友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

絶対など存在しない。あるのは自己だけだ。

2011年04月03日 21時51分11秒 | Weblog
 株分けして長女の家の畑に植えた水仙が満開になっていた。30メートルほど高いところにある我が家の鉢植えの水仙も満開になった。長女のところは地植えなので、やはり元気がいい。花の大きさは実は変わらないのかもしれないが、なんとなく我が家の水仙よりも大きく見える。水仙は香りが強いけれど、甘い匂いなので、何となく大人の女の香りのように思ってしまうのは私だけなのだろうか。このところ、どうも少数派というか、孤立無援というか、寂しい思いをしている。昨日も長女の所での『観桜の会』で、酔っていたからあまり覚えがないが、私が何か言い出したら長女が「こっちの耳からこっちの耳へ聞き流しておけばいいのよ」と言う。

 そうか、そんなにも私の言うことは偏見に満ちていたのかとその時思った。いや、実を言うなら、私の考えは普通なのだがその言い方はかなり極端なので、時々ひんしゅくを買うことがある。もちろん私はそれを承知でわざわざそうした言い方をしているのだけれど、かなり聞く側は気分が悪いのだろう。これまでは父親である私の思いを伝えておきたい、そう思って極端な言い方をしてきたけれど、そのために次女をよく泣かせてしまったし、そんなにみんなが気分を悪くするような自己主張など、する意味があるのかと思うようになった。

 私が自己主張をしなくなった時は、私そのものの存在が意味をなさなくなった時だと思ったけれど、それこそ勝手な思い過ごしのようだ。これからは、時代を背負っていく人たちに全てを任せればいいのではないだろうか。私の中学時代からの友だちは、身体の不調を口にしながら、より生きることにこだわっていた。彼は養子であったがために、家を絶えさせないことと自分の子孫を残すことに人生の意義を置いている。私は自分が3男であったこともあり、家を守ると気持ちが全くなかった。早く家を出たいと思っていたので、高校生の時に母を続いて父を亡くし、これで自由の身になれたと思った。結婚して子どもが生まれたけれど、男の子でなくてよかったと安堵した。

 私と同じような男が生まれることが怖かった。子どもたちは女の子でしかも私には似ていないことが嬉しかった。私は、私の考えが普通ではないとは思わない。ちょっと変わったところがあるかも知れない、多数の人々の共感を得ることは難しいかもしれない、しかし決して間違った考えだとは思わない。そう考えてくると、カミさんが指摘するように私は政治家向きではなかったのだろう。けれども、それもここまで生きて来たから言える。生きている時は先のことはわからない。自分がヨシと思うことを我武者羅にやる以外にはないから。

 今度の選挙に立候補を予定している人が、「どうやったらいいでしょうね」と聞いてくる。「ご自分がやりたいようにやることが一番ですよ」と答えている。選挙でこうやったら当選できるというような絶対的な方法はない。自分が悔いのないように全力で取り組めることが一番いい。その上でならば相談にのることはできるけれど、あくまでも主体は候補者自身である。こうすればいいとかああすればいいというのは1つのアドバイスであって絶対ではない。そう、世の中には絶対などは存在しない。あるのは(努力する)自己だけだ。
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