友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

いつまでも夢を追いかければいい

2011年04月23日 23時33分14秒 | Weblog
 選挙期間が終わった。どういう結果になるかは、明日の投票次第だ。悔いの無い選挙運動が出来たのであればそれでいい。ぜひとも仲間全員の当選を祈りたい。お昼に私が選挙の手伝いをしている候補者に電話を入れたところ、「こういう雨ですから、一応全体を流して回っています」と言う。予感は的中だった。人は誰でも、苦労するよりは苦労しなくてもすむ方法を選ぶものだ。最終日の雨降りは、候補者としては出来れば車の中から政策を訴えるくらいで済ませたいだろう。きっとそれは誰もがそう思うからこそ、違う方法が必要なのだ。選挙を戦う者なら当然誰もが必死である。勝つためにはどうすればいいかとみんな考えている。

 地域をくまなく政策を訴えて回るのもいいだろう。それでもやはり、決定打は候補者の熱意をどう見せるかにあると思う。だから候補者が車の中から「最後の訴え」をすることもいいが、それでは候補者が見えない。どうせ雨降りで誰も見ていないから、車の中でいいと考えるならそれでもいいだろう。そこで私は、「あなたがどれだけやったか、結果は結局その反映ですよ。車の中から話す安易な方法を取れば、その答えもそれに見合ったものになります。それであなたがいいのであれば、私は別に何も言いません。全ては候補者であるあなたが決めることです」と話した。

 それでも午後、心配になって現場に行ってみた。彼は雨の中でも街頭演説を行っていた。すると、家の中から出てきて彼に握手を求める人がいた。手を振ってくれる人がいた。窓を開けて演説を聴いてくれる人もいた。最後の2時間、候補者とたったふたりだけで、彼の地元を演説して回った。反応は凄くいいと思うけれど、果たしてそれが明日の投票結果に反映されるのか、心配な面はある。けれどもやはり、どれだけ情熱を注いだかである。結果はもちろん大事なことだけれど、候補者自身がどれだけやり遂げたかにある。自分自身が納得いかない選挙運動はすべきではない。結果の責任は全て自分自身にあるのだから。

 まちづくりで頑張っている昭和40年前後に生まれた若い世代と話した。団塊の世代の次を担う人たちである。私のまちの、いわば2世の人たちで、親父が作り上げたものをさらに大きく伸ばそうと努力している。話を聞いていて、波があるのだなと思った。たとえば、毎年同数の子どもが入学してきても、活発な学年とそうでもない学年がある。そんな風に、ぐぅーんと伸びていく世代というものがあるようだ。彼らに、「よく頑張っているね」と話したら、「40代の時は何をしていました?」と逆に聞かれた。考えてみれば、私も彼らと同じように、起業して夢中で働いていた。

 人間には一定の周期があるのかも知れないし、同じ人間の中にも、エネルギーが沸き起こってくる時期があるのかも知れない。高2の孫娘が、自分の将来について語るのを聞いていて、私自身もその頃はいろんなことに夢中になっていたし、無限の可能性を感じていた。どんな人生であっても自分がそこで精一杯に生きてきたのであれば、何も悔やむことはない。いつまでも夢を追い続ければいいし、それができなくなったとしても日々を楽しめればいいと思う。
コメント
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