友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

世代論なんか意味がない

2011年04月08日 20時00分53秒 | Weblog
 久しぶりに電車に乗ったら、久しぶりに懐かしい人に出会った。私が首長選挙に立候補した時に、私を応援してくれていた人に「もっと、早く頼みにこなきゃーいかんわ」と言った人だ。選挙が終わるとそうした話はよく聞く。「直接言ってくれれば応援できたのに」とか「声をかけて欲しかった」とか「頼まれればやれたけど」など。私は全戸に自分の通信を配布していたから、どこにどんな家があるとか庭にはどんな花が咲いているとか、そういうことなら大概のことは覚えている。しかし、誰が支持していてくれるかはむしろ言ってくれなければわからない。「声をかけて欲しいのはこちらの方です」と言いたいけれど、相手にしてみれば「かけてもこないのに、応援できるか」ということなのだ。

 気長にそして地道に自分の思いや考えを伝えていく以外にないわけだが、後から「頼みに来なかった」と言われるとちょっと戸惑うし、気持ちも落ち込む。今日出会った人はその後は親しくなったけれど、当初は「そんなことを言う奴に限って、応援してくれない」と思っていた。まあ、終わってしまったことだからどうでもいいことだけれど、素直に「応援する」と言ってくれればいいのに、どうして恩着せがましい言い方になってしまうのだろう。いやそうではなくて、私の方が素直に、「ありがとうございます。よろしくお願いします」と頭を下げればよいのだけれど、そうできない未熟さがあった。地縁や義理や人情で、支持してもらいたくないという驕りがあった。

 さて、その電車で会った人とは駅1つまでしか一緒でなかったから、あまり話せなかったけれど、結構気持ちよく会話が出来た。彼は「人材派遣はイカン。労働者を使い捨てにしている。シルバー人材センターも全く人を馬鹿にした使い方だ」と言う。その通りで、人材派遣などという仕組みを作ったがために、会社はそれでいつでも首切りが出来て人件費を抑えられるが、人の労働は細切れ状態になった。昔、身分制度が存在した時、最下層のさらにその下の身分が作られたように、労働者の下に派遣労働者やパート労働者が作られた。自分の自由な時間にあるいは期間に働くことが出来るシステムと誇張されたけれど、実体はただ低賃金で働かせる仕組みに過ぎなかった。そんな話をわずかな時間に喋り捲って彼は電車を降りていった。

 70歳以上の高齢者の中には、労働運動に闘志を燃やしてきた人がいる。生真面目に「明るい未来」を信じて取り組んできた人たちだ。1970年代の全共闘世代とはまた違う、ちょっと卑屈な精神の持ち主のところがある。全共闘世代もその時は真剣に国家権力と戦っているつもりだったのだろうけれど、彼らが書いた回想録を読むと全く子どもだなと思う。ヘルメットに角材は戦争ごっこと同じレベルだ。「殲滅!」。何という無思想だ。反戦は命の尊さから出発したはずなのに。彼らが唱えた「自己」は他者を撲殺するためなのか。全共闘世代の無思想に比べれば、おそらく60年安保を生きた人たちの方が真摯な生き方をしてきたのかも知れない。いや、そんな世代論など意味はないだろう。どこまでも個々の生き方の違いなのだろうから。
コメント
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