常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

定山渓

2017年09月15日 | 旅行


5年ぶりの北海道への旅である。定山渓温泉へ2泊、生き残った3人の兄弟が、最後に会うことになるかも知れない兄弟会と、10年ぶりになる高校時代のクラス会に参加するためである。飛行機を降りて北の大地に立って先ず感じるのは、木々や草花、蕗、イタドリなど植物たちが放つ、北海道独特の雰囲気だ。そうした自然に抱かれて育ったものには、何とも言えない懐かしさがただよう。時間がすっと逆戻りするような感じだ。人々が話す言葉のトーンもまた、自分の子ども時代に身についたものである。他郷にあって、もう故郷に住んだ3倍もの時間を過ごしているのに、いまだに故郷の懐かしさを感じるのは、生まれたばかりの生命が、まずその環境に馴染むことで、生きることを学んでいくことに関係があるのであろう。



一泊目の宿は、「森の謌」。部屋からは、山に抱かれるように立地している温泉街見える。そして、渓谷には豊平川が流れ、温泉街にアクセントをつけている。閑静で、きれいな室内。そして湯量の豊富な温泉。海の幸、どれを食べてもおいしい料理。兄弟とその子どもたちの、こじんまりとした会には、もってこいの宿である。卒寿をむかえた姉のお祝いを兼ねていた。10人をこえる兄弟のなかで、生き残ったというべきか、生かされているのか、いずれにしても健康であればこそここまで来れたのであろう。「カラマーゾフの兄弟」のように小説の題材になるような事件に遭遇こそしなかったが、生きるための荒波の道をこえて、この3人は生きてきた。

おとうとは酒のみながら祖父よりの遺伝のことをかたみにぞいふ 

うつせみのはらから三人ここに会ひて涙のいづるごとき話す  斉藤 茂吉

北海道は季節が早くまわっている。公園や川のほとりのナナカマドの実は、はや赤く色づいている。山は青々としているものの、岸辺の紅葉もきれいな色づきが始まっている。



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北海道の旅

2017年06月26日 | 旅行


生き残った兄弟3人が、北海道の温泉を訪ねる旅をすることになった。温泉は札幌郊外の定山渓。姉が90歳、兄が85歳ということだから、この旅が最後となるかも知れない。北海道に生れていながら、この温泉に行くのは初めてのことである。最初が登別、次が層雲峡、そして定山渓ときて、甥、姪の世話で、3人の温泉の旅は完結することになる。

この温泉は、明治新政府と仏教徒の因縁が、この温泉の由来に関係している。神道に重きを置いた明治政府は、仏教徒に冷たくあたった。東本願寺の現如上人が北陸や東北の信徒に、渡道を呼びかける歌を作った。

トーサン カーサン
ユカシャンセ
ウマイ肴モ胆斗アル
オイシイ酒モ旦トアル
エゾ エゾ エゾ エゾ
エイジャナイカ

北海道の開拓に協力した東本願寺だけは、布教が許され、定山渓から札幌への道は長く本願寺街道と呼ばれた。我が家の家系も、明治政府が募った屯田兵として渡道している。厳しい気象条件下で、原始林を切り開くのに、渡道を奨励するには、北の大地を別天地のようなイメージを作りだす必要があった。平成の長高齢者3人旅は、この温泉郷に別天地を見ることができるか。
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総光寺キノコスギ

2016年08月22日 | 旅行


総光寺は酒田市松山にあり、寺の創建は南北朝時代の至徳元年(1384年)と伝えられる。参道の両側に植えられたスギは元和年間(1615年)に植樹され、350年以上が経っている。歴代の住職が枝を丁寧に刈り込み、キノコ型を呈するようになり、いつかキノコスギと呼ばれるようになった。山門は酒田の大地主本間家が、寄進し文化8年(1811年)に落成した。この寺の近くに松山城の山門が保存されているが、総光寺の山門の方が立派に見える。「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と歌われた、大地主の威光のほどがしのばれる。

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小野川温泉

2015年03月23日 | 旅行


小野川温泉を訪れたのは、昨年秋飯森山へ登ったとき以来である。まだまだ雪深い置賜地方であったが、温泉街には雪はなく、のどかな湯の街の雰囲気を漂わせていた。温泉街の入り口のあたりに、新しい共同浴場「瀧の湯」がオープンしていて入ってきた。入浴料250円、シャワーがあるがシャンプー、石鹸は置かれていない。湯は43℃ぐらいで、若干熱めだが、ラドンや硫黄を含んだ湯は、透明な清潔感のある温泉である。効用としては、皮膚病、火傷、関節炎などである。

伝説によるとこの湯は、美人で有名な小野小町が834年に発見されたいうが、その真偽はわからない。昔から尼の湯という共同浴場があるが、こちらは熱くてとても湯に浸かるなどということはできない。この湯で作った温泉タマゴは、お土産として店で売られている。ほかに豆もやしが名産で、これも有名だが、1束300円とかなり高価だ。雪菜など温泉の熱を利用して栽培される珍しい野菜もある。

温泉のなかにカマクラが作られ、観光客がそこへ入り、出前のラーメンを取って食べることもできる。先週でそのカマクラも取り壊されたという。近くにはきれいな水の川が流れ、夏には蛍狩りの観光客で賑わう。
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東京スカイツリーと根津界隈

2014年08月16日 | 旅行


一度この目で見てみたいと思っていたスカイツリーの見物がこの機会に実現した。しかもこの見物の後、根津という下町の風情を見るという楽しみも加わった。この日、天候は曇り、スカイツリーの遠景は低い雲のなかに霞んで見えた。だが、次第に近づいていくと、その巨大さに目を瞠る。かつての下町に、このツリーを見ようとする人たちが、吸い寄せられるように集まってくる。慣れない道を、車で行ったが案内の婿殿とカーナビのおかげでソラ町の駐車場のに車を入れる。夏休みということもあって子ども連れとアジアからの観光客が多く見られた。

展望台へは上らず、水族館やソラマチで軽食という予定であったが、開館10時ですでにチケット待ち20分の表示を見て、この予定も中止。ソフトドリンクで喉を潤して、次の根岸散策へ向かう。



根津は坂道と小路の多い下町だ。道を挟んだ住宅が軒を接するような小路に、昔ながらの店がひっそりとした佇まいを見せている。大通りには車や買い物の人が多く歩いているが、ひとたび小路に入ると、ひっそりとしていて人影をみることもあまりない。昭和のかおりが強く漂っている。雨がぽつりぽつりと落ちてくる。曇りではあるが、気温が高くとにかく蒸し暑い。



若き日の由美かおるをモデルに使った蚊取り線香の看板が錆を浮かべて捨てられずに立っている。この蚊取り線香が今もあるのか疑問だが、看板の存在が由美かおるの根強い人気の証でもある。彼女の出演したテレビ時代劇「水戸黄門」は、今も再放送で人気である。8時45分には、どんな難題も黄門さまの印籠で必ず解決する。単純なストリーが品をかえて登場するドラマがなぜこんなに長く人気を保つのか、昭和の七不思議のひとつである。



お昼になって「根の津」という店で、名物の讃岐うどんのぶっかけを食べた。手打ちのうどんは腰が強くおいしい。奮発した海老天は、揚げたてでぷりぷりしている。この味を求めて店の前で順番待ちの行列ができていた。狭い店で、この日は若い主人と女店員さんが二人で店を切り盛りしていたが、二人ともとても感じがいい。



根津神社がこのような壮麗な権現造りを見せるのは、徳川六代将軍家宣守護のため勧請されて大普請が行われたためである。家宣は悪評高かった徳川綱吉の「生類憐みの令」を廃し、碩学新井白石を登用して弊害になっていた諸制度の改革を行い善政を敷いた。江戸庶民からの人気も高く、壮麗を極める社殿には参拝者がひきもきらぬ盛況を呈した。やがて門前には繁華な門前町が形成されていく。岡場所が現れ、その後吉原と肩を並べる根津遊郭が維新後まで繁栄を極める。



この付近には明治の文豪森鴎外や夏目漱石が住み、その作品にはこの界隈の様子が描かれている。この付近の本郷に東京大学ができたため、根津権現付近の小路は下宿屋がびっしりと立ち並んでいたらしい。この旅行で見た根津の小路もかつては、学生を世話する下宿の町であった。
「坂を降りて左側の鳥居を這入る。花崗石を敷いてある道を根津神社の方へ行く。下駄の磬のように鳴るのが好い心持である。剥げた木像の据えてある随身門から内を、古風な瑞籬で囲んでいる。」(森鴎外『青年』)


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