友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

地方での政権交代はまだ先のようだ

2010年09月06日 22時10分33秒 | Weblog
 今日の井戸掘りは不発だった。粘土の硬い層を突き進むことができない。水を使っての井戸掘りの限界である。早めに終わって、家に戻るとどっと疲れが出た。ビールでも飲んで寝たらという忠告をいただいた。昼間からビールは飲めなかったけれど、横になったらすぐに眠ってしまった。夕方に、「会えませんか」と電話があり、特にやるべきことはないし、むしろ誰かに会っていたかったので出かけていった。

 取り留めのない話の中で、名古屋市の河村市長が話題になった。河村市長がリードする市議会のリコールは成立するだろうかと彼は心配していた。私は、確かに河村さんは51万票の得票で市長に当選したけれど、36万人の署名を集めるのは至難の業だと思うと話した。リコール署名はそんなに簡単ではない。一人ひとりが自署しなくてはならないし、チェックもそれだけに厳しい。

 仮にリコールが成立し、市議会が解散して議員選挙が行われたとしても、果たして河村市長を支持する議員が市議会の過半数になるかと言えば、私の推測ではきわめて難しい。市長選挙と議員選挙では市民の意識は大きく違うと思うからだ。市長には新しい市政を実現して欲しいと願う市民も、市議は自分たちの言うことを聞いて働いてくれる人がいいと思っている。このために地方議会がなかなか変わらない現実がある。

 国民は金に汚れた自民党政治に「NO」を突きつけた。いわゆる政権交代である。そのためには民主党の候補者を当選させる必要があった。だから、民主党候補に投票した。けれども、地方自治体は二元代表制であるから、国と違って地方では政権交代は意外なほど進まない。地方では国の政権交代のもっと前から、新しい政治を求める声があり、革新首長や市民派首長が生まれている。市民や県民は首長を変えれば新しい政治が生まれると期待したのだ。

 ところが、市民や県民は新しい政治を首長に期待したけれど、議会はそうした首長の提案した議案をことごとく否決した。議会と首長が対立する構造が生まれ、この対立が長引けば長引くほど、嫌気が生まれどうでもいいやとなってしまった。地方議会の議員が、新しい政治に抵抗するのは自分たちの利益を優先するからだ。そこには何が市民のあるいは県民の将来にわたって利益になるかという意識はない。

 地方議会の議員は地域の利益代表の要素が強い。これを無くすような仕組みや思想が全体のものにならなければ、たとえば地方議会で会派制を法律で禁止しても、彼らは必ずつるんで議長とか委員長とかのポストを取り、その成果を地域に見せて力を誇示するだろう。首長を変えて、新しい政治を期待したのに、議員たちはそれでは自分たちの存在価値がなくなってしまうから、革新首長や市民派首長に同調しない。これを破るには徹底した情報公開しかない。行政のあらゆるものを公開すると共に、議会も徹底的に透明化せるしかない。

 全国で生まれた革新あるいは市民派の首長は議会との対立の中で消えていった。そして次の首長は以前のスタイルに戻っている。地方での政権交代はまだまだ先のことなのかもしれない。
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