友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

人生は流れる雲か放たれた屁だ

2010年09月10日 21時31分22秒 | Weblog
 朝のNHKテレビ『ゲゲゲの女房』で、高校3年生の娘が「勉強が特にできるわけではないし」と進路のことで悩んでいた。すると、彼女のおじいさんは「好きなように生きればいい。人生なんて、流れる雲のようなものだ」と言う。その後で、「悩んでいる若者には分かりづらい言葉だったな。人生は屁のようなものだと言った方が良かった。一時は存在するけれど、すぐに消えてしまう」と訂正する。私はテレビを一言も漏らさない気構えでは聞いていない。どちらかいえば、時計代わりにつけている。だからセリフがこのとおりだったかは自信がないが、こんな意味だったと思う。

 へぇー、面白いことを言うおじいさんだなと思った。流れる雲も屁も、要は一時的なものだ。確かに目に見えるし、見えない屁だって臭いがあるから実在する。この世に生まれてきた人は、幸せだった人も不幸だった人も、誰でも必ず実在したことには変わりない。この世に生まれ出た私たちは、これからどんな人生を歩むのかと、期待と不安の交差する複雑な思いで歩むことになる。そして果敢に挑む。こんな人生ではないはずだ。もっと違うはずだと。お金持ちになる人もいれば、有名人になる人もいる。社会的に高い地位を築く人もいるし、「立派な人だ」と言われるような人もいる。会社にとってなくてはならない人になる人もいるし、ボランティアで活躍する人もいる。

 たくさんの人がこの世に生まれたのだから、当然たくさんの人生がある。誰もが自分が生きてきた証というか、評価を求める。けれども、生きてきた意味は人から与えられるものではなく、自分が納得するものなのだと、老いてきた今は分かる。流れる雲のようだとか屁のようだと言えるようになるには、やはり年月が必要だと私もこの歳になって分かった。そう、おじいさんが言うように、本人はとても重大なことだと思うけれど、人生などは流れる雲や放たれた屁のようなものだ。一瞬、この世に実在するけれど、あっという間に消えてしまう存在でしかない。燃えるような恋が美しいのもそのためだ。

 だからこそ、一瞬に全てを注いで生きていく価値がある。流れる雲のような、放たれた屁のような、人生であってもそれを評価できるのは実は自分でしかない。おじいさんが「好きなように生きればいい」と言うのは的を射ている。好きなように生きること自体が分からないという人が多い中で、自分がこうしたいものがある人は幸せだ。まずやってみる。民主党の代表選挙の小沢一郎さんを見ていると、最後の賭けに出ていると感じる。私は小沢さんには総理にはなって欲しくないけれど、彼の生き方としては、自分が決めた道を突き進んでいこうという覚悟があるような気がする。

 人生は流れる雲であり、放たれた屁なのだから、やってみたいことがあるならばやってみるべきだし、それができるような人は本当に恵まれている。けれど実は、小沢さんの人生も平凡に生きてきた人の人生も何も変わることはない。人の命などは一瞬の存在でしかない。好きように生きてみることこそが一番大事なことなのだ。
コメント
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