友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

責任を引き受ける覚悟

2011年06月06日 21時26分22秒 | Weblog
 昨夜、会議があってその場所へ行くとカギがかかっている。担当の人は他に用事があって遅くなるのだろう。私を含めて3人で待っていると、担当の人がやって来て「今日は集会所の方で行なうことになりました」と言って迎えに来てくれた。担当の人は「集まる人数が増えてしまったので、すいませんでした」と恐縮していた。席に着いたがまだ来ない人もいる。「場所がここになったと貼り紙しておいた方がいいですよ」ということになった時、役員さんの中のキャリアウーマンらしき女性が、「場所はここだとお知らせの紙には書いてあるから、いいじゃないですか」と言う。「えっ、どこにそんなことが書いてあるの?」と私たちはビックリして今日のレジメを見た。

 すると、7番目の項目に「今後の予定」があり、第2回(6/5)集会所となっている。彼女はそれを指して、しっかり見てくださいねと言いたげだった。私は少々むっとしたけれど黙っていることにした。私たちは決めたとおりと思い込んでいるから、会場に変更があれば電話で連絡してくれた方がいい。会社であれば1枚の紙で充分なのかも知れないが、無償で会議に出ている人たちに、「ここに書いてあるでしょう」は少々傲慢ではないだろうか。日曜日の夜に会議に出席してくれる人がいて、役員さんの仕事の一部を負担するわけだから、ご苦労様の一言が欲しい。無償で働く人を上手に使うというのは、一体感を演出することなのだ。

 彼女が指摘したその紙は、そもそも日時が間違っていたから読む人を混乱させるものだったが、彼女はそれをどう読んだのだろう。しっかり見ない人が悪いと、他者に原因を求める人を私は好きになれない。まず、自分の方に何か落ち度がないかと思う方がいい。それで自分の方に過失が無かったとしても、お願いしている側なのだという意識を持っていたい。そうしなければ、心意気で働いてはくれないだろう。夏祭りはみんながボランティアで働くが、誰もが軽い労働ですむ仕事を希望する。けれども、焼きソバや焼き鳥など火の側で働く過酷な労働も誰かがやらなくてはならない。みんなの気持ちが一体化してくれば、自ずと引き受ける人やそれを支える人が出てくる。

 ボランティアでなくても、みんなで仕事をする時は一体感がなければ同じことで、手を抜くヤツがいたり、いいとこ取りばかりするヤツもいる。国の重大事件でも、格好ばかり付けたがる人や責任者でありながら「全く考えてもいなかった。おそらく考えた人はいないでしょう」とぬけぬけと言い放つ人もいる。弱い立場に人には怒鳴り散らすくせに、それが公にされると「そんなことは言っていない」と開き直る。切羽詰った時にどう振舞えるかで、その人の人柄がわかる。窮地に立った時に、それでも自分以外の人をも思い入れた言葉が使え行動できるかであると思う。自分が責任を引き受ける覚悟のある人が少なくなったのは、国の最高の機関である国会に倣っているのだろうか。
コメント
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