昨日の午後9時から10時54分まで、「昭和偉人伝 時代を制したヒットメーカー 作詞家・阿久悠」をBS朝日で見ました。尾崎紀世彦の「また逢う日まで」、和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」、岩崎宏美の「思秋期」など、作詞家であることはもちろん、プロデューサーとしての仕事ぶりに改めて瞠目し、やはり阿久悠さんは天才だったのだなあ、と強く思いました。
また、今晩、同じくBS朝日で「“特撮の神様”円谷英二~ウルトラマン誕生の舞台裏~」という2時間番組が午後7時からありました。見どころ満載でした。
さて、また昨日の続きです。
年が明けても、僕はまだ歩き出せずにいた。朝は7時に起き、質素な朝食を食べ、部屋の掃除をした。図書館に行くのに、僕は自転車を利用した。電車の吊り広告やふとしたときに見える誰かのスマートフォンの画面すら、僕は避けた。
エジプトの情報を知らせてきたのは姉だった。数ヵ月ぶりにネットを開くと、2月11日、30年間エジプトを統治してきたムバラク政権が、市民のデモによって崩壊したことが出ていた。
日本では東日本大震災が起こっていた。須玖と鴻上はトラックを借り、被災地まで持てるだけの物資を持って走ったことを知った。そしてそんな中、久しぶりに見る震災以外の言葉が、僕をとらえた。『エジプト コプト教徒の教会襲撃される』ヤコブ、僕はどうして、ここにいるんだ? 僕はすぐにエジプトに飛んだ。
僕はヤコブと出会った場所へ行った。そこは以前とまったく変わっていなかった。僕の家も以前のままだった。
「自分だけが信じるものを見つけなさい」姉の声は脳裏から消えなかった。僕は寂しさや苦しさを、ヤコブの前では忘れることが出来た。そして僕はヤコブと一緒に住んでいたおじさんに出会った。「ヤコブ。」やっとそれだけ言った。「ヤコブ?」おじさんは、思いがけないことを言われた、という顔をした。「ヤコブ、ヤコブ。」そう言い続けた。おじさんはやっと思い出したらしかった。おじさんは、携帯電話を取り出した。「ヤコブ。」そう言って、電話をかけた。ヤコブに会える!僕は叫び出しそうだった。
3時になる前に、例のフラットへ向かった。「アユム!」「ヤコブ。」言いたいことが山ほど溢れたが、僕はそれしか言えなかった。ヤコブは、英語を話した。「僕の家へ行こう。」ヤコブは女の子を抱き上げ、キスの雨を降らせた。「娘のタマルだ。」タマルも、綺麗な英語を話した。「僕が教えているんだ。」上にふたり息子がいるということだった。ヤコブはふたりの写真を見せてくれた。もう立派な大人の男といって良かった。ヤコブは、家族4人と両親を養っていた。「すごいね。」ヤコブと僕は同じ年のはずだった。「また会いに来ます。」お母さんは、ぽろぽろと涙を流した。僕のことを、何度も抱きしめた。「君はエジプトではマイノリティだろ?」「数は関係ない。大切なのは、人が、ひとりひとり違うことを認めることだ。」「ヤコブにとって、信じるって何?」「考えたこともなかったよ。僕にとって信仰は、息をするのと同じことなんだ。」僕とヤコブは、大きく隔てられている。
僕たちは、英語で話しながら、河岸を歩き続けた。輝かしい僕の年月は、どこへ行ったのだろう。涙が止まらなかった。「サラバ。」そこには、僕たちのすべてがあった。「サラバ!」僕たちは「サラバ」と共に、生きてゆく。
小説を書きたい、と言うと、姉はうなずいた。僕はサンフランシスコ、姉の家にいた。夏だった。正確に言うと、僕は「化け物を書きたい」と思った。小説の素晴らしさは、何かにとらわれていた自身の輪郭を一度徹底的に解体すること、僕は僕を一から作った。僕らの化け物は、そうしてどんどん成長していった。僕は化け物に寄り添い、安心して眠った。
サンフランシスコから帰国する空港で、須玖と鴻上から、メールが届いた。『新しい命を授かりました。』僕はその時点で、もう泣いていた。母は穏やかな時間の中にあった。『僕はこの世界に、左足から登場した。』それが書けると、あとはするすると言葉が出てきた。これを書き上げるのに、3年かかった。書くのは、本当に難しかった。何度「もうやめよう」と思ったか、知れなかった。3年の間に、矢田のおばちゃんから、そして父からもらった金は乏しくなり、僕は守衛のアルバイトを始めた。恥ずかしいが、姉の言葉をここで引用したい。「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。」僕は今、イランにいる。書きあがった原稿をプリントアウトし(大量だった!)それを生まれた街で読みたいと思った。タイトルはもう決めている。いや、きっと物語が生まれ始めた瞬間から、それはもう、決まっていたのだ。サラバ! これ以上、ふさわしいタイトルはないだろう?「サラバ!」僕は、左足を踏み出す。
あらすじを書くのにとても苦労する、長い長い小説でした。
また、今晩、同じくBS朝日で「“特撮の神様”円谷英二~ウルトラマン誕生の舞台裏~」という2時間番組が午後7時からありました。見どころ満載でした。
さて、また昨日の続きです。
年が明けても、僕はまだ歩き出せずにいた。朝は7時に起き、質素な朝食を食べ、部屋の掃除をした。図書館に行くのに、僕は自転車を利用した。電車の吊り広告やふとしたときに見える誰かのスマートフォンの画面すら、僕は避けた。
エジプトの情報を知らせてきたのは姉だった。数ヵ月ぶりにネットを開くと、2月11日、30年間エジプトを統治してきたムバラク政権が、市民のデモによって崩壊したことが出ていた。
日本では東日本大震災が起こっていた。須玖と鴻上はトラックを借り、被災地まで持てるだけの物資を持って走ったことを知った。そしてそんな中、久しぶりに見る震災以外の言葉が、僕をとらえた。『エジプト コプト教徒の教会襲撃される』ヤコブ、僕はどうして、ここにいるんだ? 僕はすぐにエジプトに飛んだ。
僕はヤコブと出会った場所へ行った。そこは以前とまったく変わっていなかった。僕の家も以前のままだった。
「自分だけが信じるものを見つけなさい」姉の声は脳裏から消えなかった。僕は寂しさや苦しさを、ヤコブの前では忘れることが出来た。そして僕はヤコブと一緒に住んでいたおじさんに出会った。「ヤコブ。」やっとそれだけ言った。「ヤコブ?」おじさんは、思いがけないことを言われた、という顔をした。「ヤコブ、ヤコブ。」そう言い続けた。おじさんはやっと思い出したらしかった。おじさんは、携帯電話を取り出した。「ヤコブ。」そう言って、電話をかけた。ヤコブに会える!僕は叫び出しそうだった。
3時になる前に、例のフラットへ向かった。「アユム!」「ヤコブ。」言いたいことが山ほど溢れたが、僕はそれしか言えなかった。ヤコブは、英語を話した。「僕の家へ行こう。」ヤコブは女の子を抱き上げ、キスの雨を降らせた。「娘のタマルだ。」タマルも、綺麗な英語を話した。「僕が教えているんだ。」上にふたり息子がいるということだった。ヤコブはふたりの写真を見せてくれた。もう立派な大人の男といって良かった。ヤコブは、家族4人と両親を養っていた。「すごいね。」ヤコブと僕は同じ年のはずだった。「また会いに来ます。」お母さんは、ぽろぽろと涙を流した。僕のことを、何度も抱きしめた。「君はエジプトではマイノリティだろ?」「数は関係ない。大切なのは、人が、ひとりひとり違うことを認めることだ。」「ヤコブにとって、信じるって何?」「考えたこともなかったよ。僕にとって信仰は、息をするのと同じことなんだ。」僕とヤコブは、大きく隔てられている。
僕たちは、英語で話しながら、河岸を歩き続けた。輝かしい僕の年月は、どこへ行ったのだろう。涙が止まらなかった。「サラバ。」そこには、僕たちのすべてがあった。「サラバ!」僕たちは「サラバ」と共に、生きてゆく。
小説を書きたい、と言うと、姉はうなずいた。僕はサンフランシスコ、姉の家にいた。夏だった。正確に言うと、僕は「化け物を書きたい」と思った。小説の素晴らしさは、何かにとらわれていた自身の輪郭を一度徹底的に解体すること、僕は僕を一から作った。僕らの化け物は、そうしてどんどん成長していった。僕は化け物に寄り添い、安心して眠った。
サンフランシスコから帰国する空港で、須玖と鴻上から、メールが届いた。『新しい命を授かりました。』僕はその時点で、もう泣いていた。母は穏やかな時間の中にあった。『僕はこの世界に、左足から登場した。』それが書けると、あとはするすると言葉が出てきた。これを書き上げるのに、3年かかった。書くのは、本当に難しかった。何度「もうやめよう」と思ったか、知れなかった。3年の間に、矢田のおばちゃんから、そして父からもらった金は乏しくなり、僕は守衛のアルバイトを始めた。恥ずかしいが、姉の言葉をここで引用したい。「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。」僕は今、イランにいる。書きあがった原稿をプリントアウトし(大量だった!)それを生まれた街で読みたいと思った。タイトルはもう決めている。いや、きっと物語が生まれ始めた瞬間から、それはもう、決まっていたのだ。サラバ! これ以上、ふさわしいタイトルはないだろう?「サラバ!」僕は、左足を踏み出す。
あらすじを書くのにとても苦労する、長い長い小説でした。
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