友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

大から小へ、集中から分散へ

2011年06月03日 20時31分46秒 | Weblog
 昨日の菅おろし劇を見ていて、アメリカのケネディ大統領の暗殺を思い出した。国の政策が大きく変わるとなると、既得権益に甘んじて来た人々は面白くない。アメリカのあの時代はまだ暗殺という手段が残っていた。私も菅さんを有能な首相だとは思わないが、そんなことよりも原発事故を受けて、浜岡原発を停止させたり、ついには原子力政策そのものを変える発言まで始めた。これは原発にかかわる業界やそれに関連する人々にとっては絶対に許せない事態になってきたので、菅おろしが本格化したのだろう。そんな風に思う人は私だけではないようで、今朝の中日新聞は菅おろしと原発を特集していた。

 原発推進派は電力会社だけではなく、電力会社で働く人々も含まれるし、原発に関連する建設会社や政治家や研究者や他にも様々に絡み合っている。原発を無くしていこうということはこうした人々の猛反発を食らうことになる。昨日の内閣不信任案の賛成討論で、自民党の石原幹事長が「原子力発電はわが国の電力の26%を占めている。止めて供給できると思っているのか」と演説していたが、ここまで原発を進めて来たのは自民党政権であり電力会社である。発電と送電を分離する案についても「全く無責任な発言」と批判していたが、電力会社が独占的に支配しているから電力の需要も供給も本当のところは何もわからないのが現状ではないのか。これはどう見ても、原発推進派による総攻撃だと思った。

 電気にしても、上下水道にしても、ゴミ処理にしても、大きく集中的にやった方が効率がいいとして進めてきた。私の住むマンションでも小型の下水処理場を持っている。それが市の下水管につなぐ工事を要請されている。下水処理費はどこの自治体も赤字に悩まされている。住宅には合併浄化槽が設置されているが、もしこれが不十分であるなら世帯数を区切った小型の処理場の方が先々の経費は少なくてすむだろうが、都市には下水処理場が必要だと国は建設を進めてきた。上水も井戸をなくして水道を敷いた。集中と大型化は国の政策であった。でも、本当にそれでよかったのか、今回の原発事故が考えるきっかけを与えてくれた。

 効率の悪さは発展に逆らうものと決め付けて来たけれど、効率は悪いけれど安全とか、何かあった時には被害が最小限ですむというような方向転換の時代に入って来たのではないだろうか。昭和20年代に戻れなどと馬鹿なことを言う人もいるけれど、そんな非現実的なことではなく、たとえば原発を少しずつ無くしていく。それですぐに停電になるとは思えないけれど、逆に停電になれば、働く時間を少なくすればいいではないか。現実を少しずつ変えることで、生活のスタイルや価値観も少しずつ変わらざるを得ないだろう。

 人間は環境に慣れていく。与えられた環境の中でよりよくして生きていく。その時はもう効率ではない他の満足を得るだろう。それでいいだろう。そこに至るためにまだ茶番劇は続くのかも知れない。人間は智恵はあるけれど愚かでもあるから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする