友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

映画『キャタピラー』

2010年09月02日 22時08分59秒 | Weblog
 「一緒に映画を見に行かないか」と誘おうと、思っていた友だちは見てしまっていた。カミさんが「私が行くわよ」と言うので行ってきた。確かに友だちが言うように、上映時間前にこれまで見たことがないほどの人たちが並んでいた。この映画館は若松孝二監督がつくったもので、余り知られていない作品を扱っている。客席は50席あるかと思うが狭い。規模では名演小劇場と同じくらいだ。選ぶ映画も商業主義の作品でない点も似ている。私は若松監督の『実録・連合赤軍』をここで観たが、観客は数えるほどしかいなかった。

 『キャタピラー』って、いったい何?と題名を見てそう思った。戦車?それとも何か他のものを思ってつけたのだろうかと考えた。映画を観て、なるほどそういうことだったのかと納得した。友だちは映画作りにかかわりたかったと言う人らしく、「この映画の変化の少ない単調なストーリーをそれなりに迫力を持たせているのは、ひとえに寺島しのぶの演技力で、作品の緻密さでは今ひとつだ」と言う。「村人の数が余りにも少ないし、銃後の女性たちの行動などは、まるで取って付けたような演技で、まったくリアリティーが感じられない。やはり、資金不足で‥」と評論する。

 私も映画監督になりたかったひとりだが、ちょっと感想は違っていた。確かに女優寺島しのぶの演技がこの映画を支えていた。私が監督なら、もっと寺島しのぶと夫役の男優だけのやり取りだけで作ってもいいように思った。寺島とその夫以外はあくまでも刺身のつまで、状況や歴史を語る背景でしかない。村から出兵する人を見送る場面は、そうやって村人は皇軍に送られたわけで、それは脇の場面でしかない。若松監督は映画のチラシにも「忘れるな、これが戦争だ‥」と載せているように、戦争とは何かを、戦闘場面ではなく、生きて帰ってきた「軍神」をとおして描き、戦争がもたらす非人間性を語りたかったと思う。

 寺島しのぶは軍神の妻であることを支えに、手も足もなく、声も出せず、身動きのできない夫の世話をする。食べて寝てそしてSEXを求める夫に、初めはいやいやながらも尽くす。そう尽くすのだが、次第に主客が逆転していく。夫の性欲を満たすための行為が彼女の欲望となっていくのに、夫の方は欲望が萎えていく。「どうして立たないの」と寺島は怒り、夫を打つ。かつて夫が子どもを産めない女と非難し、殴りつけたように。ただそこに存在しているだけの夫、それでも食事の量が少ないとかまずいとか、そういう意思を表す夫に寺島は怒る。しかし「ごめんね」と言うのだから、優しい気持ちが残っている。

 戦争では理性などは通用しない。強姦し、ばれるのを恐れて殺戮した。殺された人間はなぜ死ななくてはならなかったのか。原爆で何万と言う人々が殺された。生き残った人々にも悲劇が付きまとう。キャタピラーつまり手も足もないイモムシとなってまで、人はなぜ行き続けなくてはならないのか。この映画のように戦争の悲劇を語り続けることは大事だろうけれど、どうしたら戦争をこの世界からなくせるか、そのために智恵が論議が必要だろう。
コメント
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