友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

やるしかないが、それにしても疲れた

2011年04月07日 19時37分34秒 | Weblog
 昨日は小学校の入学式と県立高校の入学式が行なわれた。学校へ向かう晴れ姿の親子の様子を見ているとなぜか微笑ましくなる。新小学生は両親と一緒が多いのに、新高校生になると母親だけの姿が多い。女生徒は母親と肩を並べて歩いていくが、男生徒は母親の前を歩いている。ちょっと照れくさいのだろう。でも、何時ごろから高校の入学式に母親が付き添うようになったのだろう。そういえば、この町には大学もあるけれど、その大学の入学式が行なわれたと思われる日には、新大学生に付き添う母親の姿が多く見られた。

 子どもが少なくなったので、親が入学式や卒業式に付き添うようになったと言うが、昔も一人っ子の親は子どもに付き添ったのだろうか。私の高校入学の時は母親は病床にあったし、大学入学の時は両親とも亡くなっていた。式に誰かの親が来ていたということはなかった。今は大学の入学式に親が参列することが当たり前になっている。それだけ難関を突破してくれたという思いが親の方に強いのかも知れない。私たちの頃は、大学に入るのはそんなに難しいことではなかったのではないだろうか。

 やっとの思いで、夢とか目標とかに一歩近づいた我が子を自分のことのように誇らしく思えるのかも知れない。昔は、八百屋を継ぐとか大工を継ぐとか、具体的な目標がなければ、会社員になるということが当たり前のことだった。私は、普通高校へ行けるなら、そこでその先のことを考えればいいという程度だった。普通高校に入学し、みんなが大学に行くからじゃー自分も大学へ行こうかとくらいにしか考えていなかった。だから、高校生の時から将来は絶対にこういう仕事に就きたいと考えている子どもがいることには驚嘆であり敬意を抱いた。

 彼がまだ3・4歳の頃、一緒に遊んだことがある。以来一度も会ったことはないけれど、その子が今年京都大学に入学した。将来は翻訳家になると言う。おそらく、そんな風にハッキリとした目標があると何をどう頑張ればいいのか、見えてくるのかも知れない。人生の目標を考えたこともなく生きてしまったけれど、だからと言って別に後悔することもない。十分に波乱に富んでいたし、充実していたように思っている。人には人の人生があり、私の人生は私しか生きてこられなかった。だから人生は面白いと思う。

 今日も昨日に続いて井戸掘りをした。今日は新しく高額なお金を出して作った器具がどのように役立つか、山場となる日だった。確かに新しい器具はどんどんと掘り進んだ。鉄管の中には泥水が入っていたから、汲み上げる機能もキチンと果している。しかし、どうしたことか、何度やっても結局は同じ深さのところから進まない。掘っても周囲の砂が集まって来るのか、深さは変わらない。初めは希望に胸膨らんで作業に精を出していたのに、次第に無口になるかグチっぽくなる。作業は肉体労働だから、疲れがいっそう蓄積される感じだ。

 「人生と同じだ。うまくいく時もいかない時もある。ここで諦めるか、もう一度問題を整理して挑戦するか、金にならないことをやっているのだから、やるしかないだろう」と先輩は言う。そう、やるしかない。それにしても疲れた。
コメント
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