友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

親しい友に5度声をかけてみる

2011年06月01日 21時12分55秒 | Weblog
 「親しいと思った友だちも年齢と共に変わっていく」と言う。中学・高校は同じ地域だったからそんなに大きく変わることは無かった。大学へ進むと中学・高校の友だちは頻繁に会うことが無くなった人と、逆により親しくなった人とがいた。教員になって、初めての学校で新任教員が7人いたことから、随分親しく付き合うようになった。初めは皆、独身であったし、下宿が近かった友だちとは寝起きも共にしていた。それがそれぞれに好きな人が出来て結婚し、家庭を持つようになると疎遠になった。今度は子どもを通して友だちに変わった。

 私は比較的誰とでも話をする方だと思う。嫌いな人にはこれまであまり出会わなかった。それに親しくなるととことん付き合ってしまうところがある。とにかく家に呼びたがるのでカミさんに嫌がられる。中学・高校からの友だちとの付き合いが復活したのは40代の後半になってからのような気がする。みんなまだまだオレの人生はこんなものじゃないと力んでいたはずだ。それが40代の後半になると何となく先が見えてくる。見栄など張らなくてもいいし、そんな自分を知っていてくれる、あるいは受け入れてくれる安心感のようなものがあった。

 元気に頑張っているじゃないか、それだけで何故か充分な気がした。中学や高校で、同じ時間を過ごしたことは何か格別なものがあるのだろうか。それともたまたま巡り合った友だちが格別だったのだろうか。そんな私たちも60代の後半に差しかかって来た。冒頭の人は70代で、最近身体が不調だと嘆く。「仕事上で付き合った友だちは仕事から離れれば、やっぱり離れてしまう。結局は中学・高校の時の友だちが最後の友だちなのかも知れない」と言う。「親しい友だちに5度声をかけて、3度断られたならもうそれ以上は誘わない方がいいね」という独特の法則を持っている。

 「3度声をかけて2度までと昔からよく言うけれど、実際に3度はきつい。5度までなら2回くらいは都合の悪い時もあるけれど、3回断ってきたとなれば付き合う気がないと見るべきだろうね」。そんなシビアに決め付けなくてもいいような気がするけれど、むしろしつこいことは避けるべきなのかも知れないと思うようになった。若い頃は、何度も声をかけることが親切な行為だと思っていたが、そうしないこともまた思いやりなのかも知れない。昔、入院したことを知らせなかったときつく非難されたことがあった。

 非難した人は私を水臭い男だと言った。私は入院した人から「誰にも言わないで欲しい」と言われてそうしてきた。入院した人は末期ガンだった。整形外科の患者なら元気になって退院できるが、日毎に衰えていく姿は見せたくない気持ちはよくわかった。しかし、私自身は見舞いに行っているのだから、水臭いと非難したくなるのもわかる。私は自分の価値観に従ったけれど、非難した人は友だちなら見舞いに行くのが当たり前という価値観だったのだ。以来、その人とお酒を飲むことは無くなった。
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