心が折れるって事があるだろう。
先週の月曜日ぐらいから、右足の親指が疼きだした。
「来たかぁ!」
慣れたモンである。TOのWHOが、師走の忙しい時期にやって来た。
すぐさま患部を冷してみたが、今回のはちょっと違うらしい。
日に日に痛みが増していった。
「この日のために、この一年があったのだぁ!」
と、日頃から嘯いていた某団体の忘年会に出席出来ない位の腫れ。
歩く事も徐々に困難になっていく。
しかし、このTOのWHOの悲しき所は、その痛みが周りには伝わらない事。
経験された方が居られれば、
「まぁ、大変だこと。お大事に」
って、社交辞令の一つも言ってもらえるのだが、未経験の方々に
とってみれば、所謂“ぜいたく病”
「お前が悪いんだよぉ! デブ!」
心の声が聞こえて来そうだ。
自分自身の気持ちにも、その時々によって変化があって、
ちょっとでも痛みが和らぐと、気分も軽くなり、
また痛みだすと、絶望感が襲ってくる。
そして、その度に“心が折れる”のである。
(痛いのは、足だけじゃないかぁ!)
そう思える時は、まだ大丈夫だが、
夜寝る時にでも痛みだすと、この激痛がこのまま一生続いて行くんじゃないかと
ありもしない恐怖感が支配しはじめるのだ。
「おっ? 昨日より腫れがひいたんちゃうか?」
親父の一言も、心が折れそうになる。
(こんなに痛がっているのに)
TOのWHOの激痛に限らず、生活をしていると
“心が折れる”一言や場面に遭遇する事がある。
頑強な“心”を持っていると、容易く折れる事はないだろう。
頑強だけど細い“心”だと、折れ易いかも知れない。
細くても柔軟性に富んだ“心”なら、折れにくいかも知れない。
多重人格でも無い限り、誰も心は“一つ”しかない。
いや、多重人格者であっても、その人格ごとの“心”は一つだろう。
毛利元就の有名なエピソードに“三本の矢”がある。
一本一本では折れる矢も、三本束ねれば折れない! と三人の息子達に
言ったという話だ。
残念ながら、一つしかない“心”を束ねる事は出来ないが、
心底理解してくれる人が居れば、束ねた事になるのではないだろうか?
いや、決してTOのWHO仲間を探しているわけじゃない。
先週の月曜日ぐらいから、右足の親指が疼きだした。
「来たかぁ!」
慣れたモンである。TOのWHOが、師走の忙しい時期にやって来た。
すぐさま患部を冷してみたが、今回のはちょっと違うらしい。
日に日に痛みが増していった。
「この日のために、この一年があったのだぁ!」
と、日頃から嘯いていた某団体の忘年会に出席出来ない位の腫れ。
歩く事も徐々に困難になっていく。
しかし、このTOのWHOの悲しき所は、その痛みが周りには伝わらない事。
経験された方が居られれば、
「まぁ、大変だこと。お大事に」
って、社交辞令の一つも言ってもらえるのだが、未経験の方々に
とってみれば、所謂“ぜいたく病”
「お前が悪いんだよぉ! デブ!」
心の声が聞こえて来そうだ。
自分自身の気持ちにも、その時々によって変化があって、
ちょっとでも痛みが和らぐと、気分も軽くなり、
また痛みだすと、絶望感が襲ってくる。
そして、その度に“心が折れる”のである。
(痛いのは、足だけじゃないかぁ!)
そう思える時は、まだ大丈夫だが、
夜寝る時にでも痛みだすと、この激痛がこのまま一生続いて行くんじゃないかと
ありもしない恐怖感が支配しはじめるのだ。
「おっ? 昨日より腫れがひいたんちゃうか?」
親父の一言も、心が折れそうになる。
(こんなに痛がっているのに)
TOのWHOの激痛に限らず、生活をしていると
“心が折れる”一言や場面に遭遇する事がある。
頑強な“心”を持っていると、容易く折れる事はないだろう。
頑強だけど細い“心”だと、折れ易いかも知れない。
細くても柔軟性に富んだ“心”なら、折れにくいかも知れない。
多重人格でも無い限り、誰も心は“一つ”しかない。
いや、多重人格者であっても、その人格ごとの“心”は一つだろう。
毛利元就の有名なエピソードに“三本の矢”がある。
一本一本では折れる矢も、三本束ねれば折れない! と三人の息子達に
言ったという話だ。
残念ながら、一つしかない“心”を束ねる事は出来ないが、
心底理解してくれる人が居れば、束ねた事になるのではないだろうか?
いや、決してTOのWHO仲間を探しているわけじゃない。