「父の日」を子どもたちがお祝いしてくれた。安城のデンパークへ出かけて、2歳になる孫娘のために手作りパン教室を受講した。それから園内を歩いて回った。水辺に映えるアジサイがとてもキレイだった。以前に比べると、樹木が生い茂りいい雰囲気になっている。好きな人と歩いたならまた格別な思いがしたことだろう。そういう恋人同士なのだろうなというカップルもいたけれど、小さな子どもを連れた家族連れもいる。雨は降っていなかったけれど、こういう曇り空の方が気持ちよく歩けた。
長女のダンナが仕事から帰って来て、途中で合流してステーキハウスで晩御飯となった。長女夫婦と孫娘たちと、たまたま帰って来ていた次女とでの会食である。香港旅行からずうーっと肉を食べていなかったので、私はステーキを注文し、カミさんは「ここはピッチャーでワインが飲めるから」とワインを頼んだ。フランス料理店で飲むようなワインではなかったけれど、中国で飲んだワインよりもはるかに美味しかった。2歳になる孫娘の成長を喜びながら、しかしこの孫娘のわがままに振り回されながら、「父の日」を祝うことが出来た。
長女のダンナの父親に、長女はお祝いをしているのだろうかと気になる。次女はダンナの父親から「ありがとう」のメールをもらったようだから、何かお祝いをしたと推察される。次女はダンナの両親や私たちにも気を遣ってくれるけれど、肝心のダンナには尽くしているのだろうかと気にかかる。もちろん、尽くすということが奴隷のようになれとは思わないけれど、聞いている限りでは、気遣いしているのにそれが過剰になりすぎてめんどくさく感じるような時がある。あまりにも気遣ってくれるとまるで縛られているように感じてしまうことに気付いて欲しい。
人間は難しい。かまってもらえなければ冷たいと思い、かまい過ぎればうるさいと感じる。その辺を見極められるようになるには相当な年月が必要なのだろう。子どもたちからすれば、私は扱い難い父親なのだろうけれど、私自身はそんなに難しいことを子どもたちに求めて来たわけではないと思っている。けれども、相反することを同時に認める、あるいは絶対はないと言いながら絶対はないのだと強要する、そうした父親にどのように応えていったらよいのか戸惑うことが多いと思う。
私は子どもたち、長女や次女やそのダンナたちに、とても感謝している。私のわがままをわがままと思わず、いやそう思っていたのかも知れないが、難しい人なのだから仕方がないと受け入れてくれて、本当に感謝している。とまあー、こんなことを書くと縁起でもないから止めてと言うに違いない。普通の感覚を持った人になってくれて本当によかったと思う。岡本太郎の母、かの子のように、あるいは石川啄木のように、生きたならきっともっと大変な人生を歩むことになったのではないかと思う。
だから、平凡でいい。凡庸でいいと思う。気遣いすぎてかえって不愉快な思いを抱かせるのは悲しい。普通に笑い、普通に生きていくことが大事なことだと思う。けれどもそれは、その人の運命みたいなもので、後は自分がそれをどのように受け入れ、どのように振舞うかにあるようだ。
長女のダンナが仕事から帰って来て、途中で合流してステーキハウスで晩御飯となった。長女夫婦と孫娘たちと、たまたま帰って来ていた次女とでの会食である。香港旅行からずうーっと肉を食べていなかったので、私はステーキを注文し、カミさんは「ここはピッチャーでワインが飲めるから」とワインを頼んだ。フランス料理店で飲むようなワインではなかったけれど、中国で飲んだワインよりもはるかに美味しかった。2歳になる孫娘の成長を喜びながら、しかしこの孫娘のわがままに振り回されながら、「父の日」を祝うことが出来た。
長女のダンナの父親に、長女はお祝いをしているのだろうかと気になる。次女はダンナの父親から「ありがとう」のメールをもらったようだから、何かお祝いをしたと推察される。次女はダンナの両親や私たちにも気を遣ってくれるけれど、肝心のダンナには尽くしているのだろうかと気にかかる。もちろん、尽くすということが奴隷のようになれとは思わないけれど、聞いている限りでは、気遣いしているのにそれが過剰になりすぎてめんどくさく感じるような時がある。あまりにも気遣ってくれるとまるで縛られているように感じてしまうことに気付いて欲しい。
人間は難しい。かまってもらえなければ冷たいと思い、かまい過ぎればうるさいと感じる。その辺を見極められるようになるには相当な年月が必要なのだろう。子どもたちからすれば、私は扱い難い父親なのだろうけれど、私自身はそんなに難しいことを子どもたちに求めて来たわけではないと思っている。けれども、相反することを同時に認める、あるいは絶対はないと言いながら絶対はないのだと強要する、そうした父親にどのように応えていったらよいのか戸惑うことが多いと思う。
私は子どもたち、長女や次女やそのダンナたちに、とても感謝している。私のわがままをわがままと思わず、いやそう思っていたのかも知れないが、難しい人なのだから仕方がないと受け入れてくれて、本当に感謝している。とまあー、こんなことを書くと縁起でもないから止めてと言うに違いない。普通の感覚を持った人になってくれて本当によかったと思う。岡本太郎の母、かの子のように、あるいは石川啄木のように、生きたならきっともっと大変な人生を歩むことになったのではないかと思う。
だから、平凡でいい。凡庸でいいと思う。気遣いすぎてかえって不愉快な思いを抱かせるのは悲しい。普通に笑い、普通に生きていくことが大事なことだと思う。けれどもそれは、その人の運命みたいなもので、後は自分がそれをどのように受け入れ、どのように振舞うかにあるようだ。