友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

古い政治が震災を契機に復活して来た

2011年06月07日 21時19分01秒 | Weblog
 朝からの井戸掘りは成功だった。木曽川に近いところの古寺から「井戸の水が出ないから」と連絡を受け、古井戸の井戸洗いに出かけた。長い間使われていなかったためか、古井戸はヘドロで埋まっていた。水と空気を注入し、井戸内を撹拌して水を汲み上げる。これを何度も繰り返して行なったところ、真っ黒な水が少しずつキレイになっていった。本堂の奥には池があり、鯉が何匹か泳いでいた。その池の隣に井戸を新しく掘って欲しいと頼まれた。古井戸の方はまだまだ時間がかかりそうだったので、先に新しい井戸を掘ることにした。やはり、木曽川沿いの集落にあった古寺である。すぐに水脈と思われる地層に突き当たった。汲み出してみると水量は多い。

 このところの井戸掘りはうまくいかなかったので、今日はドーンと疲れが吹き飛ぶ結果になり大満足だった。明日、引き続いて井戸洗いを行い、手押しポンプを取り付ける。また、本堂の奥の池の側で新しく掘った井戸に電動ポンプを設置し、配管の工事を行なう予定だ。大震災後、井戸への関心は高まった。私たちも要請に応えなくてはならないと思いながら、胸を張って引き受けることが出来ずにいたが、これで少し希望が持てた。茨城県に住む次女は今度の地震で断水となり、「水には困った」と言う。幸いにも近所の農家に井戸があり、「誰でも自由に使ってください」と言われて、何度もバケツで往復したと聞いた。

 「地震になれば井戸も水が出なくなる」。そういう井戸もあれば地震に遭っても変わらず水が出る井戸もある。地下がどうなっているのか、私たちもわからないけれど、地震で全部の井戸が使えなくなるわけではない。だからこそ、いろんなところに井戸はあった方がいい。学校や公園などの避難場所にあったなら助かるはずだ。保育園や児童館あるいは公共施設に井戸はぜひ欲しいと思う。「飲み水に使えない」と言う人もいるけれど、緊急事態の中で日常的な水が手に入ることの意義は大きい。普通の水であれば、沸騰させれば飲めないことはないけれど、飲料水に使うとなればキチンとした検査を行なう必要がある。

 私たちは大きくやることばかりに目がいっていた。せっかくあった井戸をつぶして、上水道を張り巡らすことを高い生活だと思ってきた。下水道も同じだし、電気やガスなど、またゴミの処理も同じで、どんどん大規模化してきた。これは国の政策でもあったのだが、誰もなぜ大規模でなければならないかと異議を唱えなかった。そうすることが高いレベルの生活を維持することだと信じて疑わなかったのだ。けれど、大規模化はどこかで少し狂えば全体に及ぶ。そしてまた、大規模化という国の政策は、これに群がる人々を大量に作り出した。原発がとても危険で高くつくとわかったとしても、原発で生活している何万何十万の人々がいるのですぐに無くせない。

 今、菅降ろしの大連合が叫ばれている。震災後の復興にかかる費用は何兆円とも何十兆円とも言われている。誰がこれを進めるのかで、太る人もいるしおこぼれに預かれない人も出る。利権を握るための争いが大連合である。自民党や小沢さんは、菅さんをはじめとする新興勢力に利権を握られたくない。古い政治が震災を契機に復活して来ている。
コメント
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