友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

桜と日本人と

2011年04月09日 13時27分05秒 | Weblog
 うーん、まだ雨が降っている。「昼からは晴れるから大丈夫!」と思ってはいるものの、ちょっと心配している。雨の中、午前9時にはバーベキュー道具などを点検し、必要な品々を揃えた。続いて、「お昼からでいいのでは」と言ったけれど、「いや、もう晴れるから」と言うので、ブルーシートや木炭や焼き物器具などを持って、場所取りに出かけた。「まだ誰もいないよ」と思っていたけれど、とんでもない、いつも私たちが行なう場所にはシートが敷かれてあった。同じことを考える人はやはりいるのだ。そこで、その隣にブルーシートを敷いていると、若い男の子がやって来た。「これからここで花見をする予定だけれど、誰も来ないので待っている」と言う。仲間がいてよかった。私たちのグループも30名以上になるというから、みんな集まりたいのだ。

 日本人は桜が好きで、桜の並木が各所にある。昨日も桜のトンネルを案内してもらったが、気持ちが和むというか幸せな気分になる。「ここが天国ですよ」と言われる場所があるならきっと、その入り口は桜並木だろう。早咲きの桜や遅咲きのものなど、桜の種類は多いようだけれど、やはりソメイヨシノが圧巻だと思う。桜の花は下を向いて咲いているから、長女が「威張ることもない、直向さがある」と言っていたけれど、可憐にさえ思えるのだろう。花を咲かせながら、もう花びらが風に舞い上げられていく様は哀れにも思う。梅の花が空に向かっているのとは対照的で、大きく華やかな割にはか細い、それが人々を惹きつけるのだろう。

 はかなさやあわれさに私たち日本人は美を見てきた。4季の変化の中で暮らし、一時も同じではない変化に無常を感じてきた。「この世をば 我が世とぞ思う 望月の」と謳歌したけれど、満月はまた少しずつやせ細っていくのを知っていたのではないだろうか。花は咲き、そして散っていくように、「盛者必衰」と人の世を理解していた。それが明治以後、つまりは資本主義社会となってから大きく強くなることに価値観が置かれ、永遠的なもの堅固なものを創り出せると思ってしまった。それが幻であったと原発事故が教えてくれた。絶対なものなど出来はしない。人は人の限界を知るべきだった。

 おや、空は晴れて太陽が顔を出してきた。そろそろ出かけなくてはならない。例年の『夜桜の宴』を止めて、午後3時からの『桜の宴』に切り替えたのは正解だったかも知れない。でもそうなると、夕方になって終わることはないだろうから、今日はここまでにしておこう。

 追記
    花びらは どこへ流れて 行くのやら
                 五条のさくら ひらひらと散る

    桜はな 誰を思って 行くのやら
                 恋しき人は いずこにいるや
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