないと思われる京子の意思を尊重して、守は、きわめて控え目に彼女と接触していました。離れた席であっても、二人は一日に何度となく目を合わせて、互いの想いを確認し合うのでした。守と一緒に校門を出て、冷やかされるような事態を招いて、守に迷惑をかけたくないのでしょう。京子は、いつも女友達数人と連れ立って学校を後にします。京子の周囲をがっちり固めているように見える嫉妬集団の女子たちですが、電車に乗り、ひと駅ごとに数は減って行きます。二人きりになると、彼は、愛しい人めがけて走って行くのです。もう何度、肩を寄せ合って歩いたことでしょう。怪しい訪問者が京子を脅かさないかどうかというのも、守の気掛かりの種でした。守は一生を京子に捧げようと決意しました。(また明日へ続きます……)

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