54歳で父はこの世を去ったと思っていたけれど、本当なのか確信が持てない。母がなくなって2年後に父は旅立った。母よりも父の方が年下であったことも葬儀の時に知ったように記憶している。私はずっーと、母が明治42年生まれで父が明治44年生まれと信じて来たけれど、そういえば一度も戸籍謄本でしっかりと見たわけではなかった。馬鹿げている。何をいまさら、知りたいのかと自分でも思うけれど、母が父よりも2歳年上であるとして、ふたりが何時どこで知り合い結婚に至ったかは知りたいと思う。
父の遺品の中に、昭和23年から27年にかけて書かれたと思われるノートが何冊かある。非常に几帳面にきれいな文字で書かれている。『季節』と題したノートには詩が書かれている。『落枇杷』と題したノートは縦書きで、小説なのだろうかと思われる文章が書かれている。何も題が書かれていないノートは日記のようだ。それからもう1冊、『東洋倫理学史』と書かれたノートは、講義をまとめたもので、父らしくキチンとまとめてある。おそらく戦前に勉強したものであろう。その後の余白の最初のページは『足跡』と表題があり、23.11.24の記がある。
「晩方は霧が大変深かった」で始まっているけれど、そこで「思いがけない電報を受け取った」が、「発信人は以前ちょっとした機会に会って知っていたがその人が何故自分に相談しなければならないように急用があるのか。その急用とは一体どんなことか、それに対して自分が一体行っていいのか悪いのか見当もつかなかった。そんな急用の相談を受ける程の知り合いではないのでいっそう迷った」とある。次は11.26で、「私は電報を受け取った時から考えていたが、いつも考えが問題の中心からはづれて暗い方へ淋しい方へと向かってしまって」と続いている。日記というよりは小説のようだ。
「浜木綿ってどんな植物?花が咲くの?」「白くて清楚です。あなたのように」という会話がある。昭和23年といえば、私はまだ4歳だ。父は37歳か。父は小説家になりたかったのだと姉から聞いたことがある。色白の女の人に恋していたのだろうか。けれども父は小学校の校長を勤めて生涯を終えた。私が知っている父は小説のような文字を書く人ではなく、小さなスケッチブックに雑誌などに載ったイラストを模写している姿が印象に残っている。本棚には学術書の他にその頃人気の小説家の本もあったから、小説家への夢は最後まで抱いていたのだろうか。
私は小説も書けなかったし、絵描きにもなれなかった。芸術を自分の天職としていたら、決して人並みの幸せなどは求めなかったであろう。狂気の人になりきれなければ芸術家にはなれない。そういう意味で、私は失格者だった。普通の芸術家でもいいとは思わなかった。そこそこに売れる芸術家などクソ食らえと思っていた。自分こそは真の芸術家を目指すとなれば、人並みの幸せを捨てなければならない。私は父と同様にそれが出来なかった。
父の遺品の中に、昭和23年から27年にかけて書かれたと思われるノートが何冊かある。非常に几帳面にきれいな文字で書かれている。『季節』と題したノートには詩が書かれている。『落枇杷』と題したノートは縦書きで、小説なのだろうかと思われる文章が書かれている。何も題が書かれていないノートは日記のようだ。それからもう1冊、『東洋倫理学史』と書かれたノートは、講義をまとめたもので、父らしくキチンとまとめてある。おそらく戦前に勉強したものであろう。その後の余白の最初のページは『足跡』と表題があり、23.11.24の記がある。
「晩方は霧が大変深かった」で始まっているけれど、そこで「思いがけない電報を受け取った」が、「発信人は以前ちょっとした機会に会って知っていたがその人が何故自分に相談しなければならないように急用があるのか。その急用とは一体どんなことか、それに対して自分が一体行っていいのか悪いのか見当もつかなかった。そんな急用の相談を受ける程の知り合いではないのでいっそう迷った」とある。次は11.26で、「私は電報を受け取った時から考えていたが、いつも考えが問題の中心からはづれて暗い方へ淋しい方へと向かってしまって」と続いている。日記というよりは小説のようだ。
「浜木綿ってどんな植物?花が咲くの?」「白くて清楚です。あなたのように」という会話がある。昭和23年といえば、私はまだ4歳だ。父は37歳か。父は小説家になりたかったのだと姉から聞いたことがある。色白の女の人に恋していたのだろうか。けれども父は小学校の校長を勤めて生涯を終えた。私が知っている父は小説のような文字を書く人ではなく、小さなスケッチブックに雑誌などに載ったイラストを模写している姿が印象に残っている。本棚には学術書の他にその頃人気の小説家の本もあったから、小説家への夢は最後まで抱いていたのだろうか。
私は小説も書けなかったし、絵描きにもなれなかった。芸術を自分の天職としていたら、決して人並みの幸せなどは求めなかったであろう。狂気の人になりきれなければ芸術家にはなれない。そういう意味で、私は失格者だった。普通の芸術家でもいいとは思わなかった。そこそこに売れる芸術家などクソ食らえと思っていた。自分こそは真の芸術家を目指すとなれば、人並みの幸せを捨てなければならない。私は父と同様にそれが出来なかった。