流山が開けたのは、醤油や味醂の醸造の町として名高かかったが、この町の西を流れる江戸川の存在は大きい。この川の舟を使って、この地で醸造された商品は江戸へと運ばれた。何かで読んだのだが、江戸川という名は江戸へ行く川という意味であったらしい。映画の「寅さん」シリーズもこの江戸川の土手が登場するが、この土手をランニングやウォーキングする人の姿は今も絶えることはない。娘がこの地へ嫁いでからもう20年を過ぎたが、それ以来何度この地を訪れたことだろう。東京へ出るのに便利なせいもあってか、最近は新しく建てられた家も多いようだ。
常磐線の馬橋駅から流山まで流山電鉄の菜の花電車が走る。所要時間は30分ほどである。常磐線からやや外れた流山へ通勤・通学者を運ぶのに無くてはならない市民の足である。首都圏らしくないローカルな雰囲気に人気がある。この電車を写真に撮ろうとする「撮り鉄」たちがシャッターチャンスを探している。線路の向こう側には市役所があり、その向かいに企業の所有する森があって蝉しぐれが耳をつんざくようだ。これほど蝉が多くいる森は、田舎でもあまり無いような気がする。
新撰組の近藤勇が、官軍の攻勢に耐え切れずに落ちのびた地がこの総洲流山であった。今その陣屋跡が保存されている。ここに兵120名ほどが陣屋に屯した。だが官軍が彦根の兵300名で流山の陣屋を取り巻いた。子母澤寛『新撰組始末記』に、近藤勇が投降する様子が描かれている。「紋付袴で威儀を正しゅうして小姓を二人連れて出てきて来て「お待たせしました」と一礼をしながら、小姓へ記念のためピストル、短刀、書籍などを分け与えた。その小姓が粕壁まで御供をしたいというのを、近藤は「いやならぬ」といったが、拙者が許して、近藤も馬、拙者も馬でその次に従って本陣を出た。」
斬首の刑場へ送られる前の問屋場で、近藤勇は辞世の漢詩を残した。
他を靡かすと今日何をか言わん
義を取り生を捨つるは吾尊ぶ所
快く受けん電光三尺の剣
只将に一死君恩に報いんとするのみ
新撰組の隊旗に「誠」の字が用いられているが、この辞世の詩には将軍への「赤誠」の心がこめられている。
日記・雑談 ブログランキングへ