昨夜、カミさんは先に寝てしまったので、また何も考えずにテレビをつけた。東大安田講堂をめぐる学生と機動隊の攻防が報じられていた。途中からだったからよくわからなかったけれど、はじめ見た時は生中継の部分だったので、40年目の特集なのかと思っていた。ところが俳優の陣内孝則さんが出ている。記録報道と映画との組み合わせで作り上げた『東大落城』ドラマだった。
機動隊の指揮者は『浅間山荘事件』でも指揮をとった人物だが、講堂内に立てこもった学生の中にいたのは誰だったのだろうか、初めから見ていないことを後悔した。東大全共闘の議長は山本義隆氏だったけれど、安田講堂の攻防戦前に逮捕状が出たことから、彼は彼自身の意志ではなく全共闘の総意で東大を離れて地下に潜伏したから、実際の攻防戦での責任者となったのは確か今井澄氏だった。
山本氏も今井氏も私よりも年上の方だから、呼び捨てにはできず、「さん」付けがよいのだろうが、なんとなく私は軽々しく「さん」と呼べないでいる。東大紛争が起きたのは1968年(昭和43年)の1月が発端だった。医学部問題から学生ストが始まり、その処分がいい加減だったことからさらに全学部の学生ストに発展していった。東大全学共闘会議が結成され、続いて東大助手共闘会議も結成された。
私は大学を卒業し、高校の教員となっていた。テレビがやっていた1月18日・19日のいわゆる「安田講堂攻防戦」は、どこかの飲み屋で見ていたような記憶だ。まるで野球でも見るように多くの人が見ていたが、私もその一人だった。私がまだ学生であったなら、安田講堂へ駆けつけないとしても、御茶ノ水や本郷や神田で行なわれた学生デモに参加していたかもしれない。今なら、あんなことをしてもどうなるものでもないと言い切れるけれど、権力の構造が変わるとは思わないが何かが変わるように期待していた。
私は、自分たちの世代は「谷間世代」だという思いを強く持った。私たちの上の世代は「安保闘争」を、そして私たちの下の世代は「大学紛争」を体験している。ところが自分は学ぶべき実体験が何もない。そのことがずっーと引っかかっていた。「安保闘争」についてはいろんな人が総括し、そこから新たな道筋も生まれてきたが、その頂点にあった「大学紛争」はなぜか当事者たちからの発言がない。日本の素粒子論の先駆者となると思われた山本義隆氏は予備校の教師を務めているが、その後「事件」には全く触れていない。
安田講堂の責任者となった今井澄氏は医者となり、諏訪中央病院の院長として赤字病院を再建した。衆議院議員にまでなったが、確か亡くなった。東大全共闘と対立していた共産党系の学生だった町村信考氏は、経済産業省は入省し、後に衆議院議員となり、小泉内閣で外務大臣を、福田内閣では内閣官房長官を務めている。東大と並んで当時、有名だった日大全共闘の議長、秋田明大氏は故郷で自動車関係の仕事をしているそうだ。
自分の人生は何だったのか。そう問う年齢になってきた。誰もが皆、悔いのない人生を歩んでいることだけは確かだろうが、自己の体験から人に語るものを持っている人はそれを語って欲しいと思う。
機動隊の指揮者は『浅間山荘事件』でも指揮をとった人物だが、講堂内に立てこもった学生の中にいたのは誰だったのだろうか、初めから見ていないことを後悔した。東大全共闘の議長は山本義隆氏だったけれど、安田講堂の攻防戦前に逮捕状が出たことから、彼は彼自身の意志ではなく全共闘の総意で東大を離れて地下に潜伏したから、実際の攻防戦での責任者となったのは確か今井澄氏だった。
山本氏も今井氏も私よりも年上の方だから、呼び捨てにはできず、「さん」付けがよいのだろうが、なんとなく私は軽々しく「さん」と呼べないでいる。東大紛争が起きたのは1968年(昭和43年)の1月が発端だった。医学部問題から学生ストが始まり、その処分がいい加減だったことからさらに全学部の学生ストに発展していった。東大全学共闘会議が結成され、続いて東大助手共闘会議も結成された。
私は大学を卒業し、高校の教員となっていた。テレビがやっていた1月18日・19日のいわゆる「安田講堂攻防戦」は、どこかの飲み屋で見ていたような記憶だ。まるで野球でも見るように多くの人が見ていたが、私もその一人だった。私がまだ学生であったなら、安田講堂へ駆けつけないとしても、御茶ノ水や本郷や神田で行なわれた学生デモに参加していたかもしれない。今なら、あんなことをしてもどうなるものでもないと言い切れるけれど、権力の構造が変わるとは思わないが何かが変わるように期待していた。
私は、自分たちの世代は「谷間世代」だという思いを強く持った。私たちの上の世代は「安保闘争」を、そして私たちの下の世代は「大学紛争」を体験している。ところが自分は学ぶべき実体験が何もない。そのことがずっーと引っかかっていた。「安保闘争」についてはいろんな人が総括し、そこから新たな道筋も生まれてきたが、その頂点にあった「大学紛争」はなぜか当事者たちからの発言がない。日本の素粒子論の先駆者となると思われた山本義隆氏は予備校の教師を務めているが、その後「事件」には全く触れていない。
安田講堂の責任者となった今井澄氏は医者となり、諏訪中央病院の院長として赤字病院を再建した。衆議院議員にまでなったが、確か亡くなった。東大全共闘と対立していた共産党系の学生だった町村信考氏は、経済産業省は入省し、後に衆議院議員となり、小泉内閣で外務大臣を、福田内閣では内閣官房長官を務めている。東大と並んで当時、有名だった日大全共闘の議長、秋田明大氏は故郷で自動車関係の仕事をしているそうだ。
自分の人生は何だったのか。そう問う年齢になってきた。誰もが皆、悔いのない人生を歩んでいることだけは確かだろうが、自己の体験から人に語るものを持っている人はそれを語って欲しいと思う。