友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

熱中症になりかけた

2011年06月29日 22時30分31秒 | Weblog
 暑い。午後9時30分の室内で33度もある。こんな日だったのに、今日は井戸掘りに出かけた。場所が狭くて作業がしにくいだけでなく、風が通らないのでより暑さを感じた。いつものメンバーよりも少ない4人での作業だったから、もし誰かひとりでも気分が悪くなるようならすぐに中止しようと約束して取り掛かった。けれども2メートルも掘り進まないうちに瓦礫か石かにぶつかった。3度試してみたけれど、10センチか20センチほど掘り進むと同じように硬いものにぶつかる。これでは掘れないから今日はここまでにしようと言うことになった。太陽は暑く輝いている。私たちはひたすら水を飲んで凌いでいた。

 人は極限状態で何を思うのだろう。東日本震災に遭った人々がそういう中でも冷静に秩序を持って行動していたと世界から賞賛された。第2次世界大戦中の東京で、疎開する人々で上野駅はごった返していたが、それでも人々は順番を待って行動していたそうだ。プロレタリア作家から転向した高見順氏がそんな日記に書いているという。明治政府の中心となった薩長は西洋と対抗するために教育と産業に力点を置いた。極限状態にありながらパニックを起こさずに行動できたのはその教育の成果だろう。

 軍国主義教育とか民主主義教育とかいろいろあるけれど、戦中もそして今日も、人々が秩序だって行動できるのは教育のおかげである。教育の基本はどのような体制の社会であっても、まず社会に役に立つ人間を作ることであるが、そのためには人として他人を思いやることを教えている。民主主義は自己中心的だと非難する人がいるけれど、自分が生きることはひとりでは生きられないので、つまり他人がいてはじめて自分が生きていることを認識するのが民主主義である。他人を意識しなければ自分の幸せも不幸もない。だからこそ他人を思いやる心を育てることが大事になるし、教育はそれを教えて来た。

 確かに民族的にも日本人は他人を思いやる心を共有の財産として来たのかも知れないが、おそらくそれは教育の成果であろう。教育が広く行き渡るというのは、コミュニケーッション能力を高めるということだ。共有する情緒とか感情が濃密であれば、結びつきも深い。そこには争いを避けたい思考が働く。教育はこうしたコミュニケーッション能力を高めることにある。パニックや暴動が押さえられたのもこの共通の理解力にあると思う。先進国が比較的理性的なのはそのためだと思うけれど、逆に相手を思いやるがために不正を正すことに躊躇してしまうことにもなりかねない。

 暑さの中で恋する人を思いやることが出来るのであれば、極めて冷静な理性と思うけれど、しかし逆に、そうした極限状態にありながら自分の恋人のことしか頭に無いのは理性的なのだろうかという疑問も浮ぶ。人の欲望とこれを抑える理性とは矛盾するけれど同時に一体的なものなのかも知れない。今晩も熱帯夜だという。どんな夢を見るのだろうか。
コメント
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