友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

長生きできるより美味しいものが食べたい

2011年06月21日 22時06分19秒 | Weblog
 今朝のテレビで、菅さんが「そんなに見たくなければ、そんなに見たくないのであれば、これを通しなさいという作戦で参ります」とニコニコ顔で演説していた。何のことかというと、再生可能エネルギー(自然エネルギー)法案を可決しなさい、そうすれば引退し顔を見なくてすみますよということらしい。この集会には加藤登紀子さんの姿も見えたが、主役はソフトバンクの孫正義氏のようだ。演説をする菅さんの表情は活き活きとしていて、かつての市民運動家に戻ったかのように見えた。

 原子力発電を推進したい既成の経済界と、これに対抗する新興勢力といった図柄なのだろう。テレビの司会者が「なぜ、菅さんでは復興できないのか全くわからない。なにがなんでも菅さんを降ろしたいとしか見えない。こんな政治空白を作っていていいのか」と言っていた。確かに菅さんは思ったほど能力のある首相ではなかったけれど、だからと言って大きな政策的な間違いがあったわけではないのに、民主党の内部でも「菅さんでは復興できない」とは何を意味するのだろう。利権を巡るキナ臭さが漂っていると思うのは当然だろう。

 中国経済の発展が、役人の賄賂を基盤とした低賃金労働によるものだとわかったけれど、日本の戦後復興も似たようなものだったと教えられた。そうした不正なお金が動くことで経済活動が活発な内は、人々もそれほど不平を口にしない。けれどもそんなことがいつまでも続くわけはない。「中国のこれまでの歴史は全てそうだと言ってもいいほど、虐げられた人々の怒りが爆発して国が変わっている」と先輩が言う。中国人も日本人も「あきらめる」層が多く存在するけれど、日本人の方がおとなしいような気がするとまで言う。日本でも百姓一揆はあったし、戦後の歴史の中では安保闘争もあったが、比較的生活は恵まれていたのだろうか。

 原子力発電のように、最終処理の見通しの立たないものでもいったん進めてしまうとこれを止めることはできないと断言してもいいくらいだ。これはマズイとわかってきても、「それでは止めましょう」とはならない。これが政治のというか経済の不思議なところだ。震災を受けた直後は世界から絶賛されるほど助け合いと思いやりに溢れていたのに、いざ見舞金だとか義援金だとか、お金が支払われる段階になると、同じ被災者同士が「不公平だ」といがみ合うような事態も生まれてきた。

 何もなかった時はあんなに他人のことを思いやることが出来ていたのに、人はお金の前ではこんなにも弱いものなのか。そういえば、営業経験者からこんな話を聞いたことがある。交渉が難航したなら、現金を積んで見せると人の心は動くものだと。悲しいかなそれが現実なんかも知れない。そうした目の前の損得が豊かさを作り出してきたのだから。けれど、今晩の食べ物に困らないのであれば、一度くらいこれから先のことを考えても無駄ではないような気がするのは私だけなのだろうか。そうは言っても、今晩お酒をやめれば1日長生きできるとわかっていても、長生きできるより今晩美味しいものが食べたいのが人の常かも知れない。私自身も間違いなくその類だなあーと思う。
コメント
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