友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

認知症高齢者の悲劇が続く

2010年09月13日 18時34分46秒 | Weblog
 介護に疲れた息子が親を殴り殺す事件が続いた。息子と言っても、還暦を過ぎた70歳前後だった。2000年から介護保険制度が始まり、高齢者を社会全体で介護する方向が決まった。家庭で看ることで家庭崩壊が生まれていたから、画期的な制度の発足だった。けれども、保険料では質のよいサービスが提供できないことも明白になってきて、在宅介護が叫ばれるようになった。再び、介護の必要な高齢者を家庭で看る方向へと向かったのだ。

 親を殺してしまった息子は40代から30年近くも親の面倒を看てきた。親も普通の高齢者だけであった頃は、そんなに見守ることも大変ではなかっただろう。しかし、高齢化が進み、認知症も進行してくると、親が赤ちゃんのようになっていく。赤ちゃんは日に日に可愛さを増していくけれど、高齢者の赤ちゃん帰りはどんどんわずらわしくなっていく。手間がかかるだけではなく、しっかりしていた時の親を知っているだけに、いっそうどうしてなのかと腹立たしくなってしまう。

 親子であるだけに、愛惜が憎悪へと変わってしまうようだ。しかも、30年間も続けていると、子育てならばだんだん手間がかからなくなるし、普通の病気なら回復に向かうのに、高齢化で認知症が進んでくると、介護はどんどん重荷になる。先が見えないというよりもますます暗くなる。絶望的になるのは当然のことだろう。ここで貧富の差が大きく作用する。お金があればそうした施設に入れればよいが、無い人は自分で親の面倒を看るより他ない。

 昔だって、親の面倒を子どもが看てきたと言う人がいるが、それは何時の話なのだろう。お年寄りが長生きになったのはつい最近のことだ。昭和50年代頃から、高齢化が話題になりだした。医学の進歩で長生きする人が増えた。それ以前は、長患いをする年寄りも3ヶ月もたたないうちに旅立った。嫁が義父や義母の面倒を看たといっても、短い期間でしかなかった。それが、3年どころか10年20年と続けくのだから面倒看る方が倒れてしまう。

 介護保険制度で、嫁は血のつながりのない義父や義母の世話から解放されたのかもしれない。自分の親くらいは自分で看る風潮も生まれたのだろう。介護をしている人は圧倒的に配偶者が多いが、その次は血のつながった息子や娘ではないだろうか。介護施設は相変わらず手が足りないから、そこで働く人は「家の人がいるのに、どうしてもう少し面倒を看ないのか」と不満を持つ人もいるが、介護を必要としている人を世話するのが自分の仕事であることを忘れている。それだけキツイ仕事になってしまっているのだ。

 給料をもらって世話をしている人だって不満や愚痴が出るのだから、ずぅーと親の世話をしている子どもや配偶者が、殺してしまって楽になりたいと考えてしまうのも無理はない。坂本竜馬ではないが、「みんなが笑って暮らせる国を作る」ためにはどうしたらよいのだろう。いずれ、幼い子どもたちも大人になりやがて年寄りになっていく。みんながみんな、殺しをするわけではないけれど、たとえ1件でも2件でも、そうした悲劇が生まれないようにするのは、やはり制度の問題だろう。

 明日は民主党の代表選挙だ。「国づくり」は政治の役割。智恵を縛らなくてはならないことがいっぱいある。
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