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山田詠美『ファースト クラッシュ』その7

2021-06-23 11:10:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 私が短大に進んでほどなくして、父は急死してしまったのです。(中略)父を慕っていた多くの人々が、その死を盛大に悼みました。(中略)
「リキくんさ、このうちの人たちの力になってやって?」
「……あの、ぼく、ここにいても良いんでしょうか」
「よおく考えて、自分で決めなさい。高見澤は、きみを大学まで出してやりたいって思っていたことは伝えておくよ。(中略)」
 私は、いつまでも悲しみに浸る資格を得たとばかりに泣き暮らしていました。(中略)この家の人々も同じように日常に戻れず嘆き続けるのだろうし。(中略)
 母は、何かと気に掛けてくれるようになった須藤綾子さんに誘われて、ボランティアで読み聞かせの会の手伝いを始めたのでした。そして、(中略)どうにか悲痛な思いを払拭して行ったのでした。(中略)
 皆、それぞれの諦めが、不思議な満足感を引き寄せている、と思いました。大切な人を失った慟哭(どうこく)の後に訪れた凪(なぎ)がそこにある。
 でも、私は、この時、自分を取り巻くすべての人、そして、すべての事象から見捨てられたように感じていました。(中略)
 途方に暮れたまま歩き続けることになるであろう我が身のために泣きました。(中略)
 そして、時は流れて、いくつかの季節が過ぎ行き、力が高校を卒業してこの家を出る日が近付いて来ました。(中略)
 この頃になって、父は、ようやく私を泣かせなくなっていました。(中略)
 部屋に入るなり、力が、私に、これ、と言って差し出したものがありました。
「え? 嘘! まだ持ってたの?」
 それは、いつだったか、私の苛立ちの種になった父の神戸土産のバービー人形でした。力の母親の見立てに違いないという難癖と共に、彼に押し付けたままになってたものです。
「驚いた……捨てなかったのね」
 うん、と言って、力は照れ臭そうに笑いました。
「女、捨てたら駄目でしょ」
「……人形でも?」
「人形でも」
 私たちは、同時に噴き出しました。そして、笑顔で、共に、少年少女の時代と決別したような気がします。(中略)
「人の心を痛め付けると、自分の心も痛め付けられて当然のものに成り下がるよ。麗子お嬢さま!」
 私が思わずかっとして手を振り上げるのと、力がその手首をつかんで私を抱き寄せたのは、ほとんど同時でした。
 何が起こったのか、まったく解らないまま、私は、力に押し倒されるようにして、テーブルに後ろ手を突きながら、口づけを受けていたのです。そして、それは長い時間、続けられたのでした。(中略)
 ずい分前から、私は、誰かにこうしてもらいたかったのかもしれない、と思いました。私の不遜な舌の自由を奪って、好きにすること。最初にその役目を果すことになるのが力だとは予想だにしていませんでしたが。
「これは、仕返し? お返し? それとも……」(中略)
「これが、ホーシューや。今までの分。おれ、阿呆にも偉人にもなれんかった」
「リキくん、キス上手ね」
「タカさんに教えてもらった」(中略)
「私も結んだことあるのよ?」
 二人は、再び、ひとしきり唇を合わせた後、静かに抱き合っていました。(中略)
 力は、いつのまにか濡れていた私の目尻を拭って笑いました。
「嘘の涙でもない、本当の涙でもない。おれ、こういう涙がいいや」(中略)
 その数年後、結局、私は、間宮拓郎と結婚することになりました。(中略)
 間宮の家に嫁いだ後も、あのバービー人形は、ずっと私と共にあります。鏡の前で髪をくしけずったり、香水を耳になすり付けたりしながら、ゆったりとした気持でながめると、ふと、彼女の方からも見詰め返されているように感じる。そして、語りかける声が聞こえて来るのです。ほかしたらあかんよ。
 そんな時、穏やかな水を張られた私の人生に、熱く焼けた石が投げ込まれたような気がする。そして、その飛沫を浴びて、記憶の中の私は、何度も何度も火傷を負うのです。

第三部
 私のファースト クラッシュも力(りき)が相手だった、と告げた時の姉の咲也(さくや)の反応は妙なものだった。(中略)
「そう? 私は違うと思うよ(中略)リキと薫子(かおるこ)のじゃれ合い見てても何も感じなかったもん。あんたの何にもクラッシュしなかったでしょ?」
 ああ、憎たらしい、と突き飛ばしてやりたい気持が湧き上がるが、その瞬間、深く呼吸すると治まる。私はもう子供じゃない。四十もなかば。(中略)でも、何故だろう。姉たちに会うと、途端に、高見澤の家のちびっ子だった昔に逆戻りする。あの、神戸からやって来た少年に何の思惑もなく飛び付いていた頃に。(中略)
 父の死後、固い結束を誓い合った高見澤家の面々だったが、時が流れるにつれて、皆、冷静さを取り戻して行き、いつのまにか家長の不在に慣れた。(中略)

(また明日へ続きます……)

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