友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

どうにもならないこと

2009年01月28日 22時28分22秒 | Weblog
 どうにもならないことはたくさんある。人間はいつも何かに向かって頑張る。頑張れば希望に近づけるからだ。どうにもならないことはたくさんあるが、頑張れば出来ることもたくさんある。はじめからどうにもならないと思ってしまうことの方が少ないのではないだろうか。人間は楽観的な動物だと思う。何とかなるさ、そのためには頑張らなくちゃーと前向きに生きている。

 孫娘は私の孫とは思えないくらい頑張る。今日もニコニコして「目標を決めた」と言う。「どんなことを決めたの?」と聞くと、「自分に勝つ!」と言う。「自分に甘えずに頑張る」と言うのだ。本当にどうしてこんなに頑張れるのだろうと感心してしまう。傍から見れば決して、全力で没頭しているわけではないし、好きな水泳は毎日最低1時間、日のよっては2時間は泳いでいる。だから体力の消耗がはなはだしいと思うけれど、それでも勉強しているようだ。実際にどんな風に勉強しているのか、その姿を見たことがないから、私としては勉強しているのだろうと推測しているに過ぎない。

 「日本ではどうして臓器移植が進まないのか」とテレビでこの問題を報じていた。「助かる命が助からないことは余りにも理不尽だ」と子どもを亡くした父親が嘆いていた。助かる命は助けたいと私も思う。でも、臓器移植は問題が違うように思う。私たちは病気をしたり怪我をしたりする。その都度何らかの手当てをして生き延びる。それと臓器移植は同じ延長線にあるのだろうか。医学が余りにも進歩したから、以前なら決して直らない病気でもかなりの可能性で回復できる。

 臓器移植もカミさんに言わせれば「できる技術があるから生まれた問題でしょう」となる。確かにそのとおりだが、臓器移植を行なえば命は助かるとしても、臓器は人の死それも脳死という状態の人から取り出したものだ。家族が同意すれば移植できるように法律を変えようという動きがある。私は納得できない。臓器は死んだ者あるいはまだその時は死んでいない脳死の状態にある者の身体の一部だ。人のものである臓器を「命を助ける」ためとはいえ、勝手に取り出していいのかと私は思ってしまう。

 そんなことよりも人には寿命というものがある。ある人は83歳であるかもしれないし、ある人は5歳かもしれない。5歳で死ぬのは不憫だからと言うのは人情としては理解できるけれど、83歳で死を迎えるのも5歳で死を迎えるのも、それは定めであり人間は素直に受け止める覚悟が必要だと思う。「助かる命」と言うかもしれないが、世の中には理不尽にも何の罪もないのに戦争に巻き込まれて死んでいく命だってある。難病に苦しむ人の命も戦争に巻き込まれてしまう命も、みな尊い命であることには変わりはない。

 わが子だけが助かればいいわけではない。命には定めがあることも知るべきだと私は思う。どうにもならないことがあることも受け入れなくてはならない。生きることは大事なことであるし、生きる命を尊ぶことも大事なことだ。けれども、死もまた平等にやってくることをしっかりと受け止める必要がある。人間は余りにも生に執着しすぎていないだろうか。死を恐れてはならない。今晩、通夜に行って来た。お棺の中の知人は幸せそうな笑みを浮かべていた。
コメント
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