常住坐臥

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老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

六の宮の姫君

2022年06月27日 | 読書
先週から、日本列島に熱波が来ている。昨日は群馬県の伊勢崎で40℃を超える気温が報告された。6月に40℃を超えるのは、気象観測が始まって初めての事態だ。加えて、6月中というのに東海や関東地方で梅雨明けが発表され、当地方に大雨警報、土砂災害警報が合わせて発表されている。ヨーロッパの熱波はもっと強烈でらしい。ベルギーなどはしばらく40℃を超える日が続いているらしい。テレビの情報番組が、1時間以上にわたってこの現象を特集していた。この現象は、地球の温暖化が背景にある。地上に住む全ての人々がに影響があり、これを阻止するには全ての人々が、今の生活レベルを下げる以外にない。政府や国家を批判しても、結果は変わらない。
昨日、光禅寺の境内に花を見に行ったが、すでに花は咲き終わり、鐘楼の上の空が真夏の到来を告げていた。

菊池寛の続きになるが、畏友志村有弘氏に、芥川と菊池が今昔物語に題材を取った「六の宮姫君」という論考がある。志村氏は大学で「古典と近代作家」や「説話文学」を専修、特に芥川龍之介の文学への論考が研究の基礎になっている。菊池寛の『半自叙伝』や『新今昔物語』を読みながら、志村氏のこの論考を再読するのは、この上ない贅沢である。志村氏がかって北海道の高校で同じ教室で机を並べた仲であることは、その興味をさらに奥深いものしてくれる。

「六の宮の姫君」という物語は、その梗概を記すと、出世から見放された公家の娘が、越前の前司の長男に見染められ貧しい家に通って来る。全く世間知らずの親から期待され、可愛がられるのみの娘であったが、男の魅力に次第に目覚めていく。ところが、男は父が陸奥守に任じられ、遠国に行くことになる。5年の任期だが、その間だけ待つようにと言い残して男は去って行った。男のいない間、父母を亡くした姫君は、家財を売り食いしながら、泣きながら男の帰りを待った。約束の5年が過ぎた。男には常陸守の娘との結婚があり、手紙での姫君とのやりとりも途絶えがちになった。京に帰って男が、待っている六の宮の屋敷を訪ねたが、荒れ放題の家。わずかに人のいる気配の対屋にいたのは年老いた尼であった。かって姫君の身の回りを世話をしていた下女の母で、姫がこの家を出たことを聞く。男は京中を探しまわり、乞食の集まるような場所で姫を見つける。男を見て娘は縋りついたが、その胸の内に儚く死んで行った。

芥川の「六の宮の姫君」が書かれたのは大正11年であるのに対し、菊池が「六宮姫君」を書いたの昭和21年である。書かれた時代も違えば、一読してその文体が大きく異なっていることに気づく。ちょっと男が、京へ帰ったときの部分を記して見る。

六の宮へ行つて見ると、昔あつた四足の門も、檜皮葺の寝殿や対も、悉今はなくなつてゐた。その中に唯残つてゐるのは、崩れ残りの築土だけだつた。男は草の中に佇たたずんだ儘、茫然と庭の跡を眺めまはした。其処には半ば埋もれた池に、水葱が少し作つてあつた。水葱はかすかな新月の光に、ひつそりと葉を簇らせてゐた。(芥川)

が、その邸は変わりはてていた。築地は半ば崩れてしまっていた。四足門の柱は、ただ一つしか残っていなかった。庭には、雑草が、人の背ほども生い茂っていた。泉水の水は乾れて水草が水面一杯に生えていた。寝殿は屋根がなくなったばかりか、床板までが剥がれている。(菊池)

志村は芥川の文体を評して、「彫琢の美」と述べ、また菊池が物語を、男女の相思相愛の話とし、姫君の悲恋物語に仕立てたのに対して、芥川は姫君の臨終の場面を、哀れな女の末路をものの見事に作りあげた、と述べている。新聞や雑誌に受ける話を志向していた菊池の発想は、戦後間もない昭和22年にすでに大衆にアピールする方向に向かっていた。

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